後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

行く春を惜しみながら人間の幸せと不幸せを想う

2017年05月01日 | 日記・エッセイ・コラム
春の終わりころは何故か淋しい気持ちになります。梅が咲き出し、モクレンが白い花を見せ、やがて桜が満開になります。
そしてその桜も散って春が終わるのです。
気温が上がってくるのでいろいろな草花が咲き出しますが、何故かもの思いにふける季節でもあります。新緑のころは気分が浮き立つようですが、その一方で時々、人間のはかなさを感じるのです。
先日、奥多摩湖に遊んだ時の写真です。

1番目の写真は奥多摩湖の静かな風景です。向こう側には人間が行けません。山林の中に白い桜だけがポツリ、ポツリと咲いています。

2番目の写真は奥多摩湖から流れ出した多摩川の上流の風景です。ここにも人間が写っていません。川の水が途切れることなく流れ続けています。それは時の流れが途切れないのと同じです。こんな風景を見ていると死んでしまった人の姿が次から次へと眼前に現れます。みんな無言で微笑んでいます。

3番目の写真は同じ場所に立って目を下流の方向に転じて撮った写真です。
楽し気に川遊びをしている幸せそうな家族連れが沢山写っています。この写真に写っている人々は家族や親しい仲間と思い切り春を楽しんでいるのです。
私はこういう光景が好きです。
この光景を眺めて考えました。
貧しい家に生まれ、家族連れで遊びににも行けない人もいます。そして養護施設で育ち家族の愛を知らない人もいます。
貧しくて中学校しか卒業出来ず、その後の実社会で悲しい思いをした人もいます。
3番目の写真を見ると自然にそのような不運な人々のことも思います。
神様は何と不公平なのでしょうか?
裕福な家に生まれる。貧しい家に生まれる。これを決めるのは運命なのでしょうか?
宗教は不幸な人を幸せに出来るのでしょうか?
キリスト教では神が不幸な人も愛しています。イエスも不幸な人も平等に愛しています。人間は愛されていれば幸せになれます。
佛教ではこの世のことは全て空(くう)だと教えています。幸せも不幸も空なのですから同じように意味のないことなのです。不幸と思うのは、単にそのような幻想を見ているだけなのです。お釈迦様は人間を、あらゆる苦しみから解放して下さったのです。
この世で見える全てのものは空(くう)であるという宇宙観は本当に凄いと思います。
佛教では愛という言葉を使いません。しかしお釈迦様は深く人間を愛していたのです。全ての人間が此の世で幸せに暮らせる教えを与えてくれたのです。

よくキリスト教の悪口を言う人がいます。よく仏教の悪い点をあげつらう人がいます。
そして仏教は神がいないから宗教ではないとか、キリスト教が宗教だと議論する人がいます。
そのような議論は不幸な人を幸せにするでしょうか?
神とイエスが不幸な人も平等に愛しています。温かく愛しています。
お釈迦様は不幸な人もひとしく限りない慈悲で包んでくれています。
それで良いではありませんか?

先日、多摩川で楽し気に川遊びをしている幸せそうな家族連れの風景を見ながら考えたことを書きました。こうして春も行き季節は初夏になります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)