ゴールデン・リタイアーズ

S20年生、後期高齢ゾーン、人生最終コーナー「遊行期」の
徒然残日写真録

180831 二十四節気、処暑。てんちはじめてさむし! 福岡県展、入選のがす、原則無視だったね!!

2018年08月31日 | 趣味と交遊

 24節気では処暑の次候、天地始めて粛し(てんちはじめてさむし)・・・ようやく暑さがおさまりはじめ、夏の気がおちつき、万物があらたまる頃とされている。日本最大の秋田大曲の花火大会も終わり、富山ではおわら風の盆がやってくる。210日、風鎮めの祭り。幻想的らしいが行ったことはない。大曲の花火競技大会もとにかくすごいらしいが行きかえりが数時間をかけた苦行らしい。日本人の集中癖はどうしようもないね。

 夏の気が落ち着くというがまだまだ30度ごえ、天候不順で東日本は大雨水害だとか、いやはや災害天国日本は大変だ。ジャカルタアジア大会、盛り上がりはどうなんかね、高校野球と比べてもいまいちの感がぬぐえないが、昨夜の4×100m陸上の日本チーム、ぶっちぎりの金だったね。オリンピックの金が期待されるような走りだった。

 秋の福岡県展写真部門の審査結果通知。残念ながらご期待に添えませんでした云々・・・・

1000点応募で300点の入選、30%の入選確率の福岡県美術展。東京のチーフ審査員と地元4名の審査員。入選基準は誰も撮っていない視点での写真が大原則。74回ともなれば同じような被写体が続出可能性大。今回だした作品は選定ミスだったね。

大川の昇開橋はカビの生えたような定番被写体。黒雲で特徴を出そうとしたがだめでしたね

タンクのある水田風景もまったく目新しい被写体とはいえなかったようだ。夕日が雲と水田に残照を残した写真だったが2枚とも夕日がらもみだったのはまずかった。おもしろい人物スナップなどあったがね。残念でした。入選の原則をはずしましたね。

まあ、コンテストは自己満足みたいなもので、自分が気に入った写真をとればいいわけですからね。ひとり静かにじっくり被写体と向かい合うようにしましょう・・・

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180828 「あの戦争と日本人」その2。人間がモノのごとく扱われた悲惨、非情、虚しい戦争!二度と起こしてはならない!

2018年08月28日 | アフターセブンティ

今日は昨日につづいて「あの戦争と日本人」を紹介していきたい。

要すれば、人間がモノのごとく扱われた悲惨、非情、虚しい戦争であったということですね。

7、鬼畜米英というのはいつ頃言われたのか

 太平洋戦争さなか鬼畜米英と洗脳されていた日本人は無条件降伏したあとケロッとアメリカになびいてしまったが、初めてこの4文字熟語をつかったのは昭和19年8月4日の朝日新聞。「見よ鬼畜米兵の残忍性」「勇士の頭蓋骨冒涜」。サイパン、ガム陥落、日本敗戦色濃い時である。

 昭和16年の太平洋戦争開戦からずっと日本人の戦意を落書きなどから分析していた「特高月報」によると、すでに国民は奴隷扱いされている。平和を愛する日本人ならば、はやく戦争をおわってアメリカの属国になったほうが良いという声が多かったらしい。

 日本は日英同盟のおかげで日露戦争に勝てたし、アメリカの仲裁のおかげで泥沼の日中戦争終えられた。戦利品へのよくボケのおかげで米英を怒らせ、中国への21か条要求など世界世論を無視した要求を突き付けたおかげで日英同盟や、日米通商航海条約が破棄されるなど孤立化の方向に傾いてしまったとか。

 日露戦争後の国防方針で山形有朋が攻撃的な軍事力強化を明文化、仮想敵国として陸軍はロシアを、海軍はアメリカを想定。この仮想敵国が昭和15年1月、条約破棄で真相敵国になってしまった。ABCD包囲網で生命線の石油も入らなくなった日本は戦争に踏み切らざるをえなかった。このことを天皇は一番危惧されたらしいが軍部は適当にごまかしてしまったとか。人材に恵まれなかったとされる昭和天皇の悲劇かもしれない。歴史は米英と仲が良い時は日本は順調、悪くなると日本はどんどん劣勢になっていってしまっていることを教えているという。

8、あの戦艦大和がいかにしてつくられ、戦果もあげえず撃沈されてしまったのか

 1908年10月、アメリカ戦艦16隻を中心とする大艦隊グレイトホワイトフリートが横浜入港、山形有朋は仰天、日本は大国をめざし8-8艦隊つくりを大方針とした。クラウゼビッツの戦争論を軍人はみな読んだ。森鴎外が翻訳した。そこに7割論というのがありそれを金科玉条にした。アメリカの7割、10隻の戦艦をもてば戦えると・・・・日本は破産覚悟で建造にふみきる。

 1914年第一次大戦勃発。1922年ワシントン軍縮会議。1929年世界恐慌、ウオール街大暴落。1930年ロンドン軍縮会議で日本は米英の67.5%。加藤友三郎などの英断で条約をのんだが東郷平八郎ほか反対派が海軍の良識派を追い出してしまった。石川慎吾という政治的軍人が出てきて、アメリカが作れない巨大戦艦、不沈戦艦をつくるべしと進言。貧乏海軍ゆえの不沈発想。

 日露戦争の勝利体験からぬけだせず、時代はいまや飛行機、空母、潜水艦の時代であることを読み切れず、大和の魚雷防御や浸水極限対策などないがしろにされた巨大な鉄の塊を作ってしまった。大和は昭和12年12月に呉の海軍工廠で起工、15年8月進水、16年10月試運転。ペリーの黒船にびっくり仰天した日本人が80年後に日本の技術だけで世界1の巨大戦艦をつくりあげたのだから驚嘆すべきことではあったが口径46センチの巨砲9門が火をふいて米艦を撃沈することはなかった。

 戦局悪化の中、大和をアメリカの戦利品にさせないために沖縄沖への特攻出撃を命じられ、昭和20年4月7日、米潜水艦の攻撃であっけなく撃沈され乗組員3332名のうち3056名が戦死、これは飛行機特攻隊死者4615人につぐ数字とか。彼らは2階級特進の栄誉にもあずからなかった。山本五十六は空母、戦闘機強化論者だったが軍首脳部はこちこちの石頭で日本を敗戦に追いやった。壮大なる日露戦争以来の大国志向、巨艦巨砲志向は悲惨の一語をもって終わった。ほんとに虚しいことであった。実にむなしい話だ

9、特攻隊はいつごろから具体化したのか

 葉隠れ思想・・武士道とは死ぬことと見つけたり!が軍人の精神的バックボーンになっていた。昭和18年には兵器弾薬材料糧食の不足欠乏が顕著、生産が消耗においつかず戦況がどんどん悪化。4月に山本元帥が戦死、7月に軍令部で特攻兵器の早期開発案、航続距離倍増、体当たり戦闘機、人間魚雷など。

 九死に一生から十死零生、すなわち生還は考えない作戦が考えはじめられた。昭和19年6月にサイパン、グアムなどマリアナ諸島が陥落していよいよ本土決戦が必至の状況になった。

 昭和20年1月8日、最高戦争指導会議で全軍特攻が正式にきまり、志願も強制も関係なく1億総特攻が決まった。4月に沖縄戦が始まり、まったく外道、非情というしかない作戦が実行にうつされる。最後まで目をつぶるな、突入角度は40~60度。2483機突入して命中したのは244機、奏効率は16.5%だったらしい。

 終戦の詔勅の夜、特攻を指揮した大西中将は遺書を残して自決。特攻の英霊に深謝、目的達成できず、わが死をもって謝罪す。残された一般青壮年の皆さま、軽挙妄動せず特攻精神を堅持して日本民族の福祉と世界平和の為に最善を尽くされたし!職業軍人たちは己らのメンツの為に悠久の大義の美名のもとに若者たちに無益な死を強いた。誠に恐ろしくも虚しい戦争であったとしかいいようがない。

10、そして原子爆弾が広島におとされた

  そもそも原爆とは。92番目の元素のウラニウム原石の235と238の元素を分裂させると猛烈なエネルギーを発生させる。が235は0.7%しか含まれない。これが濃縮ウラン。これが作れるかが第一の壁。この235を核分裂させると2~3の中性子が飛び出して235にあたり、核分裂の連鎖反応がおこり、ものすごい熱線とエネルギーをだす。

 この核分裂の実験をはじめて成功させたのは1938年、ドイツであったがヒットラーは原爆をつくるよりロケット弾を優先させた(1942年)。この実験成功に一番衝撃をうけたのがアメリカ。この爆弾が船ではこばれ真珠湾で爆発させられたら1発で港とその周辺は壊滅するとアインシュタインがルーズベルトに進言、1939年8月。大統領は即予算をつけて原爆開発研究を指示した

 米英は19449月に原子力協定の覚書に調印、日本が降伏するまで原爆攻撃を続行する旨警告することになろうと言明している。12月、ドイツ敗退。アメリカは昭和20年7月16日、爆弾を完成、ニューメキシコ州アラモゴードで人類初の原爆が爆発。参加科学者の多くが実際使用に反対したらしい。

 何回か日本上空でB29が投下訓練。新潟、横浜、京都、広島、北九州が最初の投下候補地、歴史学者の反対で京都が外されたらしい。そして86日午前815分、トルーマンの命令で、エノラゲイが原爆を投下、広島上空570mで原子爆弾が炸裂した。ポツダム宣言を日本がさっさと受けいれていたら原爆投下はなかったのか、ソ連が日本参戦まじかで、日本降伏後の占領問題でソ連が出てくるのを阻止するため、やはり投下はされたであろうということが一般的見解とか。日本の科学者たちは広島の惨状をみて、ただ唖然とするばかりであった、という。

・・・こういうのを読んでいると何ともいえない気持ちになりますね。310万人といわれる戦没者たち・・・

11、八月十五日の終戦記念日、日本の一番長い日、どんな1日だったのだろうか

 日本人は玉音放送を聞き、どうしたか・・ただただ滂沱にくれた!? 終戦の詔勅を聞いたのは軍人と女性と年寄り、小中学生。私はうまれて3か月の乳飲み子だった。昭和40年当時の40代意識調査。悔し泣き32%、虚脱感39%、ほっとした28%だったらしい。まあ聞いた直後は虚脱感だったろうね。両親にこのあたりのことをもっと聞いておけばよかったと後悔。

 敗戦、終戦の夜、自決した反対派の阿南陸軍大臣は賛成した米内海軍大臣を斬れと遺書に残した。真意は?賛成派は天皇制持続のみで全面受諾。しかしどんな形で天皇が残るのか不明のままで受諾するのは無責任、自己保身と思ったらしいね。ずっと分かり合えなかった陸軍と海軍。悲劇のもとですね。この期に及んで本土決戦を主張する陸軍はばかかとポツダム宣言受諾、無条件降伏の賛成派は思っていたのだろう。陸軍は天皇の為に死なせてしまった165万の英霊に申し訳なかったのだろうか

 半藤一利原作の「日本の一番長い日」が映画化された。岡本喜八監督は終戦決定の事実をしっかり残そうとメガホンをとった。戦後73年、日本人は事実をどれほど認識しているか? ほんとに認識してるのか? 太平洋戦争の戦闘員の死者は陸軍165万人、海軍47万人とされている。広義の飢餓による死者は何%?同じく海軍の海没者(輸送船で撃沈されて死んだ軍人)は何万人?・・正解は70%、40万人。いかに無謀な作戦計画でなくなった人が多いかということ。こんな事実はわたしも知らなかった。参謀、幹部の責任は重い!

 昭和30年、「サイパンからきた列車」棟田博が短編小説を出した。深夜の東京駅15番ホーム。サイパンから死者をのせた列車が入ってくる。ラッパが鳴り人員点呼を終えた亡霊たちが故郷にかえり、また戻ってきて、人員点呼をして列車にのり、いづことも知れず去ってゆく!!今も深夜東京駅には身代わりになって死んでくれた亡霊たちが硫黄島からガダルカナルから亡霊たちが帰ってきているにちがいない!

 戦争の悲惨さ、非情さを知らない人間が日本の政治をおこない、国民はおおきな格差社会のなか、平和を享受し、欲望のおもむくままに生きている。自分の国さえ良ければ、自分さえ良ければ人のことは知ったことではないというナショナリズムが頭をもたげてきている。怖い世の中になりつつあることをあまり人は感じていない、とりあえず目先食うため、楽しむため!流れに流されやすい人間たち。少しでも冷静にいたいものだ!!

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180827 「有明海花火フェスタ」行かず、半藤一利の「あの戦争と日本人」を読む!!

2018年08月27日 | アフターセブンティ

 昨日、柳川のムツゴローランド近くの有明海沿岸で第20回有明海花火フェスタがあった。写真仲間のWさんから電話があり、場所や撮影ポイントについてレクチャー、去年のブログ記事など紹介した。

(去年の写真。ペンタックスK3、18-200mmタムロン)

西鉄電車で行くつもりが同じ仲間のTさんから誘いの電話があって、太宰府のyさんと3人で出かけることにしたとか。不思議と、じゃあ私もナビゲーター役で行きましょうかと・・とは言わなかった。まあ暑い中でかけても大した写真はとれないと思っていたのか、2時間近くかけて行く元気がなかったのか、写真への意欲減かわからないが・・・。

今朝の西日本新聞で去年のラストのナイアガラの滝が1Kmだったのが今年は20回目の節目で2Kmにのびた写真がでていた。すこし残念な気もしましたがねまた来年行きましょう。

 ということでフェスタに行かない代わりに表題の本を読んだという次第。戦没者慰霊祭の毎年の空虚なアベ首相の挨拶や昭和天皇の侍従長だった人の回顧録で天皇の戦争責任についての苦悩の様子をしるにつけ20世紀の日本近代史、戦争の背景がどんなものだったのか、市の図書館で、半藤一利さんの「あの戦争と日本人」というのを借りてきて読んだ。なるほどそうだったんだ、と目からうろこというか、そんな本であったのでちょっと紹介してみたい。

1、明治維新から150年の節目とか言われるが幕末から明治維新をどうとらえるか

 実は議会抜きで戦争ができる統帥権は薩長新政府が明治11年頃にすでに作っていたらしい。山形有朋が西南戦争の時に熊本城での指揮権発動体験からいちいち議会承認をとっていたら間に合わないというわけ。明治20年に明治憲法として軍は天皇直属軍とし、議会決定なしで軍が行動を起こせるようにしていた。第二次大戦の軍の独走の背景は明治に作られていたというわけである。

2、歴史から学ぶ場合、基本姿勢として歴史の事実認識に絶対はない、かならず相反する事実が存在するはず。時の政権が不都合な事実を隠ぺいする可能性があるということを知っておくべき。安倍内閣の公文書廃棄問題、モリカケ問題などうたがわしいね。政治家と官僚が結託すればすきなようにできてしまうではないか。

3、小国日本が大国ロシアに勝ったが日露戦争に勝ったことをどう位置づけるか

  ロシアの中国、朝鮮への南進危機、海軍からの要請など4度の御前会議をへて日露開戦、203高地の乃木希典神話など生んだが、203高地占領前に大砲による旅順攻撃でロシア艦隊が大破していたとか。バルチック艦隊絶滅も実は紙一重で撃退、以後の陸軍の戦いも死者累々で、かろうじてアメリカの仲裁で終戦にもちこめ、実に運が良かった戦いであったらしい。これは驚き。

 ところが戦後の ポーツマス条約で日本は賠償金もとれず、朝鮮統治権、満州の租借権、南樺太など割譲のみ。その弱腰に日本国内大反発、小村寿太郎がおそわれたらしい。国内は世界5大強国ロシアを破ったということで大騒ぎ。幸運にめぐまれ、ぎりぎりのところで勝てた戦争の実態伝わらず、ここかしこで失態を犯していた軍幹部がなんと一律貴族に昇格したなど、史実は摩訶不思議。

4、日露戦争後、日本人はおかしくなってしまった

 明治10年以前の日本人の質実剛健の気風が薄れ、神国ニッポン、気合で勝てる風潮。出世欲、金銭欲、軍人の堕落など進展。列強の植民地になっていたアジア各国に独立の機運をもたらし、勇気づけ、彼らは日本を学ぼうとした。

 日本はなんと小国の謙虚さを忘れてしまい列強の一翼をになう帝国主義国家を目指し始める。日本が朝鮮を支配し、中国人やベトナム人を日本から追い出したころ、夏目漱石は小説、「三四郎」の中でこのままじゃ日本は滅びるねと予言していたとはおもしろい

5、魔法の杖の統帥権

 司馬遼太郎はこれを魔法の杖と称して司法立法行政の三権を超越した超法規的、明治憲法をも意に介さない権力としてこれを軍が独占、日本をつぶしたとS51年に「国のかたち」として論評したようだ。企業組織に於いても人事権と金を握る人間が組織を牛耳る。人格が問われるゆえんだね

 明治22年には長州出身の山形有朋により軍事優先国家の道が選択されてしまう。山形は自ら参謀本部長になることによって、天皇直属の作戦総本部として、各大臣をあごで使えるようにしてしまった。明治14年には軍人勅諭ができており、山形、伊藤博文という長州仲間が日本を好きなように作り替えた。憲法制定前に参謀本部長の単独上奏権が認められてしまった。

 さらに軍部大臣現役武官制で軍から大臣を推薦しない限り内閣すら編成することができなくしてしまい、完全に軍の専横体制ができてしまった。しかし不思議ですね、幕末から明治維新が西国の薩長土肥の武士中心に行われたことが。東国の武士はどうしていた?

、四文字熟語による人間の洗脳

 日本人は4文字熟語によって洗脳されてきた。尊王攘夷、大政奉還、版籍奉還、富国強兵、国民皆兵、臥薪嘗胆などなど。神州日本はどこからでてきたか。昭和10年岡田内閣が国体明徴を発表。要するに日本国は神世の昔から天皇がすべてを統治する国家であることを明言した。

 昭和15年ごろから八紘一宇(はっこういちう)、世界を一つにするのはわが日本国であり、天皇は天の神様から日本国をさずけてもらってその徳にこたえ善政をおこない下の者たちは正しいことを養う心をひろめねばならないと・・。昭和史における日本の大国主義の考え方の根っこに神話の時代からの八紘一宇があったわけだ。

 田中知学という宗教家が大正時代、日蓮宗の団体をつくり、万世一系の皇室は道義の保護者として世界を統一すべき存在として生まれたと主張。のち日本軍の参謀となる石原莞爾や雨にも負けず・・の宮沢賢治は熱心な信者であったとか。

 ・・・・・1867年、江戸城の無血開城、江戸幕府崩壊、このままでは日本は列強諸国に飲み込まれてしまうという恐怖感から薩長を軸とした明治新政府により急速に富国強兵が進められた。そしてあの列強の一角、大国ロシアを1904年に打ち負かしてしまった。皮肉にもこの勝利による軍と国民の慢心が1945年の太平洋戦争無条件降伏につながってゆくスタートであったことをよく理解すべきだね。明治維新150年というよりこの20世紀の前半50年にこそ歴史からしっかり学ぶ必要があることを実感しました・・・ではまた明日!・・・・・・

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180822 日本人の判官びいきは半端じゃない!金足農業、準優勝で華々しく秋田に凱旋、今夏秋田県民を燃やし続けた!!

2018年08月22日 | アフターセブンティ

第100回高校野球の決勝戦、関東圏のTV視聴率は20%とか、日本全土が甲子園の大阪桐蔭、金足農業の試合に夢中になった。

 スコアを感じさせない熱戦であった。5試合で一人で880球なげた吉田投手、この猛暑の中体力の限界だったんだろうね。1回みずからの悪投球で1点を献上したのが分岐点か、次打者にタイムリー2点ツーベースをうたれて3点を献上、6回2本塁打6点、はじめて6回で降板、結局13対2で優勝を逃した。9人の選手のみで戦った金足、一方の大阪桐蔭はプロ野球並みの投打の陣容、総合戦力では圧倒的に桐蔭優位での決勝戦だった。さすが桐蔭打線、吉田の疲れが出た直球をのがさず快打、大したものであった。2度の春夏連覇の偉業を達成した。

 しかし判官びいきの日本人、必死になげる吉田とあきらめないナインの野球に大拍手。大阪桐蔭の大偉業の影を薄くさせるような観客の反応、拍手だったね。吉田投手の肩が選手寿命に影響しないのを祈るばかりだね。県大会も含めて1500球も投げぬいたというからすごいがもう少し中泉監督もベンチのメンバーも含めた全員野球、継投体制を来年に向けて考えてもらいたいものだ。

 今日午後、メンバーは秋田空港に帰還、県民の大歓迎に迎えられ、学校でも準優勝報告。ほんとに県民に大感動を与えたさまがよくわかる。すごい出迎えに選手も驚きの様子だったが今回の甲子園での体験が今後の彼らの人生にすごい自信を与えたに違いない。

 げんきんなTV界は今日も金足農業さまさまでした・・・

 

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180819 高校野球準々決勝、はじめて見た劇的、逆転、二点スクイズ、金足農すばらしい!校歌絶唱も!!

2018年08月19日 | アフターセブンティ

第百回高校野球記念大会も準々決勝。秋田の公立高校金足農業高校が2対1で近江高校にリードされた9回裏、ノーアウト満塁で9番斉藤が絶妙の3塁前スクイズバンド、

(テレビ画面より)

三塁手がファーストに投球、同点。

その時2塁にいた菊池選手が3塁をけって猛然とホームへ。ファースト北村が懸命に本塁へ送球するも間一髪セーフ。

まったく奇跡的、劇的な逆転サヨナラツーランスクイズ。金足農業がベスト4への切符をもぎ取った。初めて見せてもらった二点スクイズ、すごいね。監督もまずは同点と思っていたらしいが菊池選手の好判断で2点をもぎ取った。三塁手の死角になるとおもって激走したらしい、すごい決断だったね。

金足農はずっと3年生9人で勝ち上がってきたらしいがすばらしいチームだね。エース吉田は4試合連続二けた奪三振でドラフト1位候補のすばらしい選手だが3回戦の逆転本塁打などもありバントなど小技も最重要視するなどすごいチーム力だ。それに大きく口をあけて反り返って校歌を絶唱する姿は90年の伝統を誇る学校の教育姿勢、校風がうかがえる。いやはやすごいのを見せていただきました。

 春夏2回目の2連覇をねらう大阪桐蔭は下馬評通りだが100回大会の優勝校はひょっとすると奇跡がおこるかもしれないね・・・

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180817 地元のパープルプラザで写真展開催。見てくれる人にインパクトを与えられるか?!

2018年08月17日 | 趣味と交遊

 毎年、夏休み恒例の写真展が地元の生涯学習センター1Fロビーではじまった。メンバー18名の全紙、A3伸び作品18点が31日まで展示される。

 わが写真愛好会は創立15年、写真展も40回近く実施している。私も入会10年になった。はやいものだ。毎月第一月曜日の例会、合評会、年2回の撮影バスツアー、3回の写真展。メンバー19名。

 それぞれ自信の作品1枚をよりすぐって出品している。1時間半ほどで設営がおわり各自撮影意図を説明。来客への説明ポイントの確認にもなる。

 撮影者が何に感銘し、それをどのように表現したか?!表現、作品化のスキルが各人のキャリアを表す。意見交換、アドバイスのやり取り。

 

主に構図、トリミングの可否。露出の調整ポイントについて意見がでる。

最近はフォトショップなどレタッチソフトの活用がコンテストでも暗黙の了解になっている。

 上の作品は作者の感銘ポイント、斜光をもっとくっきり表現するには絞り優先オートで撮るにしてもマイナス1ほど露出補正すれば、岩への反射光の白とびも抑えられるとか、カメラを知り尽くしての対応が必要となってくる。

(フィルターなし)

(フィルターあり)

 PLフィルター(偏光フィルター)の活用で水面の映り込みをおさえたり、空の青さや紅葉の鮮やかな朱色をさらにつよめるなどできる。最近のデジカメ一眼レフにはデジタルフィルターが内蔵されていて、いろいろ試してみると面白い。

キヤノン、ニコンなどメーカーは一眼レフの需要減に頭を痛めている。そこにフルサイズのミラーレス一眼でソニーが2大メーカーの牙城を崩そうとしている。レンズをいれると4~50万円の世界。世の女房族の非難の声が聞こえてくる。

 まあ新製品にうつつをぬかすより今持っているカメラの取説をあらためて読み直して、持てる機能を十分発揮できるように反復訓練する方が良い作品作りの近道であることを写真を趣味とするシニアは心すべきでしょう!!

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180815 敗戦記念日、310万人の戦没者、民間人100万人?先日の日米ソフトボール決戦、太平洋戦争を想起させる!!

2018年08月15日 | アフターセブンティ

 平成天皇皇后が出席される最後の戦没者慰霊式典が催された。310万人の日本人が第二次世界大戦、太平洋戦争で亡くなったとされている。そのうち軍人が210数万人、民間人が約100万人(沖縄以外の日本本土で70万人が米軍に殺されたとか)2発の原子爆弾と焼夷爆弾による絨毯爆撃で日本全土が人もろとも焼け野原にされてしまった。無差別殺戮である。しかし、日本人は隣国とはちがい、骨の髄からアメリカを恨むというようなことはしなかった。寛容な国民なのか?!日本人も他国でそうしてきたからか?私は小中高校とこの間の歴史教育をどう受けたか記憶が定かではない

 先日の世界ソフトボール。日本はアメリカに負けて三位決定戦でカナダを撃破して、再度決勝でアメリカと対戦。メジャー、プロ野球、高校野球、いろいろあるがソフトボールは結構スピード感があっておもしろい。あの大きなソフトボールが日本の絶対エース上野がなげると球速が115キロ台になるとか、体感スピードでは大谷並の160キロ台とか。日本の打線は二刀流藤田の2本塁打などタイブレイクで6対4とリード、日本が優勝かと思ったアメリカがその裏、すぐさま同点においつきそして逆転タイムリー、2連覇を果たした。

 日本はあまりにも上野に頼りすぎた。カナダ戦もふくめてこの暑い中、ダブルヘッダーで162球も一人で投げ続けたのだから力尽きますよ。アメリカは全員がホームランを打てそうで投手も5人をフル活用、かわってくるピッチャーがパワフルパワフル!藤田もよく打ったがリードすれどもすれどもすぐ追いつかれ最後には力尽きた。

 このソフトボール決勝戦をみていて、70数年前の太平洋戦争を想起した。真珠湾攻撃に際し海軍の山本五十六元帥は1年間は大暴れして見せますがそれ以上は保証できません。アメリカの産業力を知っている山本五十六は1年以内に有利に立って平和交渉にもってゆき終結させる構想を持っていたとされる。連合国との開戦当初は日本軍は連戦連勝、ほとんどのアジア領土を占領、石油資源を確保。破竹の勢いであった。日本軍は強かったのだろう。

 ところが海軍上層部の意思疎通不足でアメリカ空母を沈めるどころか反対に味方の空母を沈められ、圧倒的なアメリカの空軍力、産業力の前に逆転され、制空権をおさえられ、沖縄をやきつくされ、日本本土を射程圏に抑えられてしまった。そして原爆が広島、長崎に2発もおとされ一瞬のうちに20万人が殺戮された。この段階でまだ一億総玉砕などというばかな軍人幹部がいたとか。昭和天皇の英断で15日、無条件降伏の玉音放送がされたというのが日本歴史の教えるところ。

 終戦前後、軍の公文書はことごとく焼却されてしまい戦争の真実がどこにあるのか定かではないらしい。真珠湾奇襲攻撃で日本が戦争を仕掛けたとされているが、日露戦争以後の20世紀近代史でアメリカが黄色人種日本の台頭を一番恐れており、第二次大戦でも日本を壊滅させるチャンスを米大統領が虎視眈々と狙っていたとか。真珠湾攻撃はまさに米大統領にとって渡りに船であったとか、占領軍司令官マッカーサーもこのあたりの真実については知っていたとか・・・真実は?

 戦後、経済一辺倒で日本は再興、アメリカにつぐ経済大国にまで上り詰めた。今は中国にその座をゆずったが日本はマクロでは経済は順調のようで日本人は一見幸せそうではある。しかし、沖縄の基地問題、北朝鮮の拉致被害者、日常茶飯事の殺人事件、政治家、財界人、芸能人、スポーツ関係者のモラールハザード、末法の世の中のようにも見える。まさに占領軍アメリカの志向したとおりの国になったと言えるのでは?・・・・・・・

 

 

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180813 「ひぐらし鳴く」立秋の候、孫たち沖縄旅から無事かえる、大満喫だったよう!!

2018年08月13日 | アフターセブンティ

 台風14号の影響で飛行機が飛ばないのではと心配していたが昨夜遅く無事にかえってきた。宮古島は何十年ぶりかの豪雨だったらしいが沖縄本島はあまり影響もなかったようだ。孫たちの10本ばかりのテルテルボウズが効いたようだ。

 私が40歳の頃、3~4年仕事、家族も2年ばかり那覇で過ごした思い出がある。昨日、その当時住んでいた屋上のあるアメリカン住宅や通学していた仲井真小学校、当時の娘の友人とも再開したらしい。この住宅はアメリカン方式で部屋割りは家具でするようになっており、屋上はそっくり活用でき、庭には鉄棒があったり玄関にはバスケットゴールが作ってあったりしてユニークな住まいではあった。

 今、沖縄は翁長知事がなくなって政治的には騒然としているが日本全体では人口減の中で唯一出生率も高く人口が増えており、従来3Kと称して基地依存が50%くらいあったのが今や5%くらいになり、観光立県やアジアのハブ空港としてのポジション活用など新局面にあるらしい。日本の米軍基地の70%が沖縄にあることの厳然たる事実に本土のヤマトンチュはもっと心しなければならないだろう。基地分散で賛意を示したのは唯一もとの大阪府知事橋本さんだけだったのは誠に残念としか言えない。次の沖縄知事選ははたしてどうなるか興味深い。

 沖縄といえばエメラルドグリーンの海、ソーキソバ、分厚いステーキ。

孫たちは美ら海水族館近くの本部のホテルに泊まったようだ。

沖縄のステーキハウスは目の前で調理人が調理具をチャカチャカ鳴らしながらガスバーナーで焼いたり、目のまえで豪快にやってくれるまさにステーキエンタテイメント。なつかしいね

ジンベエザメとマンタがおよぐ美ら海水族館はやはり沖縄観光の必見の場所だね。孫たちの心に残る思い出になったろう。

 名護からさらに北部の本部に備瀬海岸というのがありフクギ並木通りというのが海岸にそってあるようだ。孫たちがレンタサイクルで楽しんでいる。30年前はなかったのではないかね。沖縄在住時はちょうど40歳、拠店業績達成に仕事にかまけ十分家族サービスもできなかったが、最近の若い家族はなかなかの企画上手、遊び上手だね。娘から送られてくるスマホ写真、なかなかのセンスだ。いい構図の写真が多い。

 猛暑が続いているが時節は立秋。朝、庭掃除していてもすっと涼しい風がふき、秋が近いことを教えてくれる。

         すっと風 ほほなでゆきて 秋隣

 朝一で盆の入り、墓参にでかける。車で20分の霊園にいき墓掃除。9時過ぎについたがすでに車は満杯。けっこうきちっとした家族もいることを再確認。汗だくになりながら2k所の墓をきれいにして、無事、元気に過ごせていることをご先祖に報告、感謝。

 ゆうがた、カナカナカナとひぐらしの鳴く声。ひぐらしは秋の季語である。やっと暑さに身体が慣れてきている感じだがもう少しの辛抱ですね。

 マイブログに訪問いただいている皆様方もどうかご自愛いただきますように!!

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180810 ハムスター預かる、かわいい!孫たち、初めての沖縄旅行!!

2018年08月10日 | 趣味と交遊

孫たち、初めてのジェット機搭乗体験。沖縄に旅立った。ということでペットホテルがわりに、彼らが飼っているペットのハムスター、アズキちゃんを預かりに昨日娘宅へ。飼い始めて2年、寿命が3~4年らしいからもう中年?

 しかしかわいいもんだ。名前をよぶとちょこちょく出てくる。孫娘が掌に載せて餌をやると、上向きになってむしゃむしゃ食べている。

 ネットで調べてみると暑さ寒さによわいから飼育環境の温湿度管理が20~28度、5~60%維持してやる必要があるとか、清潔付きで床やトイレ掃除をきちっとしないと機嫌がわるいとか、夜行性なので夜中に回転車のなかでカラカラ音を出しながら運動するので飼い主はゲージの置き場所に注意がいるとか、噛み癖があるのでストレスフリーの環境を作ってやる必要があるとか、かなりデリケートなペットのようではある。

 まあ犬にしろ、猫やその他のペットの類は家族のつもりで飼う覚悟が飼い主には必要。その分、人間と違って、くちやかましいということもなく従ってくれるので癒しになるというわけだね。

 さて台風13号も無事、北の方にぬけて温帯低気圧になったようでよかったが沖縄にむけて台風14号が発生。まったく地球温暖化、海水温の上昇で台風が発生しやすくなっているようで、よりによって孫たちのはじめてのジェット機体験が帰りどうなるか心配なことではある。家のなかにいっぱいテルテルボウズがかけてあったが無事に沖縄ツアーを楽しんで帰ってこれるように祈るのみだ。娘は30年前に那覇で小学生時代を2年ばかり過ごしている。様変わりした沖縄を楽しんでもらいたいものだ。

 しばらくはアズキちゃんに癒されることにしよう・・・・

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180808 サラ・オレインさんの竈神社七夕コンサート、魅惑の歌声とバイオリンにしびれる!!

2018年08月08日 | 趣味と交遊

 夕食後、部屋でくつろいでいると娘から妻のラインに太宰府かまど神社で7時半からサラオレインの七夕コンサートがあるとの情報。NHK大河せごどんのテーマソングを歌っているとか?

サラオレインって何者?スマホで調べると3オクターブの絶対音感をもつ天才ボーカリスト、3歳から学んでいるバイオリンの腕前も最高とか。今注目の音楽家で日本でも縦断リサイタル中とか

 そんなすごい芸術家がこんな暑い中、かまど神社のどこでコンサートやるの?車で5分のところにいてコンサート情報全く知らず!まあとにかく行ってみるか。

 神社下の駐車場満杯、ちょっと離れた3番目の広場に駐車。浴衣姿の女性や子供たちがぞろぞろ神社に向かっている。階段やここかしこに竹筒の灯明。

本殿前にでると七夕飾りがずらっと。

右手の社務所まえに折り畳み椅子がならびすでに観衆が200名ほどスタンバイ。7時半、ミニコンサート開演。バイオリンをたずさえたサラオレインが登場。セリーヌディオンのパワーオブラブ?透き通った声が境内に流れはじめる。

参道の子供たちの雑踏が耳障りだが一瞬静寂が支配、彼女の3オクターブでるという圧倒的な歌声が神社をつつみこむ。

 2番目の曲目は神社にふさわしい「魂、アニマ?」とか彼女が言ったようだがバイオリンの演奏とあいまって素晴らしいナンバー。感動しましたね

第二部があったのか未確認だが約30分の七夕コンサート、結構でした。9月26日アクロス福岡のシンフォニーホールでコンサートがあるとか、行ってみたいとおもわせる歌とバイオリンでした。

 誰が企画したのか定かじゃないがかまど神社も粋なことをしたものだ。しかし折角の演奏が七夕祭りと一緒だから子供ずれの観客のざわめきが耳障りであることはどうしようもない。しかしサラオレインさん、よく来てくれましたね、ありがとう。大河ドラマせごどんでどこで流れるのか土曜日の昼1時5分、確認してみよう!

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