たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

古代史のタブー

2019-01-14 09:01:05 |  能登の神社

<青柏祭資料>

 

能登という魅力的な土地に関しては、

まだまだ書きたいことはたくさんあるのですが、

いかんせん今回は、訪れた神社の数が

限られていることから、

続きの内容はまた別の機会に譲ることとして、

最後に「生け贄」という習俗ついて

簡単に触れておきたいと思います。

能登の祭りや伝統と接する中で印象に残ったのは、

古代の能登人が「生け贄」という価値観に対し、

「どう対峙すればよいか」と

常に考えあぐねていた痕跡でした。

 

それは、子供や娘を「害獣」から守る

という現実的な問題だけでなく、

厄災避けのために「生け贄」を用いることへの

抵抗感とも言い換えられるわけで、古代のある時期、

大陸よりもたらされた「生き物の犠牲を伴う魔術」を、

自らが生き残るために取り入れるのか、

それともあくまでも古来のやり方を死守するのか、

長きに渡る人々の試行錯誤の結果が、

様々なバリエーションの「能登の祭り」

を生み出したとも想像できます。

 

古代日本を俯瞰する中で、

「生け贄」という習俗は避けて通れない重要テーマです。

かなり生々しい問題であるがゆえに、

歴史および縄文を語る人の多くが、

あえて「見なかったこと」にしがちですが、

これからの日本のあり方を考える上でも、

タブーにしたまま放置することは難しいと思われます。

というわけで、このあたりでまた「出雲」に舞い戻り、

これらのテーマなどを絡めつつ、

さらなる空想話を進めて行くことにしましょう。

 

【参考書籍】

出雲の神々に出会う旅 川島芙美子

古代史謎解き紀行Ⅱ~神々の故郷出雲編 関裕二

葬られた王朝 梅原猛

古代の鉄と神々 真弓常忠

民俗・地名そして日本 谷川健一

 

【参考サイト】

ダイドードリンコ 日本の祭り

日立金属(株)

神奈備

紙老虎の歴史漫歩

民族学伝承ひろいあげ辞典

kokoro's 神社空間


縄文の精神

2019-01-13 09:58:05 |  能登の神社

<鬼面資料>

 

輪島市名舟に伝わる「御陣乗太鼓」という郷土芸能は、

戦国時代に能登平定を試みた上杉謙信の軍を追い払う、

名舟の村人の姿を表現したものだと言われております。

何でも、多数の兵を連れ村へと押し寄せた上杉軍に対し、

村人たちは古老からの指示に従い、

各々奇怪な面をつけ太鼓を打ち鳴らしながら、

兵士たちの就寝中を狙い奇襲をかけたのだとか。

この世のものとは思えない妖怪の出現に驚いた上杉軍は、

戦わずして退散を余儀なくされたという話です。

 

「御陣乗太鼓」を見ながら感じたのは、古代の能登人は、

鉾や槍などの「武器」を持って争うのではなく、

ある種の「祭祀」や「呪術」を拠り所に、

「敵」と対峙していたのではないかということでした。

気多大社の「鵜祭」において、

神に差し出した「鵜」を殺さず海に放つように、

また真脇でイルカ漁をしていた人々が、

食したイルカの魂を丁重に海に送り返したように、

自分たちとは相容れない価値観をより分け、

最後まで「縄文の精神」を守ろうとしていたのかもしれません。


縄文の息吹

2019-01-12 09:49:16 |  能登の神社

<輪島市名舟町>

 

「能登の旅」の中で最後にご紹介したいのは、

輪島市名舟町の名舟大祭です。

人口約250人の小さな海辺の集落に伝わる

このお祭りは、「御陣乗太鼓」という名の

郷土芸能が披露されることで知られており、

奇遇にも今回はその実演を目にすることが叶いました。

本来は、7月31日夜から8月1日にかけて行われる、

名舟大祭のみでの演目だったようですが、

現在は輪島や七尾などの観光施設において、

季節を問わず生の演奏を拝見することができます。

 

以前、大祭の様子を映したTV番組を見た際、

その独特の太鼓のリズムと、

演者たちの鬼気迫る所作に圧倒され、

いつか「生で見てみたい」と思っていたこの御陣乗太鼓。

誕生の起源は戦国時代だと言われているものの、

実際にその演舞を目の当たりにしますと、

そこかしこに「縄文の息吹」が

漂っていることを実感します。

海藻や苧麻、馬のしっぽなどで飾った

個性的な「仮面」の数々は、

ある種古代に暮らしていた「能登人」の

多様性を示すかのような趣を感じました。


鬼との邂逅

2019-01-11 09:44:01 |  能登の神社

<岩井戸神社 いわいどじんじゃ>

 

能登の祭りの起源について空想しておりますと、

「縄文人」の実像が非常に複雑であることを実感します。

一般的には、「弥生人に征服された縄文人」

あるいは「天津神に土地を譲り渡した国津神」といった、

一元的な視点で古代日本を推論しがちですが、

特に後期縄文人、晩期縄文人と呼ばれる人々は、

すでに渡来人との融合が進んでいたため、

厳密な意味での「原日本人」とは

言えない部分もあるのでしょう。

恐らく、土着系の縄文人と

渡来系の縄文人との間で起きた軋轢が、

この地では「猿鬼伝説」の基盤となり、

のちの「縄文人vs弥生人」や「ヤマトvsイズモ」

の構図に組み込まれたのかもしれません。

 

古くから「異形のモノ」との接触を繰り返す中で、

土着の能登縄文人たちは、自らの遺伝子を残す策として、

「渡来人との和合」を推し進めてきた

部分があるのだと思います。

吉凶入り混じった刺激を受けながらも、

生活のすべてを新たな価値観で染めず、

ある意味したたかに「縄文の魂」を

守ってきたとも言えるのですね。

能登半島の祭りの中に濃厚に漂う

「渡来人の軌跡」および「呪術の残り香」は、

この地の人々が、子供や娘を食らう「悪鬼」から、

有益な知恵を授ける「善鬼」まで、

様々な「鬼」と邂逅してきた歴史を

物語っているような気がするのです。


善い猿

2019-01-10 09:13:06 |  能登の神社

<七尾市中島町>

 

七尾の青柏祭の由来に登場する、

「猿」という言葉聞いてふと思い浮かんだのは、

七尾市を中心に能登一帯で祀られる

「猿田彦」という神様のことです。

先日記事にした、七尾市中島の「お熊甲祭」ように、

能登には猿田彦が登場するお祭りがいくつかあり、

能登町の「弓引き祭り」では、

猿田彦に扮した天狗面の男が、

弓を的に当てさせまいと槍を振り回し、

射的の邪魔をするのだとか。これは

射手の精神集中を促す所作だと言われていますが、

能登と猿との関わりを考えると、

どことなく腑に落ちない部分もあるのも事実です。

 

ちなみに、赤い顔と高い鼻が特徴的な猿田彦は、

神話の中では主に「天孫族と土着の民との

橋渡しをする役目」を担っているため、

天津神とも国津神とも言えない

微妙な立場に置かれています。

恐らく、能登の来訪神のモデルのひとつが

この猿田彦(の一族)であり、その異様な風貌から

「猿」とも「天狗」とも称されてきたのでしょう。

猿田彦の一族は、能登の人々に

様々な知恵と文化を授ける一方で、

一部の「ならず者」集団に限っては、

土地に住む人たちの命や財産を

搾取した経緯があったのかもしれません。


悪い猿

2019-01-09 09:06:17 |  能登の神社

<大地主神社 おおとこぬしじんじゃ>

 

一説に、七尾を代表するお祭り・青柏祭の

「老猿とシュケン」の伝承が生まれたのは、

ごく近年だという話があります。

ゆえに、この物語だけを頼りに、

祭りの起源を判断するのは困難ですが、

意味深なのは青柏祭の拠点となる

「大地主神社(おおとこぬしじんじゃ)」が、

明治15年に祇園牛頭天王社を統合するまで、

「山王社」と呼ばれていたということなのですね。

山王社と言えば、「猿」を神使とする神社ですから、

「神社の社殿にいた猿を退治した」という話が、

どことなく「国譲り」を匂わせる内容にも思えてきます。

 

ただ、個人的には「偉い人が害獣を退治した」といった

話のすべてが、「権力者」「大和朝廷」「天孫族」……

等の英雄譚だとは言い切れないと考えており、

天孫族が登場する以前の時代には、

実際に「害獣」に相当するような存在が、

人々の生活を脅かしていた可能性もあるのでしょう。

近代の伝承が生まれる背景には、

必ずそれらの元となるような

古い言い伝えが潜んでいるもので、

この青柏祭の老猿の話も恐らくは、

「猿」を暗示する何かが、この地に

跋扈していたことを示しているのかもしれません。


青柏祭

2019-01-08 09:52:33 |  能登の神社

<大地主神社 おおとこぬしじんじゃ>

 

長々と「能登の祭」を語ってまいりましたが、

能登を代表するある重要なお祭りについて、

未だに触れていないことにお気づきでしょうか……。

その祭りとは、「でか山」という名の

巨大な山車が練り歩くことで知られる、

七尾の青柏祭(せいはくさい)です。

実は、全国的にも有名なこの青柏祭というお祭りは、

「人身御供を要求する猿を退治した」

ことを記念する行事だと聞きます。

由緒によりますと、

 

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その昔、人身御供として、
老猿に差し出さなければ
ならなくなった娘を助けるため、
娘の父親が老猿の住まう
神社の社殿に忍び込みました。
そのとき、老猿が「越後のシュケン」
という存在を恐れていることを知り、
越後まで探しに出かけると、
「長年老猿の行方を追っていた」
と告げるシュケンという名の
白狼と出会ったのだとか。
最終的にシュケンが、自らの命と
引き換えに老猿を退治したそうです。

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つまり青柏祭は、シュケンとシュケンが退治した老猿

(およびその仲間だった2匹の猿)を

慰めるためのお祭りだったのですね。


善悪の渡来人

2019-01-07 09:42:19 |  能登の神社

<岩井戸神社 いわいどじんじゃ>

 

能登の昔話の代名詞とも言える「猿鬼伝説」と、

能登に伝わる「鬼の祭り」の分布図を重ね合わせると、

物語の主人公である猿鬼が、奥能登の伝統行事

「アマメハギ」のモデルになったと考えるのは、

決して不自然な推論ではないでしょう。

もしかすると、猿鬼というのは、

渡来系部族の中にいた「ならず者」で、

子供を食らったり、娘をさらったりするなどして、

村人を悩ませていたのかもしれません。

下手に腕力や呪術力を持っていたことから、

始末をつけるのに苦労した一面があったのだと思われます。

 

真脇の縄文人が「善良な」渡来人から知恵を授けられ、

木柱列を立てたり、土製仮面をかぶったり、

イルカなどの動物を利用したりと、

「人身御供」の代替行為を行っていた一方で、

一部の渡来人たちの間では、大陸由来の生け贄文化が、

脈々と引き継がれていた可能性もありそうです。

能登の「妖怪退治」の場面になると、

必ずと言っていいほど登場する「気多の神」は、

古くからこの地を納めていた「能登の首長」であり、

異端の民たちを征伐した英雄だったのかもしれません。


猿鬼伝説

2019-01-06 09:31:38 |  能登の神社

<能登町当目>

 

能登を代表する伝説のひとつに、

「猿鬼」の登場する話があります。

奥能登地方を中心に語られるこの猿鬼伝説には、

たくさんのパターンがありますが、

かなり長い話になるので、

ざっくりと内容を要約しますと、

 

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その昔、大西山にいた善重郎という
善良なサルの頭領の配下に、
一匹の荒くれ者の悪猿がおり、
善重郎の目を盗んでは
近隣の人々にイタズラをしていました。

そのため、悪猿は大西山を追い出されたものの、
相変わらず農作物や牛馬を食い荒らしたり、
村人をさらうなどしたりしたため、
人々に「猿鬼」と呼ばれ
恐れられるようになったのだとか。

最終的には、気多大社の気多大明神、
大幡神社の杉神姫らの活躍により、
根城としていた能登町の岩井戸の
洞窟のあたりで退治されたということです。

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能登の人身御供を暗示させる神事の多くは、

この「猿鬼伝説」と深く関わると言われています。

猿鬼に娘を差し出さなければならなくなり、

嘆き悲しんでいた村人を助けるため、

神様や武人が猿鬼を退治したという話が、

各々のお祭りに関わる伝承として残っていました。


能登の鬼

2019-01-05 09:26:17 |  能登の神社

<岩井戸神社 いわいどじんじゃ>

 

能登人の気質を表すとき、

「能登は早くから海外と交流していたため、

新たな人や風習を柔軟に取り入れる

大らかさがあった」などと言います。

ただし、裏を返せば「長いものに巻かれる」

という道を選ばなければ生き残れないほど、

日々様々な外圧にさらされてきた土地だった、

とも言い換えられるのでしょう。これは決して、

「すべての渡来人が鬼」という意味ではなく、

「様々な思想や価値観を持った人が入り込んで来た」

という意味で、能登の人々にとって「鬼」とは、

ときに力強い味方でもあり、

また恐ろしい敵にもなったのだと思われます。

 

古代の能登を探る中で心に響いて来たのは、

「能登人は寛容だったから」のひと言で、

能登の風土を語ることへの違和感でした。

能登の人々が臨機応変に「異物」を受け入れてきた裏には、

「祭り」という隠れ蓑を利用するしかないほどに根深い、

この地の人々の心の葛藤が見え隠れするのです。

能登という場所に、なぜこれほど多くの祭りが

残されているのかを考えると、そこには

「絶対に祭りを止めてはいけない」という

切実な理由があったのかもしれません。

次回はそれらの謎に迫るべく、能登を代表する

「ある鬼」の伝説について空想してみることしましょう。


如月祭

2019-01-04 09:17:58 |  能登の神社

<重蔵神社 じゅうぞうじんじゃ>

 

面様年頭が行われる輪島の重蔵神社には、

如月祭(きさらぎさい)と呼ばれる

特殊神事が伝えられていました。

聞くところによりますとこの神事は、

「神に生贄として人身御供をした名残」だそうで、

47~48歳の男性が「当元宿」に籠り、

一週間にわたり数多くの神事を行いながら、

前年の当組から引き継いだ

「お当神様」を奉斎するのだとか。

 

最終日の午前0時に行われる献備(けんび)式では、

黒紋付の氏子たちが口元を白紙の三角マスクで覆い、

御供米(人肉)入れたを船形唐びつを、

荒縄で十字に縛って、海藻(女人の髪)、

酒(人血)、餅(髪飾り)などで飾り付け、

神社に運び神前に供えると一目散に逃げ帰るという、

何ともいわくありげな秘儀を執り行うと言います。

 

実は、能登半島に伝わる祭りの中には、

「生け贄」を示すような内容が散見され、

人身御供を彷彿させる伝承などが

各地域に残っているのです。もしかすると、

古代の能登の人々は、すべての「異物」を

やみくもに受け入れてきたわけではなく、

いかにして理不尽な運命を避けるかを考えながら、

祭祀のあり方を模索していたのかもしれません。


面様年頭

2019-01-03 09:09:32 |  能登の神社

<重蔵神社 じゅうぞうじんじゃ>

 

「アマメハギ」と合わせて、

ユネスコ無形文化遺産に登録されたのが、

輪島市の伝統行事である

「面様年頭(めんさまねんとう)」です。

面様年頭は、輪島崎町の輪島前神社と、

河井町の重蔵神社の氏子によって継承されており、

男面と女面をつけ夫婦神に扮した2人の氏子が、

人々の無病息災を願いながら

家々を回り歩く正月行事です。

「アマメハギ」と決定的に違うのは、

神様が家内では終始無言であるということで、

ある意味賑々しく登場するアマメハギ以上に、

静かな畏怖を漂わせるしきたりだと言えるでしょう。

 

多種多様なお祭りを要する能登半島の中でも、

特に輪島の近辺には個性の強い行事が集結し、

一年中どこかの神社や民家で、

特色の異なる祭祀が執り行われています。

先日ご紹介した、あえのことをはじめ、

キリコ巡行を含む輪島大祭、

御陣乗太鼓で知られる名舟大祭、

アマメハギ、面様年頭……等々、

能登を代表するお祭りの多くが、

輪島市近辺に散見されます。

特に、輪島の中心部に鎮座する重蔵神社は、

一年を通して意味深な「奇祭」

が催行される謎多き神社でした。


稲作文化

2019-01-02 09:03:44 |  能登の神社

<白山比咩神社 しらやまひめじんじゃ>

 

能登の真脇遺跡に環状木柱列が造られた時代、

北部九州を入り口として、

相当な勢いで北上しつつあった稲作文化は、

伊勢湾のあたりで一時、

伝来の速度が落ちたという話があります。

つまり、南方から流れ込んできた新たな文化は、

どういう理由か中部地方の一帯において、

一旦伝播を阻まれたということで、

その付近に「縄文文化を死守しようとした何か」が、

存在していた可能性が浮かび上がるのです。

 

能登の人々もこの時期、稲作文化を受け入れるのか、

それとも縄文文化を維持するのかの

岐路に立たされていたのでしょう。

いくら古代の能登人が、

「やさしや」の精神を持っていたとは言え、

やはり他の地域と同様、渡来人や外国人

との軋轢は避けられなかったはずです。

恐らくそれらの選択は、

弥生人に融合(帰属)するのか、

それとも弥生人と争って消滅するのかという、

究極の二者択一だったのかもしれません。


呪詛返し

2018-12-31 09:09:25 |  能登の神社

<国立民族学博物館>

 

記紀を改めて読み直してみますと、

「スサノオの狼藉」や「因幡の白兎」

などの物語の中で、爪を剥いだり、

馬の皮を剥いだり、兎の皮を剥いだり……等々、

何かを「剥ぐ」という痛々しい話が

あちこちに記載されていることに気づきます。

また、八束脛や長脛彦など

「はぎ(すね)」がつく名前は、

先住民族を蔑視した呼称だと

言われていることを考えても、

古くから「剥ぐ」という行為、

あるいは「はぎ」という言葉に、

特別な意味を持たせていたことは事実でしょう。

 

一説に、動物の皮を剥ぐという行為は、

「縄文人特有の野蛮な行動」として、

弥生人から毛嫌いされていたと聞きますが、

古い文献には「天照大御神に猪の皮を献じた」

とも書かれていますし、事実、

生き物の皮を剥いで神に捧げる、

あるいは人間の再生のために

生き物の皮を用いるといった儀式は、

今なお多くの神社の祭祀の中に受け継がれています。

恐らく、アマメハギは「剥ぐ儀式」の代替行事であり、

大切な子供を「鬼」から守るための

「呪詛返し」だったのかもしれません。


真逆の価値観

2018-12-30 09:04:07 |  能登の神社

<国立歴史民俗博物館>

 

真脇遺跡のシンボルである環状木柱列は、

「成人儀礼」を行うための建物跡だ、

という説が有力視されています。

台湾などでは、同型の円形建物の柱穴を要する

古代の集会所跡が見つかっており、

日本でもごく近年まで、集落の人々が集まり

結束を固めるような風習が残っていたそうです。

真脇の木柱列の付近からは、火を熾した炉の跡や

埋葬した人骨などが発見されていないため、

恐らく住居ではなく、祭祀などの「特別な日」

に使用する場所であったことは確かなのでしょう。

 

ちなみに、真脇遺跡から出土した

「大量のイルカの骨」から、この近辺では

イルカ漁が盛んに行われていたことがわかっています。

ただし、真脇遺跡の近隣にある高倉神社では、

イルカを奉納して豊漁を祈願した痕跡が残る一方、

須須神社ではイルカを神を使いとして捉え、

食用にすることを禁じていたのだとか……。

真脇と須須に伝えられた相反する二つの伝承は、

能登の人々の「贄」に対する真逆の価値観を、

如実に表しているような気がしてなりません。