たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

奇跡の地

2018-11-30 09:09:38 |  能登の神社

<羽咋郡志賀町>

 

「祭り」という観点で能登半島を眺めてみますと、

「口能登」「中能登」「奥能登」という

三つの文化圏に分けられると聞きます。

主に、羽咋周辺の口能登では、

「獅子」が登場する祭りが目立ち、

七尾周辺の中能登では「枠旗」や

「奉灯」を用いた祭りが中心となり、

その先の奥能登では様々な形の

「キリコ」が祭りの主役を努めるのだとか。

また、各々の内容も細かく分かれており、

「アマメハギ」や「あえのこと」のように、

一部の集落や個人宅で執り行われる民間伝承も、

能登の各地に点在しております。

 

通常、地方のお祭りというのは、

ある程度距離が離れていないと、

他地域の影響は受けにくいものですが、

能登半島の特異な点は、非常に狭い範囲に

「異なる文化圏」が重なり合うようにして

存在しているということです。

ほんのちょっと車を走らせただけで、

入れ代わり立ち代わり毛色の違う

お祭りのエリアが現れ、どことなく

小さな国境を渡っている錯覚に陥ります。

能登という土地全体が、

祭りの見本市のような場所であり、

長い歴史を越えて様々な時代の

信仰を伝える「奇跡の地」なのですね。


能登の祭

2018-11-29 09:00:35 |  能登の神社

<輪島キリコ会館>

 

ひと口に「能登の祭り」と申しましても、

その数は優に数百はあると言われており、

それらの成り立ちをひも解くのは非常に困難です。

ひとつの祭りの中に、異なる要素が

重層的に絡み合っているものも多いため、

祭りの核心に迫ろうとすればするほど、

古代史の迷路に迷い込んだような気分になります。

 

今回の旅は、ちょうど祭りの端境期ゆえ、

祭典そのものを目にすることはできなかったのですが、

実際に能登の風土に触れながら、

この地の人々がなぜ「祭り」に情熱を注ぐように

なったのかをつらつらと考えておりました。

「祭り」があるところには必ず「神」が存在し、

祭りが多いということは、それだけ神が多いという証拠です。

 

恐らく、「日本一」と言っても過言ではないほど、

多種多様な祭を要する能登半島

という地に足を踏み入れることで、

能登だけでなく日本という国のルーツが

幾ばくか見えてくるかもしれません。

まずは、各々の祭りに関連する神社や、

資料館などを訪れた際の所感を手掛かりに、

「能登の祭」に迫っていくことにしましょう。


あえの風

2018-11-28 09:59:55 |  能登の神社

<御陣乗太鼓>

 

「あえの風(あいの風)」という言葉をご存知でしょうか。

古くは大友家持が万葉集で用い、

近代では柳田国夫が自書の中で取り上げたこの言葉は、

主に日本海および北陸沿岸の地域で使用され、

「豊漁、豊作、幸福をもたらす海からの東風」

などと訳されています。ただし、本来は「東北からの風」

「いつもと異なる風」を意味する言葉だそうで、

初夏から夏にかけて吹き荒れる

「嵐」「海を荒らす暴風」が正解なのだとか。

つまりこの一帯では、古くから東北の風に対して、

強い警戒感と畏怖心を持っていたと考えられるのですね。

 

恐らく、能登半島への上陸を試みた古代の人々にとって、

あえの風は行く手を阻む向かい風であり、

円滑に航海を進める追い風にもなったのでしょう。

もしかすると、あえの風という言葉には、

北東の風という意味だけでなく、東北の方角からやってくる

「他国の人々」という暗示も含まれていたのかもしれません。

そして、あえの風が吹くころ、能登半島では大小さまざまな

「奇祭」が執り行われ、半島全体に「祓いの気」が充満するのです。


2つの部族

2018-11-27 09:49:23 |  能登の神社

<阿陀比賣神社 あだひめじんじゃ>

 

出雲神話に登場する「因幡の白兎」の物語は、

一説に「和邇族に虐められていた宇佐族を

大国主神が助けた話」とも聞きます。

仮に、大国主神が能登に上陸するにあたり、

七尾の「鵜」と羽咋の「兎」の協力を得たとすれば、

何とも興味深い事象が浮かび上がってくるでしょう。

ちなみに、「鵜」に縁する部族と聞いて思い出すのが、

吉野の山中で神武天皇を迎えた「阿陀の鵜飼部の先祖」、

つまり隼人とも絡む一族です。

そして、兎が暗示する「宇佐族」は、

隼人を支配下に置いた渡来系部族だと言われています。

 

恐らく、大国主神はこれら九州に縁する部族を味方につけ、

能登(および若狭湾にかけて)に跋扈していたオロチを、

邑知地溝帯の両側から挟み撃ちにする

形で追い込んだのかもしれません。

七尾の大「鷲」や越中北島で「鳥」に化けた魔王は、

この一帯で「水上戦」があったことを示しているのだと思われます。

いずれにせよ、オロチという「異国の民」から、

古代日本の玄関口であった能登を守ることは、

日本の国難を防ぐための絶対条件だったのでしょう。


ふたつの「う」

2018-11-26 09:39:23 |  能登の神社

<鵜戸神宮 うどじんぐう>

 

しかし、こうして邑知地溝帯の近辺を探っていますと、

何かと「鳥」が絡んでくるのが非常に気になります。

気多大社の「鵜」祭を筆頭に、

七尾の大「鷲」や、越中北島で「鳥」に化けた魔王、

さらには気多大社が鎮座する「羽咋」という地名も、

すべて「鳥」に関する名称ですね。

古代、このあたりは湿地帯だったはずですから、

水辺の鳥などを捕らえて暮らす

狩猟民族が住んでいたのは確かでしょう。

鳥と古代部族とのつながりに関しては、

後々考察できればと思いますが、

ここでは邑知地溝帯の両端の地に残る、

ふたつの「う」の伝説を取り上げてみることにします。

 

実は、邑知潟に伝わる伝承の中には、

「大国主神は鵜の協力を得てオロチを退治した」

という話が残っていました。

これまでの記事を踏まえれば、大国主神が能登に入るとき、

すでに七尾の近辺には「鵜(う)」が暗示する部族がいて、

大国主を招き入れたということになるのかもしれません。

また、七尾と反対側の羽咋には

「兎(うさぎ)」の伝承が伝えられており、

こちらもまた「う」を暗示する生き物です。

ちなみに、ウサギは他の動物のように

「一匹、二匹」と数えるのではなく、

「一羽、二羽」と鳥のように数えることや、

同じ音を持つ「鵜」との関連もあり、

宮崎の鵜戸神宮などでは神使として

崇敬を集めていると聞きました。


様々な神事

2018-11-25 09:35:57 |  能登の神社

<気多大社 けたたいしゃ>

 

能登の国一之宮・気多大社では、

平国祭が終了したのちに続けて「例大祭」に入り、

蛇の目が書かれた的を、弓で射て、

槍で突き、太刀で刺すという、

「蛇の目神事」が行われると聞きます。

このお祭りは、大国主神が邑知潟に住む

毒蛇を退治した状況を摸したもので、

一連の所作が終わると最後には、

参加者が一斉にご利益を求めて蛇の目の的を破り、

各々家に持ち帰るのだとか。冬から春にかけて、

各地で行われる「御的神事」のひとつだと考えられますが、

蛇の目の的が「太陽」を示すと仮定すると、

この神事の複雑な起源が浮かび上がります。

 

また、平国祭と対をなす鵜祭は、

もともと新嘗祭の中の神事で、

西の人間界に迎えた神を、

東の常世の国に送り出す意味があるとのこと。

「鵜」は常世から来た使いだと言われており、

平国祭の起源にも登場する櫛八玉神(くしやたまのかみ)は、

大国主神が出雲大社に鎮まったのち、その身を鵜に変化させて、

海底から大国主神のための供物を調達したとも言われています。

「鵜」という鳥については、改めて考察できればと思いますが、

気多大社の祭典を詳細を見ても、

この神社が「何らかの神」を鎮める

鎮魂の場であることは確かなのでしょう。


能登の神々

2018-11-24 09:33:38 |  能登の神社

<輪島市名舟町>

 

今回、旅の日程が限られていたこともあり、

能登半島の神社を細かく見て回ったわけではないのですが、

本土側から半島の先へと進むに従い、

いわゆる「土着の神」を主体とした神社が、

徐々に増えて行く様子が見て取れました。

特に、羽咋と七尾を結ぶ邑知地溝帯を越えるあたりからは、

奈鹿曽彦、能登比古、阿良加志比古、加志波良比古など、

呼称さえわからないような社名や祭神名が目につき、

近隣のエリアと比べても、非常にプリミティブな

雰囲気が漂っていることを実感します。

 

仮に、大国主神が山陰方面から能登半島に上陸する際、

半島をぐるっと迂回して七尾側に向かったとすれば、

それは恐らく「能登の神々」の影響が大きかったのでしょう。

 

輪島市内などのいくつかの神社を除き、

能登半島の先端に行くにつれ、

大国主神を主祭神とする場所が少なくなるのも、

この地の神々の力を反映しているのだと思われます。

もしかすると大国主神は、この土地の神々こそが

「オロチ退治のためには欠かせない存在である」

と知っていたのかもしれません。


イズモの伏線

2018-11-23 09:25:48 |  能登の神社

<気多本宮 けたほんぐう>

 

羽咋の気多大社を出発点とする平国祭の道順を眺めていますと、

「羽咋⇒七尾」にかけての往路にばかり目が行きます。

ただし古代は、七尾の気多本宮を出発地とする

「七尾⇒羽咋」という復路のほうが、

重要視されていたのではないかと感じるのも事実です。

近隣のいくつかの神社の由緒にも、

「大国主神は越の北島(富山県側)から七尾に上陸した」

という内容が見られますし、気多大社の冬の祭典である鵜祭では、

七尾で生け捕りにされた鵜を気多大社まで運び神前に放つのだとか。

 

羽咋の気多大社の祭典である平国祭は、

もともとは七尾の気多本宮との関連が深く、

「七尾の神様を羽咋へと招くためのもの」だったとも聞きます。

また、他の文献にも、大国主神は「七尾で大鷲を退治した」

「越中北島で鳥に化けた魔王を倒してから羽咋に来た」

などの話が残っていることから、当時出雲の神(大国主神)は、

七尾から羽咋へとやってきたという認識が強かったのでしょう。

いずれにせよ、大国主神が出雲から能登に入るルートが、

意外にも「イズモ」の謎を解くための、

隠れた伏線となっているようです。


能登の結界

2018-11-22 09:22:06 |  能登の神社

<気多大社 けたたいしゃ>

 

以前、出雲神話を取り上げたブログの中で、

「オロチは越からやってきた」という内容の記事を書きました。

神話の中には、ヤマタノオロチ関連の地名として、

「越の八口」という名称が出てくることから、

歴史好きの人々の間では「富山県高岡市八口」

「新潟県岩船郡関川村八ツ口」などが

「オロチの故郷」の候補に挙がっているものの、

どれも決め手に欠けているのが現状です。

そんな中、意外にも有力視されているのが、

福井県敦賀市の気比神宮、そして

石川県羽咋市の気多大社だと言われています。

 

どちらが正しいのかはさておき、古代のある時期、

能登半島の「根元」から若狭湾にかけての一帯に、

オロチと呼ばれる賊が跋扈していたのは事実なのでしょう。

恐らく、大国主神一行は出雲でオロチ退治をしたのち、

オロチの本拠地である「越」まで攻め上がり、

邑知(オロチが語源という説も……)地溝帯

あたりにいた賊を平らげたのかもしれません。

羽咋の気多大社と七尾の気多本宮とを結ぶ「断層」は、

言うなれば「能登の結界」であり、

オロチが最後に逃げ込んだ終焉の地だったとも考えられます。


鵜祭

2018-11-21 09:19:05 |  能登の神社

<気多大社 けたたいしゃ>

 

平国祭(へいこくさい)と同様、

気多大社を代表する祭事として

知られているのが「鵜祭(うまつり)」です。

鵜祭はその名の通り「鵜」を主役とする冬の祭事で、

12月16日の未明、七尾市の鵜浦町で

生け捕りにした一羽の鵜を本殿に放ち、

再度捕獲したあと今度は海岸に放つという、

何とも不思議な所作が含まれていると聞きます。

このお祭りの起源としては、

「大国主神が鹿渡島に到着した際、当地の神が鵜を献上した」、

あるいは「当地の神が鵜に化けて、海中の魚を取って献上した」

など説があるものの、詳細は明らかになっていないのだとか。

 

ちなみに、鵜浦町にある神社では、

「大国主神が天下巡行の時、能登の妖魔退治のため、

高志の北島から鹿渡島に渡ってきた」

という伝承が伝わっているそうです。

また、気多大社に関する由緒にも、

「大国主神は越の北島より船で七尾小丸山に入り、

少彦名神等の協力を得てこの地の賊徒を平定した」

という話が残されています。2つの伝承に共通する

「越(高志)の北島」という地名に関しては、

高岡市近辺に北島という地名が見られるくらいで、

詳しい場所はわからないのですが、大国主神一行は能登平定に際し、

羽咋側ではなく七尾側から能登に入った可能性もあるのでしょう。


邑知地溝帯

2018-11-20 09:14:11 |  能登の神社

<気多本宮 けたほんぐう>

 

羽咋市から七尾市にかけて、

「邑知(おうち)地溝帯」という地溝帯

(断層によって出来た帯状の渓谷・地形)が存在します。

この地溝帯の幅は約3~5㎞、長さは約27㎞あり、

能登半島の付け根に位置する七尾湾は、

古くはこの帯に沿ってさらに内陸部まで広がっていたそうです。

恐らく、古代の羽咋と七尾との間は、

水路を使って行き来することができ、

大国主神一行は船を利用して、

能登半島を横断していた可能性もあるのでしょう。

 

ちなみに、気多大社を代表するお祭り・平国祭の巡行ルートは、

この邑知地溝帯の上をなぞるように進んで行くのだとか。

この地溝帯はいわば活断層ですから、

大国主神は「地震の巣」の上を通ったということにもなりますね。

大国主神と活断層との関係はここでは触れませんが、

大国主神が能登に入るにあたり、

あえてこの邑知地溝帯という活断層の上を通る

ルートを選んだとすれば、何か意味深なものを感じます。


平国祭

2018-11-19 09:09:47 |  能登の神社

<気多大社 けたたいしゃ>

 

石川県羽咋市にある能登国一の宮・気多大社は、

「祭事の多い神社」として知られており、

その中でも三月に行われる「平国祭(おいで祭り)」は、

およそ一週間近くをかけて行われる大規模なお祭りです。

平国祭は羽咋市から七尾市までの約300Kmの行程を、

50名あまりの奉仕者が5泊6日で巡行する、

全国的にも珍しい大掛かりな御幸祭なのですが、

このコースこそが、古代大国主神が通ったであろう

能登平定の足跡と重なっているのだとか。

 

ちなみに、一行が目指すのは、

七尾市所口町にある能登生国玉比古神社(気多本宮)という名の、

気多大社の元宮とも目されている場所です。

途中、鹿西町金丸の神社に一泊し、

翌日この社のご祭神・少彦名命も大国主神とともに神輿に同座し、

七尾の気多本宮に赴くと言われています。

これらの手順は、大国主神と少彦名命が協力をして

能登を平定したという故事に基づくそうで、

平国祭のルート上には、少彦名命を祀る神社が多く集まっていました。


気多大社

2018-11-18 09:05:15 |  能登の神社

<気多大社 けたたいしゃ>

 

「気多」と名の付く神社(および場所)は、

北陸地方ならびに日本海側に点在しており、

能登の周辺では、羽咋の気多大社、七尾の気多本宮、

富山県高岡の気多神社などがその代表格です。

一説に、気多(ケタ)という言葉は、

古代語では「サメ」(諸説あり)を意味するそうで、

出雲神話の「因幡の白兎」に登場する「気多の岬」は、

実は因幡国(鳥取県)ではなく、

能登の気多だったとも言われています。

羽咋の海岸には、「能登の白兎」の伝説も伝えられていますし、

もしかすると因幡の白兎の物語は、

鳥取県をはじめ日本海沿岸が共有する

「歴史的事実」だったのかもしれません。

 

ちなみに、気多大社のご祭神は大己貴命(大国主神)ですが、

神社の由緒によりますと、大己貴命は

出雲から300あまりの神とともに日本海を北上し、

気多大社の付近に上陸したのだとか。また、別の文献には、

気多の神は従者を率いて渡来した異国の王子であり、

能登半島一体を巡行し鬼神を追放したという話もあります。

いずれにせよ、古代のある時期、

大国主神が多くの神や従者(兵士)を率いて、

能登半島にやってきたのは確かなのでしょう。

そんな大国主神の「能登平定の軌跡」

をうかがわせるかのような祭事が、

気多大社には伝えられていました。


能登の歴史

2018-11-17 09:01:56 |  能登の神社

<羽咋市千里浜>

 

能登を旅するあたって、まずは能登の歴史を知るべく、

いろいろと書籍を探してみたのですが、

これがまた何とも数が少なく……。

特に、古代の能登に関しての情報は、

いくつかの縄文遺跡が語られている以外、

ほとんど研究が進んでいないような印象を受けました。

ゆえに、能登に関する記事の多くが、

「根拠のない空想」で埋まってしまうかもしれませんが、

なにとぞご容赦いただければ幸いです。

 

恐らく能登という土地は、様々な民族や文化の

「通過点」「交流点」としての役目があったため、

他の地域のように突出した文化財や

遺跡の類は残されなかったのでしょう。

もしかすると、この地の古代の記憶は、

能登の一年を彩る様々な「祭り」や

独自の「風習」に集約されているのかもしれません。

 

いずれにせよ、風土記の類もない「能登」を考察する中で、

改めて「隠された国」「隠された歴史」が

日本中にあふれていることを実感する毎日です。

どこから手を付けてよいのか非常に迷うところではありますが、

まずは能登国の一宮でもあり、出雲とも深く関連する

「気多」と名の付く古社について探って行くことにしましょう。

 

【参考書籍】

能登のくに ―半島の風土と歴史― 北國新聞社

日本の地名 谷川健一


能き門

2018-11-16 09:58:39 |  能登の神社

<穴水町根木>

 

能登の国が誕生したのは、奈良時代の718年。

越前国から羽咋、能登、鳳至、珠洲の4郡が独立し、

2018年で能登立国1300年を迎えました。

また、昨年は白山開山から1300年の年に当たり、

数年前の古事記編纂1300年の記念年以降、

日本全体が1300年の節目に差し掛かっています。

奈良時代と聞くと思い浮かぶのが、

「外来宗教(仏教)の隆盛」とそれに伴う

「土着の信仰(神道)の衰退」ですね。

日本の現状を俯瞰してみても、私たち日本人は今

「奈良時代の再来」とでも言うべき転換点に、

立たされているような気もいたします。

 

ちなみに、能登という名前の由来については、

「能く(天へ)登る」という説が有力視されていますが、

アイヌ語で半島や突起物を示すノットが語源となった、

あるいは咽喉のような形をしていることから、

「飲み門(のみと)」つまり潮を呑み込む

海門を意味しているなどの説もあるのだとか。

古い文献には「能門」の文字も使われており、

輪島市にある重蔵神社の宮司家も能門(のと)氏です。

個人的には、やはり能登の「ト」は門であると同時に、

突起した場所(男性のシンボル)を表す

という話に深く納得するところがありました。