瀬崎祐の本棚

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詩集「解体へ」  林嗣夫  (2016/06)  ふたば工房

2016-06-30 19:10:07 | 詩集
 91頁に16編を収める。
 巻頭に「なぜか追悼、辻井喬」と題した長めの詩が載っている。はじめに「一度も彼に会ったことがない」とある。それこそ”なぜか追悼”なのである。作品は辻井の発言を検証し、詩誌やTV番組の彼の追悼特集を検証する。そして彼の「自伝詩のためのエスキース」の一部を引用する。

   会ったこともない辻井喬になつかしさのようなものを感じ
   この長い詩もどきを書くことになったのは
   結局
   「詩に対する疑いがない」と評者から言われる
   そこのところだったのかもしれない

 なるほどなと思う。人を悼むのは気持ちの繋がりからであって、現実の付き合いの有無はうわべのことか。
 残りの作品は「庭にしゃがむ、畑に立つ」、「解体へ」の二つの章に分けられている。前者は、周囲の自然の風物にある生命を見つめている作品である。それは草木であったり、小さな生きものであったりするのだが、そのどこにでも驚きと優しさがある。
 「梅雨晴れ」は空を詩っている。空を「クウ」とか「カラ」と読んだらむなしいのだが、

   「ソラ」と呼んだら
   痛いほどの実在として 頭上にかかる
   わたしを
   地上に生み落とした大きさで

「解体へ」の章の作品は、故郷とそこに暮らした両親を詩っている。空き家になっていた父の家も解体されていくのだった。
 「新しい季節」の感想は詩誌発表時に書いている。
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詩集「猫の家」  辰巳友佳子  (2016/06)  詩遊社

2016-06-27 22:22:31 | 詩集
 第1詩集。99頁に29編を収める。装幀は上田寛子だが、これまでとはやや趣が変化している。
 作者は複数の猫と一緒に暮らし続けてきたようだ。老いた猫は姿を消し、新しい猫がまた加わり、常に猫の存在が日常に入り込んでいる。そうして、亡くなった猫は庭の草木の根元に葬られているようだ。
 そんな猫との共生が当たり前になりすぎると、少し奇妙なことも生じてくるのだろう。「猫の家」は、私たち夫婦が猫の住む家に居候をしている話。部屋持ちの猫たちはおもちゃを持っていたりするのだが、それは「私の長い髪だったりする」。猫は花が好きで白い蕾の椿がトイレにまで飾られたりしている。最終連は、

   トイレの戸を開けると
   ニャンといって猫が出てきて
   ゴロゴロと喉を鳴らしすり寄ってくる
   蕾は無残に転がっている
   いや
   血だらけの夫の目玉だった

 この詩集の面白いところは、このような猫との共生を離れたところから見ている醒めた意識が作品化されているところである。それが単に愛玩動物を詩っただけの詩集とは異なったものにしている。
 「回り灯籠」は、ブチネコが居すわった部屋の「ねんねのおばあちゃん」がぽっくり死んでしまう話。ドライアイス漬けとなったおばあちゃんの祭壇の回り灯籠をブチネコが回す。そしておばあちゃんの足にブチネコが飛びつき「コリコリと食む音」がして回り灯籠がクルクルキラキラとしているのである。

   夏が来てまた簀戸に替え
   盆が来る
   回り灯籠は
   足指を返せとまわりつづける

 猫嫌いの私(瀬崎)には、猫といえば妖怪猫しか思い浮かばない。
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詩集「空気の散歩」  吉田義昭  (2016/05)  洪水企画

2016-06-24 20:32:26 | 詩集
 93頁に散文詩20編を収める。副題に「2000~2015」とあるようにかなり長い期間で書かれている。
 あとがきで「物語性を重視し、音やリズムをあえて散文の中に閉じ込めてみようと思った」とある。作者はジャズ・シンガーとしての顔も持っている。その作者のリズムを封じようとした意識が面白い。
 Ⅰ章、Ⅲ章では、これまでの詩集でも登場していたガリレオがさまざまな科学的な実験をおこなったりする。そんな”科学”が心の中には論理から外れたものを生み出してくる。

   回転しているのに、どうして月は私たちに裏側を見せずに移動している
   のか。そう私が尋ねると、それが私の生き方と同じだからとガリレオは
   答えたが、私はそんな答えも好きではなかった
                          (「月の記憶」より)

 作者は教職を辞めた後に精神保健福祉士の資格を取っている。この詩集のⅡ章には、その経験に材をとった作品が並ぶ。「仮面うつ病」など、臨床心理学の症例のモノローグという形式を取っている。

   「病気になりたいかどうかは自分で決めてください」と、また笑われました。
   私だってどうしても幸福な病気になりたいと思う時があったのです。いや私
   の肉体なら、潔く老いても、本物の幸福な肉体に変わっていくと信じてみた
   かったのです。 
                          (「幸福感染症」より)

 ここにあらわされている症状は、人間の心理のさまざまな屈折のある部分が極端に突出したものであるだろう。だから、誰でもがこれらの症状の萌芽は隠し持っているのだろう。
 少し前に発行されていた詩誌「ここから」2号で、作者は「詩を書くだけの「ポエジー」なんて意味がない。ひとつの体験から「ポエジー」を抽出させるのではなく、これからは「ポエジー」のあるような体験を自ら見つけていきたいと思っている」と述べている。作者は、これからも作品を感情を抑制した方へ掘り下げていくのだろうか。
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詩集「漂う雌型」  白井知子  (2016/05)  思潮社

2016-06-21 17:58:17 | 詩集
 第5詩集。115頁に14編を収める。
 「Ⅰコーカサスの山竝」にはアゼルバイジャン、グルジア、アルメニアの地での物語が詩われる。旅人としての目ではなく、その地に住む者に成り代わっての独白となっている。土地に密着した物語を構築することにより、単なる紀行詩ではないものとなっている。
 「Ⅱ鬼子母神 ザクロのうた」では、女たちの受難が詩われる。それは、ジャワやニューギニア、そして日本、インドなどの地で語られるのだが、どの地にあっても伝承されて来た物語の裏には、おぞましいとも思えるような食物と生命の連環があったのだ。

   土に埋められている
   血の波がさらっていく さらって・・・・・・
   芋に 芋に生まれかわるから
   もう いいよね
   きっと これが「たましい」ということなのかもしれない
                      (「愛しのハイヌウェレ マヨ祭儀」より)

 「Ⅲ雌型」では血脈が詩われている。そこには、女性が母から受けつぎ娘に伝えていくものの生々しさがあった。

   「もぅ いいょ いいんだょ」
   あの窟の残響を抽きだし 蓮華手菩薩の幽愁にたゆたいながらのごとき寸刻の面差しで
   母はわたしを赦してくれたのだ
   生涯にあなたが見せたことのない半眼の微笑 そして愁い
   朱夏 娘への告別であった
                               (「朱夏の告別」より)

 部族の中で受けつがれていくもの、一族の中で受けつがれていくもの。それらは、どちらも個人の思惑を越えた次元でその個人を絡め取っている。その人の存在意義に関わっていることではあるのだろうが。
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GATE  22号  (2016/05)  千葉

2016-06-17 14:07:44 | ローマ字で始まる詩誌
 6人が集まり、46頁。
 「留守番の時」井川博年はゲスト作品。
 妻と子が出かけた家で一人で酒を飲みながらテレビを見ている。すると意識がかすみはじめたのか、自分が居る場所、居る時間が曖昧になり、「すべてのひとから取り残されたような」気分になり、

   大海原に投げだされ漂っているような
   宇宙にひとりきりになったような
   孤独といえないもっと深い不安そのもの

 そこへ家族が帰ってきて留守番は終わるのだが、話者は「それにしてもさっきの私は/何処(どこ)にいたのでしょう」と訝しがる。特別な事件が起きたわけでもないが、ちょっとだけ非日常だった時間を送った感覚が、よく伝わってきた。きっと、私はどこかへ行っていたのだろう。

 今号では、著明な詩と同じタイトルで同人が詩を書く、という企画もしている。
 生駒正明は石原吉郎の「葬式列車」のタイトルで書いている。
 卵を抱えて昔住んでいたアパートを訪ねるのである。

   かってたくさんの卵があったアパートには
   もうだれも住んでいない
   割れた卵の殻が
   骨壺に収まるのを
   待っているようだった

 この部分がなんとも美しい。私は「あんなに来たがっていた」部屋で、やはり卵を抱えているほかはないのだ。窓から見える電車は位牌のような卵を積んでいるのだろうか。

 塚本敏雄は荒川洋治の「あたらしいぞわたしは」である。
 居酒屋で会う岡本さんのところには、四年前に死んだ妻から今でも誕生日メールが届くという。

   返事は書いたのですか
   いいえ 後ろ姿ばかりが目について
   高みから落ちる水に濡れて
   花ばかりが零れるのです
   乗り換えに遅れぬようにとは
   思っているのですが

 死んだ人から新しく生まれたことを祝ってもらっていると、いつまでも死は近づきもせず、遠ざかりもしないようだ。岡本さんはいつまで生まれ変わり続けるのだろうか。
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詩集「163のかけら」  日原正彦  (2016/06)  ふたば工房

2016-06-15 17:25:26 | 詩集
 131頁。詩集タイトル通りに数行から20行程度の163編の断章が集められており、ただ番号だけがふられている。
 自分の外にひろがる世界と自分の中でうねる感情がその一瞬に同期したように、言葉が発せられている。それは、自分の内側で長いあいだ温められていたものが、そのときを得て出口を与えられたようでもあるし、またある場合には、ふいと外から自分の中へ訪れたものでもあるのだろう。

   12
   さびしい が 雲にもたれている
   かなしい が 雲によごれている
   さびしいかな のようにもたれている
   かなしいさび のようによごれている

   あかるい は 雲を飼っている
   あかるい の なかの かるい 雲は
   あおあおとした笑顔が大好きで
   明日
   ばっかり食べている

 どの作品も静かに横たえられるのだが、その底流にはすべての命が死に向かっていることを見つめている視線があるようだ。作品にあるのは、死に抗うことはなく、それを受けいれたところにある静かさだ。

   116
   午後からは 雨
   というような背中を見せて
   向こう側のホームのベンチに
   座っている人

   下り列車が入ってくる
   目は濡れているだろう

 ある作品では「詩は 自分という家に住んでいる/自分のことを書くものではなく/自分という家から出てゆく/自分のことを書くものだ」と言っている。いずれはこの世から出ていく自分を見つめているように思えてくる。
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詩集「灰家」  川上明日夫  (2016/05)  思潮社

2016-06-11 09:07:16 | 詩集
 第14詩集。102頁に17編を収めるが、1編を除いては作品タイトルに”灰”という言葉が使われている。
 ”灰”は炭水化物が燃え尽きた後に残るものだが、もちろんここでは人骨の灰であるだろう。このことからもわかるように、この詩集ではとても死が近いところにある。というよりも、死という行為、あるいはその後にひろがる死後の世界に至る覚悟のようなものが底に流れているようだ。

   人間の門をまがって
   手をつないで
   おだやかにさ
   お墓だって減っていったんだ
   魂だってさ減っていったんだ
               (「灰墓」より)

 そしてこの詩集は奇妙な感覚をもたらす。それは、いろいろな作品に同じ詩行や言葉が幾度となくあらわれることから生じている。たとえば、「身を粉にして魂になったよ/骨身を削って灰になった」という詩行は、「灰売り」、「灰花」、「灰の芽」、「灰雨」に出てくる。誰かが「お灯明を たしに やってくる」、あるいはそれに似た光景は「灰霊」、「灰墓」、「灰売り」、「灰岸」、「灰花」、「灰座」、「灰屋」に出てくる。「白骨草が咲きましたよ」との話しかけも幾度となくおこなわれている。

   お彼岸だから
   まだまだ 逢う人がいるらしい
   見知らぬ おかたが
   たまに
   お灯明を たしに やってくる

   死んだ後さ
        生きてるまえだったな
               (「灰屋」より)

 この詩集は全体で一つの作品であり、繰り返しあらわれる詩行は、その一つの作品の中でのリフレインなのだろう。何度も何度も同じ所をめぐりながら、次第に深く澱んだところへ下りていくようだ。
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画集「谷絵」  (2016/05)  iga

2016-06-09 19:41:15 | 詩集
 表紙に強烈な印象の「菊男」をあしらっているこの本は「谷敏行遺稿画集」であった。帯には「魔除けのように禍々しい。異端の画家」とある。
 谷敏行氏とは一面識もないのだが、2011年に43歳でお亡くなりになっていたことを知った。
 谷氏の絵は、阿賀猥氏の詩集「転生炸裂馬鹿地獄、割れて砕けて裂けて散るかも」の装幀や挿画で見ていた。ぐいぐいと刻まれた太い線描、その漫画的ともイラスト的ともとれる造形は、一度見た者に取り憑いてくるような迫力があった。
 この本は、編集にあたった阿賀猥氏が生前の谷氏と親交があった人たちとの座談を記録したものとなっている。
 「壁絵」の章では、花札の菊、桜、月の図柄を取り入れた「月男」、「桜男」、「月男」について語られている。3枚の絵は元々は「寿」と題した高さ2mのひとつの作品だったようだ。後にそれぞれ改変されたらしい。
 眼鏡や帽子、額に”寿”の文字を刻んだ男たちの眼が恐ろしい。彼らはそれぞれ挑戦的に、そして恨みがましく絵の中からこちらの世界を眺めているのだ。
 そのほか、笑っているのか、妄想に耽っているのかが判らない頭だけが異様に肥大した白ヤギ、仔ヤギ、黒ヤギ。なぜこんな絵をわざわざ描いたのだろうと思えるヒラメ。
 ある人には「見れば見るほど気分が悪くなる」「どの絵も体調が悪くなりそう」と言わさせている。そんな谷氏の絵はあとがきでも「見る人を弾き飛ばす絵、飾りたくない絵、魔除け、ゾッとするような絵」と評されている。
 それだけすごい絵であった。
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狼  28号  (2016/05)  神奈川

2016-06-02 21:55:08 | 「あ行」で始まる詩誌
 「春の暮れ方」鈴木正枝。
 「ひとり暮らしのゆうじん」がふいに肩をたたくのである。すると、私の中から涙がこぼれそうになるのである。器がいっぱいになっていたのに気づいていなかったのだ。

   ゆうじんの手からは微かに海の匂いがし
   その上に自分の手を重ねて
   どこかの国の童話を読んでいるような気持ちになりたい
   額をつき合わせ肩を抱き寄せながら
   同じ夢の中に入っていくために
   合図をかわして眼を閉じる

 柔らかな季節そのものが私の感情を、その優しさで揺り動かしている、そんな作品。捉えどころのない寂寥感とともに喜悦感も感じているようだ。

 「軌跡」颯木あやこ。
 「心/沼に沈んだ」と始まり、“心”がたどる軌跡が詩われている。沼の底では「わたしたちの昨日が 気絶して」おり、次に心は森に迷う。森の奥では「わたしたちの約束が 絡まっていた」のだ。そして心は蒼空に還り、

   翼の軌跡で傷ついた
   頂上には
   わたしたちの悲愴が かがやいていた

 なぜこのような彷徨が必要となったのかの説明はなく、ただ心の有り様だけを美しく伝えてくる。

 「自転車親子」石川厚志。
 単身赴任から週末に戻った父さんは、子供二人にせがまれて森の公園で貸し自転車に乗る。

   娘、振り返りながらゆく。息子、肩を左右に揺らしながらゆく。一所懸命にゆく。父さん、
   肩に暗闇乗せながら、その後ろをゆく。(略 息子は樹にぶつかりくちびるを切る)娘と
   息子と父さん、汗だくになりながら、沈む夕陽へ向かい、森の中を、ただひたすらにゆく。
   ゆく。

 助詞を省略しての情景描写が、切羽詰まった父さんの気持ちをあらわしているようだ。子供たちは意識しておらず、父さんは強く意識しているのだろうが、3人ともに切ない。

 巻末には、日本現代詩人会が今年4月からホームページではじめた詩の投稿欄の案内を掲載している。

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兆  170号  (2016/05)  高知

2016-05-29 21:17:11 | 「か行」で始まる詩誌
「瓢箪」小松弘愛。
 11連からなる散文詩だが、作品の中では話者の意識が自由闊達にうねっている。永井路子の女帝元正の小説を読みかけて、ふと書棚にぶら下がっている瓢箪を眺める。20年前に霊水を満たした瓢箪で、その横にはピエロの人形がぶら下がっている。また女帝元正のことを思い、やおら書棚の美術書で如拙の水墨画「瓢鮎図」を眺めている。このように飄々と意識が散歩をしている。どこまでも自由である。最終部分は、

   ところで、わたしに親しいのは、子供のとき竹藪に沿って流れる川
   に入り、ぬるぬるのナマズを手づかみにしたことである。

 「新しい季節」林嗣夫。
 落葉の中から袋状のものが出てきた。ひっくり返すとか細い手と足がたたまれている小さな蛙だったのだ。そのあまりの無防備な姿に話者は呟いている、

   自分を愛してくれるものの手を
   信じきっているかのように
   いや 愛そのものであるかのように

 それは赤子の無防備さにも通じるものであるだろう。話者は「この秘密の場所から/新しい季節が始まる」と感じている。大いなる自然の営みであるわけだ。

 「笑顔」清竹こう。
 昭太郎君のことが書かれている。高校生のときに家出をしたこともある彼は豆腐屋の後を継ぎ、食中毒を起こして自殺するのではないかと噂され、周りの反対を押し切ってかなり年上の女性と結婚し、

   昭太郎君は豆腐を油揚げを野こえ山こえ配達し
   最後に椿・笑顔の一枝を役場に届け
   毎朝 届けつづけ一人の娘が遺された さみどり薫るあどけない

 そして、昭太郎君は「亡き妻を想う」という詩集を出した。作品は叙事詩風に書かれているが、ここには昭太郎君の人生を暖かく眺めている話者がいる。読んでいる者も暖かく昭太郎君のことを思うことができる。
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