瀬崎祐の本棚

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地上十センチ  14号  (2017/02)  東京

2017-02-16 21:18:07 | 「た行」で始まる詩誌
 和田まさ子の個人誌。表紙には、いつも楽しいフィリップ・ジョルダーノの軽快で幻想的な絵。

 「髪を洗う」宿久理花子、は寄稿作品。
 浴室でゆうべ抜け落ちた髪の行方を探っている。ジョシであることを問い直しているのだが、その行為自体がとても不安気味だ。行末で終わる言葉かとみせて、その言葉は次行へと続いたりする。だから、読む呼吸、リズムが分断されたり、慌てて引き延ばされたりする。作品が孕んでいる不安定な気持ちが、その分断と継続で巧みに増幅されている。

   黒髪を洗うか
   のじょのいたいけ
   ない
   ろを好んだかってのあの指に、
   入念に梳かされたり巻かれたり
   擦りこまれたりはもうぜったいに
   されない黒髪は(以下、略)

 「抜けてくる」和田まさ子。
 板の上に積まれていたという「思想の杖」とは、いったい何だったのだろう。「年月はそのあたりに太い草を生やした」ともいうことだ。しかし、今はすべてが枯れきっている。とにかく話者はそんな場所へ来ているわけだ。ここへ来るだけの理由もあったのだろうし、もしかすれば目的もあったのかもしれない。でも、そんなことは説明しなくてもいいことだ。

   だれかが
   木でつくられた人型を通る
   待っていれば
   やがて来る
   壊れながら 抜けてくる
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詩集「今夜はいつもより星が多いみたいだ」  勝嶋啓太  (2017/01)  コールサック社

2017-02-14 18:35:32 | 詩集
 第4詩集。127頁に30編を収める。
文字は丸ゴチックで印字されていて、軽快な感じを与えている。語り口も普通を装った話し言葉風でさりげない。しかしそこには、苦笑いで何とか自分を励まそうとしている必死さが透いて見えるのだ。

 他者の間に紛れ込んでいる自分が何者であるのか、自問もしている。他者との関係が捻れていて、社会の中での自分の存在に不安があるのだろう。
 たとえば「待ち合わせ」では、私は駅前の犬の銅像の前で人を待っているのだが、誰と待ち合わせをしているのかが思い出せない。そして、待ち合わせの場所も時間も不確かなのだ。適当に目があった中年男に、僕が待ち合わせをした人でしょうか、と声をかけると、なんと、多分そうだという。

   この見ず知らずの中年男との
   (多分)久しぶりの再会を喜んだのだが
   私の前には 新たに
   この男と 一体 何の用件で待ち合わせしたのか?
   という問題が 立ちはだかっていたのだった

 私ばかりか、相手も同じ状況を抱えていたという、この脱力感が勝嶋作品の持ち味だが、同時に不気味な現代社会での人間関係の風刺にもなっている。本当に用事のある相手など、いるのだろうか、と。

 後半に収められている「ゴッホの小さな白い花」は、そんな作者の優しい一面がよくあらわれた作品。ゴッホ展で会場の人たちは、ヒマワリや糸杉の絵を「天才だ/スゴイスゴイと」感心しているのだが、その一方で「キチガイ になって自殺したんでしょ」とも言っているわけだ。片隅にひっそりと展示されている小さな絵には白い花が描かれていたのだが、それに目を留めた作者は、

   もしかしたら ゴッホは
   炎 や ひまわり じゃなくて
   ほんとうは
   この 小さな白い花 に
   なりたかったのかもしれない

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詩集「あのとき 冬の子どもたち」  峯沢典子  (2017/02)  七月堂

2017-02-10 18:35:54 | 詩集
 第3詩集。92頁に21編を収める。
 前詩集「ひかりの途上で」の感想に、「どのように詩えば自分の内側にあるものをそのままの形で取り出すことができるのか、そのことに繊細な感情を必死に沿わせているような言葉がつづられている」と私は書いた。 今回の詩集でも、そのように切実にとりだした言葉が美しい。

 たとえば「ガラス」。港町で話者は「生きてゆくことの遠さを/隠すように/潮風に包まれた部屋で休ん」でいる。おそらくは旅の途上にあるのだろう。夜明け前の窓ガラスはまだ暗く、吐きかける温かい息とそこに指で書きとめた言葉があったのだ。

   境界に触れた指に呼応してくれた 雪の
   熱さだけは
   いちにちを生きのびるための
   ひときれのパンとして残しておきたい と
   いまも 誓いのように思う

 ときおりあらわれる直喩をそのまま包み込むように、大きな暗喩が物語を形づくっている。部屋の中と外を分けているガラスをたどった指は、何か静かなものを探っていたのだろう。”誓い”はやがて”祈り”となり、作品は「祈りのかたちに/冬が/訪れる」と終わっていく。

 この詩集でも異国の地に在る作品が多い。気持ちが、定住の地ではない場所を求めているのだろう。寒い列車に乗っている父子を描いた「冬の子ども」も印象的な作品であった。

 詩集の後半から「回診前の窓」。わたしは腹部の手術を受けて、屋上に近い高さの病室にいる。そこからは屋上に干されたシーツが見え、「雨が乾けば 風をはらめる/たやすさがひとにもあることに」やっと気づいたりしている。間もなくの回診では術創からの抜糸がおこなわれるのだろう。

   これは 鍵をかけたあとなのか
   あけたあとなのか

   鍵を必要とした理由があったことすら
   もう思い出せないぐらい
   横たわって見る空は
   高くなっていた

 この作品にあるのは、ちょっとした自分の身体の変化による違和感なのだろう。その説明のつけられない感情がていねいに掬いとられている。
 (私事に関係するのだが、自分(瀬崎)にとっては慣れ親しんでしまった抜糸がこのように捉えられることに、新鮮な驚きを味わった。)

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詩集「チランジア」  赤木祐子  (2016/12)  港の人

2017-02-09 22:38:08 | 詩集
 111頁に35編を収める。藤井貞和の栞(詩折)が付く。
 詩集タイトルになっているチランジアは、根をもたずに葉から吸収する空気中の水分で育つ。そのために空気植物ともいわれている。そんなチランジアは「共同体も会話もない乾いた世界で意志を飛ばす」という一文が巻頭にある。

 前半の「dis-community」の章で描かれる家族像は、どこか薄ら寒いものを抱いている。家族の誰もが望んでいるわけではないのにその関係はどこか傾いている。
 たとえば「轢かれに行く」。わたしと弟は美容院の前で置き去りにされる。弟は一輪車に引っ掛けられ出血をする。そんな「わたしたち姉弟には/汚い色がついている」のだ。幼さの故か、他者との関係を疑うこともなくそのまま受けいれていて、そのうえでそこに生じる寒さを感じている。

   カラーとカットとセットを終えた母が来て
   置いていかれたときよりさらに薄汚れた
   わたしたち姉弟の前を通り過ぎる
   空の一点から飛んできた泣き声が
   母と傍観者たちが足踏みをする交差点に
   幾筋も深く突き刺さる
   一本のタイヤでは轢かれ方が足りない
   わたしたち姉弟も
   その中心点に向かって行く

 「非在階段」には家中のゴミを燃やす父がいる。父は「黙っていがみあう家族を」「火の力で清めたいのだ」。ここには親であること、そんな親の子供であることの寒い気持ちがある。その寒さは焔で温めることなどできないのだろうが。

   私という女の子をごみ箱に捨て家を出る
   私の破片は 次の日曜日に父が燃やしてくれるだろう

 後半の「dis-comuunication」の章の作品、「死ぬまで一緒に」は、「死ぬまで会えないので/あなたを呑みこんでしまいました」と始まる。そして、踏切を通過する電車のすべての座席にはあなたが座っているのだ。私の中のあなたは遮断機をくぐって無数のあなたが乗った電車にぶつかる。

   私の中のあなたがバラバラになって消えました
   なにごともなかったように大股で無数の線路を
   私は疲れもせずに
   横切って横切って横切って
   ひとかけらだけ残ったあなたの骸が
   頭蓋の片隅でいつまでもカラからと鳴っているのを
   気に留めることもなく
   死ぬまで横切って行きます

 ここにはいつまでも捉えられないあなたがいる。いつまでも私のものにならないあなたがいる。捉えるべきただ一人のあなたは幻影のようで、蜃気楼のようなあなたばかりが私にはあるのだろう。
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詩集「積雪前夜」  平井達也  (2016/12)  潮流出版社  

2017-02-03 22:03:28 | 詩集
 第2詩集。85頁に34編を収める。
 Ⅰ部の12編は、会社勤務の自分を第三者的にシニカルにながめている作品。題材は壁掛けカレンダーだったり、クリアホルダー、穴あけパンチだったりする。どれも他人に囲まれて仕事をしていくうえでの必需品である。こういったもので自分を武装して、他人と闘っているわけだ。

 たとえば「ネクタイ」で詩われる自分は、「茶色いネクタイにぶら下がって仕事」をしており、「ネクタイに引っ張られて/上司の席に行き叱られる」のだ。少し情けない自分の姿は自分の意志によるものではなく、何者かに操られた仮の自分の姿なのだと思い込もうとしているのかもしれない。

   シャツとネクタイの合わせ方がわからない
   色々な帳尻の合わせ方もわからない
   実は結び方が間違っているのかもしれない
   ネクタイは意地悪だから
   困っていても助けてくれることはない

 Ⅱ部は仕事から離れた自分個人の内面を探っており、散文詩も混じるⅢ部は社会の中にある自分を詩っている。
 「茹で麺」では、暮らしている街そのものが「何で取ったかわからないスープみたい」だという。いつも獣の臭いがして、暮らしは「安物の茹で麺のように絡まっている」のだ。この直接的な比喩が切実な思いをまっすぐに伝えてくる。自分はそのまま器の中の麺になり、揺らしたりされる。理不尽な状態に置かれている自分なのだが、それでもなお、もし器を壊されたら自分はそれまでだということを怖れてもいる。それが生きていることの必死さなのだろう。

   仕事帰りバーのカウンターに友だちと並ぶ。食欲も性欲
   もないけれど会えば金儲けの算段をする。私たちもスー
   プに浮かんだり沈んだりしている具の一片なのだろう。
   遠くない夜に溺れて家に帰れなくなる。

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虚の筏  18号  (2016/12)

2017-01-31 19:17:44 | 「さ行」で始まる詩誌
 上質のA3用紙1枚の詩誌。表裏それぞれ4段に組まれていて7人の作品が載っている。空きスペースには切手、玩具のポスト、蜜柑の蔕、ナットのカラー写真も添えられてお洒落さがある。

 「出口」坂多瑩子。
 寒い駅の構内。迷路のようになっていて、いつまでもここからは抜け出せないようなのだ。おそらく沢山の人があたりを歩いているのだろうけれども、彼らはみんなそれぞれの目的地をもっているのだろう。だからあたしには無縁の人たちばかりなのだろう。

   出口が
   またわからなくなって
   ショーウインドウをみると
   夏服で
   あのいやなわたしがいるじゃないか

 最終連は「さっさと/消えちまえ」。あたしが追いかけてくるそこは、いつまでもあたしばかりが澱んでいるような場所なのだろう。

 「{風になびく黄色の菜の花をベンチで・・・・・・}」たなかあきみつ。
 6行6連の作品。体温を失ったような無機質の言葉が読み手を襲う。描かれているのは黄色い菜の花なのだが、その背後には形而上的な空間が広がっているのだ。そのために、作品には読み手を跳ね返すような取っつきの悪さがある。しかしゆっくりと読み下しはじめると、味わいはいつまでも残って舌先を楽しませてくれる。

   花びらの形状が風の便りに歪んだ、これはしきりに
   空間のパレットからはみだす黄色の眩暈の研鑽につき
   菜の花は時限爆弾さながらの桜花ほどは散り急がない、
   その無音の在りようのコントラスト刃は思わずのけ反り、
   空中で各停止線を死守してたとえ散歩中であれ
   桜花の対空時間はパラドックスの毛足より長いだろう

 「etude四肆舞」池田康。
 4編の4行4連の形式の作品が載っている。タイトルはなく、ただ番号がふられている。連作で作られているのだろう。《84》は眼を詩っている。病んだ眼が暗闇を見たがるようになったという。見るための器官が見えないことを求めている。それはおそらく辛いことなのだろう。

   暗闇の海に眼球が漂う
   なにも見えないことが有難く
   どこに行くのだろうと不安になるが
   暗闇にそこもここもないのだ おそらく

 ついに眼球はどこかへ行ってしまい、「眼窩のさびしい港を/黒い波が洗っている」のだ。辛い。
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hotel 第二章  no.39  (2016/11)  千葉

2017-01-26 23:09:32 | ローマ字で始まる詩誌
 今号は「樹木・植物考」の特集をおこなっている。

 「カネノ ナルキ」川江一二三。
 観葉植物なのか、つい持ち帰ってしまった”カネノナルキ”。それは金野成樹という少年と重なり、家の片隅で成長し続ける。冨をもたらすのか、不吉なものを呼び寄せるのか、

   金の奇なる カネノナルキ 少年成樹
   隣家から母の呼ばわる声が矢印のかたちを成して響き 割れた
   わたしはブリキの如雨露をもったままその欠片をあびていた

 「ヘビイチゴ」海埜今日子。
 海埜は、いつもは自己のうちから湧いてくるものを丹念に書きとめる。そのためには外部と交流するための文法をも逸脱することも厭わない。しかし今作は通常の言語構造を保ちながら記述されている。それは作者の外部にあるものと対峙しているからだろう。

   パパはもう死にたいよ、父がやさしく、わたしにつぶやいたから、
   ヘビイチゴを差し出す。かなしげに父は笑っている。

 小さな赤い果実が思いを裏切って記憶から甦る。ここにあるのは、本当は毒などではなかったヘビイチゴが孕んでいるように思えた死であり、死んだ者への哀惜である。

   連鎖だ。写真が一枚もない、亡くなった父に会いたければ、鏡を見れ
   ばいい。しずかにわたしは、野原のようにわらうだろう。

 野村喜和夫のエッセイ「樹木狂」は、少年時代を想う衒いのない文章で楽しく読んだ。
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ピエ  17号  (2017/01)  北海道

2017-01-24 20:42:58 | 「は行」で始まる詩誌
 海東セラの個人誌。厚手の黄みがかったA4用紙を二つ折りにして重ねて20頁。黄色い毛糸で中綴じにしている。3人の寄稿者を迎えていて、本田征爾の水彩画2点も添えられる。

 「森の辺地とそのめぐり」松尾真由美。
 「いつもいつも果てしない森を求めていつもいつも入り口は」と始まる。言い切らない文章が彷徨いのように10連の散文詩の中を辿る。ときに「ひらら」とか「ひりひり」「がたがた」などの言葉が繰り返されて、森の中の道は途切れるように見えながらまたつづいていく。

   (略)とても静かな森は胎内の機微を保ちつついやつねに森の胎内はまもることの豊穣を抱え
   ていたのだった香しい花も咲かせていたのだった巡りくる芽吹きに備えてそっと吐息を
   はこぶ鳥もまた巡りきて

 「たてまし」海東セラ。
 「思想の宿り」である家は建て増しをされれば、その形が変わり、機能を分担する構造も変わる。ときには「いりぐちの手前にもうひとつ透明ないりぐちがつくられ」たりもする。「空想の渡り廊下をあるいて鍵のかからない自室にこもる」ことも出来るようになるのだ。これはわくわくするような空間の変化であり、

   ないものねだり。それもまたたてましの欲求のひとつか
   もしれず、かたちをうしなうとみせかけて、よりいっそ
   う執拗に、実はかたちに執着する家の先端が、こうして
   また、たてまされてゆきます

 限りなく建て増しを続ければ、それは永遠に出口にたどり着けない迷路を創り上げることになるのだろう。すばらしく幻惑の作品。
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詩集「標本帳」  岬多可子  (2017/01)  私家版

2017-01-20 19:36:30 | 詩集
 掌詩集と銘打ったA6版のちいさな詩集。きれいな紐で中綴じされた12頁。最初の1冊を除いて毎年元日に発行されていて、これが5冊目となる。
 連わけは異なるものの、作品はすべてが12行であり、1頁に1編を収めている。各作品にタイトルはなく、ローマ数字がふられている。年1冊の発行ということは、12編の作品は暦に拠っているのだろう。

「ⅲ」では、はまぐりの殻を寝床にして蜘蛛を育てている。果肉や貝肉を与え、

   二枚きっちりと合わせた貝殻を
   あぶらがみで包み
   肌着のあいだで温める

 でどうするかというと、「緑のうつくしくなった頃」に「たがいに闘わせる」のである。自分の体温を与えるほどに優しく育成したうえで、残酷に生存競争をさせている。静かな語り口が不気味な美しさを際立たせている。

 「ⅸ」は、縫い針を詩っている。剣のかたちをしていて、磁気をふくむと意志的な感じにもなる針なのだが、

   折れた錆びたのは鎮めて でも
   知らぬ間に減っているのもあって
   その行方のこと

 この最終行の先は何なのだろう。鋭い剣のかたちをなくしたりして本来の役目を終えたのになお形骸の一部をとどめるものは、どこへ消えていくのだろう。単に話者が見失っただけなのか、それとも針は意志的に消えていくのか。さて、人の場合はどうなのだろう。
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詩集「国境とJK」  尾崎守侑  (2016/11)  思潮社

2017-01-18 22:12:58 | 詩集
 第1詩集。97頁に21編を収める。福間健二、中尾太一の栞が付く。
 誰もがこの詩集タイトルには何らかの意外感を抱くのではないだろうか。しかし、なぜ、意外感を抱く?
 ”JK”という言葉は、おそらく10年後には意味が伝わらなくなっているだろう。その意味からはまさしく今という時によって支えられている言葉である。そして、”国境”。場所を現代の人為によって区切っている。このようにこの詩集タイトルは今という限定した時間と場所によって成り立つなにかを背負っている。このあまりの思い切りの良さが意外感をもたらしているのではないだろうか。

 作者にとっては不本意なことかも知れないのだが、作品は心地よく読めるものだった。とても素直なのであった。たとえば「れいこ」。

   れいこは南極だ あるいは北極 つめたい水をもった偏西風がカース
   テレオをぬらす朝 僕のれいこが世界の端と端で不適切に結ばれる 
   アンタゴニストが執拗にぼくを責める

 れいことの関係は嘘であったり愛であったりするのだろう。どれも本当のことであり、れいこがぼくを訪ねてくれるのかどうかは、訝しい。ぼくは、受け入れたいのに拒絶を選んでしまう不安定さで揺れている。それでは、アゴニストはぼくに何をするというのだろうか。

 大学生活に材を取った「純情三角」も、混じりけのない感情が渦を巻いているような作品。

   車の助手席からみあげた
   夏の大三角はまだ、瞬いていて
   運転手さん、その曲がり角
   そうその直角の部分で
   一直線にわたしを切り裂いてください

 心の揺れは、具体的な身体の現象に置きかえないと、いつまでも信じられるものにはならないのだろう。初々しいと言ってしまってもよいような澄んだ感覚が心地よいのだ。

この詩集のカバーも、まるで携帯小説集を思わせるようで見事だった。さて、JKは国境を越えてどこまでも歩いて行けるのだろうか。
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