蕨(わらび)宿から上尾宿へ
07-5-20
蕨宿本陣に宿泊の際の「皇女和宮御下向の際の御用日記」分厚い日誌を見れば、大変さが分かる
ような気がする。
この資料を含め、蕨市立歴史民俗資料館(本陣跡)は、非常によく整理されていて、分かりやすかった。
調(つきのみや)神社 平安時代の古社(謎の多い神社)
・鳥居がない
・狛犬の代りに兎が鎮座
・神社に必ず見られる松がない。
代わりにケヤキ。ケヤキの別名「槻木」(つきのき)
(ツキは待つ(松)のが嫌い?)調が月と転じて、うさぎを神の使い姫とする月神信仰と結びついた
という説。
境内の水屋で霊水を注いでいるのも兎(写真中)。説明に、「ツキを頂いてください」とある。しっかりお参りをした。
公園側に埼玉女流俳人の先人 長谷川かな女の句碑あり。
生涯の 影ある秋の 天地かな
二七市の跡碑
御免 毎月二七市場定杭 天正十八年(1590)七月 小田原攻略に成功した、名実ともに天下統一
を果たした豊臣秀吉。
すぐに戦後処理に努め、家臣浅野長吉に市を開かせた。非常に貴重なものらしい。
浦和宿・浅間山遠望<英泉画>
もう大宮宿の家並みが見えている。馬のすぐ後ろで、村の子供が肥料にする馬糞を集めている。
浅間山の噴煙が見える。
大宮氷川神社 参道(古中山道)
氷川神社 東京都と埼玉県、元荒川を東の限界とし、西は多摩川を限界。
鎌倉時代、源頼朝が社殿を再興し、また、足利・北条、徳川氏も造営整備に尽くしたという。
一の鳥居から社殿までの参道は、ケヤキやエノキなどの木々が約2Kmも続き、気持ちよく歩ける。
神社は、ミニ平安神宮のような感じだ。
大宮宿・富士遠景<英泉画>
街道に植えられた桜が満開で気候は冬から春に向かいつつある。
富士山も裾野の方から雪が溶けて黒い地肌を見せてきている。
農夫が竹かごを背負った少女を従えて家路を急ぐ。
鬼瓦が、塀の上に鎮座している。脇本陣の建物にあった鬼瓦だそうだ。
この瓦の大きさから、さぞ立派な家屋であったろうと想像する。
氷川鍬神社 ご神体が鍬二挺。
上尾郷二賢堂碑
雲室上人(信州生まれ、浄土真宗の名僧)山崎武平次(国学者)が学校を開いた。
上尾宿・加茂之社<英泉画>
加茂の社の隣、一家総出で籾(もみ)の精選の絵。
俵詰めの籾はそのまま年貢として納入された。
気温はそう高くなく、少し風もあり、さわやかな道中であった。
最後の方は強風が吹いたがデータ:
歩 数 38,940(自宅から自宅)
距 離 28,04Km(蕨宿・上尾宿間実質18Km)
消費カロリー 1,128カロリー
上尾駅近くの酒場「日本海庄や」での酒は、THE・燗酒(酒造文楽・上尾市)。うまかった。
ビールは少し冷えすぎだった。課題:少し歩きすぎか。もう少し余裕を持って終了できるように。
【次回予定】
桶川宿<英泉画>
この辺りは、大宮台地の中で最も高い場所に位置し、周囲には麦畑が多かった。麦をこく農婦、
囲炉裏から煙管の煙草に火を付けようとしている農夫。農婦に道を尋ねる町人風の旅人の絵。
鴻巣宿・吹上<英泉画>
吹上から熊谷宿に向かって出た辺りからの富士遠望の絵。虚無僧を始め、色々な旅人がすれ違う。
周りは麦畑、木々は榎(えのき)の木。
【歌川広重と渓斎英泉】
江戸時代に制定された5街道の1つが中山道です。中山道は別名「木曽街道」「木曽海道」とも呼ばれ、
参勤交代や行商などに非常に重要な役割を果たしました。
江戸の浮世絵師、歌川広重(1797-1848)と渓斎英泉(1790-1848)によって描かれた
《木曽海道六十九次》は東京・日本橋から滋賀県・大津までの69の宿場を描いたシリーズものの浮世絵です。
当初、版元(現在の出版社のような組織)からこのシリーズの制作を依頼されたのは英泉でした。
しかし、そのような理由からか第12図より広重が参加し、交互に宿場を描いていきます。
第24図からは広重の担当が多くなり、最終的にシリーズを完成させたのは広重でした。
現代のように文明も交通網も発達していない時代、「旅」は非常に苦労を伴うのでした。
豊かで美しい自然は人々の眼を楽しませるものでもあり、人の力など及ばない大きな力と厳しさを
持って旅人の行く手を阻んだりもしました。そんな中でも人々は逞しさや温かい人情を持って旅を
続けていました。
http://www1.ocn.ne.jp/~kisoji/kisokaidou.html