たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

祭りの舞台

2019-10-31 09:40:27 | 縄文への旅

<大湯ストーンサークル>

 

ここ大湯のストーンサークルには、

円形に張り巡らされた石の中心に、

「日時計状組石」と呼ばれる立石が置かれ、

時間や季節ごとに変化する太陽の動き応じて、

石の影の長さが変わることがわかっています。

隣接するストーンサークル館内で、

太陽と環状列石との関係をシミュレーションした

模型を見たのですが、個人的に頭に浮かんだのは、

特別な日の太陽を「祭りの舞台」の演出効果

として取り入れるために、ストーンサークルを

建設したのではないかというイメージでした。

 

仮に、ストーンサークルが墓地として利用され、

その中で葬儀が執り行われていたとしても、

決して人々は悲壮感ばかりに包まれていたわけでなく、

神と死者と生きる人間とが混然一体となって、

その場全体を不思議なエネルギーで

満たしていたような気がするのです。

実際に遺跡に立ってストーンサークルを眺めてみますと、

あたり一帯が常に「空気の循環」を繰り返しながら、

清冽な風が入れ代わり立ち代わり

大地を掃き清めているような光景が思い浮かびました。


特別な川石

2019-10-30 09:34:05 | 縄文への旅

<大湯ストーンサークル館>

 

大湯環状列石で使用されている石

(約8,500個)の半数以上が、

「石英閃緑ひん岩」という淡い緑色の石だと聞きます。

しかもその石は、遺跡から5㎞近く離れた

安久谷川流域から採取されたもので、

この地の縄文人は数百年の長い月日をかけて、

これらの石を大湯まで運んできたと推測されるのです。

 

となりますと、なぜ山や海の石ではなく、

川の石が必要だったのか……、

なぜ近隣の川の石ではなく、

安久谷川の石でなければならなかったのか……等々、

様々な疑問が浮かびますが、

恐らくストーンサークルを完成させるためには、

「特別な川石」であることが必須条件だったのでしょう。

 

つまり、身近な野山の石ではなく、

特定の川石を遺跡に加えることで、

陰陽五行が揃う完全なる聖地を

作り上げたかったのだと個人的には感じるのです。

ちなみに、「石英閃緑ひん岩」という名称を見て

思い浮かんだのが、伊勢神宮のお白石持ち行事

で使われる白い石英の石でした。

 

「白」と「緑」と色こそは違うものの、

なぜか聖地には「石英系」の石が付いて回り、

伊勢や熊野などの信仰の場では、

必ずといっていいほど石英の石を見かけます。

もしかすると、「ストーンサークルに石を運ぶ」

という行為は、伊勢神宮に石を奉納することと

同じ意味を持っていたのかもしれません。


陰陽五行の聖地

2019-10-29 09:31:15 | 縄文への旅

<大湯ストーンサークル>

 

ストーンサークルと聞きますと、

大きな円形状の石の集合体にばかり目が行きますが、

ここ大湯ストーンサークルでは、日時計状の組石や、

周囲に散らばる小さな円形の列石、

弓状に作られた石の集合体(配石遺構群)……等々、

メインである二つの環状列石

(万座環状列石、野中堂環状列石)以外にも、

様々な形状の石の遺構が見つかっております。

 

また、能登の真脇遺跡を思わせるウッドサークルや、

等間隔で並んだ直線の柱列など、木柱をベースにした遺構も、

遺跡全体を取り囲むようにして配置されているのです。

つまり、この場所は「木の文化」と「石の文化」とが、

共存する場所だったとも言い換えられるのですね。

 

さらには、ウッドサークル内で火を焚いた痕跡があることや、

周辺から多量の土製品が出土したことなどを重ね合わせると、

大湯ストーンサークルという場所は、

陰陽五行の「木」「火」「土」「金(石)」

が揃った「聖地」だったといえるのでしょう。

そうなると最後に残った「水」の要素が気になりますが、

実は「水」は意外なところに存在していたのでした。


石文化

2019-10-28 09:28:23 | 縄文への旅

<大湯ストーンサークル>

 

ストーンサークルの名でも知られる

「環状列石(かんじょうれっせき)」は、

数メートルから数十メートルほどの石を、

円形に配置して作られた古代の遺構です。

一般的に、ストーンサークルは

「墓地」という説が有力ですが、

種類によっては石の下に墓が作られているものと、

作られていないものの二種類が存在することから、

すべてが「お墓」かどうかは一概に断言できないのだとか……。

200基を越える「お墓」が発見された、

こちらの大湯のストーンサークルに関しても、

「共同墓地」ではないかとの説が有力視されているものの、

はっきりとした目的はわかっていないようです。

 

ちなみに、ストーンサークルに相当する遺構は、

日本のみならず世界各地で見つかっており、

巨石を門の形に組み上げたイギリスの

ストーンヘンジなどはその筆頭だといえるでしょう。

また、以前記事にした徳島周辺の石柱文化に関しても、

ある意味「立石(りっせき)遺跡」の一種と考えられますし、

それらの土着的な風習を含めれば、

すでに縄文時代にはかなりの広範囲で、

「石文化」が日本を席巻していたことになりますね。


大湯ストーンサークル

2019-10-27 09:19:30 | 縄文への旅

<大湯ストーンサークル>

 

話は青森県のお隣・秋田県へと移りますが、

各々の縄文遺跡の状況などから見ても、

北部秋田や北部岩手の一帯が、

青森と同じ文化圏に属していたのは明らかです。

ちなみに秋田県は、全国で最もたくさんの

ストーンサークルが見つかった場所でして、

その数はなんと70か所以上。

中でも、青森県にほど近い鹿角市の

「大湯ストーンサークル」と呼ばれる環状列石群は、

日本を代表するストーンサークルとして知られています。

 

実は、今回の旅の中で、最後まで予定に入れるか

どうか悩んだのが、この大湯のストーンサークルでした。

といいますのも、青森全体に散らばる縄文スポットを

巡るとなると、思った以上に移動距離を取られるため、

十和田湖の南に位置するこのストーンサークルが、

どうしてもルートから外れてしまうのです。

しかしながら、北東北の縄文時代を俯瞰する上で、

この魅力的な遺跡を無視するのは忍びなく……、

ツアー最終日にまでさんざん迷いつつも、

他の予定を後回しにし、立ち寄ることを決心いたしました。


縄文集落の変化

2019-10-26 09:09:49 | 縄文への旅

<大湯ストーンサークル>

 

縄文中期から後期へと移るに従い、

多くの集落は人々の居住地外に「儀礼の場」を設け、

目印となるモニュメントも「ムラ」の外へと移されました。

恐らくそこ至るまでには、様々な経緯があったはずですが、

そのひとつが縄文中期後半に起こった

地球の寒冷化だといわれております。

 

何でも、温暖だった気候が極端に涼しくなったことで、

森や海の生態系が変化し、大規模な集落を維持するだけの

食料が確保できなくなったのだとか……。

そのため、人々は他地域への分散・移動を余儀なくされ、

日本最大の規模を誇った三内丸山遺跡も、

この頃には姿を消したと聞きます。

 

そして、それと入れ替わるようにして登場したのが、

「ストーンサークル」と呼ばれる謎の環状列石です。

もちろん、それ以前からストーンサークルは

存在しましたが、縄文後期に出現するストーンサークルは、

三内丸山などに比べて不自然なほど大型であると同時に、

数百年以上に渡り繰り返し石を運んでいた形跡が

見られるなど、様々な謎を残していたのでした。


縄文尺

2019-10-25 09:06:28 | 縄文への旅

<三内丸山遺跡>

 

三内丸山遺跡の6本の掘立柱には、「縄文尺」

という長さの単位がふんだんに用いられており、

この時代の人々が「数」に強いこだわりを

持っていたことを示す証となっています。

ちなみに、縄文尺といいますのは、

35㎝を基準にした計測法のことで、

三内丸山遺跡だけに限らず他の遺跡に関しても、

この35㎝を一単位として、柱穴の間隔、幅、

深さなどを定めた形跡が随所に見られるのだとか……。

 

個人的に「35」という数字を目にしたとき、

真っ先に思い浮かんだのは、古神道や神道系の

宗教とも関連する三五(あなない)という言葉でした。

実はこの数字は、古代ユダヤとの関連も伺われる数で、

強い力を秘めたスペシャルナンバー

だという話を聞いたことがあります。

もし仮に、縄文人が「35」という数を

意識し集落を作っていたとすれば、

いったい何を根拠にその数字を選択したのか……、

非常に気になるところですね。


太陽ネットワーク

2019-10-24 09:00:59 | 縄文への旅

<三内丸山遺跡>

 

日本一有名な縄文遺跡といっても過言ではない

青森市の三内丸山遺跡は、なんと1,500年もの長い間、

いわゆる「ムラ」の形式を保ち続けた場所なのだそうです。

これは、縄文時代全体を見渡しても極めて稀なケースであり、

これだけの長期間に渡り、繰り返し人々が暮らしてい

た痕跡が見られるのは非常に珍しいのだとか……。

恐らく、歴代の三内丸山の人々が

この地にこだわった理由のひとつが、

昨日ご紹介した6本の掘立柱である可能性も高いのでしょう。

 

通常であれば縄文後期になるに従い、

このようなモニュメントは集落外へと移され、

日常の場と非日常の場とが分けられる傾向が強いと聞きますが、

三内丸山の人々が最後まで集落内に、

これらの「信仰の聖地」を維持し続けた背景には、

6本の掘立柱(が示す太陽軌道)を動すことが

できない重要な理由があったと推測されるのです。

もしかすると、三内丸山遺跡の掘立柱は、

「他の巨木・巨石信仰の遺跡」ともつながる、

太陽ネットワークの一大拠点だったのかもしれませんね。


太陽と木柱

2019-10-23 09:57:57 | 縄文への旅

<三内丸山遺跡>

 

掘立柱の遺跡と聞きますと、

思い浮かぶのが北陸地方の環状木柱列です。

何でも「木の柱」を要する遺跡というのは、

東日本の日本海側に集中して見られるそうで、

北陸地方の木柱列は、交流があった東北北部の

「掘立柱」に対抗する意識で造られたともいいます。

 

ちなみに以前、能登の真脇遺跡に関する記事を書いた際、

「木柱列の中で祭祀を行っていた」

という説があることをご紹介しましたが、

三内丸山遺跡の掘立柱に関しても、個人的にはやはり

「祭祀のために造られた」という見解に心が動きます。

といいますのもこの建物は、柱と柱の間に冬至の太陽が沈む

(逆から見ると夏至の太陽が昇る)ような設計になっており、

「太陽信仰」のモニュメントとして建てられたのではないか

という話に、非常に納得する部分があったからなのですね。

 

各地の「神社」の配置を見てもわかるように、

古くから人々は太陽の動きを熟知し、

太陽の動きに合わせて「聖地」を定めてきました。

三内丸山遺跡を始めとする縄文遺跡は、

「神社」が創建される遥か昔から、

「太陽信仰」が人々の意識に根付いていたことを

教えてくれる貴重な遺構なのかもしれません。


三内丸山遺跡

2019-10-22 09:53:12 | 縄文への旅

<三内丸山遺跡>

 

いわずと知れた「キングオブ縄文遺跡」の三内丸山遺跡は、

縄文前期~中期にかけて青森県を中心に繁栄した

「円筒土器文化圏」を代表する場所です。

当時、この一帯はいわゆる「縄文の大都会」でして、

特にこの三内丸山遺跡の周辺には、

現在の県庁所在地に匹敵するほどの

「大規模集落」があったと聞きます。

 

ゆえに、この巨大遺跡から発掘された出土品は、

なんと段ボール箱4万個分、

土偶だけでも2千点以上にも及ぶのだとか……。

つまり、私などの微々たる知識では、

到底太刀打ちできないレベルの規模でありますので、

興味のある方はぜひ現地に行かれるか、

専門書をお読みいただくかして下されば幸いです。

 

で、三内丸山遺跡と聞いてまず思い浮かぶのが、

この遺跡のシンボルでもある、

6本柱の大型掘立柱建造物でしょう。

この建物については、「灯台」

「物見やぐら」「宗教施設」「御柱」など

様々な説が取り沙汰されているものの、

やはり未だに結論は出ていないようなのでした。


縄文遺跡へ

2019-10-21 09:09:04 | 縄文への旅

<三内丸山遺跡>

 

現代人が縄文時代に思いを馳せるとき、

どうしても「縄文時代を現代に引き寄せる」

という癖を排除できないものです。

つまり、私たちが縄文人に気持ちを添わせるのではなく、

縄文を「現代の常識」から解釈しようとするため、

「精霊?」「宇宙人?」「そんなバカな……」

といった感覚に陥りやすいのかもしれません。

 

ただし、現代人が精霊や宇宙人を感知できないからといって、

絶対に彼らが存在しないとは言い切れず、

「その可能性も捨てきれない」と考えたほうが、

縄文の風景がよりリアルに迫ってくるのも確かでしょう。

そんなわけでして、解決したような解決しないような、

モヤモヤとした気持ちを抱えたままではありますが、

ここで一旦土偶の世界から離れ、

次の遺跡へと目を向けてみたいと思います。

 

続けてご紹介したいのは、「縄文遺跡の王」

として君臨する青森市の三内丸山遺跡です。

とにもかくにも、規模の大きさがハンパない

この遺跡には、現在「縄文村」が復元されており、

当時の生活を体験できる施設として整備されていました。


縄文人の対立

2019-10-20 09:52:21 | 縄文への旅

<是川縄文館>

 

縄文の人々がいわゆる「呪い」をかけていた相手とは、

実は「身内」や「同じ部族の人々」だったという話があります。

何でも、お互いの意見や主張が食い違ったとき、

腕力や話し合いで解決することが難しい対象であるがゆえに、

「呪術」という禁じ手を使い、

相手を改心させようとしたとも考えられるのだとか……。

これを縄文晩期の頃に置き換えれば、

遮光器土偶を崇拝対象として崇める人々に対し、

遮光器土偶を崇拝対象として崇めたくない人々もいたことから、

両者の間で激しい呪術合戦に発展したとも想像できるでしょう。

 

ちなみに、遮光器土偶が大量に造られていた時代、

同じ青森県内において、遮光器土偶とはまったく

異なるタイプの土偶が制作されておりました。

女性的な表現が際立つこの是川縄文館所蔵の作品は、

遮光器土偶にも似た顔の造作を持ちながらも、

身体には文様がなく手足もしっかりと装着されております。

あたかも古き良き縄文に回帰したようなその素朴なルックスは、

「遮光器派の人々」とは別の信仰を持つ人々がいたことを、

私たちに教えてくれているような気がしてならないのですね。


呪術合戦

2019-10-19 09:45:32 | 縄文への旅

<是川縄文館>

 

一説に、縄文時代というのは、他の時代に比べると

「海外との交流が極端に少ない時代」だったそうで、

縄文後期から晩期のあたりに渡来人が上陸するまでは、

いうなれば「ガラパゴス」に近い環境だったと聞きます。

縄文文化という地球上で唯一無二の文化が花開いたのも、

この「孤立状態」があったからこその収穫で、

縄文時代の人々は目に見えない

(しかし縄文人には見えていた)神や精霊、

そして「宇宙的な存在」とダイレクトに関わりながら、

その創造性を磨いて行ったのかもしれません。

 

逆にいえば、そういった存在と直接コンタクトが

取れていたがゆえに、「他国」「他国人」の

干渉を必要としない部分もあったのでしょう。

いずれにせよ、縄文人の間で行われていた呪術合戦とは、

他の外国のように、明らかなる「敵」が対象でない

ケースも多かったと個人的には考えております。

だとすれば、自らの土偶を媒介役にしたり、

相手方の土偶を奪い去ったりしながら、

「黒い」駆け引きをしていた相手とは、

いったい誰だったのでしょうか……。


吉凶混合の用途

2019-10-18 09:33:50 | 縄文への旅

<つがる市・木造駅>

 

青森県つがる市出土の遮光器土偶

「しゃこちゃん」を眺めておりますと、

自然と目が行ってしまうのが

「欠けている片足」の部分かもしれません。

「身体の一部が欠落してる」という現象は、

土偶全般に見られる特徴ではありますが、

それらの姿を目にするたびに、

やはり落ち着かない感覚を抱くもので、

もぎとられた片足の行方と、

もぎとった「誰か」の意図に思いを馳せるたび、

この時代に起こったであろう

「縄文らしからぬ出来事」が

蘇ってくるような気がするのです。

 

一般的に「土偶の一部を壊す」という行為は、

不具合のある部分を削り取ることで、

ケガや病気の治癒を願ったものだろう

という説が有力視されています。

一方、これらの破壊行為には、

それら白魔術の側面だけでなく、

相手の不運を願うという「黒魔術」

の要素があったとの噂もあるのですね。

もちろん、すべてがネガティブな道具

として使われたわけではないものの、

土偶は常に「吉凶混合」の存在だったと

考えるほうが自然なのでしょう。


人型の呪術効果

2019-10-17 09:24:16 | 縄文への旅

<三内丸山遺跡・縄文時遊館>

 

以前、雄略天皇についての記事の中で、

「ドッペルゲンガー(分身)」

という現象についてお話しましたが、

実は縄文時代の土偶にも、

この「ドッペルゲンガー」につながる

厳しいルールが存在したと、

個人的には睨んでおります。

 

秀でた美的センスと超絶技巧を

合わせ持つ縄文時代の人々が、

あえて写実的な形象を避け、

土偶の顔をデフォルメしたのは、

人間を「生き写し」にすることで、

モデルとなった人物の魂が吸い取られて

しまうのではないかと恐れたのでしょう。

 

つまり、縄文人が人間以外の生体を模写したのも、

そして顔や身体の精密表現を避けたのも、

根底には「人型を造ってはいけない」という

暗黙の了解が存在していたような気がするのです。

 

そう考えると、縄文草創期~前期にかけて

制作された顔なし土偶が、

非常に理にかなったものであったと同時に、

中期以降に登場する土偶たちに関しても、

綿密な計算の元にギリギリの線を狙って、

造形を施されていたことがわかります。

 

恐らく、私たちがイメージする以上に、

「人型」には大きな呪術効果があり、

縄文人たちはその影響力を知っていたからこそ、

一貫して「人であって人ではない存在」の姿を、

土偶に反映し続けたのかもしれません。