瀬崎祐の本棚

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雨期  68号  (2017/02)  埼玉

2017-03-23 21:18:32 | 「あ行」で始まる詩誌
 「姉(シーコ)の海」谷合吉重。
 あの東日本大震災のあとを思わせる風景に、病で逝った姉(シーコ)の姿が重なっている。それは二重写しになったモノクロ写真のように、静かに眼前に広がる。作者の中で重なり合った鎮魂の風景であろう。

   砂嘴に架かる松川浦の橋桁は落ち
   漁協の建物はコンクリートの柱だけを残して
   風に吹かれている
   その時刻よわい海からの光を受けると
   ヴェールに覆われた顔は消えて
   波間からうつしみが迫ってきた

 「(窓のむこう)」君野隆久。
 転居地にあったゴミ屋敷で、亡くなったはずの初老の男に会う物語。「詩人さん」と呼ばれていたその男との、すれ違うようなやりとりがどこかノスタルジックな雰囲気を作っている。話者はもう一人の自分と会話をしていたのかもしれない。

   詩があっただろう、だからってわけじゃないが
   おれは詩を書くのをやめてここに住んで
   廃品回収の仕事をはじめた
   毎晩ひとが寝静まったあとの街を歩いて
   あの粉々に飛び散った硝子のようなものを拾って集めたんだ

 「緑の靴」須永紀子。
 「エレナ・トゥタッチコワさんに」という副題がついている。エレナさんは写真家のようで、もしかすれば彼女の写真に触発されて生まれた作品かもしれない。話者は彼方を歩きつづけてここへ戻ってきたのだ。そして「不乱に草を抜くひとの/かたわらに立ち尽くす」のだ。まだこれからもわたしは帰りつづけなければならないのだろう。

   わたしは川への径を急いでいる
   藻の靴は時を待たない
   川に属する者に帰還をうながす
   夜が近づく

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詩集「鉄斎詩編」  倉田良成  (2017/02)  ワーズアウト

2017-03-19 21:37:07 | 詩集
 84頁に、すべて20行の行分け詩40編を収める。
 詩集タイトルからも判るように、各詩編は富岡鉄斎の画に触発されて書かれている。ただしあとがきによれば、詩の内容は鉄斎画の中の何かを具体化したものではなく、「鉄斎画と鉄斎詩編の関係はあくまでも自由だ」とのこと。
 はじめにお断りだが、私(瀬崎)には富岡鉄斎の絵の良さは判らない。したがって作者がどのように鉄斎画と向きあったかについては述べることはできず、単に詩についての感想を書くことになる。

 一般に絵や音楽、映画などに触発された作品では、その元の作品についての説明がある程度なされる。絵の場合は何が描かれているか、などだ。そのうえでそこから作者の世界を広げることになる。

   色色の邑の見取り図の彼方で
   おびただしい釣り竿が厳めしい細流に投げられて
   烈風のなか、しかし
   銀は、微動だにしない
                        (「渓流図」より)

 モチーフが自分の外部にあるため、作品で語られる言葉は熱くなることはない。あくまでも冷静さを保っている。いってみれば、自分の内側に逃げ込もうとはせずに、自分が書いた言葉とどこまでも向き合っている関係である。これは自分を見つめなおすときの有効な手段のひとつかもしれない。

   膝をくずして
   まひるまの白光を写す白描の
   うらがわの横顔は梅枝の鉤裂きに
   淋漓と泥んで、すでに
   花もない
                        (「山居図」より)

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詩的現代  20号  (2017/03)  群馬

2017-03-15 17:01:54 | 「さ行」で始まる詩誌
 今号の特集は荒川洋治。
 本人の詩作品「民報」や、詩集「北山十八間戸」からの同名作品も載っている。「これから思うこと」と題した一文では、「一編の詩を書くときは、その一編のなかで、自分がこれまでに行ったことのないことをしたい、という思いがあるからだ」と、至極当然のことを書いているのだが、「最初から自然に書く。ことばがことばであると見えないうちに書く。それはできないことなのだろうか。」といわれると、これにはなるほどと思ってしまう。

 荒川のかつての「娼婦論」や「水駅」「鎮西」に心惹かれた人の中には、その後の大きな転換に戸惑った人も少なくないのではないだろうか。特集では9編の荒川洋治論が載っており、彼の“転換地点”に言及しているものもある。

 愛敬浩一「荒川洋治論のために」では、「無意識な転換がまずあり、レトリックで武装する必要がなくなったとき、逆に、荒川洋治自身が生身の方をレトリックのように見せたということかもしれない。」として、「その時、荒川洋治は初めて、<時代>を少し読んだのかもしれない」と述べている。

 村島正浩「「娼婦論」の行方 現代詩作家荒川洋治の立ち位置」では、詩集「渡世」の作品に触れて、「この作品群は、詩は言葉に過ぎない、或いは過剰に言葉であるとの「娼婦論」の痕跡を残しながら、詩へと向かった作品である」と述べている。

 また髙橋英司「IQ下官も詩を書くぞ」は、くだけた口調でいながら、皮肉交じりにかなり鋭い点をついていた。

 詩作品では樋口武二「待ち人来たらず」。
 「或いは疾走する風景」との副題がつけられている。川べりの喫茶店で友人を待っていると、「疎遠だった叔父」や「尻尾を垂らした女」があらわれたりするのだ。

   待ちつづけることの意味は、とうの昔に失われ、煙草をふかす
   ひとも、痩せた狐のようなおんなも やがては遠い幻となって
   消えていくだけのことだ (略) 待つことは乾くことであり、
   失うことでもある

 夢と現実のあわいの風景が私を取りまいている。どちらの世界の風景に入り込めば私は存在し始めるのだろうか。それまでの私は、それこそ夢の中にいるような頼りなさで、何も信じることができずにいるほかはないのだろう。
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「花章 -ディヴェルティメント」  松尾真由美  (2017/02)  思潮社

2017-03-09 18:50:19 | 詩集
181頁。森美千代の写真に詩をつけるというコラボレーションで、ブログ上で発表されてきた85編がヴァイオレットの文字で収められている。36葉のヴァイオレットがかった単色で撮られた花の写真も添えられている。

   そのあたり
   悲鳴のところに
   白い花が咲いていて
   何かをもとめ
   何かをあきらめ
   漂泊の息苦しさを
   正午のように呷っている
                 (「濃霧の中の微かな花」より)

 矩形に切りとられた花の様子、それは膨らみ始めた花弁であったり、傾きかけた花の立ち位置であったりするのだが、それらの描写は、すぐにその花の姿に触発された松尾の想念にうねるように流れていく。

   赤い蕾と赤の開花
   変形を強要されても
   たぶんゆるやかな檻だから
   沈むか浮くか
   そんなところで
   すこしだけ
   熱い火となる
                 (「変形にあらがう花の」より)

 森が捉える花の形は、柔らかいフォルムでありながら、どこか無機質なものを連想させる。それは正しく時間が切りとられているからだろう。そして花はその瞬間の永遠の形として記録されている。松尾の詩は、その写真が切りとった時間から流れ始める。そのようにして、今度は言葉のなかで花の形が波立っていく。妖しげですらある。言葉はどこまでも花弁の奥にたたえられている蜜のありかを求めて深く沈んでいくようだ。

   やがて無防備な脈はくすんで
   花は花に囲いこまれ
   潰される一輪の花として
   漂って溺れていく
   いつかの夢の
   誤謬のもと
                 (「浮遊の儚い破れから」より)

 この詩集の作品は、おそらくは森の写真が先にあって生まれているのだろう。コラボレーションの形として、松尾の言葉に森が写真をつけると、どのような世界が構築されるのだろうか。
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回生  き号  (2017/02)  宮城

2017-03-08 21:54:59 | 「か行」で始まる詩誌
 小熊昭広の個人誌。B5版、35頁で、5人の寄稿者の作品も収めている。

「わたしが棄てた女」前澤ひとみ。
 病弱だった姉は、

   学校から帰ると、青白い顔をしてじっと横たわっていた
   姉は「ごめんね。」というと謝った
   何故謝るのか、分からなかった
   そのことを言うと「ごめんね。」とまた謝って
   力なく笑みを作った

 影の薄いそんな姉は看護婦さんになって帰ってくる。姉には父との屈折した情愛があったようで、病床の少年からのラブレターもをもらったりもする。暗い情念が絡みついてくるような作品。最終行でこの作品タイトルはあの遠藤周作の小説からとっていることが判る(映画にもなった)。

 「首の痛みについて」小熊昭広。
 奇妙な作品である。眠っている間にいきなり奈良のダイブツがやって来たのである。彼女は「私のベッドに行って/シーツの上で/雲が浮いて空を描」いたりする。ダイブツは会社にも箒を持って追いかけてくる。まるで執念深い女のようである。しかしダイブツなので、やはりジョウドを現出させるのである。この突拍子もない展開が想像力をかきたててくれる。最後は、

   時々、前屈みになると首が窮屈になるので
   後ろにそらすと、今度は息が吸えなくなります
   ダイブツが念仏を唱え始めました
   止めてくれとお願いしました

 「情報短信」という”日録”のような頁もある。日付とただ1行だけの記録の日もあるし、数頁にわたって展覧会の記事や詩集評が書かれていたりもする。
 拙個人誌「風都市」30号に発表した「雨を忘れる」(詩集「片耳の、芒」の最後に収めた)についての詳細な評も1頁半にわたって書いてくれている。”雨は、鯨が泣いているから降るのだ”という読みには、作者も、あ、そうだったのか、と感嘆した。感謝。
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タンブルウィード 1号 (2017/01) 神奈川

2017-03-03 17:57:59 | 「た行」で始まる詩誌
 神奈川在住の8人が集まった詩誌の創刊号。A4版、71頁で、今号には3人の寄稿者を迎えている。

 「Flower」河口夏実。
 5つのパートからなる行分け詩で、そこにはお茶を飲む”私たち”がいて、雲を眺めている”わたしたち”がいて、はなの夢を見る”私”がいて、バスから降りる”わたし”がいる。ついには話者は誰ともなく透明になっていく。見えるもの、聞こえるもの、触れるものも、水彩画のように揺れて色を淡くしていく。最終部分は、

   凍りつく鳥のこどもが
   肩に舞いおり
   列車は走り旅を続けてゆく
   メリークリスマス
   スカーレットリボンが無事にてのひらに届き
   着陸しますように

 ちなみに、この詩誌名は河口の同名作品からとられたとのこと。風が美しく吹き抜けている作品だった。その風に押されてタンブルウィードはどこまでころがっていくのか。

 「どろでもいいのにね」野木京子は寄稿作品。
 手のひらのうえで大事にしていた透き通った雨粒は「みじめで悲しげな泥の雨になってしまった」のだ。しかし、空っぽのの向かいの席に座っているような小さな子供は言うのだ、

   どろでもいいのにね
   どろには柔らかさもあたたかさもあって
   生きていくために必要な命ってやつが ぴくぴく動いている

 野木の作品にはときおり不思議な生き物が登場する。それは”ぽこぽこ”といって、外から自分を支えてくれるような存在のものだ。この作品の子共も同じような存在なのだろう。詩を書くことによってはじめてあらわれる、そんな子共だ。

 巻末には7人のエッセイも載っている。「弟」若尾儀武は釜山へ行ってきた話。
 その土地の風景や人に私は「ある種の惧れに近いものを」常に感じていたという。そして市場で「寒いよう、痛いようと言いながら、逃れる術のない境遇を何の当てもなく動き回っている悲嘆の集団のよう」な奇妙な生き物を見るのである。話者の抱えている鬱屈とした感情が見事に投影されている文章であった。
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森羅 2号 (2017/01) 東京

2017-03-01 17:16:15 | 詩集
 粕谷栄市、池井昌樹の二人誌。A4版、12頁で、きっちりと書かれた手書き文字が、どこか読み手に絡みついてくるような迫力を持っている。

 「晩年」粕谷栄市。
 「若し、私が、八十歳を幾つか超した老人だったら」と仮定した上で、その有り様を夢想している。しかし、その「大きな港町」の「路地裏の一軒家」に「独り暮らしをしている」という夢想は、話者の現実と裏表のように密接に付いているのだろう。そこで私は、「埠頭に近い橋の上で、大勢の女たちに、丸裸にされ、足蹴にされたあげく、汚い河に投げ込まれ」たりしている。

   この私が、実は、八十幾つかの老人なのかもしれない。
   思えば、悲しい事実である。
   いや、そうとばかりはいえない。むしろ、その逆だ。
   私は、恵まれて、天与の夢の晩年を生きている。

 夢を見ている私と、夢の中にいる私がいるわけだが、次第にその二人の私の区別は薄くなっていく。それは詩を書いている自分と、作品の中にいる自分が、いつしか見分けが付かなくなるようなことなのだろう。

 池井昌樹は8編を載せている。その中から「無事」。
 平仮名だけで書かれていて、作者独特の5音、7音のリズムを刻み、ときに6音が挟み込まれる。雨の朝に妻と連れだって出かけ、道ばたの女の子に声をかけると、消えてしまう。隣にいたはずの妻も消えてしまう。悲しくなった僕が、

   うちにもどれば
   なにごともなく
   つまがことこときざんでいて
   ぼくはすっかりうれしくなって
   こんやなんだい
   こえをかけたら
   つまはにっこりふりかえり
   なんだとおもう
   またことことときざみはじめた

 この何事もなかったかのような口ぶりは、そのまま、振り返る妻は実は異形のもので、何をきざんでいたのかと思うと・・・、といった不穏を孕んでいる。”無事”ということは、そんな不穏さに気づいても知らない素振りをすることによってはじめて得られるのかもしれない。
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詩集「空ものがたり」 佐伯桂子  (2017/03)  編集工房ノア

2017-02-23 18:21:11 | 詩集
 第4詩集。101頁に28編を収める。
「塔の上」は1連2行、10連の作品。懐かしい街を見下ろす塔のてっぺんに昇っている。そこは、風景とともに、これまで生きてきた時間も眺めわたすような場所なのだろう。

   もう共に居て温かいものを口に運ぶことは無いが
   夕空に煌めき始めた星を一つ二つと数えてみることは出来る

 わたしは風によってここまで押し上げられてきたのかもしれなくて、「汗して歩いた道のさまざまの/匂いが立ち昇って来る」ことも知っているのだ。ここまで昇ってきてしまったわたしはどこへ下りていくのだろうか。いや、ここまで昇ったからこそ、新たに下りていく場所が見つかるのかもしれない。

 生活の中で作者の周りにあらわれる事柄も作品の核になっていく。中ごろに収められている作品「今日の食事」では魚のアラを料理しているのだが、「切れそうで切れない」アラは、「固まった記憶/繋がった記憶」で自分のようだという。

   火にかけ
   甘辛く煮付け
   時間をかけて
   食べる

 作者にも、いつもわだかまっている何かがあるのだろう。それは柔らかくほぐれるまで時間をかけて、ゆっくりと自分が対峙しなければ乗り越えられないのだ。
 こうしてまったく背伸びをしない範囲の作品世界が作られていく。だからその世界はどれも確かな手触りをそなえている。
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SPACE  132号  (2017/01)  高知 

2017-02-21 18:06:00 | ローマ字で始まる詩誌
福島から宮崎までの全国からの26人の詩作品が掲載されている。それに5人の俳句や、エッセイなども載っている。

 「花水木の手紙」吉田義昭。
 長く結婚生活を送った町の舗道に沿って植えられていた花水木。高校の校庭など、これまでの人生のいろいろな場面で花水木は咲いていたのだ。そして、「妻が死んでから初めて見る花水木の花たち」は、

   その散り方が愛おしい。私に語りかけてくるようだ。どうして妻が
   生きていた去年の花と今年の花が違って見えるのか。私が変わっ
   たわけではない。花たちが変わったのだ。妻とよく歩いたこの道で、
   振り向いても誰もいない。

 なにも余分な言葉を付け加える必要のない作品である。散歩の際に、作者の方が奥さんよりも歩くのが少しだけ早かったのだろうかと、切ない想像もしてみたりする。月並みな言い方になるが、作者の優しさがゆっくりとにじみ出てくる。

 「その むこう」日原正彦。
 「そのむこうに」という言葉の、「その」にいろいろな言葉を当てはめている。たとえば、「真っ青な冬天に向かって突き刺したひとさしゆびの爪の先」とか「生きがたい と ついた 三角形のためいきの頂点」とか、である。すると、「その」という簡単な指示代名詞に世界を包含するような物語が秘められているような思いにとらわれてくる。このようにして、作者独特の、形而上的な思いを柔らかなイメージに変容させて差し出してくる作品。

   小鳥が飛び立ちます

   と
   「飛び立つ」が 飛び立ちます
   「その」
   「飛び立つ」は
   永遠の時間と空間のなかでただ一瞬のただ一つの「飛び立つ」であるのです

 「四季・折々」と題した日原の俳句16句から1句紹介しておく。

   夏帽子しずくのやうな目の揺るる
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地上十センチ  14号  (2017/02)  東京

2017-02-16 21:18:07 | 「た行」で始まる詩誌
 和田まさ子の個人誌。表紙には、いつも楽しいフィリップ・ジョルダーノの軽快で幻想的な絵。

 「髪を洗う」宿久理花子、は寄稿作品。
 浴室でゆうべ抜け落ちた髪の行方を探っている。ジョシであることを問い直しているのだが、その行為自体がとても不安気味だ。行末で終わる言葉かとみせて、その言葉は次行へと続いたりする。だから、読む呼吸、リズムが分断されたり、慌てて引き延ばされたりする。作品が孕んでいる不安定な気持ちが、その分断と継続で巧みに増幅されている。

   黒髪を洗うか
   のじょのいたいけ
   ない
   ろを好んだかってのあの指に、
   入念に梳かされたり巻かれたり
   擦りこまれたりはもうぜったいに
   されない黒髪は(以下、略)

 「抜けてくる」和田まさ子。
 板の上に積まれていたという「思想の杖」とは、いったい何だったのだろう。「年月はそのあたりに太い草を生やした」ともいうことだ。しかし、今はすべてが枯れきっている。とにかく話者はそんな場所へ来ているわけだ。ここへ来るだけの理由もあったのだろうし、もしかすれば目的もあったのかもしれない。でも、そんなことは説明しなくてもいいことだ。

   だれかが
   木でつくられた人型を通る
   待っていれば
   やがて来る
   壊れながら 抜けてくる
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