瀬崎祐の本棚

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詩集「廃屋の月」 野木京子 (2024/03) 書誌子午線

2024-03-01 18:07:21 | 詩集
第6詩集か。113頁に32編を収める。

どの作品の話者も、自分が立っている地点に確かなものを求めているのにどこか不安定なのだ。そんな風に追い詰められたわたしに西日のなかで来てくれるものがいたり(「西日の神様」)、空の河原かどこかで逢ったことのある小さな子が話しかけてきたりする(「空の河原」)。こちらの世界にいるはずの話者なのだが、向こうの世界とも通じるものを持ってしまっているのかもしれない。向こうの世界を繊細に感じてしまうために、こちらの世界にいることが少しだけ不安なのかもしれない。

「翳りの息」にもそんな畏れの感覚がある。「渡っていくものから/翳りの破片が流れ出た」とはじまるのだが、その破片はどこかとの往還を繰り返すのだ。親を亡くした小さな子どもの声が聞こえ、

   亡くなったそのひとの姿かたちは
   わからないまま後の世へ流れ
   遺された子のなかで
   見えていたもの聞こえていたものも
   やがては消えてしまう

「廃屋の月」。夢の中で話者は詩を書くことの意味を問われ、答えを考える。迷ったあげくの答えは、「詩を書く意味とは/知らない廃庭か廃屋に入っていくことです」。そこから作品はふいに具体的な光景を差し出してくる。居酒屋浜秀は廃屋となっていて秀子さんももういないのだ。話者は、裏庭の古い井戸に落ちたものや落ちそうになっているものを拾いあげたいと思い、その最終部分は、

   人目があるので 新月の夜がいい
   井戸の深さがどれほどなのかも知らないけれど
   水面に落ち込んだかつての月明かりの断片なども
   秀子さんが昔飼っていた犬の鳴き声なども
   そこに沈んでいるような気がする

見事に美しい作品である。作品が美しいのは言葉が美しいからなのだが、それは美しい意味の言葉が使われているとか、言葉によってあらわされた作品の内容が美しいとかいうこととはいささか異なる。美しさはもっと根本的な部分にあって、言葉が正しい位置に置かれているといったようなことである。書かれた言葉の陰には書かれなかった言葉もあるわけだが、言葉から作品へと構造を持つ時に、それらの言葉は正しい位置になければ作品を支えることができない。正しい位置の言葉たちが正しく絡み合って作品が構築された時に、作品としての美しさがあらわれるのだろう。

「棄てられた声 裏山を越えたところ」、「窓辺」については詩誌発表時に簡単な紹介を書いている。
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