観測にまつわる問題

政治ブログ。政策中心。「空き家」「住宅」「金利差」「相続」「農業」を考察する予定(未定)。

唯一の合法的な政府とは(拉致問題と日朝平壌宣言)

2019-02-17 23:36:49 | 外交安全保障
ブルーリボンバッジの.jpg(ウィキペディア 吉田宅浪)

「拉致問題の解決なくして国交正常化はありえない」が日本政府の立場ですが、日朝平壌宣言(首相官邸 2002)では国交正常化の後、経済協力を実施することとなっています。これは「双方は、相互の信頼関係に基づき、国交正常化の実現に至る過程においても、日朝間に存在する諸問題に誠意をもって取り組む強い決意を表明した」とありますから、日本政府が北朝鮮に対して信頼関係を認定できなければ(理論上は逆も然りですが、基本的に北朝鮮が日本に経済協力することは出来ません)、国交正常化は出来ないということになりますから、この順番(最後に経済協力)で問題ありません。また、「朝鮮民主主義人民共和国側は、この宣言の精神に従い、ミサイル発射のモラトリアムを2003年以降も更に延長していく意向を表明した。」とありますから、本来は北朝鮮によるミサイル乱発で北朝鮮との信頼関係が無くなったと言うことも可能です。

それはいいとして、意外な問題が日韓基本条約第3条「韓国は国連総会決議195号に明らかに示されているとおりの朝鮮にある唯一の合法的な政府であることが確認される」にありました。唯一の合法でない非合法の政府と国交正常化するんでしょうか?

国連総会決議第195号(Ⅲ)和訳(アナザービュー)というページがあったので、国連総会決議195条(1948年12月12日)を確認してみましょう。やはり合法的政府(大韓民国政府)だとか、この政府は朝鮮における唯一政府であることを宣言するだとか書かれています。朝鮮の統一を斡旋するとも書かれていますが、普通に読んだら唯一合法の韓国が北朝鮮を吸収する前提です。朝鮮戦争(1950年6月25日 - 1953年7月27日)において韓国に国連軍が加勢したのも、こうした規定に基づくでしょう。ちなみにサンフランシスコ講和条約(1951年)で韓国は参加を拒否されています(日本の一部だったからです。所謂徴用工問題も結局法的には日本国内部の問題で、敗戦の結果独立した韓国と日韓基本条約で完全かつ最終的な解決をしたということになると思います。関連して慰安婦問題は慰安婦合意で最終的かつ不可逆的な解決)。

しかし、韓国・北朝鮮が1991年9月17日に国連に加盟しています。日本にしてみれば北朝鮮は非合法政府になりそうでいいの?ですが、とにかく国連自身が北朝鮮を認めているということになりそうです。

・・・何か理屈がないか考えましたが、国土統一院を新設したのが1969年8月1日。1990年12月27日に統一院に改変しています(更に1998年2月28日に統一部に改変)。一緒に加盟しているし、既に統一しているということか?

英語で韓国がRepublic of Koreaで北朝鮮がDemocratic People's Republic of Koreaですから、どちらも唯一朝鮮の合法政府Republic of Koreaで民主主義人民はお飾りに過ぎないと考えれば、別にどっちでも成り立つということなのかもしれません(国連総会決議195条を英語で確認した訳ではありません)。トンチ問答みたいですが。

この辺が理屈だとしたら、朝鮮と韓国を使い分けている日本(中国も同じ?)はややこしい感じで、国際的な普通の見方よりどっちが合法?が気になってしまうのかもしれません。

1991年の南北基本合意書に「相手方の体制を認定し尊重する」(第1条)との規定はあるようですが、共に大して尊重はしていないようです(特に北朝鮮)。

・・・まぁ国連総会決議に基づく条文は国連の認定でどうとでもなるというか上書きされたいうことで気にしないのが一番いいのかもしれませんね(多分これだ!)。完全かつ最終的に解決されたのは請求権の問題です。

朝鮮戦争休戦協定(1953年)も気になってチェックしましたが、あくまで休戦のための協定なのであって、相手国がどうこうという規定がなく(法的な地位に関して言及がないようで)、日朝平壌宣言に直接的には関係ないようです。ただ、北朝鮮は6回に渡り休戦協定に束縛されないと表明しています。何か気に入らないことがあったのかもしれませんが(というか砲撃とかしてきたような気もしますが)、休戦中ってことにしておかないと、国交正常化のための信頼関係も何もないことは確かだと思います。

朝鮮回廊と民族史(ツングースと高句麗、三韓及び日本(蓬莱?)への稲作を含む中国文明(燕・斉)の伝播)

2019-02-17 18:47:58 | 世界史地理観光
高句麗論争(朝鮮半島北部から満州南部を支配した高句麗が「朝鮮史」なのか「中国史」なのかという帰属をめぐる論争)に関連して、高句麗の起源・民族でいろいろ迷いもあったのですが、ほぼ考えが固まりました。支配者層が後のツングース/満州で半島部の領民が朝鮮ということで良いんじゃないかと思います。現在、北朝鮮に朝鮮民族しか住んでいないですし、三国史記で歴史がまとめられていることからも、基本的には朝鮮史でいいと思いますが、高句麗史を中国史(というか満州民族史)として捉える見方もあるでしょう。支配者層の歴史で見るべきという意見があってもいいですが、衛氏朝鮮は中国人(燕人)王朝ですが、朝鮮半島に中国人は住んでいません。歴史において少数派の支配者層はしばしば多数派の領民に飲み込まれることがあります(同化させるケースもあって一概には言えません)。例えばフランス人はゲルマン人であるところのフランク族の国が起源とされますが、フランス語はラテン系で言語的にはフランス人はローマ人の末裔です(元々はケルト人が住んでいました)。これはあくまで想定ではありますが(頭の体操で色々言えはするでしょうが)、現実に中国語と朝鮮語は違う言語なのですから、言語学的に証明されているとも言えます。

稲作農耕は日本(菜畑遺跡:現在では前10世紀~)に伝わったようですが、燕の領域に稲作があったはずがありませんから、これは山東半島あたり(後の斉)から伝わったと考えられます。遼東半島で約3000年前の炭化米が見つかっているそうで(稲作の痕跡は見つかっていない)、山東半島~廟島群島~遼東半島~朝鮮半島ルートで稲作が伝播し(日本人は中国人ではありませんから文化の伝播のみ、あるいは多数の日本人に少数の渡来人が吸収されたと考えられます)、気候が適している日本(九州)で盛んになったと考えられます。山東半島斉の建国が紀元前1046年ですから、そもそも山東半島に住んでいたとされる莱族が稲作を伝えたと考えるのが素直かもしれません。莱族の莱は蓬莱の來で、蓬莱とは古代中国で蓬莱は、方丈・瀛州とともに東方の三神山の1つであり、山東半島のはるか東方の海にあるとされます。東方三神山の方丈とは神仙が住む東方絶海の中央にあるとされる島。残りの瀛州はのちに日本を指す名前となったようです。徐福伝説が日本各地に残りますが、漢代「史記」のこうした話は何らかの根拠があるとも考えられますし、時代からも場所からもそれは日本のことを指しているのであって、交易ルート・交流ルートが想定されていいんだろうと思います。あるいは斉に破れて移民が従来有していた交易ルートを使って渡ってきたとも考えられます(日本において亡国の百済の移民が住み着くこともあったようです)。朝鮮半島における水田稲作に関しては約2500年前の水田跡が松菊里遺跡などで見つかっているそうです(時代が正確かは分かりませんが、稲作には日本の気候の方が適しています)。

史料にある範囲で朝鮮半島に大きな影響を与えたのは燕(紀元前11世紀 - 前222年)であるようです。燕は遼東半島を支配しましたが、国都は薊(北京市あたり)であり、上記山東半島ルートで來族が稲作を伝える時間的余裕はあったように思えます(最初に島伝いに移動したとして、経験さえあれば渤海横断ルートをとることも出来ます。呉越伝来説は有力とされますが、最初の移動が想定できず筆者は難しいと考えています。時期的にも斉の建国あたりがドンピシャで長江下流域において前5000年頃に始まったという呉越の稲作の日本・半島への伝来がどうして大きく時代が降るのか説明がつきません。南方の稲作が大陸内で北方適応・北上するのに時間がかかったと見るべきではないでしょうか)(銅鐸が越の王墓で見つかったというニュースも鈴が日本で発展したという通説でいいような気がします。日本は鈴文化で五十鈴川等の地名から銅鐸(紀元前2世紀~2世紀)は鈴と呼んでいたと考えています(スズは和語で、縄文時代にクルミなどの木の実やマメを振ると外殻や鞘の中で種子が動いて鳴ることに着想を得て作られた道具ともいわれるようです。金属で造る文化を教えた、あるいは輸入元は中国かもしれませんが、言葉は和語を使用したと考えられます)(後に埋納して文化が断絶した後、鐸が考古学的に越であるならば、古墳時代における南朝(最初の宋が420年 - 479年)との通交で鐸が改めて伝わったとも考えられますが、銅鐸の名称がはじめて用いられたのは8世紀に編纂された続日本紀のようですから、タクという漢語から考えて、遣唐使との関連が深いと考えられます)(いずれにせよ、難破必至の東シナ海ルートを時代を遡るほど信じません)(>中国古代の殷・周金属文化圏では、紀元前10世紀以後、山東の斉の箕族が、殷・周の権威のもとで、朝鮮西部に接する遼寧で活動していた。燕・斉人の東来は、古くから存在した。:礪波護、武田幸男「隋唐帝国と古代朝鮮」『世界の歴史6』中央公論社、1997年、264頁)。

燕の建国の経緯に韓侯国が関係しているようで、燕の士大夫層に韓氏や箕氏が見られるようです(伝説的な朝鮮最古の王朝箕子朝鮮は殷に出自を持つ箕子が建国したとされますが、殷の統治範囲を考えると甚だ疑問です。義経伝説や源為朝=舜天説のような起源説話だと思います。後代に燕の領域から箕氏が移住してつくったのが箕子朝鮮と考えられます)。三韓とは朝鮮南部ですが、何故に韓(河南省北部の一部、山西省南部の一部、陝西省東部の一部)(距離が離れてますし七雄で弱小とされます)?と思っていたのですが、韓氏に由来している可能性があると思います(出典はド忘れしましたが、日本だと移住後に地名を名字(武士の名字)としており感覚的に分かり難いですが、中国の宗族制度では移住して姓を地名・村名にしたとか。例えば「周荘」「趙村」「馬家屯」「柳鎮」のような地名があるそう。全然違うかもしれませんが)。

燕は遼東半島をも支配しましたが、斉からの文化の伝播もあったか(当初からバランサーしていたかもしれません)、燕の国都から遼東半島が遠く、北方の気候が厳しいこともあってか、少なくとも現在の朝鮮半島の領域までは中国人(漢民族)は多く移住しなかったようです(移住が多かったとして羅唐戦争後の新羅か高麗以降の歴史の影響が大きいかもしれませんが、よく分かりません)。遼東半島は概ね中国の領域であったようです。

高句麗に戻りますが、最初の首都卒本城や遷都後の有名な丸都城は鴨緑江北岸のようで、このあたりは後にツングース系民族の居住地として知られます。高句麗、夫余(扶余)、東沃沮、濊、貊の言語・民族が同じとされ、高句麗は現在の中国東北地方に広大な領域を持っていたようですが、どうも漢四郡の玄菟郡の影響を受けて(あるいは民族的な成長はもっと前かもしれませんが)、高句麗が成立したようです。魏と戦争して丸都城を落とされることもあったようですが(このあたりが魏志倭人伝の時代)、313年に高句麗が朝鮮半島の楽浪郡を征服しました。427年に平壌(現在の市街ではないそう)に遷都(南の方が生産力が高く人口が多かったかもしれませんし、少なくとも朝鮮半島を南下するのに便利でした)。高句麗は強国で度々隋や唐といった大国を退けたことで知られます(広開土王碑で知られるように、半島南部の国を支援する倭国=大和朝廷とも戦争しました)。三国史記における朝鮮半島中部の高句麗の地名は金芳漢氏によると、百済・新羅と同じのようです。その上で金氏は平壌方面に南下する以前の高句麗の言語と、朝鮮半島中部の地名に用いられている言語が同一ではない可能性を指摘し、乏しい史料から高句麗語はツングース系を示唆したようですが、この意見は妥当なように思います。とにかく中国東北地方に朝鮮人が広く居住していた歴史がありませんし、朝鮮半島南部の百済の支配者層も高句麗に起源があると自称しており、韓族の居住地も高句麗同様の支配者層と領民の分離があったとも考えられます。後の新羅の支配→短い後三国時代→高麗と時代が移行し、現在の朝鮮半島の領域を支配する高麗時代に三国史記が編纂されていますが、どうも北朝鮮の領域に朝鮮人以外の民族が住んでいたような感じがなく、日本人は魏志の記述から朝鮮半島北部に別民族が住んでいたように思ってしまう感じがはあるような気もしますが、元々朝鮮半島には朝鮮人(ないし朝鮮人に類似の民族)が住んでいたと考えていいのだと思います。

ただ、高句麗や百済の史料が少なく、(支配者層の)言語の復元が難しいことから、このあたりの推測に確証がないようです(広開土王の碑文なども、結局漢文で読みが分からないと思います。万葉仮名のようなものが無いと読みが分かりません)。日本には高麗(こま)や百済の地名がありますし(基本的には日本に日本の地名はありません)、誰も同族と主張していませんから、数少ない言語再建から日本語との系統関係を示唆する研究は誤っていると思います。数詞が似ている説は日本語の数を表す言葉が中国語に類似することと同様の現象とも考えられます(イチ、ニ、サン、シ・・・とイー、アル、サン、スー)。高句麗は早くから中国の影響を受けて高い文明があったとも考えられますが、日本が比較的関係が良かったとされる百済の支配者層が高句麗と同族のようで、文化の伝播で高句麗語が(百済語を通じる等して)日本語に入ってそもそも不思議はない訳です。ビロウや稲作に代表される比較的南国の日本文化が高句麗にルーツがあるはずもありません。

新羅は辰韓の地の国で秦人が済み秦韓ともいったようですが、日本の渡来人として著名な秦氏はこれに関係する可能性があると思います。何故秦かと言えば、燕の故地(遼東半島あたり)を引き継いだ秦の影響が考えられると思います。秦という巨大な統一国家のインパクトは相当大きかったのではないでしょうか。その後の漢において漢四郡支配がありましたから、益々中国の影響は大きかったはずです。朝鮮語と中国語は別言語ですが、朝鮮人の姓は中国同様の一字姓になっています(三国史記の王名から元は違ったようです)。

いずれにせよ、朝鮮半島には古くから朝鮮人が住んでいたというのが筆者の考えです。これに対して中国東北地方には古くからツングース民族が住んでおり、言語資料の少なさから証明できないようですが、それが扶余族であり、元来の高句麗なのでしょう。

高句麗・扶余の東の挹婁・勿吉・靺鞨・女真(満州族)は中国の史書によると独特の言語を持っていたとされるようですが(少なくとも確実なツングースは女真族とされます)、筆者は疑問を持っています。そもそも中国がこうした遠方の東の部族とあまり接した経験がないように思うのですが、日本語でも祖父母の方言がよく分からないのような話もありますし、(同族の)大和と琉球では正史も違いますし、大和と隼人も明らかな同属ですが、異民族扱いでした。同系統でも別民族と判断されてそもそも不思議がありません。気になるのが女真(金朝)(黒水靺鞨とされます)以前の渤海国(高句麗に服属していた粟末靺鞨の国とされます)で、中国東北部と沿海州(外満州)といった広大な領域を支配しており、これはどうも同じ民族が住んでいたと考えて良さそうです。渤海国は遠交近攻で(共に朝鮮半島の新羅と仲が悪かったので)日本に使節を送っていたことで知られますが、外満州というあまりに寒い地域の支配はそもそも同族だったからと考えないと理解が難しいものがあります。後の樺太のウィルタもツングースと分かっています。

日本の北方「異民族」アイヌ

2019-02-17 10:39:27 | 日本地理観光
アイヌ民族(ウィキペディア/パブリックドメイン)※アイヌ民族はかつては白人とも言われ遺伝子も日本とはやや違います(北回りで北海道に到達したかもしれませんし、少なくとも北海道のアイヌと和人は長い歴史の間、混交しなかったとも考えられます。オホーツク文化人等沿海州人との混交も考えられます)。

初めて「先住民族」と明記 「アイヌ新法」閣議決定(FNN PRIME)

>政府は、アイヌ民族を先住民族と初めて明記した「アイヌ新法」の案を閣議決定した。
>この法案は、北海道などに先住してきたアイヌを、初めて「先住民族」と明記したうえで、「アイヌの人々の民族としての誇りが尊重される社会の実現」を掲げている。
>そのうえで、サケなどの伝統的な漁法の規制緩和や、アイヌ文化を振興する新たな交付金の創設が盛り込まれている。
>菅官房長官は、「アイヌの方々が、民族としての名誉と尊厳を保持し、これを次世代に継承していくことは多様な価値観を共生し、活力ある共生社会を実現するために必要と考えているところであります」と述べた。
>政府は、アイヌ文化の振興を外国人観光客の増加にもつなげたい考えで、今の国会で法案を成立させる方針。

ネットではアイヌ民族が先住民族であるという認定に疑問の声があるようです。

そもそも民族の定義ですが、居住地、血縁関係、言語、宗教、伝承、社会組織などがその基準となるようですが、ある民族概念への帰属意識という主観的基準が客観的基準であるとされることもあるようです。アイヌの居住地は北海道・樺太・千島で、各種証拠から北東北にもいたとされ、言語は日本語と系統関係不明のアイヌ語、伝統的宗教は熊送りが特徴的なアニミズム、国家は持たず部族社会だったようで独自の民族として客観基準があり、アイヌとは「人間」の意味で自分達を一纏まりで認識しており、日本人(和人)のことをシサム・シャモ(後者はやや差別的なニュアンスがあるようです)(ロシア人のことはフレシサム・フレシャモだそうです)と呼んでますから、民族概念への帰属意識という主観的基準でも民族として認められるようです。

先住という意味では、アイヌが和人(日本人)に比べて、北海道に先住していたことで異論はありません。ゆえに先住民族で間違いなく、疑問の声があるのはアイヌが日本においては通常目立たない小規模な民族であることから来るのでしょう(その意味ではアメリカにおけるインディアンに類似します。独立論が出るような規模の民族ではありません)。厳密に言えば、日本という国は単一民族からなる国ではないということになります(見方次第で事実上の単一民族の国ということも出来ると思います)。

現代において日本人=日本国籍=日本民族の図式が一般に成り立ちますが(特には誤用と思いません)、厳密に言えば日本人=日本国籍=日本民族+アイヌ民族と見ることも出来ます(戦前は例えば朝鮮人=朝鮮民族が日本国籍を持っていました)。

観光振興ということですが、アメリカのネイティブ・アメリカン観光のようなものを意識しているのだと思います。現状では日高地方の平取町立二風谷アイヌ文化博物館が有名だと思います。アイヌは最近では週刊少年ジャンプのゴールデンカムイでも知られますね(かつて北海道にゴールドラッシュがあったとか)。

アイヌは歴史的には日本から見て蝦夷(えぞ)と呼ばれていました。北海道が蝦夷地です。エゾ=アイヌは通説でこれにまず異論は無いと思います。厄介なのが蝦夷を昔はエミシやエビスと呼んでいたということで、エミシ=アイヌ説とエミシを和人(日本人)の辺民とみるエミシ辺民説とが対立してきました。エミシは昔、愛瀰詩・毛人とも書き、畿内の先住民であるとされたり、毛野国=両毛地域(群馬・栃木)に住んでいた人が毛人ではないかと言われたり、多賀城(宮城県、南東北)や越後(新潟県、渟足柵・磐舟柵)あたりの「服わぬ(まつろわぬ)」民を指したりしますから、辺民説が部分的に当たっている可能性もあると思いますが、何か具体的な(特に文献上の)根拠・証拠がある訳ではないと理解して良いと思います。少なくとも北東北に広範囲に残るアイヌ語地名から、全てのエミシが和人でも無さそうですが、これは後述します。

エゾという用語が使われ始めたのは11世紀か12世紀であるようです。鎌倉時代には蝦夷(えぞ)沙汰職、蝦夷(えぞ)代官という役職があって、これは南北朝時代に蝦夷(えぞ)管領と呼ばれるようになりました。この職は安藤氏(後に安東氏)の世職で、政務を行う役所は津軽の十三湊(とさみなと=江戸前期まで、現代の呼び名。江戸時代後期以降じゅうさんみなととも)にあったようです。この頃北東北はどうも和人(日本人)の居住地らしく、北東北のアイヌ語地名は少なくともエミシに遡るように思えます。エミシをエゾと呼ぶようになった経緯ですが、時期的には中世社会への移行期に近く、鎌倉幕府の成立等とあわせて、移住した関東あたりの武士の方言に関係する可能性があると思います(アイヌ語で人を意味する「エンチュ (enchu, enchiu)」が東北方言式の発音により「Ezo」となったとする説も。出典:小泉保(1998)『縄文語の発見』青土社)。

擦文文化の成立過程と秋田城交易(北海道博物館研究紀要 鈴木琢也)を参照すると、8~9世紀は、擦文文化と東北地方土師器文化との物流・交易が活発になる時期のようです。渡島蝦夷、渡島狄との交流も史料に見え、考古学的に交易も確認できるようです(秋田城が拠点とも)。渡島が北海道ですが、今も北海道南部の半島を渡島(おしま)半島と言います。注意すべきは東北地方土師器文化で、これを完全に和人(日本人)と見るべきではないのではないかと思います(そう見ると北東北のアイヌ語地名を理解しにくくなります)。後述するように樺太アイヌと北海道アイヌの文化は違っており、単に日本人と隣り合っていたから似たような文化だったのであって、民族は言語系統で判別されるところが大きいように思います。蝦夷(エミシ)の地の古墳を考えてみるのも面白いかもしれません(蝦夷の古代史/工藤雅樹著 平凡社新書071 2001)。水田農耕の早期の北東北への到達が明らかになったことで、蝦夷(エミシ)=辺民説が有力にもなったようですが、必ずしも技術=民族ではなく(インディカ米の産地が全て同一民族でしょうか?)、北東北のアイヌと技術の受容、同化の過程について考察しても良いでしょう。同一地域に異なる民族が住むことも、世界史では割合通常のことです。

鎌倉時代には北の「元寇」があったと言われ、元とアイヌが交戦したことで知られるようです。樺太の白主土城がアイヌ伝統のチャシとはかなり構造の違う方形土城で中国長城伝統の版築の技法が使われており、元の前進基地だったとされるようです(アイヌとモンゴルの戦い モンゴルの樺太侵攻 1264年の遠征 1284-1286年の連続攻撃 個人ブログ)。樺太アイヌはミイラ作成で知られるようですが、東夷之遠酋・俘囚之上頭を自称する藤原氏のミイラ(中尊寺)との関連性も指摘されるとか(オホーツク文化圏でも北海道でもミイラ作りは行われないようです)。

樺太アイヌは北海道アイヌや千島アイヌとは異なる文化・伝統を有することで知られますが、ルーツは余市あたりのアイヌにあるとも言われるようです。大陸文化の影響で独自の文化を育んだ可能性もあると思いますが、千島アイヌ語に比べると比較的言語資料が多く残っているようです。南樺太がソ連に占拠されて以降は、北海道に移住したとか。山丹交易や蝦夷錦でも知られるようです。

樺太には他にウィルタ・ニヴフといった民族が先住しており、ウィルタがツングース系(満州系)で、ニヴフ(ギリヤーク)の話す言葉は系統不明で孤立した古シベリア諸語のひとつとされるようです(アイヌ語も系統不明で孤立した言語とされます)。ニヴフは道東オホーツク沿岸の海獣狩猟や漁労を中心とした異質の文化オホーツク文化の担い手と見る説も有力です。日本書紀にでてくる粛慎(みしはせ、あしはせ)はオホーツク文化人だという説も有力だとか(トビニタイ文化から擦文文化人(後のアイヌ)に吸収されたとも)。樺太探検で知られるのは徳川将軍家御庭番である間宮林蔵です。オホーツク海の流氷は有名ですが、氷結した沿海州アムール川の氷だということも知られますね。

千島アイヌ(ウルップ島以北のアイヌ)はより南のアイヌと異なる伝統を持っていたようですが、日本とは没交渉で謎が多いようです。進出は比較的遅かったとも。

ここで北東北のアイヌ語地名ですが、筆者はアイヌ語地名で疑いないと考えます(例えば、アイヌ語地名の日本語化の型(鏡味明克)が学問的かつ詳しいように思います。日本のアイヌ語研究の本格的創始者として知られる金田一京助も東北のアイヌ語地名を濃厚に発見したようです)。北海道と同じナイ地名が北東北にあって、その量が多ければアイヌ語でないと考える方が難しいものだと思います。これは北東北の沿岸部に限らず、沼宮内(ぬまくない)のような岩手北部や比内(ひない)のような秋田北部にも広がりますから、北海道のアイヌが来たというようなレベルの話ではなく、元々北東北に住んでいたと考える以外に説明はつかなそうです。

前述したように元々エミシがアイヌを呼んだという証拠はありませんが、畿内から見て東北あたりのまつろわぬ民=エミシの中にアイヌが含まれることは間違いないんだろうと思います。学説的にも7世紀以降の蝦夷について、アイヌとの連続性を認める説が有力だとされ、蝦夷に対し中央政府側に通訳がついていたそうで、アイヌ語系統の言葉を話していたと推定されているようです(宇野俊一ほか編「日本全史」講談社、1991年)。考古学的にも古墳時代の寒冷化に伴い、北海道の道央や道南地方を中心に栄えていた続縄文文化の担い手が東北地方北部を南下して仙台平野付近にまで達したとも。

蝦夷という漢字ですが、蝦(エビ)と夷に分けられるように思います。夷狄とは中国からみた周辺異民族を指す言葉で、蝦狄という宛て方もあったようですから、夷という漢字は見たままの意味なのでしょう。蝦(エビ)はエビ色の用例があり、和語の「えび」は、元々は(山)葡萄、あるいはその色のことだったのだそうです。樹木シリーズ58 ヤマブドウ(森と水の郷あきた)参照ですが、秋田の人やアイヌはブドウの皮を履物・袋・漁具等に利用したようですし(北海道のアイヌは、ヤマブドウの樹皮でシトカプ・ケリ(葡萄蔓の靴)と呼ばれる草鞋を編んで履いていた)(儀礼用の冠・サパンペも、ヤマブドウの樹皮を芯にして作る)、薄紫色に染めることを「葡萄染(えびぞめ)」というそうです。あるいはエビ色の異民族に見えたから蝦夷という漢字を宛てた可能性もあると思います。長野県北部にはヤマブドウを使った伝統の民間療法が残っており、茎をつぶして、虫刺され時に塗る。葉は噛んで蜂刺されに塗り、果実は貧血によいと言います。山葡萄は古名を「エビカズラ」(葡萄蔓)とも言い、あるいは縄文時代から山葡萄は利用されてきたのかもしれません。寒さやお酒による赤ら顔も関係あったかどうか。

漢字はともかく、エミシ・エビスは元々日本人からみて異民族を指したのでしょうが、語源はよく分かりません。用語としてはエミシの方が古いようです。エビスのエビはエビ色+衆の可能性もあるでしょうか。

余談になりますが、日本の異民族として南九州の熊襲や隼人も知られますが、熊襲は風土記では,球磨噌唹 (クマソオ) と連称されており、クマ(人吉盆地)+ソオ(大隅地方・鹿児島県東部)だったのでしょう。ソオはよく分かりませんが、クマは目の隈に近い意味でクマ川≒黒川といった意味かもしれませんし、曲川かもしれませんが、いずれにせよ日本全国に広がる一般的な地名のようです。付近で言えば阿蘇が麻生で一般的な地名のバリエーションの可能性もあると思います(関連して木曽はキソウで木が生えるところかもしれません。曽は本来ソウと読みます)。琉球王国は独自の歴史(書)を持ちますが、民族的(言語的)出自は日本で南九州も同様だろうと思います(海民が島に渡ったろうことを考えると、肥前・肥後と薩摩といった西回りが南西諸島と関係が深そうです)(廃藩置県で沖縄県になって以降、琉球民族というより、沖縄県民と見るべきだと考えます。フランスやイタリア・スペインも結構地域性があるらしいですが)。いずれにせよ、アイヌは縄文人の子孫であるにせよ、沖縄と違って系統関係が異なることに注意が必要だと思います。漢民族とモンゴルの関係が証明されないように、隣り合う民族が必ずしも近縁関係を証明できる訳ではありません(同じに分類される土器を使っていたからと言って同じ民族だと証明されません)。

鎌倉時代後期(14世紀)には、蝦夷(えぞ)は「渡党」、「日の本」、「唐子」に分かれ、渡党は和人と言葉が通じ、本州との交易に従事したという文献(諏訪大明神絵詞)が残っているそうです。蝦夷が北東北にいたことを踏まえると、渡党とは蝦夷地に渡ったエミシ(ゆえに和人と混交が進んでおり二言語を操る)かもしれませんし、渡島の蝦夷だったから渡党かもしれません。渡党=和人説もあるようですが、日本語を操るアイヌが次第に同化したと考える方が妥当のような気がします。

道南十二館(どうなんじゅうにたて)(内4つは史跡)は、蝦夷地渡島半島にあった和人領主層の館の総称ですが、渡党と共存していたようです(遺跡にアイヌの居住の跡も見られるようです)。秋田氏(旧・安東氏)から独立した花沢館主(上ノ国町上ノ国。上ノ国遺跡は中世都市とも言われるそうです)の蠣崎氏(糠部郡蠣崎(青森県むつ市川内町)と関係がある可能性も)が、後に松前氏になり、江戸時代の松前藩の蝦夷地支配に繋がるようです。

唐子(からこ)は日本人と接触の薄かった日本海側の(後の)(北海道以北の)アイヌを指すと思います。あるいは後の樺太アイヌが含まれるのでしょう。大陸との交易が古くからあったとも考えられ、ゆえに唐(から)という字が使われるのでしょう。樺太の語源は不明のようですが、唐子の唐、つまり大陸と関係ある可能性もあると思います。日ノ本は通常日本を指しますが、日本よりより東の地域ということで太平洋側のアイヌを日ノ本の呼んだと考えられます。東北地方も日本海側と太平洋側で結構文化が違うようですが、特に渡島半島の山は結構深い感じで(ヒグマも出るでしょうし)、海上交通が主体で日本海と太平洋岸という文化の分かれ方をしたんだろうと思います。ただ、道央あたりは日本海側と太平洋側の文化は繋がっていたかもしれません。いずれにせよ、いずれも日本から見た(日本が名づけた)呼称なのでしょう。

アイヌ文化で言えば、サイモンという神明裁判が行われていたようですが、これは日本の古代や室町時代の記録にも見られ、盟神探湯(くかたち、くかだち、くがたち)といううけいの一種であるようです。鉄器は交易で和人から手に入れていたようですが、アイヌ文化は独自の文化を保ちながらも、歴史的に隣り合う日本の影響もあったと考えられます。

チャシは諸説あるようですが、基本的には防御用の砦なのでしょう(コシャマインの戦いの戦いなどしばしば反乱は起こっています)。日本も山城が方々に山城が築かれましたし、沖縄においてはグスクが知られます。グスクは宗教的な場でもあったらしく、複合的な意味があったかもしれません。結局、統一的な国家が建設されるより先に日本人が支配した感じになるのは、人口希薄で日本以外の文明の地から遠い事情があったかもしれません。

ネットではアイヌ文化と左翼利権の関係性も指摘されますが、健全な発展を望みたいものです。アイヌ文化は樺太・千島・沿海州や東北・北海道の歴史にも関係が深く、それ自体価値があります。