瀬崎祐の本棚

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詩集「ロックンロールは死んだらしいよ」  山崎修平  (2016/10)  思潮社

2016-12-08 22:18:59 | 詩集
 93頁、18編を収める。黒瀬珂瀾、中尾太一の栞が付く。
 あまり深刻な責任をとらされることのない言葉が乱舞している。そこには責任の所在などふりすてた自由さ、軽さがある。このように言葉を操ることは、ある程度の年齢を重ねてしまった者には真似の出来ないこととなる。しかし、その軽さが作者を苦しめてもいるように感じられる。責任を放棄することは、代わりにまた大きなものを引きうける決意が必要なのだろう。
 巻頭の「乾期のみ客を受け入れる街の隅に置かれた毛布はひとつの哲学」の最終連は、

   甘くわずかに酸っぱい匂いを放ちながら人に違いない生き物と
   僕らは感情や昨日の虹の断裂について語った
   そのときすべての間違いなくすべての祝福を受けて
   君をちいさな異世界のよく動く生き物だと思った
   そして花を手渡すひとつの誠意となる朝

 作中にあらわれるように実際に作者が楽器演奏者なのかどうかは知らないのだが、紡ぎ出される言葉はリズムをもっている。対峙しているものとのセッションをしていると言ってもいい。それは散文型で街中に在る自分を捉えている作品「映写技師は自転車が好き」でも同様だ。

   二回目の橋を渡るころにはすっかり動物になりながら水筒と動く歩道と照明写真
   と古書店店主のことを忘れずに書き記したあとにヘンデルを薄く流す。もう犬は
   驚きはしないこの部屋にわたしがいることを

 若さがそれのみで詩となりうるのかとも考えてみる。若さゆえに見えるものがあり、弾むことのできる距離があることは確かだ。ただそれが詩になるためには、その見えたもの、弾んだ距離から、若さゆえのものを消去したあとに残るものが何か、ということを考えなければならないだろう。たとえば作品「ぬるい春」の次のフレーズなどは、その点からは若干の不満があった。

   つまり僕や君のすべてを台無しにしてしまうような
   甘ったれた覚悟のことだ

    ***

   あぶく銭で食べる炭水化物
   でも、やっぱり好きなのだと思う
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二兎  7号  (2016/11)  神奈川

2016-12-06 18:25:19 | 「な行」で始まる詩誌
 女性6人が集まり、年に1回の発行。30頁
 毎号テーマがあり、各自がそのテーマに沿った作品とエッセーを載せている。今号のテーマは「昼下がりのお客」。

 「しっぽ」中井ひさ子。
歩道に毛並みのいい尻尾が落ちているのだ。犬のものか、それともキツネのものか。尻尾を振りすぎて落としたのかも知れないのだが、尻尾はうれしい時に振るのか、それともさびしい時に振るのか。

   さびしさに気づいたら
   もっと
   さびしくなって
   尻尾になってしまったか

 それは、捉えどころがないぼんやりとした感情なのだろう。何が哀しいというわけでもないのに、それでもさびしいのだろう。自分でも原因が判らない感情なので、かえって戸惑ってしまうようだ。最終連はただ1行、「尻尾はわたしか」。上手い。

 「次の夜に」坂多瑩子。
 あたしは大きな男とすれちがい、その背中は昼になっても夕方になっても見えていて、まるで森のようなのだ。

   (さがさなければ
   (さがすってなにを
   兄と妹のちいさなふたりが
   あたしを追いぬいていく

 ヘンゼルとグレーテルを思わせるような兄妹だが、何をさがして森の中へ入っていくのだろうか。最後は、「ちいさなふたりが/(さようなら/といっている」のだ。森のような夜は、こうして何かを毎日行方不明にするように呑み込むのだろう。そして、さがされるものを呑み込んだまま、夜は明日も訪れるのだろう。

 エッセーは各自が見開き2頁に書いているのだが、それはエッセーというよりも掌編小説か童話といった内容となっている。佐藤真理子の眠り姫を描いた「十五夜のお客様」、絹川早苗の小さな女の子を描いた「仮ぐらしのアリエッティ」など、楽しく読んだ。
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詩集「暁を踏み割ってゆく」  そらしといろ  (2016/11)  ふらんす堂

2016-12-02 21:48:12 | 詩集
 おそらく第2詩集。114頁に21編を収める。
 どの作品も10の短い断章から成っている。各章は途切れるようでいながら少し跳んでは続いていく。そこでは不安定な感情が揺れている。その自分では押さえられない揺れが、発語する時に断章の形式を取っているようだ。

   缶詰にされた
   アルバムを切り分けて
   層の食感を楽しみ
   セピア色に染まった舌
              (「透明光速」6)

 それぞれの作品は、取り止めもない想念が軽やかな肌触りで差し出されてくる。そこにあらわれるのは、生存するために何かに意識を集中してそこから必死に言葉を現出させた言葉ではなく、生存そのものから自ずから現出してくる言葉である。作者は、それらの言葉をていねいに選び取って作品を形づくっている。それゆえに、この詩集の作品は、直接的な作者の精神作用の記録になっているともいえるだろう。

   針金ハンガーは死んで
   いないお前の
   骨として庭で焼く
   幽霊の足音を拾う
   神経は抜いて線香にしよう
              (「食べるより先に、住むより先に」5より)

 前詩集「フラット」では、学食で私の身体をナポリタンとして食べてくれという、ブラックで衝撃的な作品を書いた作者だが、今回の詩集の口調は静かである。しかしそれは、不安定に揺れているものがそれだけ多い、ということでもあるのだろう。
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森羅 1号 (2016/10) 東京

2016-11-30 22:22:23 | 詩集
 粕谷栄市、池井昌樹の二人誌の創刊号。B5版、12頁で、印刷は勝手のガリ版を思わせるきれいな手書き文字。独特の風情がある。

 粕谷は「象のはなし」、「死んでいる猿」の2編を載せているのだが、どちらも死に関わる主題である。まるで、一つの普遍的な死を二つの方向から眺めているようだ。
 「象のはなし」。悩みのある人が自分を慰めることとして「象を飼うことにした。もちろん、自分だけに見える、手のひらに乗るほどの小さい象」である。彼は小さな象と一緒に僅かなひとときながら楽しい時間を過ごし、それから象と一緒に高い屋上から飛び降りたのである。

   心に深い悩みを持つ者は、他人の知らない別の世界で、
   何度でも、笑いながら、楽しく死ぬことも出来るので
   ある。

 次の「死んでいる猿」は、仄暗い部屋のなかで首に縄を巻かれて宙吊りにされた猿が詩われている。しかし、こんなことは、あってはならないことなのだ。

   かりにあったとしても、何かに追い詰められ、深い悩みに
   打ち拉しがれている男の夢のなかでのことだ。

 死は、人間のどのあたりにあるのだろうかと思わせる。はじめから生などというものはなくて、すべては死んだ人が見ている夢かもしれないとさえ思えてくる。

 池井は4編の散文詩を載せている。どの作品もきっちりとした矩形に収められている。
 「いつも」は、捻れた時間での物語。六郎は妻をアパートに残し急に思い立って故郷を訪ねる。その地で彼は仕事をして、孫も曾孫も生まれたりする。白寿を迎えた彼は急に妻のことを思いだして、昔のままの町を訪れる。

   いまははや、誰住まうとも知れぬ部屋の呼び
   鈴を、矢も楯もたまらずに押せば木扉が開き、
   おかえんなさい、おそかったのね。妻が迎え
   てくれるのだ、何時ものように。

 どちらの地で、どちらの時間を送った自分が本当の自分だったのだろうか。いや、どのように時間を送ったらその人は生きたことになるのだろうか。そんなことを考えさせられる作品だが、別の時間の世界に行ったまま帰ってこない人もいるに違いないとも思えてくる。
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詩集「未知への逸脱のために」  伊藤浩子  (2016/10)  思潮社

2016-11-27 23:24:06 | 詩集
 161頁の大冊に23編を収める。神山睦美、野村貴和夫の栞が付く。
 内容は4つのパートに分かれており、それぞれのパートの扉には、ヴァルター・ベンヤミン、ジャック・ラカン、野矢茂樹、ジャック・デリダといったドイツ、フランス、日本の哲学者の一文が引用されている。
 はじめのパートの「日々の痕跡」は4つの作品からなり、それぞれは6行の節が11ずつ集まったものとなっている。しっかりと構成されているのだが、《モード》からの1節は、

   5
   頭を擡げて眺めやった世界のひとつひとつに
   名前をつけていく
   あれは初めてのもの、これも初めてのものと
   ああ、だけどこの風はどこからどこまでが
   初めてなのだろう
   落ち窪んだ自分の影と迫りくる夕闇

2番目のパートの「有刺鉄線の夏」は、「いったい何に追われ、ここまで歩いてきたのだろう」とはじまる。辿りついたそこは過去の死ばかりが積み重なっているような場所だ。

   水のない清潔なままのプールの、
   監視台からの無数の視線、はしゃぎまわる呼び声、
   すべて背後に、いまでも抱き合っている。

   青空、生に埋め込まれ、失われた生を慰藉しつつ、

 このように、はじめの2つのパートの作品は感覚的である。しかし、この詩集の半分以上を占める後半の2つのパートは非常に物語的である。登場人物たちはきっちりと物語での役目を果たし、会話も通常の小説のように挟み込まれてくる。小説との境界などというものを意識もしていないようだ。
 物語は寓意性に裏打ちされていて、奇妙な家族関係であったり、風になるための旅だったりする。さらに「異譚審問」、「女人結界」では、小説の方向に向かったものの、あまりに小説の枠組みを突きぬけてしまったために、いつしかふたたび詩の方へ戻ってきてしまっているようだった。当然のことながら、これらの作品は部分的な引用は意味をなさないものとなっている。
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密室の惑星へ  浜江順子  (2016/09)  思潮社

2016-11-24 18:03:14 | 詩集
 第7詩集。125頁に25編を収める。天沢退二郎の栞が付く。
 行分け詩と散文詩が絡まり合いながら一冊の詩集となっているのだが、どちらの詩型でも夥しい言葉の群れが読み手を襲ってくる。おそらく作者はひどく苛立っているのだろう。
 「密室の惑星へ」も濃密な描写である。描かれるのは、それこそ閉じ込められた空間(この惑星というのは当然地球のことだ)での行動なのだが、その行動の目的も意味も空回りしているようだ。

   密室での戦いは音も吸い取られ、悲しみも繊維状にされ、まるで戦争の体を
   成さないが、戦争であることに変わりはなく、カサブランカのように純白を
   誇っているが、実はそれが汚れたなれの果ての色であることは、ここにいる
   者はみんな知っている。

 見えるものも意味を失っており、ただ黴臭い匂いだけが濃密にこの星を満たしている。
 作品タイトルにもなっている「泥眼」は、菩薩にも女性の生霊にも用いられる能面のこと。私も、私が対峙しているあなたも、そんな面をつけているのだろう。

   私の目がふさがれ
   あなたを憎む気はないと言っても
   下から伸びる蔓が「それは嘘だ」と言っていることは
   土のひとかけ
   あの空の月のひとかけも知っていることなのです

 自分の中に在るもの、自分が必死に抱えているものを、どのようにして取り出したらよいのか、どのような形で他者に見せればよいのか。作者にはあるのはそんな苛立ちなのだろう。そのための発語なのだろう。
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ERA 第三次7号 (2016/09) 東京

2016-11-20 22:48:40 | ローマ字で始まる詩誌
 「昏い陽」井出ひとみ。
 「夏の陽が傾きかか」る頃に「ひっそりと逝ったものの 吐息」を受け止めている。

   夏の夕刻に埋葬された
   寂しい骨が
   右の耳介のなかで音をたてる

 その音を聞いているわたしも「いつかは寂しい骨になって/残されたものの耳に鳴る」のだ。死を詩っているのだが気持ちは決して暗くはない。死を受け止める気持ちが凜とあるからだろう。

 「オルガンの日」北原千代。

   ゆうべ天使が
   鍵盤のささくれに羽根をひっかけて
   おだいじにね と言った
   毀れつつあるらしいわたしのオルガン
   そういえばきのうもおとといもちいさな風に刺された

 かってはそのオルガンを使っていくらでも生み出せたメロディがあった。古くなっていくオルガンだが、まだ毀れてはいない。それが自分の肉体とシンクロしている。おそらくはこんな風になったオルガンだからこそ生まれるメロディもあるのだろう。最終部分は、「かるくなった髪がすこし揺れているでしょう/ふかいところが鳴動している」

 「蝶が孵る時わけはあるのか?」吉野令子。
 平仮名が多用され、句読点もないために、否応なしにゆっくりと読まされる。するとリズムが感じられてくる。 

   かけらつまりはのかげのかげがおしてはたた
   きおしてはたたきしつづけたとびらは幽かな
   きしみしんどうをたてることがないままに 
   けれどかけらつまりはのかげはふかしのげん
   じつのとびらにそなえもったじゅういっぽん
   のゆびすべてをかけつづけた

 迷路を辿るような快感もあり、「かけらつまりはのかげ」というリフレインがあたりをほのかに照らしてくれる。あけられることのないもんは「ぐどんでひんそうなひと」のためのものだったというのだが、とびらは「今日」「再び新たに」わたしの前に現れたのだろう。 
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詩集「空閑風景」  齋藤恵美子  (2016/10)  思潮社

2016-11-16 21:37:30 | 詩集
 102頁に23編を収める。
 たとえば「コンケラー・レイド」という紙の名をタイトルにした作品。

   巨視的なロードマップに、触れまいとして手繰る画像の、もう一度、
   針のような尖端に似た盲点の、白に眩んで、すでに、昨日の、表象で
   しかない君の声が、灰暗い透き間にうまれ、散らされたまま消え去っ
   た。

 ここに描かれる風景にはどこにも人が居ない。いや、いるのかもしれないのだが、その人たちは電波塔や自販機と同じような存在でしかない。そこにただ“君”がいたのだが、いまはすでに、話者が話しかけることも手を振ることもできないものとして存在しているようだ。”君”はすでにモノクロの風景に溶けこんでしまったようだ。
 行分け詩の場合も、基本的には主語と述語をそなえた文章として書かれている。そのために、とても端正な居ずまいである。記述には曖昧にごまかした部分がなく、感情の最後までを見つめきっているようだ。いや、感情までもぎりぎりに削りとって、その奥にあるものを取り出そうとしているようだ。
「旅跡図」は、険しい山道を「ひかる名前を呼びながら」たどっている作品。誰かとともに行くはずだった行程を一人でたどり、その誰かの存在がないことを確かめてもいるようだ。死がひっそりと裏側に潜んでいるような気配も感じられる作品。最終部分は、

   炎を、まぬがれた空洞で
   生き延びたまま、瞳が、いま、光源のように見ひらかれ
   すでに、記憶ごと潰えたはずの、頭蓋の
   裏側を照らしだす。その日から、身のかたわらに
   消滅のための、白い箱---

   灰にも、肉体があるかのように、明け方、やわらかく指でふれた

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くり屋 71号  (2016)  広島

2016-11-12 18:05:07 | 「か行」で始まる詩誌
木村恭子の個人誌。B6版12頁に寄稿作品2編、木村の作品2編をのせる。

 「叙情」秋島芳恵は寄稿作品。
 抽象的なタイトルだが、過ぎゆく夏の余韻を感じている作品。夏の間に何があったのか、それによって私の何が変わったのか、それが具体的に語られることはないが、残された感情が確かに在るのだろう。

   いつの間に出来たのか
   覚えのない傷口から
   運命のような切れ切れの
   声が流れ出る

 その声は私自身にも意味を捉えることができないようなものなのだろう。ただ夏が過ぎたことによって生じた音のようなものなのだろう。

 「豆」木村恭子。
夫に届けるお弁当を持って山道を歩く夢を見ていたのだ。私が遅れているのは、やっと見つけた豆を煮ていたからなのだ。そして目覚めると、舌先に小さな豆のようなものに触れるのだ。もしかすれば、それは夢のなかから持ってきてしまった豆なのかもしれないのだが、

   この豆粒のようなものは 「いいよ」という子供の声のような気
   もします 目覚める前に 「ごめんね」と私が言っていたようで
   したから

   いいえ 「ごめんね」と私の母がそう言っていたようでしたから

 静かな説明はどこかちぐはぐで、そのちぐはぐになることがなんでもないことであるかのような口ぶりが、なんだか寂しい。
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詩集「そこに月があったということに」  鈴木正枝  (2016/10)  書肆子午線

2016-11-10 22:11:34 | 詩集
 第2詩集。106頁に26編を収める。
 静かな語り口の作品には情感がにじみ出てきている。たとえば「去りゆくもの」。コーヒー店の大きな窓からは京浜急行品川行きの電車がひっきりなしに見えたようなのだ。その店の、その席でKと会っていたのだ。「Kは/その年の暮に死」に、

   品川行最終電車は
   あの窓を通過し
   思い出をふりかざして
   今でも毎晩一度だけ
   私に向かって
   疾走してくる

 たしかに去って行ってしまったものが再び疾走してくる幻が、切ない。
 「一枚の斎藤」も印象的な作品。古い写真に斎藤と私が並んで写っている。あのとき斎藤は皆にはやされて笑わされたのだ。もしかすれば二人は幼い恋人同士だったのかもしれない。その笑い顔のままで何十年もが過ぎて、

   一枚になってしまったままの
   もういない斎藤は
   今ではむしろ風のような率直さで
   ひらりと私の手のなかに在る

 また、表面的には具体的な事柄が平易に記されているようなのに、それにまとわりついている気持ちが次第にどこか捻れてくる作品もある。いわば、形而上のことがらを形而下のものの姿を借りてあらわしているようなのだ。
 たとえば「いえの構造」。ドアを開けていえに帰ると、「お帰り と言う人が/中にはいる」のだが、それは本当は人ではなく、いえに帰ったという概念なのだろう。だから「一人ずつばらばらに/呼び出す人」も「外にはいるらしい」のだ。

   中にいて
   お帰り と言う人は
   いつ外に帰って行くのだろう
   いえ中が薄い眠りに包まれた時
   呼び出されなくても
   ひとり外の夜にでていくのだ

 いえは、帰るべき場所なのか、それとも安らぐ感情そのものなのか。外の夜にでていくのは、いえの中にはいることができない私の中のもう一人の私なのかもしれない。
 「りんご園」については詩誌発表時に感想を書いている。
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