たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

意味深なライン

2019-06-06 09:12:37 | 鉄の神々1

<内宮 ないくう>

 

日本地図をつらつらと眺めておりますと、

この国全体が「レイラインによって作られた聖地」

であることを改めて実感します。

極端にいうならば、ある聖地と聖地をつなげば、

必ずどこかに「意味ありげなライン」が引かれ、

逆に地図上にラインを引くと、必ずどこかに

「意味ありげな聖地」が登場するというわけですね。

 

ゆえに、レイラインをやたらと大げさに

取り上げるのは気が引けるのですが、

参考の意味で、岡山県津山市・中山神社から

徳島県奥祖谷・高知県物部までのラインに、

もう少し解釈を付け加えますと、

 

1. 中山神社⇔倭大国魂神社の中間点ラインは、

仁徳天皇御陵や住吉大社付近をかすめ石上神宮へ

2. 石上布都魂神社⇔倭大国魂神社の中間点ラインは、

伊弉諾神宮を通り伊勢内宮(いわゆる太陽の道)へ

3. 石上布都魂神社⇔奥祖谷・物部村の中間点ラインは、

葛城山や金峯山寺を通過し伊雑宮へ

 

といった具合に、すべてが「ユダヤ」

「神器」の痕跡と絡んでくるのが意味深です。

 こうした意図的な配置が、岡山近辺にまで

形成されるという現象は、古代史の謎を解く上で

想像以上に大きな意味を持つのかもしれません。


物部氏の役割

2019-06-05 09:07:37 | 鉄の神々1

<別府狭>

 

三種の神器のひとつ「草薙剣」は、

もともと「異民族の武器」でありながらも、

スサノオにより国津神の御魂が宿され、

最終的には天津神が所持する神器となりました。

言うなれば、草薙剣には大陸系の神霊と日本固有の神霊、

そして天津神系の神霊とが混在し、

複雑なエネルギーを放出していたのでしょう。

 

それに対し「八咫鏡」は、

天照太御神の御魂が宿る天孫族の象徴であり、

純粋に神の依り代として作られた

銅製(もしくは石製)の神器です。

つまり、中山神社の主祭神を「剣(オオナムチ・金山彦神)」

から「鏡(鏡作神・石凝姥命)」へと差し替えることは、

国津神から天津神への権力の移行を示すだけでなく、

「鉄」が日本を席巻する以前の「古い日本」を

取り戻そうとする意図を感じさせるのですね。

 

恐らく、中山神社・石上布都魂神社・倭大国魂神社に、

鏡・剣・勾玉という神器の形代を一直線に並べることで、

ヤマトへと続く海の玄関口である「播磨灘」に、

国難を防ぐための霊的な結界を張ったのだと思われます。

そして、それらの中心的役割を果たしていたのは、

美作(吉備)周辺でオオナムチを奉斎し、

同時に剣山の南麓で独自の祭祀を行っていた

物部系の一族だったのかもしれません。


3つのご神鏡

2019-06-04 09:01:02 | 鉄の神々1

<津山市一宮>

 

以前考察した、赤磐市・石上布都魂神社と

徳島県美馬市・倭大国魂神社の間を結ぶ、

「剣」と「勾玉」のラインを、

さらに北のほうへとまっすぐ伸ばしてみますと、

美作国一の宮である中山神社に突き当たります。

そして、中山神社と倭大国魂神社をつなぐ直線の

中間地点から、東へと直線を引いてみたところ、

なんと(というかやはりというか)

奈良の石上神宮が鎮座していました。

 

つまり、津山市・中山神社に「石凝姥命」を派遣したのは、

単に「鉱物の神だから」「鏡作部の拠点のひとつだから」

といった理由ではなく、「ここに鏡を置く」

という明確な意図のもとに発案された、

「祭祀プラン」だと考えられるのですね。

 

ちなみに、中山神社近くの個人宅には、

3つのご神鏡の「拓本」が残っているそうで、

この神社のご神体が鏡であったことを

物語る有力な手掛かりとなっています。

ご神鏡本体の行方や制作年代などの詳細は不明ですが、

なぜ奈良から遠く離れた吉備国(美作国)に、

わざわざ豊鍬入姫命が「八咫鏡」そして

「草薙剣」を携えてやってきたのかを想像すると、

中山神社に「剣」ではなく「鏡」を置いた背景が

うっすらと見えてくるような気がするのです。


青銅器の神

2019-06-03 09:49:33 | 鉄の神々1

<銅鐸資料>

 

一説に、石凝姥命という神は、

「鉄」ではなく「青銅器」を司る神であり、

鉄の普及とともに登場した他の鉄の神々よりも、

古い歴史を持つそうです。

またこの神は、天孫族に随伴して

来日した神の一柱であることから、

国津神系の鍛冶神・鉱物神とは役目が異なるため、

単純に「鉄の神グループ」に組み込むのは

難しいポジションでもあります。

 

恐らく、中山神社のご祭神が

石凝姥命へと差し替えられた経緯には、

いわゆる「国譲り」の儀式とは一線を画す、

別の思惑が含まれていたとも考えられるのですね。

 

金屋子神、金山彦神、天目一箇神、

さらにはオオナムチ、タケミカヅチに至るまで、

多種多様な「鉄の神」が存在する中で、

石凝姥命(を祖神とする部族)が

中山神社のご祭神として選ばれたのは、

もしかすると彼らが「青銅器」という祭祀具を

作り続けてきた一族だったからかもしれません。

 

この一帯から大量の銅が産出したことなどを踏まえれば、

美作国周辺が「鉄の武器庫」となる以前は、

祭祀用の銅製品の生産地だった可能性も高いのでしょう。

青銅器から鉄、つまり土着寄りの神道から

渡来寄りの神道へと移行した時代の流れを、

再び古い祭祀形態に戻したいという意図が、

この「天孫系の鉄神」の動きから読み取れるのです。


石凝姥命の部族

2019-06-02 09:43:10 | 鉄の神々1

<銅鏡資料>

 

現在の中山神社のご祭神である鏡作神は、

通称「石凝姥命(いしこりどめのみこと)」

と呼ばれる鏡作部の祖神です。

一般的にこの神は「産鉄」を司る神として祀られ、

皇祖ニニギとともに日本の地に降り立った、

天孫族の側近部族ともいわれています。

 

恐らく、中山神社に天孫系のこの神が

祀られるようになったきっかけも、

美作国が古くから鉄の生産地であり、

長い間「鉄の神」をお祀りしてきたことと

無関係ではないのでしょう。

 

しかし、よくよく考えてみますと、

鏡作神はあくまで「鏡(および石)」の神であって、

「剣(および鉄)」を暗示させる名ではありません。

『日本書紀』においては、

「矛やフイゴを作った神」と記されるものの、

鉄穴の神である「オオナムチ」や、

鉱山を示す「金山彦神」と比べると、

やはり「剣」や「鉄」の印象からは遠ざかります。

 

ここ美作国周辺でも、

他の「イズモ」と同様に国譲りが行われ、

天皇の側近部族が新たな支配者となり、

中山神社のご祭神が国津神系から

天津神系へと変更されたのは確かです。

だとすればなぜ、この中山神社は

他の鉄神や鉄神を崇める部族ではなく、

「鏡」の神や「石凝姥命」を奉斎する鏡作部が

管理する流れとなったのでしょうか……。


様々な鉄の部族

2019-06-01 09:37:33 | 鉄の神々1

<津山市一宮・鵜ノ羽川>

 

奥出雲・金屋子神社の由緒書『金屋子神祭文』の中には、

「金屋子神は播磨国から出雲国にやって来た」と書かれています。

一方、播磨国の鉄の民である「別部の犬」に関しては、

出雲に入ったという明確な記述が見当たらないことから、

金屋子神を奉ずる一族と別部の犬とは、

無関係だった可能性も考えなければいけません。

つまり、金屋子神の一族は和気氏の配下ではなく、

何処からか播磨国に降り立ち、

播磨国や美作国で鉄の支配権争いをしたのちに、

単独で出雲に向かったという推論も成り立つのでしょう。

 

考えてみますと、別部の犬とのつながりが

暗示される「隼人」という集団は、

天皇の側近として宮仕えしてきた歴史があり、

また和気氏に関しても皇室とゆかりの深い氏族です。

詳しく調べたわけではないので断定はできないものの、

隼人に関する逸話や和気氏の振る舞いなどを踏まえると、

「贄」を否定する立場だったと仮定したほうが

しっくり来るような気もします。

果たして、この土地の「鉄」に関わる部族たちは、

各々どのようなポジションを取っていたのか……、

それらに関する考察を深める前に、中山神社に潜む

「ある疑問」について記しておくことにしましょう。


闘争のリピート

2019-05-31 09:03:16 | 鉄の神々1

<津山市・吉井川>

 

和気氏が備前・美作一帯の「鉄」を掌握し、

朝廷に強い影響を及ぼす有力豪族となったのも、

吉井川という存在があってこその成果だったと聞きます。

津山市内を流れる吉井川周辺では、

古代「タタラ製鉄」が盛んに行われており、

またその支流にあたる鵜ノ羽川(うのはがわ)でも、

鉄滓など鉄穴流の跡が見つかっているのだとか……。

恐らくこの近辺で、砂鉄を巡る「鉄の民」同士の争いが発生し、

中山神社の遍歴に影響を与えたことは間違いないのでしょう。

 

ここで、中山神社のご祭神の流れを整理しますと、

1. もともと磐座祭祀の聖地だった吉備の中山に、

「人間の贄を要求する猿神」が入り込む

2. 当時の国の首長であった「オオナムチ

(および古参の渡来系部族・物部氏)」が猿神を打ち取る

3. 新参の渡来系部族である

「鹿の贄を要求する金山彦神」との争いに負け、

オオナムチが土地を手放す

4. 後年にやってきた「鏡作神」たちが、

金山彦神を追い出しこの地を支配する

……といったイメージになります。

 

「猿神」が何を意味するかによって、

多少順序は入れ替わるかもしれませんが、

恐らく猿神の伝説というのは、

「生け贄」を要求する部族と、

古来からの祭祀を守ろうとする部族との争いを

総括した話なのかもしれません。

ときに「播磨の犬」たちの力を借りながら、

ときに「鏡作部」たちの支援を得ながら、

時代を跨ぎつつ同じような闘争が

リピートされてきたのでしょう。


東から来た犬

2019-05-30 09:57:54 | 鉄の神々1

<和気神社 わけじんじゃ>

 

昨日、津山市・中山神社の末社

「猿神社」に伝わる「生け贄」の伝承から、

この地の鉄を巡る歴史について考えてみました。

そこで気になるのが、生け贄を要求する中山神に対し、

東方からやってきた猟師が放ったという

「たくさんの犬」という文言です。

 

恐らくこれまでの流れを考えれば、

この「犬」というのは単なる猟犬ではなく、

「タタラ族の配下にいた者」という意味なのでしょう。

もしかするとそれらの人々は、

東の播磨国にいた「別部の犬」ともつながる集団であり、

この地の鉄事情を詳しく知る

「山師」だったのかもしれません。

 

ちなみに、以前のブログで

「播磨国の鉄を管理していた別部の犬たちは、

出雲の砂鉄に目を付けた和気氏の配下となり、

(金屋子神とともに)奥出雲の里へと派遣された……」

と推測しましたが、仮に播磨から来たとされる金屋子神が、

「生け贄」の習俗を要するタタラ民だったとすれば、

中山神社の猿神を退治した「犬(生け贄部族の敵)」と、

出雲に派遣された「犬(生け贄部族の配下)」を、

「別部の犬」として一括することがためらわれます。

となると、東から来た「犬」たちとは、

いったいどんな出自の人々だったのでしょうか……。


鉄と生け贄

2019-05-29 09:53:35 | 鉄の神々1

<岩井戸神社 いわいどじんじゃ>

 

津山市・中山神社の末社「猿神社」のご祭神は猿田彦神です。

恐らくは「猿神」の「猿」という言葉から、後年になって

「猿田彦」の名前があてがわれたのだと思われますが、

猿田彦という神を能登の猿鬼の物語と同様、

「渡来系の部族」という観点で捉えてみると、

いくつかの興味深いイメージが沸き上がってまいります。

 

ひとつは、この神社に祀られている猿田彦神とは、

「猿田彦族にいたならず者」という意味であり、

オオナムチ(大国主神)に討ち取られて、

磐座に封印された可能性。

もうひとつは、「同族のならず者」

を打ち取った猿田彦族の長が、

のちに神となりこの神社に祀られた可能性です。

 

どちらかが正しいかはさておき、

言えるのは古くからこの地に

「生け贄」という習俗があり、

それを排除するために土地の首長らが

力を奮っていたということですね。

恐らく、「生け贄習俗と鉄」との間、

そして「生け贄部族と鉄の部族」との間には、

切っても切れない因縁が存在したのでしょう。


猿神の正体

2019-05-28 09:49:29 | 鉄の神々1

<中山神社 なかやまじんじゃ>

 

津山市・中山神社に関する文献には、

「猿神(猿神社)の磐座そのものが、もとの中山神社だ」

という記述があるのだそうです。

恐らくここ中山神社でも、赤磐市の石上布都魂神社と同様、

古代は猿神社の付近で磐座祭祀が行われていたのでしょう。

その磐座がなぜ「猿神」と呼ばれるようになったのか、

その謎を解くカギが『今昔物語』や

『宇治拾遺物語』の中に残されていました。

簡単に内容をご説明しますと、

 

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昔、美作国に中山神(一の宮・中山神社)と

高野神(二の宮・高野神社)がいました。

中山神は猿、高野神は蛇をご神体としていましたが、

中山の猿神は毎年娘を生け贄に差し出すよう

村人に要求していたそうです。困った村人たちは、

東方からやって来た「猟師」にたくさんの

「犬」をけしかけてくれるよう頼み、

この猿神を退治したと言われています。

* 殺されそうになった猿神が宮司に神がかり、

「今後、人間の生贄を止める」と誓い、それ以降は

「猪や鹿」を贄に用いるようになったという説もあり

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「生け贄を要求した猿神が退治される」というこの一節。

「どこかで聞いたような……」と記憶をたどって行くと、

猿田彦族のならず者が猿鬼となって村人を苦しめた

(と推測する)「能登の猿鬼」の話に行き着きました。


減らせる被害

2019-05-27 09:45:56 | 鉄の神々1

<三輪山>

 

パワースポットで感じるパワーとはつまり、

「日常生活との違和感」だと個人的には考えております。

例えるなら、神社や祭祀場などの聖地に漂う「古い時代の空気」を、

「ビリビリ」とか「ジリジリ」といった感覚で受け止めているだけで、

それらが一律に「人間に力を与える善なるもの」だとは限らないのですね。

 

もちろん、すべてのパワースポットがそうではないと思いますし、

個人的に神霊などを感じる能力もありませんが、

メディアや口コミ等で「パワーをもらえる」

などと喧伝する場所に出くわすたびに、

「恐らくここには人が……」と眉をひそめることもしばしば。

 

その地に縁ある人々が参拝するのはともかく、

パワスポという名の「因縁の土地」に遠方から出向くことは、

百害あって一利なしなのでしょう。神社巡りをしておりますと、

どうしてもこういった場所を避けることは難しいものです。

ただし、ちょっと労力を使って「調べる」時間を取ることで、

減らせる「被害」は案外多いのかもしれません。


中山の猿神

2019-05-26 09:42:12 | 鉄の神々1

<中山神社 なかやまじんじゃ>

 

『今昔物語』や『宇治拾遺物語』

の中に登場する「中山の猿神」は、

津山市・中山神社の境内奥にある「猿神社」のご祭神です。

聞くところによりますとこの猿神社は、

本殿裏手の5分ほど坂道を上った岩の上に鎮座し、

社の中には子宝や安産のご利益を求めて奉納された、

布製の赤猿のぬいぐるみがたくさん吊るされているのだとか……。

実際に確認したわけではないので断定はできませんが、

恐らく古くからの「民間信仰」の名残なのでしょう。

 

ちなみに、今回の計画を立てた当初、中山神社へ行くのなら

「猿神社は絶対に外せない」と参拝する気満々でいたものの、

いざ入り口へ向かって歩き出したとたん、

どうにもこうにも足が進まなくなり、

参道へと続く鳥居の前で引き返してきた経緯があります。

夕暮れ時という微妙なタイミングも重なったと思われますが、

薄暗い森の中へと消えて行く小道の奥から、

まるで人間の侵入を拒むかのように

押し寄せてきたザワザワとした感覚は、

「物の怪の気配」とでも表現すべき異様な空気感でした。


鹿の献上

2019-05-25 09:36:45 | 鉄の神々1

<たつの市龍野町>

 

「鹿」の献上という言葉を聞きますと、

思い浮かぶのが諏訪大社の特殊神事です。

「鹿」という動物が聖なる獣として扱われ、

古代祭祀と深く関わっていたことは、

これまでの記事内でも述べてきましたが、

美作国の中山神社周辺に、

「鹿の生け贄」の伝承が伝えられている事実は、

諏訪や出雲などと同様、この地にも「贄」の風習を持つ

渡来系部族が入り込んだ可能性を示すのでしょう。

 

恐らく、吉備一帯を古くから治めていた物部氏は、

これら渡来系タタラ民との争いに敗れる結果となり、

物部氏が奉斎していた中山神社の「オオナムチ(大国主神)」も、

渡来系タタラ民の守護神である「金山彦神(金屋子神)」

へと入れ替わったのかもしれません。

そしてこれらの一件が、美作国が吉備国から

独立するきっかけを作り、播磨国の渡来系タタラ民が、

出雲国へと勢力伸ばす足掛かりになったとも推測できます。

 

それにしても、「贄」の風習を持つ集団というのは、

いったい何の目的でどこから日本へとやって来たのでしょうか……。

周辺調査をしてみますと、この中山神社には

「贄」に関わるもうひとつの伝承が伝えられていたのでした。


鉄を巡る争い

2019-05-24 09:32:51 | 鉄の神々1

<中山神社 なかやまじんじゃ>

 

昨日ご紹介した、美作国一の宮・中山神社に伝わる話以外にも、

『中山神社縁由』の中には、「地主神であるオオナムチは、

中山神にこの地を譲り、境内の祝木(いぼき)神社、

あるいは国司(くにし)神社に退かれた」

という一節が記されています。

現在、中山神社に祀られるの神は「鏡作神」ですが、

もしかするとそれ以前は「金山彦神」、

さらに古くは「オオナムチ」が祀られていた

可能性もありそうですね。

オオナムチから土地を譲られた(奪った)金山彦神は、

出雲の金屋子神とも同一視される存在ですし、

もしかするとこの美作国でも「新旧のタタラ部族」

の争いが勃発していたのかもしれません。

 

また、日本書紀の中では、

「天岩戸隠れの際、石凝姥という鍛冶屋が、

香具山の金(かね)を採って日矛(ひほこ)を作り、

真名鹿(まなか)の皮を丸ごと剥いで、

天羽鞴(あめのはぶき)を作った」という記述があります。

「天羽鞴」は「鞴(ふいご)」と呼ばれる、

鉄を熱したり銅を熔かしたりする送風装置のことで、

炉に空気を送り込み炭を勢いよく燃やすために用いられました。

つまり、オオナムチと中山神(金山彦神)との国譲りにおいて、

中山神(の眷属神)が乙麿に命じたのは、

製鉄機械の材料となる「鹿」を献上することだったのでしょう。


中山の国譲り

2019-05-23 09:29:04 | 鉄の神々1

<中山神社 なかやまじんじゃ>

 

美作国一の宮・中山神社には、

いくつかの興味深い伝承が伝えられております。

まずは、『中山神社縁由』に書かれている

内容の一部をご紹介しましょう。

* 一部をわかりやすくアレンジしています

 

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1.昔、オオナムチを信仰していた、

物部肩野乙麿という人物がいました。

その男は三度の飯より賭博好きで、

またその腕にも自信を持っていたため、

たまたま道で出会った老人から、

土地を賭けた勝負を挑まれた際も、

勇んでその申し出を受け入れます。

しかし、その老人はあろうことか、

中山神(金山彦神)の化身だったのです。

勝負に負けた乙麿はその代償として、

オオナムチを祀っていた地を中山神に譲ることになりました。

 

2.物部肩野乙麿は、オオナムチが鎮座していた場所を

中山神に奪われたことに、次第に不満を募らせて行きます。

しかし中山神の眷属・狼神が、乙麿に取りついて祟ったため、

乙麿は「毎年二頭の鹿を供えるから許して欲しい」と懇願しました。

狼神は、二頭の鹿の贄と牛馬市を開くことを条件に

この申し出を許可し、乙麿は近隣の弓削郷という場所に退きます。

 

3.弓削郷に退いた物部肩野乙麿でしたが、

しばらく経つと鹿贄の祭りを怠るようになりました。

するとまた、狼神の祟りに悩まされるようになったため、

今度は狼神を弓削郷の志呂神社に勧請して祀り、

その後中山神社に鹿を供える風習は途絶えたそうです。

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この話にあるように、中山神が金山彦神であるとすれば、

この地でもオオナムチ(大国主神)から金山彦神への

国譲りが行われたと考えても不思議ではないのでしょう。