瀬崎祐の本棚

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詩集「野のひかり」  小網恵子  (2016/08)  水仁舎

2016-09-28 21:07:52 | 詩集
 水仁舎の美しい装丁の詩集。B5変型、仮綴じ、三方チリ付き小口折装。43頁に、13編の行分け詩と7編の散文詩を収める。
「野」の第一連は、「あの人が喋ると/ねこじゃらしが揺れる/相槌をうちながら/風の方向を感じていた」。作品の始まりはこうでなくてはいけないと思わされる。なんの戸惑いもなく、すでに始まっている物語に静かに入り込んでいく。それは充分に物語が自分に満ちてから言葉をはじめているからだろう。

   食卓に座れば
   いつもわたしに向かって
   風は流れる
   風下に風下に
   種は飛ばされて
   わたしの後ろに
   猫じゃらしの野が広がる

 こうしてほとんどの部分を引用してしまったが、それほどに余分なことをつけ加える必要のない作品である。ただ、これだけでいいのである。作品の終わりでは「落とした肩の向こうで何か揺れ」るのである。揺れるものについては語らない。あの人がいて、揺れるものがあることが、これほどに美しく気持ちをざわつかせている。
 後半の散文詩は、物語風の情景描写がとても丁寧で、影の多い古い西洋絵画の中に入り込んでいくような気持ちにさせられる。
 「林檎煮」では、女たちが集まって林檎の皮をむき、大鍋で煮ている。閉ざされた集団での風習のような行為が、女たちを束縛し、その中で変容していく者がいるのだろう。

   林檎を剥く女たちは自分の内側の蛇行した道を下りていく。若い頃
   につまづいた場所や枝分かれした道にあらためて気づきながら。下
   りていく。林檎の紅い皮の流れは女たちの周りを渦巻く。身動きが
   とれなくなる頃に、最後の林檎を剥きおわる。その流れの中に沈ん
   でしまって戻れなくなることもある。

 林檎の煮える甘い匂いが女たちの身体を絡めとり、妖しくねばつくものが読んでいる者の身動きまで取れなくするようだ。
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詩集「こんなもん」  坂多瑩子  (2016/09)  生き事書店

2016-09-26 14:29:41 | 詩集
第5詩集。B6版、107頁に26編を収める。高橋千尋のユーモア溢れる怖ろしいカバー絵が、詩集タイトルと相まって印象的だ。
「おせっかいな奴ら」の冒頭に「部屋にいると/おばけの匂いばかりしてきて/まとわりつかれるのはいやだから」とある。しかし、この詩集はおばけにとりつかれて書かれた作品ばかりのようなのだ。そのなんとも嫌な、それでいてどこか懐かしいような、独特の肌触りが魅力的である。
 「魚の家」。砂場で砂を掘っているといつのまにか海の底で、「父の/もう/とけてしまった骨の/すきまから/小さな魚が生まれてい」たのだ。「二度も道に迷って/家に帰」ると母は「魚の頭を落としてい」たのだ。

   卓球台のある
   へやに
   父の写真が飾ってあり 
   頭のない魚が行儀よく並んでいた

 生臭い魚が話者の(頭の)中にまとわりついている。あたしが帰ってきた家は誰の家なのだろうか。いや、あたしは誰なのだろうか、何なのだろうか。
先に挙げた「おせっかいな奴ら」では、家の中でだれかが食べたりだれかが寝転んだりしている。それは、もうとっくにいなくなった親戚の人らしいのだ。

   だれもいないのに
   だれかが
   あたしをのぞきこむ
   母さんはもういないよ
   聞きもしないのに
   教えてくれる

 お化けだろうが、超常現象だろうが、異界だろうが、名前はどうでもよいのだが、そういったものが作者にとっては”こんなもん”なのだろう。その”こんなもん”につづく言葉は、どうでもいいわ、なのか、それとも、珍しくもないけど、なのだろうか。
 「なまえ」、「庭」、「いもうと」、「従姉」については詩誌発表時に感想を書いている。
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詩論集「花は散るもの人は死ぬもの」  長嶋南子  (2016/029)  花神社

2016-09-24 21:34:23 | 詩集
 タイトルのあっけらかんとした居直り感に妙に納得してしまうが、これはすでに亡くなっている21人の女性詩人についての詩論集。196頁。
 冒頭からは与謝野晶子、林芙美子、金子みすゞと著明な詩人について書かれているのだが、個人的には中野鈴子以後が面白かった。作者が好き嫌いを越えて惹かれている詩人が選ばれている。しかも学術的でないところが好い。

 たとえば中村千尾については、「美人で、いいとこの奥さんで、見守ってくれる夫がいて、詩が書けて」と紹介して、「世の中不公平にできている。わかっちゃいるけどね。何も与えられない人は嫉妬に身を焦がすしかない、焦がしたところで何も変わらず、自滅するだけだったりして。」と、長嶋節とでもいった感じが全開となる。

 大佛文乃さんの第一詩集「紅皿」は読んでいた。山間で一人で暮らす強さが固く結実したような詩集だった。大佛さんが早世されていたことは今回知った。彼女のその後の作品を読めたことも好かった。
 長嶋氏の引用されている全詩集からの作品はどれもきっちりと彼女のその後の生き様を伝えてくるようだった。

 相生葉留美さんが取りあげられていることも嬉しかった。好い詩を書くのに、もっと注目されていい詩人なのに、とずっと思っていた。それだけに遺稿詩集「舟に乗る」が送られてきたときには驚いた。
 相生さんには、まだ学生だった私(瀬崎)が詩を書いていた短い時代に、数回お会いしている。たしか大野新さんがやっていた詩誌の会で、だったと思う。当時の第一詩集からうっとりとするように瑞々しい、それでいて少しエロティックな作品を書いていたのだった。

 作者が取りあげた詩人の何人の方に生前にお会いしていたのかは知らない。しかし、そんなことはどうでもいいことである。作品を通じて、作者はひとりひとりの詩人に寄り添っていることが、優しく伝わってくる。
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詩集「樫の火」  荻悦子  (2016/07)  思潮社

2016-09-20 23:25:55 | 詩集
 第6詩集。105頁に23編を収める。
 詩を書くということは、自分の内部と会話をすることなのだろう。語ることによってはじめて自分の内部が判ることもあるし、ますます混迷することもある。
 「球形の蕾」は、自分の内部に問いかけ、必死にその答えを求めているようだ。話者は「張りつめた碧の氷」のようにと願いながらも「ひと言も発することができない」でいる。あなたがいて、来なかったあのひとがいる。それならば、わたしはどこにいるのだろうか。

   夜のうちに
   大きく膨らんだ
   球形の蕾
   明け方の烈しい空の色が
   苞を裂くのを
   遠い目をしてそれぞれに見ている

 誰も動けない状況があるようで、ただ時が過ぎている。私の時間は止まっているのか、それとも状況を呑み込んで流れているのだろうか。
 後半には6編の散文詩が置かれている。それらは話者を客体化することによってかなりの物語性を孕んでいる(作者は「インディアン・ライラック」という小説集も出している)。
 「春の来方」。来訪者は話者に「くすんだピンク色の缶」をくれて、私は中の固い洋菓子を囓り、芽吹き始めた梢が「あったような無かったような幸いを思い出させ」るのだ。別の人がくれた箱の中にはクッキーが入っていて、母にあげた手袋のことを思い出させたりする。こうして春がやってくるのだ。

   妖しく変幻する空に身体を掬われ 光の裏打ちを失
   くした雲の端の方 漂う私は小さな魚の形をしたチ
   ョコレートを手にした 何人目の人がくれたものか
    もう定かではなかった

 柔らかな語り口が、柔らかい、しかしどこか不吉なものも伴っているような春のイメージを伝えてくる。
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エウメニデスⅢ  51号  (2016/083)  長野

2016-09-16 23:14:16 | 「あ行」で始まる詩誌
 小島きみ子が編集発行しており、54頁。11人の詩の他にエッセイ、詩集・詩誌紹介を載せる。

 「魔笛」広瀬大志。
 夜の闇の中に静かに沈殿していくものがあるのだろう。そしてそれは「セキレイの硬直した体」を笛にして「細い音を鳴らす」のだ。

   それを暗闇と
   呼ぶならば
   静まりいく
   その名前は
   決して明かされることはない

 その“魔笛”を聞いた者はどうなってしまうのだろう。その話を届けられた者はどうなってしまうのだろう。

 「もりあわせ」高塚謙太郎。
 冒頭のきっぱりとした二行「葉にまよいがあるか/しらぬ」が、潔い。知らないことを踏まえたうえで、というよりも知らないが故に、“葉”に向き合っていくのだろう。葉は燃え、それを検証しているのだろう。葉は眼前にありながら話者を遠くへ連れ去っていく。

   影のままで見すえておれば
   ぶらさげたものが
   葉にむかってあっというまに
   なめつくされるのを恒とする
   果たすのである

 「灰色の翼」小島きみ子。
 3行5連でまとめられた作品。少し説明的な、それゆえに少し長く理性的な導入部分から、次第にそれをふまえた感覚的な部分へとすすんでいく。おそらく母との別れがあるのだろう。そして肉体がなくなった後に残されたものがあるのだろう。最終連は、

   轟音が鳴り響いて
   母の声がする
   まぶしくて 何も見えない
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エウメニデスⅢ  51号  (2016/083)  長野

2016-09-16 23:14:16 | 「あ行」で始まる詩誌
 小島きみ子が編集発行しており、54頁。11人の詩の他にエッセイ、詩集・詩誌紹介を載せる。

 「魔笛」広瀬大志。
 夜の闇の中に静かに沈殿していくものがあるのだろう。そしてそれは「セキレイの硬直した体」を笛にして「細い音を鳴らす」のだ。

   それを暗闇と
   呼ぶならば
   静まりいく
   その名前は
   決して明かされることはない

 その“魔笛”を聞いた者はどうなってしまうのだろう。その話を届けられた者はどうなってしまうのだろう。

 「もりあわせ」高塚謙太郎。
 冒頭のきっぱりとした二行「葉にまよいがあるか/しらぬ」が、潔い。知らないことを踏まえたうえで、というよりも知らないが故に、“葉”に向き合っていくのだろう。葉は燃え、それを検証しているのだろう。葉は眼前にありながら話者を遠くへ連れ去っていく。

   影のままで見すえておれば
   ぶらさげたものが
   葉にむかってあっというまに
   なめつくされるのを恒とする
   果たすのである

 「灰色の翼」小島きみ子。
 3行5連でまとめられた作品。少し説明的な、それゆえに少し長く理性的な導入部分から、次第にそれをふまえた感覚的な部分へとすすんでいく。おそらく母との別れがあるのだろう。そして肉体がなくなった後に残されたものがあるのだろう。最終連は、

   轟音が鳴り響いて
   母の声がする
   まぶしくて 何も見えない
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詩集「発車メロディ」  林美佐子  (2016/08)  詩遊社

2016-09-13 20:26:03 | 詩集
 第2詩集。98頁に28編を収める。
 「桜だらけの丘」。桜の花の一つ一つに目があり、私を見ているのだ。あなたの顔にはモザイクがかかっているのに、ズボンからは見たようなものがあらわれ、私は両脚を開いていく。満開になった華やかな桜の花がもつ妖しさが不気味なのだが、それと同時にとても隠微な期待もあるようなのだ。見られることによって私は所有されていくのだろう。

   あなたの後ろには
   目だらけの桜があり
   私がまた目を閉じるころ
   あなたはおびただしい目で
   できていました

 「舌と私」も妖しげな悪意に満ちている。はがきをもらったお礼のモノローグなのだが、きれいな切手の端が少しだけはがれていたのだ。「唾液で貼ったのでしょうか。そっと舌をつけてしまいました。」背筋の方から邪悪なものが忍び寄ってくるようだ。

    ではどうぞお元気で。お返事をお待ちしてい
   ます。きれいな切手を選びました。今あなたを
   思いながら、舌が切手をゆっくりとぬらしてい
   きます。

 もうここからは逃げられない猫なで声の網が、あなたを絡めとっている。その情景を差し出されている読者も、同じように絡めとられていく。
前詩集「鹿ヶ屋かぼちゃ」の感想で私は、作者が作り出す世界は悪夢であり、怖ろしくて少し切ないのだが、この切なさのゆえに悪夢がやってくるのだろう、と書いた。今回の詩集は、同じような感情のどろどろ感があるのだが、前詩集に比べるとそのどろどろ感に迷いがあるように思えた。すでに切なさは振り捨てられており、その場所で書くことへの迷いである。作者はますます絡めとられているようだ。
 「顔」、「緋毛氈」については詩誌発表時に感想を書いている。
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雨期 67号 (2016/04) 埼玉

2016-09-10 13:46:52 | 「あ行」で始まる詩誌
 「汽笛」古内美也子。
 ある場所で聞こえてくる汽笛の音、それはそこで自分のうちに甦る何かが鳴らしているのではないだろうか。「こころに/きつく巻かれていた/ぜんまいが」緩むのだろう。それは赦しを乞うていることなのか、それとも慰められていることなのか。何かにふたたび自分が切り裂かれるようだ。最終部分は、

   涼しい夏が死に絶え
   橙色の悲鳴は
   どこにも辿りつかない

 「マルドロールの夜」谷合吉重。
 新宿三丁目の夜で踊る男と女が、万華鏡のように描かれている。

   だから踊ろう
   季節が過ぎたら
   新たな道順を見つけなければならないから
   きみはきみでありながら
   きみに違反されているのだから

 意味はよく判らないのだが、くるくると情景は廻り、それにつれてこの世界が夜空に舞い上がっていくようだ。(余談になるが、「だから踊ろう」と言われると、私はあがた森魚の「淸怨夜曲」を思い浮かべてしまう。)

 須永紀子が「詩の未来を考える」と題した評論で倉田比羽子「世界の優しい無関心」を取りあげている。その論考で、「現実の像を自身の内部に移しかえるという心的な作業をする詩人たち」の作品を読むときには、「まず詩人の立ち上げた世界を了解」する必要があって、「詩人の内部世界と、そこで展開されること」の両者を理解しなければならないとしている。なるほど、と思う。
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詩集「胎児」  高岡修  (2016/08)  ジャプラン

2016-09-08 18:32:41 | 詩集
 26の詩編が番号だけをつけられて収められている(冒頭の序のような1編は番号なし)。
 詩集タイトルの通り、作品は1個の受精卵が胎芽から胎児になり、成長してきた母体から新生児として新たな世界へ出るまでの連作となっている。
 よく知られるように、子宮の中で細胞分裂・増殖しながら成長していく胎児は生物の進化過程をたどる。魚の形から両生類、爬虫類の形を経てほ乳類の形へと変化する。「3」で「君はいま、/一匹のしなやかな魚である。」と詩われ、「5」では「君の尾もまた、/伸びようとしたまま停止している。」と詩われる。手足の水掻きは細胞のアポトーシスによって消失し、尾も消失していく。一個の人間はヒトとしての進化の歴史を背負って誕生してくるわけだ。

   四十億年の旅のさなかで君は、
   植物であることを断念した。
   魚や両生類や爬虫類であることを断念し、
   鳥類となって空を飛翔することを断念した。
                     (「8」より)

 そしてヒトの形となってからは、胎児は人類の歴史をたどるという発想が斬新である。「頭蓋の湖面では、/一匹の水馬(みずすまし)が/もう憤怒の円心をつくり始め」(「11」より)、そして、

   君の両手首と両足首には、
   うっすらと、
   釘を打ちこまれた跡が残っている。

 くるぶしからは囚われ人のかすかな鎖の音も聞こえるのだ(「12」より)。
 最後の詩編で、「君は振り返り、/君が足早に通り過ぎた季節の背後へ、/ゆっくりと、/微笑を流」しながら、新しい生の世界へやって来る。こうしてこの詩集は、詩集全体で1個の生命体が誕生することへの賛歌となっている。
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詩集「おおきな一枚の布」  服部誕  (2016/08)  書肆山田

2016-09-03 20:28:40 | 詩集
 25年ぶりの第3詩集で、85頁に23編を収める。定年退職後に詩作を再開したとのこと。
 詩われているのは、会社勤務だった頃の生活からにじみ出てきた思いなどで、「土曜の夜からまっさかさまに」もそんな一編。
一週間の勤務がやっと終わり、終電車で深夜に帰宅すると、家の中のものがみんな逆さまに置いてあったのである。そして暗い寝室で妻の名を呼ぶとコウモリが飛び出してきたのである。最終連は、

   わたしはそのとき
   かすかに舌打ちしているような
   逃げそこねたコウモリの鳴き声を
   たしかにきいた

 疲れ果てて帰ってきた家は、その仕事の疲れから異なる次元の場所へと変化してしまったのだろう。疲れれば疲れるほどに安らぎからは裏切られていくのであろう。この感覚は、激務に追われて一日一日をやっと過ごしていた身にはよく判る。
 「わたしたちは待っている」で描かれるのは、対向列車とのすれ違いのために駅に停まっている列車の中。向かいの席には背の曲がった老女が座っている。おそらく午後の車内は少し気怠くて、わたしと老女の二人だけなのではないだろうか。

   おたがいの背後にある大きな空を眺めていると
   いままでの
   生きてきた長い時間を頒けあって
   ふたりとも同じものを待っていると
   錯覚してしまう

 まったく関係のなかった二つの人生が一瞬交差したかのように感じられる。そして感じる連帯感のようなものはもちろん錯覚なのだが、どこかほっとするようなことでもあるのだろう。
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