地遊人

日常のことごと、出来事を、気ままに書き記していく。
62歳からの自己整理・自己満足策とボケ防止挑戦プログ。

塩の道を歩く①(資料・写真)

2012年04月13日 |    ・塩の道資料

 

         

 塩の道を歩く① 発見と感動を求めて。

 日程 平成24410日(火)~12日(木)

4月10日(火)

 (東海道本線快速アクティー)東京駅発 915  三河鳥羽駅着1532
三河鳥羽までの乗車券を買って、10番ホーム中央あたりで、待ち合わせ。
指定券は無し(出発の340分前に集合)乗換案内は別紙(乗換5回)

     適当な駅で弁当購入、車内で。

 三河鳥羽駅より約5Km歩く
 名鉄蒲郡線
  
泊まり たか島(0563-32-1682)吉良温泉中、海より少し離れた高台にある。
 http://www.kira-takashima.jp/index.html

4月11日(水)

1.吉良宿
 

早朝散歩:太平洋から登る日の出が見られるか?
今日の目的地は、JR「岡崎駅」までの、おおよそ20Km

 【幡頭(はず)神社(本殿)】

                                   


三間社流造、桧皮葺。幡頭神社本殿は天正8年(1580)の建築で、桃山時代の様式を伝える。規模は大きくないが、手法が堅実で絵様は雄健な曲線を用い、蟇股(かえるまた)の形も内部の彫刻も素朴である。屋根は桧皮葺で大きく反りかえった庇が美しい。幡頭神社は大宝2年(702)の創建と伝えられる式内社で、祭神は建稲種命(たけいなだねのみこと)である。日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征に従った建稲種命は帰路駿河沖で遭難し、遺骸が宮崎海岸に漂着し当地に葬られたと伝えられる。(西尾市Hより)隣は、熊野社・神明社

【吉良町歴史民俗資料館】AM9;00~

県指定文化財の岩場古墳出土品などの考古資料、吉良上野介義央公の系譜、塩業の歴史ジオラマ、塩の道の展示。考古学発掘品。横穴式石室の岩谷山第二号墳の復元古墳もある。

塩田に関する展示は他の博物館にもあるが、ここの展示がもっとも充実している。
全国を見ると「塩の道」と云われる道はたくさんあるが、その一つ、塩尻まで続く塩の道の出発点となっている。
このあたりは塩田が発達しおり、饗場塩(あいばじお)というブランドの塩の産地だった。

【金蓮寺(こんれんじ)弥陀堂(国宝)】
  
金蓮寺弥陀堂は、県内最古の建築で、桁行三間、梁間三間、一重寄棟造で屋根は檜皮葺とする。軸部の柱、舟肘木、内部の小組格天井などに鎌倉時代の様式をよく表している。
源頼朝により、文治2年(1186)に建立されたと伝えられるが、様式的には若干新しいと考えられる。

 【華蔵寺(けぞうじ)】

華蔵寺は山号を片岡山(へんこうざん)といい、臨済宗妙心寺派の禅寺。忠臣蔵で有名な義央の曾祖父、義定によって慶長5年(1600年)に金星山華蔵寺から片岡山華蔵寺と改められ菩提寺とされた。華蔵寺の吉良家墓所には義安以下、代々の墓が建ち並んでいる。毎年、吉良公の命日である12月14日には毎歳忌法要が行われ、たくさんの参拝客が訪れる。

【黄金堤】

義央(よしひさ)公の大部分の知行地は、吉良町にあった。言い伝えによると、当時岡山村から南の地域は、大水のたびに被害に苦しんでいた。義央公は、水害から領地を守るため、長さ約180m、高さ約4mの堤防を一夜で築いたといわる。その後は水害がなくなり、良田となったことから、人々はこれを「黄金堤(こがねづつみ)」と呼んで遺徳をたたえた。現在は、桜の名所としても知られる。

【東向寺】
東向寺は愛知県西尾市にある浄土宗西山深草派の寺院。正式名称は、石峰山来迎院東向寺今川義元の首塚と伝わる宝篋印塔がある。

【神明社】

西尾宿 歩くルートから外れており、また時間の関係で寄らない。(途中で考える)  
このあたりから岡崎駅までの約10Kmは、多分見るところはあまりないと思うので、最短のルートを歩こう!

 2.西尾宿

 3.岡崎・藤川宿

 泊まり マイホテル岡崎(0564-54-5544)JR岡崎駅西口徒歩2分 夕飯は外で。
   
http://www.my-hotel.jp/ 

4月12日(木)

早朝散歩を兼ね、できるだけ早く出発しよう!(朝食6:30)岡崎城でゆっくり。

【六所神社】

                                       


六所神社は家康公の産土神として、代々徳川家の崇敬が篤く、現在の社殿は寛永十一年(1634年)から寛永十三年にかけて三代将軍家光公が再建した。権現造で、彫刻や色彩が華やか。本殿・幣殿・拝殿・神供所・楼門が重要文化財に指定されている。

【岡崎城】岡崎城、家康館等900

          
岡崎城は別の呼び名では竜ヶ城ともいわわる。康生元年(1455年)に三河の守護代だった西郷弾正左衛門稠頼が建てたもの。大永四年(1524年)、松平清康が(家康の祖父)が攻め落とし、松平家の居城となった。家康がここ岡崎城で生まれたのは天文十一年(1542年)のことになる。桶狭間の戦いの後に、家康は増築を約10年の歳月を費やして行っている。
家康が居城を移したあとは、長男の信康。信康が亡くなったあとは、城守を置いていたが、徳川幕府を開いてからは、徳川家譜代大名たちが住んでいた。天守閣は元和三年(1617年)本多康紀のときに建てられている。
岡崎城は明治6年に破壊された。(廃城令)(昭和34年天守閣復元)

岡崎公園:日本の歴史公園100選、さくらの名所100選、日本の都市公園100選

【伊賀八幡宮】

               
伊賀八幡宮は、松平四代親忠(ちかただ)公が、松平家〔徳川家の祖〕の子孫繁栄の守護神『氏の神』として創建なされた神社。
徳川三代将軍の家光公が、岡崎の伝来の氏神守護神である伊賀八幡宮に、祖父である東照大権現〔徳川家康公〕をあわせて祀ることとした。

【大樹寺】
大樹寺は、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れたとき、今川軍についていた家康は、大高城から大樹寺へ逃げ帰えった場所。先祖の墓の前で自害を図ろうとした家康を思いとどめさせたのが、この寺の住職 登誉上人であったことは良く知られている話。
大樹寺は歴史的にもたいへん大きな役割を果たしている。
大樹寺は、松平家(徳川将軍家の祖)、徳川将軍家の菩提寺。

【信光明寺】
徳川将軍家ゆかりの名刹。往時壮麗を誇った堂宇は、伊勢新九郎(北条早雲)に放火され消失したが、焼け残った観音堂は室町中期の建築様式を今に伝え、国の重要文化財に指定されている。観音堂の屋根の軒先のそりの深さ、総門の屋根に上がっている鬼瓦などは他では見られないものだという。

東名ハイウェイJRバス(バス停確認)
バス停『東名岩津』1340発  東京駅(日本橋口)1858着  
    
東名ライナー54号1号車[ 1A][ 1B][ 1C]

【主な費用】
(交通費)
東京―三河鳥羽        5,640
東名岩津―東京        4,540

(宿泊)
たか島(1泊2食)       8,400円  (少し贅沢)
マイホテル岡崎(朝食付き)     5,000円

 【情報】
吉良町役場  0563-32-1111(代表)
岡崎市役所  0564-23-6000(代表)

【持ち物(追加)】
〇携帯ラジオ
〇ケータイ用充電器(コジマなどの携帯ショップにあり)

2012/03/17
 

【結果】

歩いた距離
  10日(晴れ~曇り)     9,991歩( 7.49Km)  
  
11日(小雨~風雨強し) 37,972歩(28,47Km) 最悪のコンデション。歩くしかなかった。修行。
  12日(晴れ)        21,440歩(16,08Km)

 

 

 

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