たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

出雲へ~序章4

2018-08-31 09:54:41 |  出雲の神話

<大田市・三瓶山>

 

東京近郊から出雲への旅行を考える際、

新幹線、飛行機、寝台列車など、

長い移動時間を要するいくつかの交通機関の中から

ひとつを選ばなければなりません。

四国や紀伊に出かけたときも思ったのですが、

やはり「歴史の謎」が潜む場所、

イコール「行くのが大変」な場所でもあり、

それゆえ「古さ」が保たれている側面もあるのでしょう。

 

ここ数年、紀伊半島や四国、山陰など

「行きにくい場所」訪れる中で、

都会では見られなくなった 「古い日本」の形跡に接し、

改めて日本の奥深さに感嘆しております。

と同時に、そんな「古い日本」を残す場所が、

「これからの日本を支える

キースポットになるのではないか」

という予感をもひしひしと感じているのです。

 

恐らく、「出雲」という土地は、

全国各地の「古い日本」を代表する場所であり、

また全国各地の「古い日本」を

示す名称なのかもしれません。

人々が「イズモ」という響きに郷愁を覚えるのも、

私たち日本人の遺伝子が 「イズモ」

を覚えているからなのだと思います。


出雲へ~序章3

2018-08-30 09:50:34 |  出雲の神話

<出雲市・神戸川>

 

阿波を訪れたときもそうだったのですが、

「どんな切り口で話を書き始めるか」

という問題は、毎回非常に頭を悩ませる

テーマでして、特に出雲のように

「多種多様な側面」を持つ土地というのは、

ほんのちょっと切り取る角度を変えただけで、

読み手に与える印象ががらりと変わってしまいます。

 

阿波の神社を訪れる際には、

「資料の少なさ」に四苦八苦した一方で、

今回の出雲に関して言えば、

「資料の膨大さ」に圧倒されている次第。

とにもかくにも公に公表されている

本やデータの数量が桁外れなだけでなく、

著者それぞれの主張も千差万別なのです。

 

それもこれも、「出雲神話」という

何とも魅惑的な古代の物語が、

私たち日本人の「郷愁」を刺激して

止まないからなのでしょう。

古今東西、多くの専門家や知識人、

一般の歴史マニアに至るまで、

「イズモ」という響きが生む魔力に惹きつけられ、

出雲という土地を語りつくしてきました。

恐らく出雲には、他の土地以上に多くの人々の想念が、

幾重にも渦巻いているのかもしれません。


出雲へ~序章2

2018-08-29 09:47:25 |  出雲の神話

<出雲市・斐伊川>

 

「そろそろ出雲に向き合わなければ……」

「いや、安易に出雲に触れてはいけない……」

「でも、タイミングを逃すのは惜しい……」

「しかし、出かけるとなると出雲は遠い……」等々、

様々な葛藤を心に秘めたまま早数年。

 

15年という熟成期間を経て、

ようやく出雲を訪れる機会を得られた今回。

「出雲を味わいつくす」というテーマのもと、

かなりの数の神社を巡ってきたものの、

膨大な量の資料と写真と妄想の類に囲まれて、

どこから手を付けてよいか皆目わからず……。

 

現在も混乱した頭と心を整理しながら、

古代日本の最重要テーマともいえる

「出雲」の全容をつかむべく、

日々奮闘している次第でございます。

相変わらず先の見えないシリーズになりそうですが、

焦らず丁寧に紐解いて行けたらと考えておりますので、

よろしければお付き合いくださいまし。


出雲へ~序章1

2018-08-28 09:41:34 |  出雲の神話

<松江市玉湯町>

 

***** 出雲の神話1 *****

淡路島についての妄想を取っ掛かりに、

古代の朝鮮半島経由の渡来人の姿、

そして鹿や鳥や牛や猪など、

多種多様な動物トーテムへと話が広がり、

日を追うごとに内容がカオス化してきたこの頃……。

我ながら「さすがにわかりにくくなってきたな」

と思い始めたこともあり、

このあたりでひとまず話題をリセットし、

阿波・淡路近辺を飛び出してみようと考えました。

 

次の訪問地は、ずばり「出雲」でございます。

ちなみに前回、出雲を訪ねたのは

かれこれ15年ほど前のこと。

日々、記事に添えている神社の写真の中に、

「なぜ出雲が出てこないのか」と不思議に

思われた方もいらっしゃるかと思いますが、

ちょうどその時期、デジタルカメラが故障し、

フィルム写真しか手元に残っていないのです。

それより何より当時は、「出雲」という

壮大なテーマに対峙する心構えができておらず、

あえて出雲を避けている部分もございました。


海人と修験

2018-08-27 09:10:59 | 阿波・忌部氏2

<洲本市・由良>

 

神武天皇が熊野から吉野へ巡幸した際、

井戸の中から体が光り尾のある人が出てきたため、

天皇が名をたずねると「国津神、名は井氷鹿」

と名乗ったと、記紀には記されています。

実は、修験者(山伏)と呼ばれる人たちは、

海人族出身の人が多かったという話があり、

腰に鹿の毛皮を巻いたり、鹿皮を背負ったり、

鹿角のついた杖を持ったりする出で立ちは、

海人の習俗が元にあるそうです。

 

吉野の国巣の祖である石押分之子と同様、

吉野首らの祖である井氷鹿という神様も、

海人族の一派だったのでしょうか……。

ちなみに日本書紀における、

神功皇后の新羅遠征の件では、

「磯鹿の海人名草」なる者が登場しますが、

一説に磯鹿の海人は、神武東征の物語の中で、

天香山の土を持ち帰った人物とも言われています。

恐らく、神武天皇の東征を支えていたのは、

海人族であり、すでに国津神と化していた

渡来人(忌部氏)だったのかもしれません。


麁妙と鹿皮

2018-08-26 09:03:26 | 阿波・忌部氏2

<山崎・忌部神社 やまさきいんべじんじゃ>

 

祖谷地方に伝わるわらべ歌の中に、

祖谷の空から降ってきた御龍車から、

「諸国の宝」が降ろされたという歌詞が出てきます。

これまでの妄想を元に考えれば、これらの宝は、

淡路島を目指してやってきた各地の部族が、

天皇への恭順を示すために忌部氏に託した、

先祖代々伝わる神宝だったのかもしれません。

恐らく、各部族のトーテム動物に関わる何かを、

天皇の祭祀族である阿波の忌部氏に手渡すことは、

自らの神を差し出すことと同等だったのでしょう。

 

特に、日本の先住民の血を濃く引き継ぎ、

渡来系部族以上の祭祀力を有していた

海人族(鹿の皮を身にまとった人々)を

天皇一行の味方につけることは、

避けて通れない関門だったのだと思われます。

優れた霊力を宿す海人族の鹿皮を身に着け、

海人族の神と一体になってはじめて、

「真の天皇」が誕生したというわけですね。

そののち、鹿皮は「麻」の反物に変わったものの、

「麁妙」という名称だけは、

今に引き継がれのたかもしれません。


帰順の道

2018-08-25 09:00:37 | 阿波・忌部氏2

<美馬市・木屋平>

 

阿波忌部氏の末裔・三木家に伝わる

「麁妙」という天皇への調進の品は、

「麻」で織られた反物ですが、

当初は「鹿の皮」だったのではないか、

考えるのは極端な発想でしょうか……。

淡路島に集った様々な氏族、

つまり「天皇」に恭順した人々の宝が、

島を経由して阿波へ持ち込まれたと想像すると、

その中には、海人族の象徴でもある

「鹿の皮」なども含まれていたはずです。

 

古代より、鹿皮には霊力があるとされ、

鹿の狩猟が許されたのは、

天皇など権力者のみだったと聞きますし、

「鹿の皮」を身にまとうことは、

相手への服従を意味していたのだとか。

恐らく、阿波忌部氏が任されていたのは、

各地の部族の神々(神宝)を預かり、

「国津神」を取りまとめる任務だったと思われます。

言うなれば、「淡路(阿波への路)」という名称は、

天孫族への帰順の道だったのかもしれません。


集結の地

2018-08-24 09:56:26 | 阿波・忌部氏2

<南あわじ市>

 

「淡路島は日本の縮図」など申しますが、

古代淡路について妄想しておりますと、

阿波国の忌部氏のように、

突出したひとつの集団が、

この島を治めていたわけではなく、

たくさんの氏族が寄り集まって、

ひとつの国を造っていたのではないか、

というイメージが湧き上がってきます。

 

北は播磨、中央は紀伊・難波、

そして南は阿波と言った具合に、

各々の地域が近隣国と

綿密なつながりを持ちながら、

大和朝廷との緩衝材のような役目を

果たしていたのでしょう。

淡路島の古墳の形状や年代から見ても、

この地を支配していた有力な豪族は、

ほぼ存在しなかったとも言われております。

 

恐らく、淡路島という場所は、

天孫族が日本を治める過程の中で、

天皇に恭順した各地の部族や、

部族の代表らが集結した地であり、

それらの中には、多くの渡来系の

人々も混じっていたはずです。

そして、彼らが最終的に向かった国こそが、

お隣の「阿波」だったのでしょうか……。


石組みの遺跡

2018-08-23 09:52:13 | 阿波・忌部氏2

<洲本市・小路谷>

 

淡路島とユダヤとの関連を決定づけたのが、

洲本市の海岸で発掘された石組みの遺跡です。

その形状は、阿波の各所で見かけた

石造りの祭壇によく似ているものの、

どこか近寄りがたい空気を

纏っているようにも感じられます。

現在、それらの遺跡は

埋め戻されているとのことですが、

同じ場所に置かれていた

レプリカを見た際に漂ってきたのは、

祭壇というより「墓所」の空気感でした。

 

ちなみに、先日記事内でご紹介した、

「鹿」の紋章が刻まれた指輪は、

この遺跡から発掘されたものです。

ただし、写真で見る限りそれほど

古さを感じる造形ではないため、

信憑性に関しては何とも言えず……。

この物証だけを手掛かりに、

ナフタリ族が淡路島に上陸したと

断定するのは難しいのでしょう。

 

ちなみに、淡路島の名刹・千光寺には、

「猟師に射られた猪は海を渡って、

淡路島の山奥へ逃げ込み千手観音となった」

という由緒が伝わっているそうですが、

ナフタリ族という部族の象徴は、

鹿ではなく猪だったという説も存在します。

鳥、鹿、牛など多くの「鳥獣(部族)」

が棲むと言われた淡路島には、

もしかすると「猪」が暗示する人々も、

やって来ていたのかもしれません。


淡路の地名

2018-08-22 09:48:05 | 阿波・忌部氏2

<洲本市・小路谷>

 

油谷(ユダニ)古茂江(コモエ)小路谷(オロダニ)

由良(ユラ)諭鶴羽(ユズルハ)……等々、

淡路島にはヘブライ語を想起する地名が散見されます。

ユダニやユラは「ユダヤ」との類似性を伺わせますし、

由良湊神社に伝わる「ねり子祭り」では、

数え年三歳を迎えた子ども(ねり子)の額や頬に、

ユダヤの風習を思わせる赤い十字を描くのだそうです。

 

またその昔、淡路島が大干ばつに見舞われ、

島内にある溜め池が干上がった際には、

水面下から六芒星の形をした石組みが

現れたという話もあるのだとか。

仮に、剣山や瀬戸内地方を中心に、

多数存在するこれらのため池が、

古代イスラエル部族の遺産だとすれば、

ため池という人工池の成り立ちと、

ユダヤ人との関連も気になるところです。


原点の島

2018-08-21 09:43:04 | 阿波・忌部氏2

<由良湊神社 ゆらみなとじんじゃ>

 

古事記の中にも登場する、

非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)は、

橘(みかん)の原種であるとされ、

天日槍の孫・田道間守(たじまもり)が、

新羅国から持ち帰った食べ物です。

洲本市の南にある由良一帯には、

この非時香菓が多く自生しており、

渡来人(主に新羅系)とこの地とが、

古くからつながっていることを示す、

根拠のひとつともなっています。

 

淡路島を巡っている最中、

心身にまとわりついていた

緊張感がふいに和らいだのが、

由良の町を訪れたときでした。

由良の氏神でもある由良湊神社は、

小さな漁村にふさわしい素朴な神社で、

古い時代から地元の人々に

愛されてきた様子が伝わってきます。

 

恐らく、淡路島という「原点の島」には、

多数のユダヤ部族が接触したのでしょう。

忌部氏の時代から秦氏の時代、

そして神功皇后の時代にかけて、

多くの部族の末裔が淡路島を訪れ、

各地の渡来人と接触を持ったはずです。

阿波国を忌部氏の拠点とするなら、

淡路島は渡来人全体の拠点だったのかもしれません。


淡路の鳥獣

2018-08-20 09:38:02 | 阿波・忌部氏2

<南あわじ市>

 

淡路島の最高峰である諭鶴羽山の山頂には、

諭鶴羽権現という神仏が祀られており、

一説には「熊野権現の奥の院」と

呼ばれていると聞きます。 山頂からは、

国生みの島である沼島はもちろん、

四国や和歌山、大阪などを一望できるそうですし、

諭鶴羽山に登れば、当時の日本の「大都市」や、

海の向こうからやってくる渡来人の動きなどが、

手に取るようにわかったのでしょう。

 

もしかすると、諭鶴羽山の山頂付近には、

阿波忌部氏が剣山で行っていたように、

鶴の羽つまり「鳥」を崇める部族が、

拠点を構えていたのかもしれません。

そして、海や山麓に散らばる「鹿」の部族や、

のちにやってきた「牛」の部族などを、

高い場所から管理していたのでしょうか……。

 

ちなみにその昔、淡路島には、

大和朝廷の狩猟地である

「淡路宮」が置かれたという話です。

何でもその理由は、この地にたくさんの

「鳥獣」が棲んでいたからなのだとか。

「国土統一の証」ともされる天皇の遊猟が、

本当に鳥や獣を狩る目的だけだったのか、

今となっては真相はわかりませんが、

恐らくこの淡路の地でも、

部族同士の争いや天孫族への国譲りが、

行われていたことは確かなのだと思われます。


諭鶴羽

2018-08-19 09:34:47 | 阿波・忌部氏2

<南あわじ市>

 

かの有名なスケート選手とのつながりで、

一躍有名になった「ゆずるは」と名のつく神社が、

この淡路島にも鎮座していました。

島内最高峰の諭鶴羽山(ゆずるはさん)は、

標高がおよそ600mほど。

ユズリハが多く生育していたという説や、

イザナギ・イザナミが鶴の羽に乗って、

カヤの木に舞い降りたという説など、

名前の由来に関しては様々な説がありますが、

個人的にはやはり、弓に張る麻糸を示す、

「ゆみづる」が頭に思い浮かびます。

 

ちなみにその昔、弓の弦を張るための

動物の骨を使った道具が存在したそうです。

近隣に見られる「鹿」と名のつく地名や、

南淡地方と阿波忌部氏との深い関連を考えると、

諭鶴羽山が南淡の忌部氏たちにとっての「剣山」

の役目を果たしていた可能性もあるのでしょう。

今回は時間の関係で参拝できませんでしたが、

諭鶴羽神社へと続く道は、剣山と同様に、

細く狭い急峻な参道だと聞きました。


新羅系部族

2018-08-18 09:24:10 | 阿波・忌部氏2

<洲本市・由良>

 

洲本市由良の生石神社(おいしじんじゃ)には、

新羅の王子・天日槍(あめのひぼこ)

の神宝が祀られている、という伝承が伝わるなど、

「新羅系部族」が接触を持った形跡が残されています。

天日槍は息長帯比売命(神功皇后)

の祖と言われていますから、

神功皇后の子どもである応神天皇が、

淡路島で遊猟をした経緯にも、

この地の新羅系の人々が深く関与していたのでしょう。

 

また当時、播磨に住んでいた天日槍系の人々の多くが、

伊佐勢理彦と若建彦の大軍に攻められて、

淡路島に逃げ込んできたという伝承があることや、

淡路島北部の貴船神社遺跡から、

新羅陶器が出土していることなども合わせて考えると、

扶余・高句麗系部族のシンボルでもある

「鹿」の形跡が残る南淡地方とは別に、

主に淡路島の中央部から北部にかけての一帯には、

新羅系の渡来人が集まっていた可能性もありそうです。


海を渡る鹿

2018-08-17 09:48:02 | 阿波・忌部氏2

<南あわじ市>

 

淡路島での遊猟の最中、応神天皇が見た「海を渡る鹿」は、

諸県君牛(もろのあがたのきみうし)という日向の豪族でした。

諸県君牛は、娘である髪長媛(かみながひめ)を

天皇に差し出し、一族の帰順の意思を示すため、

鹿の皮をかぶって応神天皇のもとへ参上します。

実は、天皇が「縁の土地で遊猟をする」という行為は、

国土を平定した証とも言われており、

猟の対象として選ばれた動物のほとんどが「鹿」でした。

 

諸県君「牛」が鹿の皮をかぶるという奇妙な光景には、

何らかの裏事情があった気配も漂わせますが、

古代の大陸には「牛」をトーテムとする部族も存在し、

日本に渡来していた可能性が囁かれています。

三韓とも呼ばれる古代朝鮮半島の三国

「百済」「新羅」「高句麗」うち、

主に新羅を中心に殺牛祭祀という儀礼が伝えられ、

新羅の民・ワイ族の影響を受けた秦氏などが、

日本に「牛祭祀」を持ち込んだ痕跡があるそうです。