たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

三木家

2018-02-28 09:18:30 | 阿波・忌部氏1

<木屋平・三木家>

 

徳島県の約半分近くを占める剣山系連山は、

ユダヤの痕跡が点在するスポットとしてだけでなく、

「阿波忌部」の本拠地としても知られる場所です。

天日鷲命を祖神とする阿波忌部族は、

麻・木綿を納める職能集団であり、

新天皇の即位の儀式である践祚大嘗祭において、

麁服(あらたえ)を貢進する役目を担っています。

麁服というのは、天皇がお召しになる衣のことで、

現在も阿波忌部の流れを汲む「三木家」によって、

この伝統が引き継がれているのです。

 

古くは卜定(占い)により、麁服を制作する

「忌部の家」が決められた時代もあるようですが、

鎌倉時代に麁服調進の担当は三木家に一任され、

その後、南北朝時代に一時中断したものの、

古例(恐らく明治天皇の命)に従い、

大正天皇の大嘗祭の際に復活しました。

昭和天皇や今上天皇がお召しになられたのも、

この三木家で織られた衣でして、

大嘗祭までの予定が決まると間もなく、

まずは「大麻」の栽培から始められるそうです。


忌部氏の末裔

2018-02-27 09:15:10 | 阿波・忌部氏1

<山崎・忌部神社 やまさきいんべじんじゃ>

 

この4日間、忌部氏に関する概要を、

ざっと羅列してまいりましたが、

忌部氏について公に伝えられているのは、

およそこの程度の内容しかありません。

忌部系の人物として歴史に名を残すのも、

『古語拾遺』を記した斎部広成くらいで、

様々な歴史的事件に登場する

蘇我氏や物部氏などと比べると、

存在感の薄さは否定できないでしょう。

 

ただ、忌部氏の末裔と言われる人々の中には、

興味深い人物が含まれているのも事実です。

有名なところでは、越前忌部家に生まれ、

戦国時代を舞台に活躍した織田信長。

そして近代では、歴代首相の「懐刀」として、

昭和から平成にかけての政界で存在感を示した、

後藤田正晴氏(衆議院議員の後藤田氏は大甥)……等々。

徳島県吉野川市の出身である後藤田氏の家系は、

阿波忌部家の系譜につながると聞きます。


忌部氏の職務

2018-02-26 09:10:21 | 阿波・忌部氏1

<三豊・忌部神社 みとよいんべじんじゃ>

 

 

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地方忌部には

1.竹や盾を納める手置帆負命(たおきほおいのみこと)

を祖神とする讃岐忌部(香川)

2.玉を貢納する櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)

を祖神とする出雲忌部(島根)

3.宮殿の木材を貢納する彦狭知命(ひこさしりのみこと)

を祖神とする紀伊忌部(和歌山)

4.麻・木綿(ゆう)を納める天日鷲命(あめのひわしのみこと)

を祖神とする阿波忌部(徳島)

5・鍛冶に携わった天目一箇命(あめのかひとつかのみこと)

を祖神とする筑紫・伊勢忌部(福岡・三重)

などがある。

 

阿波忌部は、践祚大嘗祭に麁服(麻織物)を

貢進する役目があり現在でも続いている。

その他、越前(福井)、淡路(兵庫)、備前(岡山)、

隠岐島(島根)、安房(千葉)などにも忌部氏が居た。

* 若干文章を手直ししました

【参考サイト】

忌部文化研究所

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ひと口に「忌部氏」と言いましても、

全体の人数はかなり多かったと見られ、

朝廷での祭祀を行う中央忌部だけでなく、

祭礼具の製作を担当した一族から

お社の造営を担当した一族など、

その役目は多岐に渡っていたようです。

 

全国各地に移り住んだ地方の忌部氏は、

中央忌部や他地域の忌部一族などと

綿密に連携を結びながら、

それぞれの仕事に従事していたのでしょう。

また、忌部氏の痕跡が残る地域は、

海人族の拠点があった場所とも一致するため、

両者が協力関係にあった可能性も大です。


中央忌部

2018-02-25 09:06:51 | 阿波・忌部氏1

<大神神社 おおみわじんじゃ>

 

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本来の朝廷祭祀は、忌部氏が掌握していたが、

天武朝以降、勢力を増す中臣氏(藤原氏)との格差がつけられた。

天武朝の「八色の姓」の制定により、中臣氏は朝臣姓、

忌部氏は一段下の格付けとなる宿禰姓とされた。

奈良期からは次第に本来の職務に就けない事態が起こり、

平安初期の大同2年(807年)に忌部宿禰広成は、

『古語拾遺』を平城天皇に撰上し、氏族の窮状を訴えたが、

状況が劇的に変わることはなく、

忌部氏は歴史の表舞台から姿を消した。

* 若干文章を手直ししました

【参考サイト】

忌部文化研究所

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各地に定住した忌部氏の中でも、

天皇の祭祀を司る役目を担ったのは、

奈良に拠点を置いた「中央忌部」と呼ばれる人々です。

しかし、かつては隆盛を誇った中央忌部も、

同じ祭祀系氏族である中臣氏の勢力に押され、

次第に朝廷内での地位と居場所を失います。

 

中央忌部の重鎮であった忌部広成は、

平安時代前期に名を「斎部」と改めたのち、

役職を独占する中臣氏への不服を訴えるために、

「古語拾遺」を記し名誉回復に努めました。

その結果、広成の要望は認められたものの、

以降も状況は改善・回復することなく、

忌部氏は歴史の表舞台から姿を消したのです。


天太玉命

2018-02-24 09:03:13 | 阿波・忌部氏1

<橿原神宮 かしはらじんぐう>

 

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忌部氏は、天太玉命(あめのふとだまのみこと)を祖神とし、

『古事記』『日本書紀』では、

天岩屋戸神話や天孫降臨神話で活躍する事績が見える。

中央忌部は、天太玉命を祖とし、

奈良県橿原市忌部町の「天太玉命神社」を根拠地とする。

各地の品部(注1:ともべ)となる忌部氏を率いた。

注1:職業集団の名称

【参考サイト】

忌部文化研究所

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天孫降臨の際、ニニギと共に天下った天太玉命は、

忌部氏の祖神であり、中臣氏の祖神である

天児屋命(あめのこやねのみこと)と共に、

祭祀を司ったとされる神様です。

記紀の天岩戸隠れの件では、

この二神が祝詞や呪術などを駆使し、

天照太御神を洞穴の暗闇から連れ出しました。

 

その後も、祭祀で使われる材料や道具の調達、

お宮の造営などを担当した忌部氏は、

のちに中央忌部という一派を生みだし、

朝廷内での地位を確立します。

また、他の忌部氏は「職能集団」となって地方に散らばり

現代社会に直結する様々な技術・文化を伝えました。


忌み慎む集団

2018-02-23 09:52:52 | 阿波・忌部氏1

<山川町・忌部山>

 

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「忌部」(いんべ)とは、

古代よりヤマト王権の宮廷祭祀、

祭具製作、宮殿造営を掌った名門氏族であった。

「忌部」は穢れを忌む集団という意味。

「忌」は慎みをもって神事で穢れを取り去り、

身を清めることをいう。

【参考サイト】

忌部文化研究所

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現代では、葬儀の際などに使われる

「忌む」という言葉ですが、

外宮の忌火屋殿の名称からもわかるように、

本来は身を清めて慎むという意味があります。

つまり、忌部氏は「穢れを忌み清める集団」であり、

祭祀に関わる人々を指し示した言葉なのですね。

 

同時に、「忌む」には「不吉なものを避ける」

という比喩が含まれているのも確かでして、

彼らがあえて忌部と名乗った背景には、

少々複雑な経緯が見え隠れします。

いずれにせよ、一族が忌部氏になった時点で、

「世間から身を隠すこと」が決められたのでしょう。


忌部氏

2018-02-22 17:02:22 | 阿波・忌部氏1

<つるぎ町・貞光吉良>

 

「忌部氏」という一族をご存知でしょうか?

数ある古代豪族の中でも、

最も謎に包まれた集団と言われるこの氏族。

物部氏や蘇我氏などの活躍の陰に隠れ、

歴史の表舞台にはほとんど登場せず、

また、彼らを記した史書などの類も

ごく最小限に限られています。

 

一説によれば、物部氏と秦氏が縁戚関係を

結んだことにより誕生した部族であるとか、

古代イスラエル12支族の祭祀家系、

「レビ族」の末裔であるとか言われますが、

その出自を明らかにする資料はありません。

 

実は、今回の剣山ツアーを企画した理由も、

「忌部氏って何だろう?」と思ったのが発端で、

調べて行くうちに、この阿波の地のあちこちに、

忌部氏、ユダヤ、海人族など興味あるテーマが、

こぞって集結していることを知りました。

 

とは言え、忌部氏という存在は、

専門家でもサジを投げるくらい、

実在した痕跡が見えにくい人々ですから、

素人が手に負える対象ではないのも確かです。

まずは、頭の中をきちんと整理する意味でも、

忌部氏についての概要を綴ってみたいと思います。


葬られた存在

2018-02-21 21:13:01 | 阿波・忌部氏1

<木屋平・三木家>

 

 ***** 忌部1/阿波忌部氏 *****

「神社」なる対象にどっぷり浸かっていますと、

「古代豪族」というキーワードは、

避けて通れない鬼門のような存在です。

しかし、物部系、藤原系、秦氏系……、

などと書かれた神社の由緒を目にしても、

なぜか釈然としない気分が湧いてくるもの。

確かに史実的には間違っていないのでしょうが、

その奥にあるはずの「大元の存在」が、

消されているような気がしてならないのです。

恐らく、その「陰の部分」にこそ、

神社の真の姿が隠されているのかもしれません。

 

というわけで、これからご紹介するのは、

長い間、歴史の闇に葬られた

ある部族についてのお話です。

阿波にゆかりの深いその一族は、

私たち日本人の心の拠り所である神々を、

目に見える形として残した人々でもあります。

最後にどんな展開が待ち受けているのか、

皆目見当がつかない状況ではありますが、

よろしければ、しばしの間おつき合いください。

 

【参考書籍】

忘れられた日本の村 筒井功

大麻と古代日本の神々 山口博

日本の建国と阿波忌部 ~麻植郡の足跡と共に~ 林博章

倭国創生と阿波忌部 林博章


見ること

2018-02-20 09:40:26 | 剣山・イスラエル

<つるぎ町・一宇>

 

地方の小さな神社を巡っていて感じるのは、

「見ること」の大切さです。

ガイドブックにも載っていない、

ささやかな神域を探し当てるには、

自らの力で「見ること」が必須で、

わざわざ見ようと意識しなければ、

確実に見逃してしまうような場所が無数にあります。

 

森の中にひっそりと佇む祭壇や、

草木に埋もれ朽ちかけた石の祠、

あるいは山深いの限界集落の神社など、

見ようとしない人にとっては、

一生見えない場所なのでしょう。

 

ただ、そんな「忘れられた場所」に、

誰かが目を向けることで、

場の空気は明らかに変化します。

たとえ、特別な神事などをしなくても、

「見ること」により救われる何かが存在するのですね。

地元の人が気づかない何かを見つけることは、

よそ者にとっての大事な役割なのかもしれません。


古代の道

2018-02-19 09:30:56 | 剣山・イスラエル

<つるぎ町・一宇>

 

現代に生きる私たちが、

「道」と聞いてイメージするのは、

主に車の通るアスファルト道路や、

人々が歩く平地の歩道だと思います。

一方、古代において道といいますと、

そのほとんどが「川」であり、

また山間部に住む人々にとっての道は、

山と山とをつなぐ「峰々」でした。

 

実は、ほぼ山地で占められた、

四国という地域は、

意外にも平野が少ない場所です。

今では山と山の間の深い谷底を

這うようにして鉄道が走っていますが、

線路が敷かれたのはごく最近で、

それまで道と言えば「山の尾根」

を指していたと聞きます。

 

この地に住む人々は、

平地に下りて用事を済ませるのではなく、

山に登り尾根伝いに移動しながら、

他の地域の人々と交流していたのですね。

この地の有力者の多くが、

集落の最上部に家を建てたのも、

「道」の重要性を知っていたからなのでしょう。


山上の恩恵

2018-02-18 09:28:53 | 剣山・イスラエル

<池田町・川崎地区>

 

都会や平地に住む人間から見れば、

ただただ険しい剣山の一帯ですが、

今なお山頂のごく近くにまで民家が立ち並び、

「山上集落(高地性集落・傾斜地集落)」

と呼ばれる伝統的な生活様式が、

あちらこちらに残っています。

今回の旅では、目的の神社を巡る合間に、

これらの山上集落の中に隠れるように存在する、

「古代の痕跡」を探し歩いてまいりました。

 

奈良や熊野などの山間地とは違い、

この地方に点在する集落のほとんどは、

切り開かれた山の傾斜地にあるため、

ふもとの町からも車道からも、

周囲の景色がよく見渡せます。

狭さや角度といった面だけを考えると、

かなり心身に負担のかかる道中ですが、

「遠くを見渡せる安心感」は、

古くからこの地で暮らす人々にとって、

大きな心の拠り所となったのでしょう。


阿波の熱

2018-02-17 10:14:44 | 剣山・イスラエル

<つるぎ町・貞光>

 

剣山周辺の資料を集めるにあたり、

関連市町村のHPなどを眺めていますと、

「イスラエル」「ソロモン」「秘宝」など、

他の都道府県の観光パンフレット等では

あまり見られないマニアックなキーワードが、

堂々と使用されていることに驚きを感じます。

 

普通のお役所であれば、到底許可されないような

「根拠のない伝承の数々」、また数十年前まであれば、

不敬罪にも等しかった「日本人とユダヤとの関係」を、

何の臆面もなく観光PRに利用する

徳島および剣山周辺の自治体の心意気に、

圧倒されっぱなしの旅でもありました。

 

予備知識を入れるために読んだ、

地元在住の著者の本の内容に関しても、

過去に目を通したどの地域の資料より、

故郷に対する「熱」が伝わってきます。

言うなれば、その抑えきれない感情こそ、

四国や剣山周辺に「追いやられた」

古代阿波人の無念の思いなのかもしれません。


日本とユダヤ

2018-02-16 10:03:10 | 剣山・イスラエル

<磐境神明神社 いわさかしんめいじんじゃ>

 

剣山の神社について調べている最中、

日本とユダヤとのつながりに関し、

「懐疑的」な態度を通り越して、

「否定的」な態度すら取るような人が、

想像以上にたくさんいることを知りました。

確かに、偶然だと言えばそれまでですし、

日ユ同祖論を支持する人や、

阿波ユダヤ王国説を唱える人たちの議論が、

少々冷静さに欠ける傾向が

あることも否定できません。

 

ただし、「そんなの嘘に決まっている」

「そんな話はこじつけに過ぎない」

と思いながら世の中を見渡すより、

「もしそうだとしたら……」

という視点で周囲を眺めたほうが、

より豊かなアイデアが降りてくる

ということを日々実感しております。

日本と古代ユダヤとの関係の中には、

これからの動乱の世を生き抜くヒントが、

数多く含まれていることだけは確かなのです。


知られざる一面

2018-02-15 09:50:03 | 剣山・イスラエル

<見ノ越峠>

 

剣山周辺が、「ミステリースポット」として、

一部の人たちの間で有名になった背景には、

元イスラエル大使の影響があるのでしょう。

前駐日イスラエル大使のエリ・コーヘン氏は、

剣山一帯に点在するいくつかの遺跡を巡った結果、

そのどれもが故郷の文化によく似ていることに、

驚きを隠せなかったと聞きます。

 

また、元大使だけでなく、

様々なイスラエルの要人が、

この地をお忍びで訪れている、

という噂があることから考えても、

両者のつながりを証明する何かが、

剣山一帯に潜んでいることは、

一部のユダヤ系の人たちの間では、

周知の事実だったのかもしれません。

 

恐らく、これから私たち日本人は、

他の民族の人たちから指摘されて初めて、

「日本のすごさ」を見出すのでしょう。

日本という国の知られざる一面が、

世界を動かし、地球を生かすための

「重要な宝」に値するという事実を、

海の向こうの人々の言葉によって、

気づかされるのだと思います。


ユダヤの物証

2018-02-14 09:43:31 | 剣山・イスラエル

<倭大国魂神社 やまとおおくにたまじんじゃ>

 

倭大国魂神社の神紋との噂もある、

ユダヤ教のメノラーという祭礼用の燭台は、

七つの枝を持つ特徴的な形をしています。

七つの枝と聞いて思い浮かぶのは、

3本の枝刃が段違いに配置された、

石上神宮の国宝・七支刀ですね。

石上神宮の祭祀を司った古代豪族・物部氏は、

イスラエル氏族の末裔とも言われていますし、

ふたつのシンボルに共通点が見られるのは、

さほど不思議な流れではないのでしょう。

 

ちなみに、剣山一帯が「ユダヤゆかりの地」

として、広く知られるようになった発端は、

元イスラエル大使の発言だったそうです。

剣山一帯を隈なく歩き回ったその方は、

この地に伝わる数々の伝承、

特徴的な祭壇、意味深な形象……、

などに触れた結果、ユダヤとの共通項が、

数多く存在することに驚嘆したのだとか。

日本各地に、イスラエルとの関連を

うかがわせる場所は多々あるものの、

「物証」がこれほど一か所に集中しているのは、

恐らく阿波・剣山一帯だけなのかもしれません。