瀬崎祐の本棚

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詩集「園芸を噛む犬」  三好由美子  (2016/06)  詩遊社

2016-08-19 22:15:15 | 詩集
 99頁に31編を収める。
 作者は一年前から犬と話せるようになり、先月からは猫とも話せるようになったのだ。その替わりに「最近 人とうまく喋ることができない」のである(「犬のカウンセリング」)。ということで、詩集のすべての作品が飼い犬とのやりとりとなっている。
 「月あかり」は、遅くなって帰宅すると犬が尻尾を振って出迎えてくれる。しかしそれは「ごはんが欲しくて出迎えてくれた」ようだ。「わたしだってお腹が空いているんだよ/と呟」きながらドッグフードをやる。

   食事を終えた犬がわたしの耳許で
   ちゃんとがまんできたね
   おりこうさん
   と囁くと犬小屋へ入っていった

 こうして犬の視点を取り入れることによって、話者は自分を突き放して観ている。すると、人間世界の奇妙な点が見えてきたりもしている。
 「胃袋の哀しみ」では、犬が「ねえ、うちは貧乏なのかなあ」と呟く。食事が少ないし、ひもじい日々が続いている、という。しかしわたしは大食いのきみが病気になることを心配しているのだよ。

   ぼくが病気だなんて嘘ばっかり
   (略)
   それとも
   ぼくのことが嫌いで
   意地悪でごはんが少ないんだね
   そうなんだ
   なんてぼくは不幸な犬なんだろう

 わたしは家に入りこたつへ足を突っ込み溜息を吐くのである。この悪気のない気持ちのすれ違いが、心温かいような、しかしどこまでいっても少し虚しいようである。
 冨上芳秀の帯文によれば、作者の犬は先日、死んだとのこと。犬の視点を失った作者はこれからどのように世界を見つめていくのだろうか。
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詩集「雪ひとひら、ひとひらが妹のように思える日よ」  河口夏実 (2016/07)  書肆子午線

2016-08-17 18:45:40 | 詩集
 116頁に24編を収める。
 言葉が流れる水のようにまぶしい。冒頭の「花売りに恋して」、「箱」、「九月のうた」などは、視覚的にも言葉が流れているようだ。留めようとするものを拒否して、どんどんと流れていく。足元の不確かさが好い意味での軽さにもつながっている。

   九月になると
   澄みわたるランプの
   火を消して
   いくつもの夜を
   やり過ごしてきた
   私には
   どうしても会いにいきたい
   人がいる
   ゆうゆうと
   昇る
   大空のブランコの
   端に乗り

 こうして季節が移り、時間も跳んでいく。
「階下」は「洗濯機が、壊れてしまった」とはじまる。ベッドに潜りこんでいる私は「複数の/水のような/幽霊みたいなもの」と一緒にみずうみをさまよっているのだ。

   昨日
   大聖堂がある広場を、自転車でとおり過ぎるときに

   鉛筆で描かれているベンチを
   覆う
   空の一部が

   鳩の群れと欠けて、あたり一面に散らばっていた

 形づくられるイメージには透明感があり、この世界での重さを持っていないようにも感じられる。街の風景にもどこか夢の世界のような浮遊感があり、とても美しい。
 こうして作者の世界は書きとめられることによって変容していき、世界を支えている時間までもが失われていく。あまりの美しさが恐ろしくもあるようだ。”風”についての詩行を引いておく。

   コーヒーを沸かすと
   遠くの
   電話が鳴って、すごい風が吹く

あるいは、

   デコレーションケーキを焼き
   切り崩していくかのように風は吹き続ける
                      (いずれも「タンブルウィード」より)
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詩集「石のくずれ」  阿部嘉昭  (2016/07)  ミッドナイト・プレス

2016-08-12 21:33:46 | 詩集
 207頁に100編を収める。どの作品も見開き2頁以内に収まる長さの行分け詩。
 決して薄くはない詩集の頁を繰っていくと、平仮名表記の多い作品の言葉が次第に絡みあってきて、眩暈をおこさせるようであった。この柔らかいながらもずっしりとした質量感も作者が意図したものであるかもしれない。
 どの作品もきちんとした文章からなっていて、中途半端な詠嘆や感情表現とは無縁の端正な構造をしている。ただし主語と述語の間にさまざまな仕掛けのより所がもうけられていて、それが作品をうねらせている。
 たとえば13行からなる「傘」の中ほどの部分は、

   うしろの樹々との境すら不たしかに
   すべて星座めいておもえたので
   そこにたつといういいかたを
   そこからたつとおぼえかえながら
   しずくを吸うじぶんの眼が
   あの者の呼び名をふくみこみ

 陰影が大きくなり小さくなり、辿る詩行に絡みついてくる。
 「付託」の冒頭を紹介すると、

   かなしげというのは
   なにかのかたむきにおもえるが
   つねのあらわれでしかなく
   それですべてがかたむいている
   というかんがえがえられた

 拓卵を連想させる記述があって、それから最後は「とびたってゆくのちの霊鳥にも/かなしげがたくされていった」
 しかし、個々の作品で何があらわされているとかいった分析のようなものは、この詩集ではあまり意味を持たないだろうと思う。そうではなくて、詩集全体にあふれている言葉のうねりを感じることが大事であるだろう。詩集に収められた作品の言葉が、総体として石のように読み手に”くずれ”込んでくる。
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詩集「しゃぼん玉の時間」  禿慶子  (2016/06)  砂子屋書房

2016-08-07 11:06:06 | 詩集
 122頁に29編を収める。
 「あとがき」で、作者は「永いこと生きてきたと実感するようになった」とのことだが、そんな中にあって「詩は、私にとって別の、固有の時間を紡ぎ出してくれる」という。たしかにそれが詩を書いてきたことの効用のようなものだろう。
 「窓」。区切られた何かをつなぐものとして窓はあるのだろう。窓からは区切られた向こう側を見ることはできるが、いくら見えても向こう側へ行くことはできない。それは、見えているように思い出される記憶に触れることができないことに似ているのだろう。

   開かない窓の外側を
   使い捨ての今だけが流れていく
   たとえば 過去のあるとき
   ひなびたホームの先端に立って
   小さくハンカチを振るひとがいたとしても

 詩集タイトルの作品はないのだが、「休日」ではテラスでしゃぼん玉遊びをしている父子が詩われている。

   しゃぼん玉がこれほど
   単純な遊びだったろうか
   さしたる確認もなく
   飛び交う情報のように
   安易に繰り返される
   日常のような

 ここでは、一般には無邪気な遊びと思われがちなしゃぼん玉が、まるで生気を失った無表情の行為のように捉えられている。鋭い視線だと思える。やがて父親はぼんやりと空を見上げはじめ、「子どもは まだ/つまらなそうにしゃぼん玉を吹いていた」のである。
 ぼんやりしている父も、つまらなさそうな子どもも、作者の思いを反映している。先に引いた作者の言葉を思い返せば、そのような”しゃぼん玉の時間”があるからこそ書かれた詩作品なのだろう。

 後半には少し長めの散文詩が収められている。これらの詩篇は物語性を強く帯びており、読み応えのあるものだった。
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しるなす  5号  (2016/07)  神奈川

2016-08-04 19:27:14 | 「さ行」で始まる詩誌
「ギターケース」河口夏実。
 余分な表現を削ぎ落とした透明感が作品全体をおおっているが、それでいて、気持ちは捻れたもの、折れ曲がったものを孕んでいる。

   ビニールの傘に雨がぱらつき
   背の高い人と話しをしたのは
   もう昨日のこと
   花火が家に余り
   片方の靴の紐がほどけていた
   草が明るく透きとおる声がした

 風景は暑く乾いていて、それを引きうけている寂しさのような余韻も残る作品。

 「だめ」細田傳造。
 「ひろい講堂で/おなご先生におでこをはたかれた」という。何かのことで怒られた記憶が今も残っている。あのときに、怒られたことに納得できたのか、できなかったのか。

   川岸の木製のベンチに座って
   脳の隙間に侵入する風を慈しんで
   泣く
   うつくしい老人になって泣く

 この「うつくしい老人」になるところが印象的。ここでは混ざりもののない感情が巧みにあらわされている。最後は「硬質の風にそよぐ柳の枝が/裸の頭をなでる/だめだめ/さわさわ/と神がさわりにくる」。

 「クルセママ」谷合吉重。
 この作品は八代亜紀の演歌を想起させる「憎い、恋しい」というフレーズから始まり、夜の街を彷徨っている。カーキ色の青年は、

   ぼくはハンスですと答える
   わたしたちはおそらくあなたたちより
   はるかに革命的ですが
   はるかに脆弱なのです
   おお、ぼくらは彼らの敵だった

 作品タイトルの「クル・セ・ママ」というのはジョン・コルトレーンが1965年に録音した曲の名。アフリカの言葉の歌が大きくフューチャーされており、19分に及ぶ長尺の演奏だった。この詩作品からも黒い情念(これはしばしばマル・ウォルドロンの形容に使われたが)が伝わってくる。
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詩集「ベルリン詩編」  富岡悦子  (2016/06)  思潮社

2016-08-02 21:11:08 | 詩集
 114頁に、ベルリンの地を題材にした27編を収める。
 数編を除いたそれぞれの作品には、巻末に作者による補注が付いている。作品に註が必要かという議論は当然あるわけだが、この詩集ではやはり有用であると感じた。
 「体を入れる」は、2711基の石碑が並ぶホロコースト記念碑、その石碑の間に歩み入る作品。この場では、その歴史的事実の余りの重さにすべての思考が奪われてしまうのだろう。だから話者はただ「想起せよ/そして 記憶せよ」というほかはないのである。

   そびえたつ立方体に
   刻まれた空に
   鳥はいない
   記憶を刻むことは
   そこない続けることではないのか

 「躓きの石」。ベルリンに町の鋪道に埋め込まれた十センチ四方の金属板には、ナチ政権下で殺害された人の名が刻まれている。その人がかつて住んでいた場所に金属板はある。

   十センチ四方のプレートの奥に ない場所がある
   そこには 磨り減った靴を気遣うまなざしがあり
   一日を支える鞄があった
   奪われた人が切望した部屋の扉を
   私たちは無断で開き続けている

 たしかにその人がそこで暮らしていたのだということを、ここでも想起しなくてはならないわけだ。
 非常に硬質な肌触りの詩集。ベルリンの街が担ってきた、というよりも人によって担わされてきた歴史と、正面から向き合った詩集である。それは、これからの私たちの行く末を考える手がかりともなるものだろう。
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詩集「盲目」  為平澪  (2016/07)  土曜美術社出版販売

2016-07-27 23:06:17 | 詩集
 詩と思想新人賞叢書の1冊。110頁に27編を収める。
 「あとがき」には大きな活字でただ1行、「-この物語は虚構の形をした真実である。」と書かれている。前詩集「割れたトマト」でも、作者が社会生活を送るうえでの不自由さをかかえていることはうかがえた。本誌集でも私は街の光景の中で、それはすなわち他人が形づくるものなのだが、抗いつづけている。
 「私の中心」は、「今 私の中心に私はいない」と始まる。そして「私の真ん中」を探してスーパーのゴミ箱や彼とはぐれたバス停をさまよう。

   一生懸命探しまくった私の姿をみた彼は
   「予想以上に汚かったね」と、いうと
   私の中心をポケットから 取り出して目の前で
   嗤いながら 握り潰した

 この不様とさえ思える必死さを露わにしなければならないほどに、話者は抗っている。それは自分自身を規定するものに対してなのだろう。
  「レンタル長女」もすさまじい。ここにも、ある性に規定されてしまっていることへの抗いがある。

    真っ赤な月が出ています。アソコには、あなた方が望んだ長女がいるか
   もしれません。それとも、私が探している少女が、もしかしたら・・・。
    月が余りにも、赤いのです。まるで何かを裏切るように、空には反逆の
   目玉が光っています。

 ここには、自分を創り出した父母へ対する恨みと、それ故に同時に存在する依存が葛藤しているようだ。
 詩集を読み終えると、「あとがき」に書かれた1行があらためて作者から突きつけられてくる。
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生き事  11号  (2016/夏)  東京

2016-07-25 21:44:34 | 「あ行」で始まる詩誌
 「どこへ」坂多瑩子。
「風でとばされた/ぼうしを追っかけている赤毛の男」が窓の外をよぎっていったのだが、あたしのところには「ぼうしのほう」がやってきたのだ。台所は夜になり、ぼうしが言う、

   ずいぶん昔に
   お土産ですよって
   大叔母さんがくれたグリーンの表紙の本
   色の悪い花びらが舞っていて
   ぼうしがあご髭をはやしていた

 寓意があるような、そんなものはどこかに置いてきてしまっているような、そんな作品。軽い語り口が、どこかに棘のある童話を思わせる、そんな雰囲気の作品。もちろん赤毛男は「ゆくえふめい」なのだ。

 「あぶない人間」和田まさ子。 
 この通りでは地面から棘が出ていて、記憶を抜き取られるのだ。見知らぬ人が増えていつからかあぶなくなった。だからわたしは「隠れ場所を探す」のだ。

   スーパーマーケットの奥に鮮魚店
   隠れるのにちょうどいいから
   ときどき行く
   まだ人間だが
   人間もあぶないから
   いつか魚になるような気がする

 あぶないのは場所なのか。いや、あぶない場所などというものはなくて、あぶない人間だけがあるのだろう。

 「営団」廿楽順治。
 「ずいぶんとふるくなった営団へ」「蓑にくる」んだ妻を売りにいくのだ。そんなこんなで、営団地下鉄で都会の地下をさまよっているようだ。

   永田町では
   ちいさく息つぎをしていました
   もうひとに見せるような背中は育てないのさ
   (そりゃそうだ)
   営団はさびしいんだもの
                 (註:原文は下揃えである)

 詩行を書き写しながら、このイメージの跳び移り方に酔いしれてしまう。これはまるで、地上の道筋とはまったく異なる経路で土地を結びつけている地下鉄そのものではないか。
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詩集「碓氷」  田村雅之  (2016/06)  砂子屋書房

2016-07-22 09:33:20 | 詩集
 第12詩集。101頁に22編を収め、小池光と佐々木幹郎の栞が付く。
 いなくなってしまった女へ捧げている作品「待っているから」の一節を引く。蘊蓄を傾ける作者独特の書きっぷりに、やがてまとわりつき始めるものがある。俗な言い方になるが、情感があふれ出すと言っていいのかもしれない。

   山姥さがしに出かけたまま
   行方しれずの女
   蛍石のように戯れたりせず
   鳥総立(とぶさだて))に似た
   旗さしものを差しておくから
   是非に
   それを辿って帰ってきてほしい

栞で小池は作者の作品を「抒情的で、わかりやすく、愛唱性に富むフレーズを多々ちりばめている」と評している。どの作品にも流れているこの抒情性が何処から来ているのかといえば、彼の視線が常に過去を向いていることと無関係ではないと考えられる。彼の作品では、話者は頑なまでに未来を見ようとはしていない。今ですら、過去を見ることの繋がりとして認識されている。
 詩集タイトルである「碓氷へ」という作品。碓氷は作者の郷里であり、そこには「社や墓があるし/数百坪の土地や生家もまだある」のだ。その地は作者の気持ちが拠るところであるのだろう。迷いも不安もそこに立ち返ることによって見つめ直すこともできるような、そんな地であるのだろう。最終部分は、

   そろり玄関わきのくぐり戸を入ると
   お帰りなさい、と
   女が出迎えてくれた
   ところできみはいったい
   何者なのだ

 作者のルーツを背負ったようなこの女性の出現が効果的に作品を支えている。
 書き留めることによってすべては過去になる。こうして過去を検証し、そこを確かめることによって今の自分の立ち位置が露わになる。未来を言葉にするなどという野暮なことは田村雅之はしないのだ。
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詩集「sound & color」  高塚謙太郎  (2016/07)  七月堂

2016-07-16 21:28:20 | 詩集
 99頁に41編の行分け詩を収める。
 作品は平仮名が多用され、漢字はとても限定されて使われている。そのために視覚的に柔らかい感じを与えてくる。さらに表現は独白体で、うねるような柔らかいリズムが内在されている。
 「のどかに愛し」は21行の作品。「のどかに愛し/きのうあったこともうかんでいる」のだ。ぬるい湯に時間を越えて身をゆだねているような、気怠さともとれる穏やかさが満ちている。

   てをあわせならすしかないとおもうと
   えんえんとこえをならべて
   みているとえんえんとえんえんと
   とおく羽ばたいているほねのおとがきこえる
   たがいにひびきあってでもいるかのよう
   どんなにそらがせまいことか

 この作品でもそうなのだが、作者が詩っているのは状態や状況であり、ここでは事件は起きていない。そのために尖って突き刺してくるものではなく、どこまでも粘りながら絡みついてくるものが構築されている。
 絡みつくものは、日常の約束事からはわずかにずれながら差し出されてくるので、気がつくと読み手が座っている世界も、美しく少しずれたものとなっているのだ。
 「すずめ」は、おそらくはファッションとは無縁の「きたきりすずめのわたし」の独白。

   日々はいずれも部屋にあったし
   わたしは部屋でひねもすきたきりすずめ
   からだをあらためるときのみ
   ほうりだされる衣るいのなかで
   ひる寝をしたりテレビをみたりしている

 そんなわたしの「ふしぎにのどかなのどのなかから/うたがうまれて/ただただかなしいだけ/それだけ部屋にすわっている」。舌を切られていない雀からの語呂合わせのような地点から出発しながら、余韻のある詩(うた)にまでたどりついている。尋常ではない力業が、うわべはゆるやかに見える作品に込められている。
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