たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

次の動き

2020-11-26 10:58:25 | 神社と災害

 

というわけで「中央構造線の謎を解く?」

をテーマに、西日本各地を巡ってまいりました。

そんな折、昨日の記事内で突如、「三輪山」

という意外なキーワードが出現しましたので、

ここでひとまず話題を変えて、

中途半端のまま保留していた「大嘗祭」関連の

ネタに再チャレンジしてみたいと思います。

 

ちょうど「大嘗祭」から一年が経ち、

今年の「新嘗祭」が終了した時期でもあると同時に、

11月8日に執り行われた「立皇嗣の礼」により、

にわかに「皇室の動き」が活発化しているところです。

以前書き溜めておいた記事も掲載するため、

文章の流れがわかりにくい部分もあるかと思いますが

(まあいつものことですが……)、

「令和3年を占う」という意味でも、

興味深い示唆が得られるものと期待しております。

お時間がある方は、「大嘗祭」関連の記事などを

合わせてお読みいただけると、幾分参考になるのでは

ないかと思いますので、ご興味があればぜひ……。


名草戸畔と三輪山

2020-11-25 10:55:28 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.87 *****

ここまで書いてきてふと思い至ったのは、

中国南部を発端とする

「インド・チャイニーズ系(龍蛇系)」の海人族は、

南方由来の「インドネシア系(スンダランド系)」

の海人族を、取りまとめる立場だった

のではないかということでした。

 

まあ、当時の海人族の系譜を

明確に記すことは困難ゆえ、

あくまでもひとつの可能性ではありますが、

仮に豊後水道のあたりで漁労生活をしてた

「名草の人々の祖先(スンダランド系)」が、

のちの豊後大神氏にもつながる

「名草戸畔の祖先(龍蛇系)」をリーダーとして、

古くから龍蛇族が開拓してきた

「水銀の道(中央構造線)」を

紀伊半島へと向かったと想像すると、

名草戸畔と「丹生都姫命」との深縁も

さもありなんと感じるのです。

 

さらに、名草戸畔が豊後大神氏と同族だとすれば、

名草戸畔と三輪山との関連も浮かび上がるわけで、

名草戸畔が決死の覚悟で神武一行の

「三輪山入り」を阻止した理由に関しても、

ぼんやりと輪郭を表してくるのでした。


ミツウロコ

2020-11-24 10:52:33 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.86 *****

名草戸畔の頭を埋めたとされる

「宇賀部神社」の宮司家であり、

名草戸畔の子孫との伝承が残る

「小野田家」の家紋は「丸に三つ鱗

(ミツウロコ)」だと聞きます。

三角形を組み合わせたこの図柄は、

北条氏の家紋としても知られており、

海洋民族の証でもあるのだとか……。

三つ鱗を構成する三角形は

「蛇のウロコ」を表していると言いますから、

小野田家および名草戸畔は、

海人族の中でも「龍蛇信仰」との関わりが

深い一族だったという見方もできますね。

 

ちなみにこの三つ鱗紋ですが、

大神神社の神紋である「三本杉」

を原型としているそうで、

大神氏関連の代表的な家紋が

この「三本杉(三つ鱗)」とのこと。

祖母山大明神と呼ばれる大蛇を祖先に持ち、

宇佐八幡宮の大宮司だった豊後大神氏の家紋が、

「丸に三つ鱗」であることを踏まえれば、

「宮崎から大分のリアス式海岸に住み、

半農半漁の暮らしをしていた」という

小野田寛郎氏の証言の裏付けともなるのでしょう。

【参考サイト】

古代史俯瞰 by tokyoblog


異なる目的

2020-11-23 10:47:29 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.85 *****

あくまでも現時点での勝手な推論ですが、

同じ海人族でも「大陸由来(呉越系)の龍蛇族」と

「南方由来(スンダランド系)の漁労民族」とでは、

日本に渡来してきた理由が異なるのでは

ないかという気がいたしております。

恐らく、スンダランド系の海人族は、

生活拠点の地形や漁労環境の変化など、

物理的な要因が大きかったのでしょう。

一方、長江周辺からやってきた龍蛇族のほうは、

ある明確な目的を持って来日した

イメージが個人的には湧いてくるのです。

 

その目的とは、すばり「水銀朱」でして、

徐福が「不老不死の薬」を探しに

日本へとやってきたように、

日本の豊富な鉱山資源を求めて、

中央構造線を西から東へと進んで行く

「龍蛇族」の様子が思い浮かぶのでした。

とすれば、先日ご紹介した丹生都姫命の一族は、

九州から瀬戸内海沿岸を経て紀伊半島に

上陸した「製鉄系民族」だったのかもしれません。

そして、丹生都姫命と同族とされる名草戸畔も、

海を生活の場とする漁労民の長というより、

大陸由来のシャープな知性を有した

技術集団のリーダーであり、

ある意味「土蜘蛛」だったとの想像もできます。


封印の型

2020-11-22 10:44:21 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.84 *****

昨日、名草戸畔が「土蜘蛛」の一派

であるという説をご紹介しましたが、

「土蜘蛛」の本拠地としても知られる、

奈良県の葛城一言主神社には、

土蜘蛛塚という小さな塚があります。

何でもこの塚は、神武天皇が

土蜘蛛を捕え殺害したのち、

彼らの怨念が復活しないように

頭、胴、足と別々に埋めた跡なのだそう。

つまり、一言主神社の土蜘蛛と名草戸畔は、

同じような葬られ方をしていたわけで、

ある意味「土蜘蛛」に対する封印の型として、

このような処置を施した可能性も

否めないわけですね。

 

これまで、名草戸畔の遺体を

3つに分けて埋めた理由として、

主に南方由来の「ハイヌヴァレ型」

の伝承と結び付けて考察してまいりました。

ただし、葛城山の土蜘蛛に「ハイヌヴァレ型」

の伝承は残っていないことなどを考えると、

単に名草の人々が「五穀豊穣」を願うためだけに、

名草戸畔の遺体をバラバラにした

とは考えにくくなるもの。

もしかすると、名草戸畔という存在は、

南方由来の海人族の首長ではなく、

別の目的のために名草に移住した

「土蜘蛛」だったのでしょうか……。


イメージの転換

2020-11-21 10:41:25 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.83 *****

神武一行との争いにより

名草戸畔が戦死したとされるのが、

「クモ池」と呼ばれる場所でした。

ここは名草一族の本拠地でもあり、

名草戸畔はその池の名前から

「土蜘蛛」の首長だったという説もあります。

土蜘蛛と言いますと、山中深くの横穴式住居

で暮らす鉱山労働者のイメージが強く、

海辺を拠点とした名草戸畔とは

かけ離れた存在のように感じられますが、

「戸畔=先住土着の女酋長」という見方をすれば、

ある意味彼ら(彼女ら)も

土蜘蛛だったと言えるのかもしれません。

 

ちなみに土蜘蛛という名称は、

大和朝廷側が名付けた「蔑みの意味」

を含む名称でして、神武東征の件においても、

天皇側に反発した八十梟帥や兄磯城、

あるいは天皇側に恭順した井氷鹿や石押分之子

などのいわば「土蜘蛛」と呼ばれる土着民が、

物語の準主役的なポジションを担っております。

仮に、名草戸畔が「土蜘蛛」の一派だったと

想像するなら、名草戸畔の中からますます

「南方の香り」が薄まって行くような気がするのでした。


二つの系統

2020-11-20 10:38:28 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.82 *****

一説に、海人族のルーツは

「インド・チャイニーズ系」と

「インドネシア系」の二系統に、

大きく分けられるという話があります。

 

「インド・チャイニーズ系」は、

中国南部のビン越地方の漂海民に端を発し、

東シナ海を北上、山東半島、遼東半島、

朝鮮半島西海岸を経由して、

玄界灘に達したと推定される

安曇系およびその傍系の住吉系漁労民。

一方「インドネシア系」は、

フィリピン付近海域から黒潮の流れに沿って、

台湾、沖縄、奄美諸島を経由した

隼人系(宗像系)海人族とのことで、

両者は複雑に混交しながら東日本の沿岸や

内陸部へと侵入して行ったのだそう。

 

この話を元に海人族を分類するなら、

「インド・チャイニーズ系」は主に航海に長じた龍蛇系、

「インドネシア系」は主に漁労を得意とする

スンダランド系となるのかもしれません。

 

ちなみに、名草戸畔の本拠地周辺には、

「出雲系」の人々の居住地があったと言いますから、

本来は「インドネシア系海人族」だった名草戸畔が、

丹生都姫命一族や出雲一族と姻戚関係を結ぶうちに、

「インド・チャイニーズ系」寄りの家系に

変貌した可能性もあるのでしょう。


丹生都姫命

2020-11-19 10:32:03 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.81 *****

名草戸畔と「山の民」の関係がどうしても気になり、

あれこれと探ってみたところ、

丹生都姫命というキーワードにぶつかりました。

先日の記事内でも、「丹生都比売神社の

祖先神(神社を創建した人たちの祖先)は

名草彦・名草姫だった」と記したように、

もともと深いつながりを持つ両者ですが、

実は名草戸畔は「丹生都姫命の子孫」、

あるいは名草姫(名草戸畔?)の婿は

「丹生都姫命の御子・名草比古」

だったとも考えられるのだとか……。

 

まあ、ネタの信憑性や時系列の前後はともかく、

これらの説が唱えられるということは、

少なくとも「鉱山の神」である

丹生都姫命と名草戸畔が、同じ役目を

共有する人物だったようにも感じられます。

 

ちなみに、丹生都姫命の出自はと言いますと、

江南の呉王国の王女(大日女姫と稚日女姫)

の妹として生を受けたものの、

戦乱により国を追われたため、

新天地を求めて南九州に上陸し、

その後中央構造線に沿って

和歌山にたどりついたとのこと。

それらの話を踏まえれば、名草戸畔も

スンダランド由来の海人族ではなく、

「龍蛇信仰」とともに来日した

呉越系渡来人の可能性もありそうですね。

【参考サイト】

神奈備


スンダランド

2020-11-18 10:29:20 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.80 *****

中央構造線をテーマにした

記事を書いているつもりが、

またまた名草戸畔の深みに

はまっている今日この頃ですが、

今しばらく古代の名草近辺の「妄想」

にお付き合いいただければ幸いです。

 

一説に、名草の人々のルーツは、

「スンダランド由来の九州縄文人ではないか」

という話があります。何でも、スンダランド

(現在のフィリピン・インドネシア・マレー半島)

のあたりから黒潮に乗って来日した人々が、

鬼界カルデラの大噴火の影響で九州に住めなくなり、

海を渡って和歌山に移住してきたとのこと。

これらの話は、『名草戸畔 古代紀国の女王伝説』

内の「小野田氏の証言」とも一致するため、

個人的にも可能性大の説として支持しておりました。

 

ただ、先日も書いたように、名草戸畔周辺に漂う、

濃厚な「山の匂い」がどうしても記憶に残っているため、

「名草戸畔=海人族」という結論をひとまず保留して、

他の可能性も探ってみたところ、

たどり着いたのが名草戸畔と丹生都姫命

(丹生都比売命)との深いつながりだったのです。


混在する民族

2020-11-17 10:26:02 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.79 *****

『播磨国風土記』揖保郡大田里条には、

「呉の勝(くれのすぐり)が韓国より

紀伊国名草郡大田村に落ち着き、

次に摂津国三島賀美郡大田村に足を留め、

さらに播磨国揖保郡大田に移動した」

という記述があるそうです。

何でも、彼らの痕跡は「大田」という

地名として残り、金属加工の技術に

優れていた「漢人」などの渡来人集団と、

行動をともにしていた節が見られるのだとか……。

 

「勝(すぐり)」とは、古代朝鮮語で

「村長(むらおさ)」を意味する「村主」と記され、

主に百済系渡来人に与えられた

姓(かばね)だと言いますから、

大陸からやってきた産鉄族の首長

(とその一族)だったとも考えられますね。

 

名草も三島も「ミミ」と縁が深い土地ですので、

もしかすると彼らも「耳族」との

混交を重ねて行ったのかもしれません。

となると、当時の名草周辺には

「名草戸畔」を筆頭とする名草族、

「紀豊耳」を系譜に配する紀氏、

「呉の勝」が率いる渡来系の産鉄族が、

混在しながら居住していたと想像されますが、

果たして三者の間にはどのような

関係性が築かれていたのでしょうか……。

【参考サイト】

戸原のトップページ


海人系の産鉄族

2020-11-16 10:22:35 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.78 *****

以前のブログ内で、

==========================

日本列島への「三段階渡来モデル」において、

約4,400年前~約3,000年前に日本へと渡来した

「第二波の渡来民」とは、海人族と言うよりも、

海人族によって導かれてきた大陸人、

および大陸のどこかで海人族と混血した

大陸人だったのかもしれません。

==========================

と記しました。

 

また、昨日の記事では、「耳族とは第一段階の

終盤あたりに、朝鮮半島を通る西寄りルートを使って

日本へと渡来した、呉越の人々(龍蛇族など)

だったのではないか」と推測しましたが、

個人的には、第一段階の終盤から

第二段階にかけて渡来した「海人族」の中でも、

特に金属加工や鍛冶技術に長けた人たちを、

「ミミ」と呼んでいたのではないかと想像しております。

 

恐らく、「ミミ」の名を冠する人たちというのは、

海人族の縁者かつ海人族によって導かれてきた

大陸の「高度な専門技術者」、

あるいは鉱脈を探すために渡来し、

海の生業を捨てて陸に上がった

「海人系の産鉄族」だったのかもしれません。


耳族

2020-11-15 10:18:46 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.77 *****

海人族と鉱物との関係を思い浮かべていたとき、

『青銅の神の足跡』という書籍に記されていた、

「耳族」というワードを思い出しました。

 

何でも、「耳の名のつく人物は、

南方系の種族を指し、それと同時に

鍛冶技術をもっていたと推定される」とのことで、

タカミムスビに代表される北方文化圏の人々

(目の系統の一族)が、この「耳の系統の一族」

と婚姻を繰り返しながら、現在の日本を

形作って行ったと考えられるのだとか……。

 

例えば、神武天皇の后は「ミゾクイミミ」の孫娘、

スサノオが妻にしたのは「スガノヤツミミ」の娘、

アメノヒボコが娶ったのは「フトミミ」

という名の女性……等々。

さらには、紀氏の系譜に属する「紀豊耳」や、

阿蘇氏の始祖である「神八井耳」も

「ミミ」の名を冠する人物です。

 

著者(谷川健一氏)いわく、彼らは

「揚子江沿岸から海南島に至る

中国南部に住む海人族であり、

大きな耳輪をつけていた」という話ですから、

「日本列島への三段階渡来モデル」

に照らし合わせれば、第一段階の終盤あたりに、

朝鮮半島を通る西寄りルートを使って

日本へと渡来した、呉越の人々

(龍蛇族など)である可能性も否定できません。


山の神との縁

2020-11-14 10:15:03 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.76 *****

一般的に、「タタラ製鉄」などに

従事していた古代の産鉄民は、

多様な鉱物が産出する「深い森の山中」で、

暮らしていたというイメージを持たれがちです。

ただし、実際に彼らが住んでいたのは、

山の中ではなく海辺や湿地帯が多かったとのこと。

つまり、紀伊国の名草や阿波国の名方など

大河川の河口近くでは、海の民や農耕民などとともに、

「産鉄民」も生活していたと考えられるのでしょう。

 

まあ、当時の人々の出自等を明確に分類するのは

至難の業ですが、名草という場所や地名が

「スズ鉄」との深い関わりを示すならば、

名草戸畔という人物が単なる半農半漁の海人族ではなく、

製鉄にも通じた「山の民」だった可能性もあるのだと……。

もともと海人族は、鉱物探索の嗅覚に優れた民でもありますし、

名草の近隣には「水銀」の一大産地が控えております。

恐らく、名草戸畔の遺体が、海辺の近くではなく、

内陸の小野田地区や高倉山近辺に祀られた理由も、

「山の神」との縁ゆえなのかもしれません。


山の匂い

2020-11-13 10:12:06 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.75 *****

以前、「名草戸畔」をテーマにした記事内で、

==========================

名草戸畔の遺体はなぜ、

本拠地である吉原の中言神社ではなく、

名草山からやや距離のある内陸部の

小野田地区や高倉山近辺に葬られたのでしょうか。

そこには、産土神である高倉山の神様の懐で眠らせたい、

という小野田一族の願いもあったのかもしれません。

==========================

名草戸畔について詳しく調べるまでは、

名草の人たちは海や太陽の神を拝む、

生粋の海の民のイメージがありました。

ただ、名草戸畔の故郷である

和歌山・海南の神社を訪れたとき感じたのは、

山への強い崇敬心と信仰心です。

==========================

という内容の文章を記しました。

 

これまで、中央構造線の謎を調査する中で、

「nagid」から派生した人々と

海人族とのつながりが濃厚となり、

「名草の人=海人族」という図式が

自然と成り立つ結果となりましたが、

当時から気になっていたのは、

名草戸畔という存在には「山の匂い」

が濃厚に漂っているということでした。

 

まあ、海と山とは切っても切り離せない関係ゆえ、

名草戸畔が「山」とつながるのは

不自然ではないものの、果たして名草戸畔は

「海人族の首長」と断定しても良いものか、

個人的には未だに判別できないでいるのです。


草宮

2020-11-12 10:09:17 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.74 *****

日前宮の境内には、名草彦・名草姫を

ご祭神とする摂社「中言社」があります。

さらに古くは、同じく名草彦・名草姫を祀る

「草宮」というお宮が二社存在していたそうです。

 

何でも、毎年藁を使って社殿を造り替えることから、

「草宮」の名がついたとのことですが、

毎年九月十五日に執り行われていた草宮祭では、

祖先神を「草宮」に祀る(神幸させる)ために、

静火神社(現在は竈山神社の摂社)と

丹生都比売神社の神様が、

それぞれ渡御されたのだとか……。

つまり、静火神社と丹生都比売神社の

祖先神(神社を創建した人たちの祖先)とは、

名草彦・名草姫だったわけですね。

 

いずれにせよ、三つの紀伊国一の宮は、

すべてが中央構造線の周辺に鎮座しているだけでなく、

「名草」が深く関わっていたことは確かなのでしょう。

だとすれば、中央構造線の秘密を握っていたのは、

名草の人々など「nagid」から派生した一族、

つまり「海人族」と考えるのが妥当でしょうが、

少々心に引っ掛かる部分があるのも事実なのでした。