たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

天孫降臨の舞台

2020-09-26 09:36:50 | 古代の出雲

<鳥屋神社 とやじんじゃ>

 

『古事記』の中でも最大の謎のひとつと

いわれているのが、「なぜ天孫降臨の舞台が

出雲ではなく日向だったのか」という問題です。

もし仮に、出雲で「国譲り」が行われたとすれば、

わざわざ遠い九州を「天孫降臨」の地に

選ばなくても良さそうなものですが、

古事記の編纂者たちは出雲の名を

降臨地として記すことは避けました。

 

もしかすると、「国譲り」が完了してからも、

出雲には「出雲族」の流れを汲む人が多数残り、

自らの神への崇敬を維持するなど、

いわゆる「反乱分子」が存在していたのでしょうか……。

あるいは、「国譲り」の真相を知る編纂者が、

あえてそれ以降の出雲を封印することで、

逆に「出雲族(の尊厳)」を守った

という可能性も考えられます。

 

いずれにせよ、タケミナカタの一族は、

戦乱により力を削がれた出雲の各部族に代わり、

「ワラヘビ」祭祀などにその痕跡を残しながら、

長い年月に渡り「出雲の荒神」

を守護してきたのかもしれません。


敵と味方

2020-09-25 09:34:31 | 古代の出雲

<鳥屋神社 とやじんじゃ>

 

考えてみますと、縄文後期から弥生時代

にかけての九州北部や近畿地方は、

常に「渡来の波」にさらされてきたエリアでした。

神武天皇が奈良に向けて東征した際、

日向から北九州、瀬戸内海の各都市を通り、

難波の碕に到着したわけですが、

長髄彦軍と生駒山あたりで対戦するにあたり、

各地の「神武側」に付いた土着豪族が、

神武一行に加勢し手筈を整えていたとも聞きます。

 

これを古代の出雲に当てはめれば、

九州北部の「出雲族」はもちろん、

近畿地方の「出雲族」、さらには

出雲国内の一部の「出雲族」までもが、

イザという段階になって「天津神側」

もしくは「出雲と敵対する側」に

帰順・混交した可能性も否定できません。

 

もしかすると、タケミナカタの一族は、

出雲内でのイザコザ(国譲りなど)の結果、

すでに出雲を去って諏訪に引き籠っていたため、

結果的に天津神側と一定の距離を

置く結果となったのでしょうか……。

そして、諸々の争いが終わったのち、

タケミナカタの子孫は再度出雲に戻り、

出雲族の痕跡であった荒神谷遺跡と

加茂岩倉遺跡の青銅器を管理する「塞ノ神」として、

「御射山」を奉斎したと想像すると、

個人的にはしっくりくるような気がするのです。


荒神の証

2020-09-24 09:31:11 | 古代の出雲

<荒神谷遺跡>

 

出雲の荒神谷遺跡および

加茂岩倉遺跡から出土した青銅器のうち、

出雲製と推定される銅剣のほとんどと、

近畿製と推定される銅鐸の一部に

「×」印がつけられている一方で、

北部九州製と推定される銅矛には、

「×」印が刻印されたものはありませんでした。

 

これらのデータを踏まえれば、

北部九州産の銅矛には「×」印、

つまり「荒神の証」を付ける必要がなかった、

という意味にも受け取れますね。

 

同様に、出雲産の銅剣の14本と、

近畿産銅鐸の31個にも、

「荒神の証」が見られないことから、

これらを持ち込んだ(あるいは提供した)一族は、

何らかの理由で「荒神」への信仰を

放棄したとも想像できます(逆もしかり)。

 

つまり、出雲に危機が迫り、

各地の「イズモの国々」が出雲へと集結する中で、

「相手側」に恭順することを選んだ一族と、

最後まで出雲のために戦った一族とを区別するために、

荒神を意味する「×」印を

刻んだのではないかという妄想が、

個人的には沸き上がってくるのです。


交錯する文化圏

2020-09-23 09:27:50 | 古代の出雲

<荒神谷遺跡>

 

荒神谷遺跡が発見されるまで、

考古学者の間では「銅鐸と銅矛は

一緒に出土しない」という説が一般的でした。

何でも、青銅器の出土量が少なかった時代は、

銅矛は主に北九州周辺、

銅鐸は近畿から東海地方の地域……と、

それぞれ単独で出土する傾向が見られたため、

銅矛・銅剣文化圏と銅鐸文化圏という二つの文化圏は、

決して重ならないと考えられていたのだとか……。

しかし、荒神谷遺跡の一件などにより、

これらの説は否定され、銅矛・銅剣祭祀と

銅鐸祭祀の両方を行う地域の存在が

明らかになったと聞きます。

 

そんな、考古学界の常識に一石を

投じた出雲の荒神谷遺跡ですが、

出土した青銅器はそれぞれ、銅剣が出雲製、

銅矛が北部九州製、銅鐸のほとんどが

近畿製(加茂岩倉遺跡も同様)でした。

このことから、出雲国が西日本の各地と

強い結びつきを持っていたことはもちろん、

西日本の各地から青銅器を管理する

「一族の長」レベルの人々が、

この地に集まって来た可能性が伺えるのです。


出雲族の集結地

2020-09-22 09:24:43 | 古代の出雲

<出雲市武志町>

 

もし仮に、斐伊川下流の多芸志の小浜で

「国譲りの交渉」が行われていたとするなら、

荒神谷遺跡から加茂岩倉遺跡にかけての一帯は、

「出雲族」が大挙して集まり、事の成り行きを

見守っていた場所だったのかもしれません。

そして、イザというときの決戦に備えて、

二つの遺跡に「武器」や「祭祀具」などを

保管していた可能性もあるのでしょう。

となると、青銅器に刻まれた「×」印とは、

「出雲族」の人々によって刻まれた記号

ということになりますが、果たして事の真相は

どのようなものだったのでしょうか……。

 

ちなみに、荒神谷遺跡から青銅器が出土した際、

344本もの銅剣に「×」の刻印が記されていた一方で、

同時に見つかった16本の銅矛には、

「×」の刻印がまったく記されていませんでした。

もし仮に、荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡を

「同一部族が管理していた」のであれば、

何らかの理由で銅矛にだけ「×」印を

刻印しなかったという捉え方もできますね。


現在進行形の神話

2020-09-21 09:21:08 | 古代の出雲

<膳夫神社 かしわでじんじゃ>

 

国譲り後の宴が行われたとされる

「多芸志の小浜」には、櫛八玉神(くしやたまのかみ)

を祀る膳夫神社(かしわでじんじゃ)の跡地があります。

何でも、「天津神」をもてなすための

料理を任された櫛八玉神は、

まず「鵜に変身して海に潜り、

取ってきた海底の土から土器を作り、

わかめの茎で臼、昆布の茎で杵を作ったのち、

その臼と杵で火を起こした」のだとか……。

 

櫛八玉神が「水戸神」の子であることや、

名称に渡来系海人族を暗示する「櫛」、

出雲族の聖数である「8」が

含まれていることをなど踏まえれば、

恐らくは天津神に恭順した

出雲側の氏族を暗示した名なのでしょう。

 

一説に、この宴には敗者である

「大国主神」も加わり、天津神との間で

「和解」が成立したとも言われておりますが、

その後の出雲の歴史を見れば、

「国譲り」が決して「キレイごと」では

終わらなかった現実が見て取れます。

 

その後、斐伊川下流の形状は治水工事などで

大きく変わったものの、

川を挟んで「天津神側」と「国津神側」

の神々が向かい合っている構図は、

神話の国譲りが未だ「現在進行形」

のものとして、イズモの国に根を

張っているような光景にも思えました。


櫛八玉神

2020-09-20 09:17:42 | 古代の出雲

<鹿島神社 かしまじんじゃ>

 

『古事記』に記された

「多芸志の小浜(たぎしのおばま)」

に相当する出雲市武志町では、

国譲りの成立を祝う宴会が

開かれたという言い伝えが残ります。

多芸志の小浜はタケミナカタが

祀られていた鳥屋神社から、

斐伊川を挟んでちょうど対岸付近にあたり、

堤防の向こうにはタケミナカタと戦った

タケミカヅチをご祭神とする

「鹿島神社」が鎮座していました。

 

ちなみに、鹿島神社に祀られているのは、

タケミカヅチと経津主命(ふつぬし)、

天鳥船命(あめのとりふね)、

そして櫛八玉神(くしやたまのかみ)の4柱です。

大国主神に国譲りを迫った三柱の神が、

「鹿島」と名の付く神社に祀られているのは

わかりますが、櫛八玉神という少々聞きなれない

神様の由緒が気になるところですね。

 

実は、櫛八玉神という神は、上記の宴で

「タケミカヅチたちに料理を振る舞った」

とも言われる神様でして、もともとは

多芸志の小浜があった斐伊川の河川敷に、

この神を祀る社が建てられていたのだとか……。

しかしながら社殿は、斐伊川の氾濫により

流されてしまい、現在はこちらの

鹿島神社に合祀されたと聞きました。


鳥屋神社

2020-09-19 09:15:01 | 古代の出雲

<鳥屋神社 とやじんじゃ>

 

荒神谷の一帯以外にも、

タケミナカタをご祭神とする神社が、

四方を田んぼに囲まれた出雲平野に鎮座していました。

「鳥屋神社(とやじんじゃ)」と呼ばれるその社は、

まるで田園に浮かぶ小島のような社叢が目印で、

すぐそばには出雲を代表する

大河・斐伊川が流れております。

 

何でもこの社は、古事記に記される

「国譲り神話」と深い関わりがあり、

天津神の使者であるタケミカヅチと

力比べ(多芸志の小汀の決戦)をした際、

大国主命の子であるタケミナカタが投げた

「千引きの岩」が落ちたところなのだとか……。

そのとき岩にたくさんの白鳥が群がり、

まるで鳥小屋のように見えたことから、

「鳥屋」という地名が付けられたそうです。

 

ちなみに、縄文海進の時代この一帯は

「海(もしくは湿地帯)」だったと

思われる場所ゆえ、神社が建てられたのは

少なくとも「国引き」の後なのでしょう。

一説に、出雲国内で元から

タケミナカタをご祭神とするのは、

こちらの「鳥屋神社」だけという話もありますが、

もしそれが本当なら「タケミナカタ」という神は、

縄文後期から弥生時代にかけて

「出雲に現れた」と推測することができますね。


荒神谷の管理者

2020-09-18 09:08:52 | 古代の出雲

<佐支多神社 さきたじんじゃ>

 

諏訪地方のお祭りや「御射山」

の神事などからもわかるように、

タケミナカタの一族は「御柱」

「武器」「動物供犠」……など、

日本古来の祭祀とは異なる習俗に

関与する人々だったのかもしれません。

恐らく、出雲族の中でも「異質の存在」、

あるいは渡来系部族の中でも

「特殊な立ち位置」の一族として、

出雲の人々の間では認知されていたのでしょう。

諏訪一帯では、銅鐸ではなく鉄鐸(さなぎ)を

製造していたことなどを考え合わせても、

タケミナカタらが持ち込んだ文化は、

当時のイズモの「定番」から

外れていた可能性もありそうです。

 

ちなみに、古代の荒神谷周辺の様子を

「空想」していく中で思い浮かんだのは、

タケミナカタの一族が、青銅器の「×」印と

関連するのではないかというイメージでした。

荒神谷に鎮座する「三宝荒神」のご祭神の中には、

スサノオや大地主命とともに

タケミナカタが含まれていましたが、

タケミナカタが「荒神」および

荒神谷の神宝を管理する立場だった考えると、

どことなく辻褄が合ってまいります。

荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡の青銅器に

刻印された「×」の謎を知る人々……、

それこそがタケミナカタの

一族だったのかもしれません。


異質の存在

2020-09-17 09:01:00 | 古代の出雲

<佐支多神社 さきたじんじゃ>

 

考えてみますと、出雲神話における

タケミナカタの振る舞いは、父親である

「大国主神」の意向とは相反するものでした。

大国主神やもうひとりの子である「事代主神」

が見せた、天津神への「国譲り」を

容認したかのような態度とは裏腹に、

タケミナカタだけは天津神の使者である

「タケミカヅチ」と真っ向から勝負し、

半ば強制的に出雲を追われる

羽目になったと読み取れるのです。

 

まあ、「国譲り」に関しては

様々な捉え方ができますので、

「これが正解」というものはありませんが、

ひとつの可能性としてあげるなら、

タケミナカタ一族は出雲(および出雲の財宝)

に最後まで固執していたか、

あるいは「出雲族」の中でも

異質な存在だったと考えられるのでしょう。

縄文中期から後期にかけて、

第二波の渡来民である様々な部族が縄文人と混交し、

いわゆる「国津神」が誕生する中で、

ルーツの異なる渡来部族の間では、

諸々の軋轢が発生していたのかもしれません。


荒神のお宝

2020-09-16 09:56:31 | 古代の出雲

<佐支多神社 さきたじんじゃ>

 

諏訪大社の旧摂社である二つの御射山神社では、

御射山神事と呼ばれる神事が行われ、

諏訪大社に祀られるタケミナカタの御魂が、

御射山の神々(国之常立神)へ挨拶をするために、

これらの神社までやってくると聞きます。

また、このお祭りの中では、

ウナギやドジョウ(長物)を

池に放つ行事があるそうですから、

タケミナカタという神と「龍蛇族」

とのつながりも気になるところですね。

 

ちなみに、以前のブログ内で、

「タケミナカタは大国主神に仕えた

最後の氏族であり、結界を守護する

塞ノ神だったのではないか」と書きましたが、

仮に、これらを出雲の御射山に当てはめるなら、

タケミナカタという存在は、大国主神の親神

である「国之常立神」を祭祀する一族で、

佐支多神社の鎮座する御射山一帯には、

国之常立神と「荒神のお宝」を守るための

結界が張られていたというイメージもわきます。

 

タケミナカタの一族が出雲から追われ、

出雲の歴史から抹殺されてしまったのも、

もしかするとこの地で起きた

「砂鉄」や「青銅器」などの「財宝」

を巡る攻防がきっかけとなったのでしょうか……。


出雲の御射山

2020-09-15 09:54:03 | 古代の出雲

<佐支多神社 さきたじんじゃ>

 

出雲市斐川町荘原の佐支多神社を参拝した際、

境内で言葉を交わした近所の方が、

「このあたりは御射山」と

何度も繰り返しておりました。

 

佐支多神社は、もともと近くの

「御射山(みさやま)」と呼ばれる

場所にあったとも聞きましたが、

「御射山」と聞くと思い出すのは、

やはりタケミナカタの本拠地である諏訪地方ですね。

 

何でも、諏訪大社(下社・上社)の旧摂社でもある、

二つの御射山神社(みさやまじんじゃ)では、

御射山神事と呼ばれるお祭りが行われ、

かつては贄として兎や鹿などが

捧げられていたといいます。

 

また「御射山」という名称は、

諏訪の土着神であるミシャクジ神を

表すともいわれる一方、

国之常立神(くにのとこたちのかみ)

とのつながりも伺えることから、

「御射山」が「荒神」に結びつく

可能性も否定できないのでしょう。

 

もしかすると、出雲の「御射山」にも

国之常立神つまり荒神が祀られており、

それを管理していたのが

「タケミナカタ」の一族だったのでしょうか……。


タケミナカタの周辺

2020-09-14 09:50:39 | 古代の出雲

<佐支多神社 さきたじんじゃ>

 

聞くところによりますと、

諏訪明神とも呼ばれるタケミナカタは、

全国から神々が出雲に集まる「神在祭」には、

ある理由により参加しない(できない)のだそうです。

何でも、蛇体をしたタケミナカタの体が

あまりにも大きすぎて、神々の集いの

邪魔になったことから、出雲大神(大国主神)に

「お前は来なくて良い」と断られてしまったのだとか……。

 

まあ、いくら出雲を追われた身とはいえ、

出雲のために戦った功績を考えれば、

非常に理不尽な仕打ちではありますが、

これらの話と出雲の神社や伝承から消された、

「タケミナカタ」の痕跡とを照らし合わせると、

出雲側にとって「タケミナカタ」という存在は、

少々目障りだった可能性もあるのかもしれません。

 

また、荒神谷遺跡のすぐ近くには、

「フツヌシ」を祀る香取神社が数社あり、

荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡との間には、

「アメノヒボコ」とも絡む

兵主神社が鎮座しております。

これらの緊迫感あふれる「構図」からは、

タケミナカタ一族が様々な集団の

監視下にあった様子が見て取れるのです。


佐支多神社

2020-09-13 09:46:35 | 古代の出雲

<佐支多神社 さきたじんじゃ>

 

荒神谷遺跡のほぼ真北にあたる位置に、

『出雲国風土記』に記された

「佐支多社(さきたのやしろ)」の比定地、

佐支多神社(さきたじんじゃ)が鎮座しております。

こちらの神社は、詳細な由緒が不明であるだけでなく、

なぜか『出雲国風土記』には登場しない

タケミナカタをご祭神とするなど、

いくつかの謎が取り巻く場所です。

 

佐支多神社も近隣の諏訪系神社と同様、

後年になってタケミナカタを

ご祭神とした可能性が噂されますが、

この周辺の状況から見ますと、

単純に「後付け祭神」とは割り切れない

複雑な経緯も察せられるのですね。

 

ちなみに、以前の記事でも触れたように、

神庭諏訪神社や学頭諏訪神社など、

近隣には「諏訪」のつく神社が

数社存在することから、「諏訪へ逃亡した

タケミナカタが、この地に祭器を埋めた」

などの噂が取り沙汰されております。

 

一方で、一帯の諏訪系神社の歴史は

それほど古くないという話もあるため、

タケミナカタ祭祀の真相に関しては、

未だ混乱の中にあるのでした。


荒神を示す証

2020-09-12 09:44:10 | 古代の出雲

<青森県新郷村>

 

全国の一部の地域に残る「あやつこ」

という民間習俗の話を聞いて思い出したのは、

淡路島で行われる「ねり子祭り」という行事と、

「キリストの終焉地」との伝承が伝わる、

青森県新郷村の風習でした。

以前のブログでも取り上げたこの二つの風習は、

「古代イスラエル」との強い関連を伺わせる行事でして、

「ねり子祭り」では、参加した子供の額や頬に

朱色の十字を書き入れるそうですし、

新郷村では生まれて間もない子供を野外に出すとき、

額に墨で十字を書いて魔除けにすると聞きます。

 

もし、仮にこれらの行事が、

「あやつこ」に通じるものだとすれば、

やはりここでも古代イスラエルが

カギとなってくるわけですね。

恐らく、「×」や「十」という記号は

「荒神」のシンボルであると同時に、

古代イスラエルの人々にとっても

「神」を表す重要な「印」だったのでしょう。

つまり、「荒神谷遺跡」と「加茂岩倉遺跡」

で見つかった「×」印付きの青銅器は、

「荒神」を示す証として、

ユダヤ系渡来人により施された

可能性もあるのかもしれません。