たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

カギを握る人々

2018-11-14 09:35:11 |  出雲の神話

<湯梨浜・倭文神社 しとりじんじゃ>

 

出雲神話を考察している最中、常に頭にあったのは、

「自分だったらどう編集するか」という編纂者の目線でした。

そして、「読み手の方向性や注目する部分の違い」により、

いかようにも物語が変わってくるということを実感したのです。

聞いたところによりますと、記紀(特に『古事記』)という史書は、

編纂時までに起こった日本の歴史をすべて俯瞰した上で、

同じ因果を持つ話をひとつの話としてまとめあげるという、

「時空を超越した預言書」の側面を持つのだとか。

つまり、ひとつの物語がひとつの出来事を表すのではなく、

ひとつの物語の中にいくつもの過去の出来事が、

比喩的な表現で語られているというわけですね。

 

今回、私が考察の際の時代背景として設定したのは、

天孫族が降臨する以前の「イズモ」が躍動した時代ですが、

恐らくこの時期には、すでに日本古来の神々は、

初期の渡来系の神々と融合し始めていたため、

純粋な意味での「国津神」は存在しなかったのでしょう。

出雲神話の解釈が難しいとされるのも、

「国津神」「天津神」と明確に分けられないことが、

理由のひとつとしてあげられるのかもしれません。

次回からは、それらの疑問を解くカギとなる

渡来系の人々の軌跡などを追いつつ、

「他の国々」にも足を伸ばしてみようと思います。


まつろわぬ神

2018-11-13 09:31:38 |  出雲の神話

<香取神宮 かとりじんぐう>

 

実は、記紀の出雲神話として描かれる物語の中には、

東日本を舞台にしたと思われるような逸話が含まれており、

鹿島神宮のタケミカヅチや香取神宮のフツヌシなど、

茨城県沿岸に縁する神々がたびたび登場します。

これらの内容は、イズモと呼ばれる国が、

現在の出雲地方や西日本の各地だけでなく、

中部地方や北関東のエリアにまで

広がっていたことの証なのでしょう。

そして、それだけ広範囲の国々を

「藤原氏」が管理下に置いていたという事実を、

公的な史書で書き残したかったのかもしれません。

 

聞いたところによりますと、北関東一帯を中心に、

「甕」や「星」と名のつく神社が目立つのは、

蝦夷討伐の最前線に当たる場所だったからなのだとか。

恐らく、「甕」や「星」と名のつく神々は、

ヤマト朝廷にとって「まつろわぬ神」であり、

最後まで服従させることができなかった

「難敵」だったのだと思われます。

ちなみに、香取神宮で行われる「星鎮祭」という神事は、

アマツミカボシに見立てた御的にフツヌシが弓を射て、

邪気を払う意図があるのだそうです。

何やらここでも、古代の部族間で生じた因縁が、

神事の中に潜んでいる気配を感じます。


出雲と甕

2018-11-12 09:22:02 |  出雲の神話

<大甕神社 おおみかじんじゃ>

 

『日本書紀』における国譲りの件の最後に登場する

星神香香背男(別名:天津甕星)という神名を見て、

まず気になったのが「甕」の文字でした。

一説には、アマツミカボシのミカは

「厳(いか)」が転訛した言葉で、

天津甕星は金星を示すとも言われおりますが、

アマツミカボシの本拠地とされる日立市付近に、

大甕という地名があることを考えても、

この神が「甕の神」である可能性は否定できません。

 

また、『日本書紀』の「異説」によりますと、

アマツミカボシは国津神ではなく天津神に属する神で、

タケミカヅチとフツヌシは地上界に降りる前に、

まず高天原でアマツミカボシという悪神を誅してから、

葦原中つ国の平定に向かったという件があります。

本文と異説では若干内容が異なるものの、

鹿島周辺の「甕」を冠する神々が、

頻繁に出雲神話に関わってくるのが

非常に気になるところです。


天津甕星

2018-11-11 09:19:53 |  出雲の神話

<大甕神社 おおみかじんじゃ>

 

長々と考察してきた出雲神話も、

ようやくひと段落したかと思いきや、

『日本書紀』の最後の部分に書かれていたある神名に、

吸い寄せられるようにして目が留まりました。

まるで物語の最後に、こっそりと付け足すかごとく

記されたその神の名は、星神香香背男(ホシノカガセオ)。

 

一説によりますと、タケミカヅチたちは

大国主神から国を譲り受けた後、最後の難敵だった

「邪神や草木・岩の類」を平定したという話があり、

その邪神こそが星神香香背男だと言われているのです。

 

何でもこの神は、最強の武神とされた

タケミカヅチでも手に負えないほどの強者で、

倭文神・建葉槌命(タケハヅチ)の力を借りて、

ようやく懐柔させることができたのだとか。

 

ちなみに、星神香香背男の別名は、

天津甕星(あまつみかぼし)と言い、

現在の日立市大甕市付近を拠点としていました。

北関東に点在する「星」と名のつく神社の多くは、

天津甕星をご祭神としており、古代はこの地に

星神を信仰する部族が存在したとも言われています。


ゆるやかな国譲り

2018-11-10 09:09:21 |  出雲の神話

<松江市玉湯町>

 

出雲を舞台にして繰り広げられる

「神々たち」の物語を読んで思うのは、

現在の日本の状況にとてもよく似ているということです。

「大国主神の国譲り」という出来事は、

数百年以上の長い期間に渡り繰り返された、

日本各地の国津神と天津神系渡来人との交流、

そして「統治権の譲渡」を示した内容だと察しますが、

今まさにそれらの歴史が再現される空気を感じています。

もしかすると、今回の国譲りはこれまでとは逆に、

天津神から国津神への譲渡になるのかもしれません。

 

その過程において、どんな展開となるのかと言えば、

すでに記紀の中に記されている通りなのでしょう。

恐らく、史書の編纂者たちは数々の比喩を駆使しながら、

古代の悲惨な出来事を繰り返さないために、

私たちに精一杯のヒントを残してくれたのです。

全国各地に鎮座する「氏神」という場所は、

そんな古代の記憶と古代の国津神が眠る聖地でもあります。

まずは、多くの日本人が氏神の存在に目を向けることこそが、

「ゆるやかな国譲り」を実現する

大きな助けとなるのかもしれません。


鎮魂の物語

2018-11-09 09:05:35 |  出雲の神話

<松江市玉湯町>

 

「イズモ」の時代に生きた人々、あるいは

記紀が編纂された時代に生きた人々というのは、

現代人の私たちとは比べ物にならないほど、

「過去に学ぶ力」「未来を俯瞰する力」を

持っていたのだなとつくづく感じます。

 

当時、記紀をはじめとする日本の歴史書が、

どのような経緯で書かれたのか定かではないものの、

言えるのは、作成に関わった人たちが、

「後世に伝えなければならない」という

強い使命感のもとに作業に当たっていたということです。

 

その過程においては、政治的配慮が必要だったり、

事実を事実として載せることが難しかったりと、

様々な障害があったはずですが、

のちに子孫たちが物語の伏線を読み解き、

国難を乗り切る術としてくれるよう、

切実な願いを込めて書物を綴った様子が、

文字と文字との間から伝わってまいります。

 

だからこそ、日本神話という荒唐無稽の物語が、

長い間「空想話」と揶揄されながらも、

途絶えずに残されてきたのでしょう。

恐らく、記紀(特に『古事記』)という物語は、

単に日本の歴史を書き記した書物ではなく、

それ自体がある意味「預言の書」であり、

抗えない歴史の中で犠牲となった神々への

「鎮魂の言葉」でもあったのかもしれません。


戒めのサイン

2018-11-08 09:59:58 |  出雲の神話

<松江市玉湯町>

 

出雲神話を読んでいる最中、

たびたび頭に浮かんできたのは、

「名草戸畔」の本を読んだときに目にした、

「神武一行はもう少し時間をかけるべきだった」

という、何とも含みのある名草の老人の言葉でした。

記紀の記述のみでは、断言はできませんが、

各々の出来事や文章の行間を丹念に追っていくと、

天津神の構想にいささかの性急さを感じるのは事実です。

 

ただそれと同時に、「何とかしなければ間に合わない」

という、天津神側の切迫感も受け取れるわけで、

できるだけ早く国津神を服属させなければならない、

重要かつ緊迫した理由があったのだと思われます。

恐らく当時の日本には、天津神系の渡来人とは別の異民族により、

日本が侵略されるような空気が満ちていたのでしょう。

 

出雲神話が描こうとしていたのは、

天津神と国津神のイザコザや、

藤原氏の活躍……などの話だけではなく、

天津神側の理不尽な要求の中に潜む真意、

そして国津神側の譲歩の中に潜む葛藤など、

1300年後の私たちを生かすために刻まれた、

「神々の戒めのサイン」だったのかもしれません。


本当のおとぎ話

2018-11-07 09:55:47 |  出雲の神話

<松江市玉湯町>

 

今回、じっくりと出雲神話を読んでみて気づいたのは、

「想像以上に正確な事実を書いているのではないか」

ということでした。

仮に、これらがすべて創作話だったとしたら、

1300年の長い歴史のどこかで伝承が途絶え、

私たちが『古事記』や『日本書紀』

に触れる機会もなかったのでしょう。

 

近年、出雲周辺から古代遺跡が多数発見された結果、

「出雲神話は空想」という通説は影を潜めましたが、

それでもやはりほとんどの日本人が、

出雲神話を単なる「おとぎ話」ととらえ、

真剣に目を通すこともなく一生を終えて行きます。

 

ただし、この貴重な歴史資料には、

「日本人が忘れてはいけない大切なこと」

が記されているのは本当で、

『古事記』『日本書紀』という奇跡の物語が、

天災や戦乱などを経てもなお消滅しなかったのも、

恐らく「神話を残そうとする何らかの意志」が、

そこにあったからなのかもしれません。


尊い犠牲

2018-11-06 09:48:22 |  出雲の神話

<松江市玉湯町>

 

==========================

大国主神の要求を受け入れた天の神々は、
出雲の多芸志の浜に大国主神の神殿を建てるよう命じました。
その完成を見届けたのち、タケミカヅチは高天原に戻り、
葦原中つ国を平定したことを天照太御神に報告したのです。

==========================

 

出雲に巨大神殿を造営し終えたことで、

スサノオから大国主神の物語へと続いた

「出雲神話」はついにフィナーレを迎えます。

これら出雲を舞台に繰り広げられる物語までが、

「神代(神の世、神話時代)」と呼ばれており、

こののち天孫降臨から山幸彦と海幸彦へと話が進み、

神武東征を経て「天皇」が誕生する流れとなります。

 

もし仮に、「出雲神話」の時代がなかったら、

日本はどんな歴史を刻んでいたのでしょうか……。

国津神が天津神との国譲り交渉に応じず、

神武天皇が初代天皇として即位しなければ、

日本の国は果たして存続できたのでしょうか……。

確実に言えるのは、「イズモ」の尊い犠牲があったからこそ、

私たちが現在の平和な日本で暮らせるということなのですね。


巨大な高層建築

2018-11-05 09:40:21 |  出雲の神話

<出雲大社 いずもたいしゃ>

 

==========================

タケミナカタを諏訪の国に幽閉したのち、
再び大国主神の前に現れたタケミカヅチは、
「子どもたちは天津神の言葉に従うそうだが、
そなたはどうするつもりだ」と問いかけました。
大国主神はそれに対してこのように答えます。


「私もおっしゃる通りにしましょう。
この葦原中つ国は、天津神にお譲りします。
ただし、私の住居だけは、天津神の御子が
皇位を継いでお住まいになる宮殿のように、
高々とそびえる神殿を建ててください。
そうすれば、私は冥界に隠れましょう。
その他大勢の私の子どもたちは、
事代主神の言葉に従うはずです」

==========================

 

大国主神は、事代主神とタケミナカタが、

タケミカヅチの命令に従ったことを知り、

彼らの決断に同意すると伝えます。

その代わりに、自らの棲み処として、

巨大な神殿を造ることを願い出ました。

 

この神殿こそが、近年巨大な柱の痕跡が発見され、

出雲神話がただの絵空事ではなかったことを

私たちの目に明らかにした出雲大社です。

 

しかし気になるのは、その桁違いの大きさと、

あまりにも不自然な出雲大社の用途ですね。

本当に昔の人々は、大国主神の住居を造るためだけに、

このような巨大な社を建てたのでしょうか……。


イズモの砦

2018-11-04 09:36:11 |  出雲の神話

<出雲市・荒神谷遺跡>

 

タケミナカタとの関連も示唆される、

出雲の荒神谷遺跡に青銅器が埋蔵されたのは、

紀元1世紀ごろではないかとも言われています。

様々な説があるため明確な年代はわからないものの、

その時期の日本には、天孫族東征の兆しが見え始めており、

西日本を中心に大きな混乱が発生していた気配が濃厚です。

もしそうだとすれば、荒神谷遺跡に隠されていたのは、

祭祀具ではなく「武器」だった可能性もありますね。

 

仮に、荒神谷に武器が埋蔵されていたとするなら、

石上神宮という武器庫を管理した物部氏のように、

軍事力と祭祀力を併せ持った一族が、

この一帯を支配していたとも考えられるでしょう。

もしかすると、タケミナカタに例えられる軍事系の一派が、

氏族の神である「荒神」と、隠した武器を守るため、

荒神谷の周囲を取り囲んでいたのでしょうか……。

 

恐らくその当時、大国主神のそばにいた神々は、

天津神との抗争に敗れたり、天津神に服従したりした結果、

ほとんどがイズモから去っていたはずです。

国譲りの最終段階で登場し、天津神との戦いに挑んだ

タケミナカタは、大国主神に仕えた最後の氏族、

そしてイズモという国を守る「最後の砦」であり、

結界を守護する塞ノ神だったのかもしれません。


荒神谷の役目

2018-11-03 09:30:32 |  出雲の神話

<出雲市・荒神谷遺跡>

 

古代出雲の歴史を塗り替えたといっても過言ではない、

出雲市斐川町の「荒神谷遺跡」が発見された一帯は、

その名の通り「荒ぶる神」をお祀りした場所でした。

付近には「荒神」つまり祟り神をお祀りした社が存在し、

この地に住む人々は、古くからの言い伝えを守り、

荒神谷遺跡の周辺には決して近づかなかったと聞きます。

 

一説には、「オオナムチ(大国主神)の神宝を埋めた」

あるいは「タケミナカタの祭祀具を保管した」

などという噂もありますが、

実際にこの場所から発掘された

青銅器のレプリカを眺めてみますと、

素人目ながら、すべてが神宝、

あるいは祭祀具であるとは考えにくいもの。

 

仮に、荒神谷を取り囲むタケミナカタ系神社が、

もともとは荒神を守る「塞ノ神」であり、

結界を示す目印だったとするならば、

人々が近づけない禁則地を利用して、

何か別のものを隠したとも考えられます。

果たして、荒神谷遺跡という場所は、

どのような役目を担っていたのでしょうか……。


遺跡と塞ノ神

2018-11-02 09:25:25 |  出雲の神話

<佐支多神社 さきたじんじゃ>

 

国譲りの件の勝者でもあるタケミカヅチはもちろん、

事代主神、少彦名神など、出雲神話の主役級の神が、

「出雲地方の神社ではほとんど祀られていない」

という現象は、これまでの記事で何度か触れました。

一方、国譲りの一件で敗者として逃亡した

タケミナカタという神を主祭神とする神社は、

出雲の斐川町内を中心にいくつか点在しており、

タケミナカタへの信仰が出雲の地にも、

深く根付いていることを感じさせます。

 

ちなみに、斐川町内のタケミナカタ系の神社は、

ある遺跡を取り囲むようにして鎮座している、

という調査結果があるのごご存知でしょうか……。

その遺跡とはズバリ、358本もの銅剣、

および貴重な銅鐸や銅矛の類が発掘された、

出雲を代表する史跡「荒神谷遺跡」でして、

地元の郷土史家が、まるで遺跡を守るかのように、

タケミナカタ系の祭祀場があることを発見したそうです。

 

一説には、「諏訪へと逃亡したタケミナカタが

再起を図るため、荒神谷に祭祀具を埋めた」

などとも言われておりますが、

実際には、これら諏訪系神社の創建年代は、

それほど古くはないという話も聞きますし、

荒神谷遺跡との関わりもはっきりとしていません。

ただし、タケミナカタという神が

「塞ノ神」の性質を帯びていると仮定すると、

霧に包まれていた荒神谷遺跡を取り巻く古代の様相が、

より現実味を帯びて迫ってくるのも確かでしょう。


創作された神

2018-11-01 09:22:39 |  出雲の神話

<鳥屋神社 とやじんじゃ>

 

日本神話の解説文などを読んでおりますと、

風土記や延喜式などに記載されていないことを理由に、

「この神は大和朝廷によって創作された」

と断定している文句をたびたび目にします。

国譲りの件で登場する諏訪の神・タケミナカタも

そのような「架空の神」の一柱と言われており、

一部では「タケミカヅチの活躍を

引き立たせるためだけの存在」

などの話もあるのだとか……。

 

確かに、諏訪地方に残る伝承の中では、

タケミナカタと土着神とが混在して語られる一方で、

「タケミナカタが土着神を制圧した」

といった内容も見受けられます。

そんなタケミナカタの不安定な立場を考慮すれば、

タケミナカタが「何らかの理由で創作された神」

と考えても不思議ではないのかもしれません。

 

ただし、藤原氏の氏神であるタケミカヅチが、

ある意味「架空の神」として語られながらも、

一面では「藤原氏」という実在の氏族を指しているように、

仮にタケミナカタという神は存在しないとしても、

タケミナカタに相当する「何か」はあったのでしょう。

となると、出雲神話に登場する「敗者」の中でも、

唯一、最後まで抵抗する姿勢を崩さなかった

タケミナカタの正体が気になるところですね。


ミカとナカ

2018-10-31 09:20:27 |  出雲の神話

<大甕神社 おおみかじんじゃ>

 

鹿島神宮が創始される以前、鹿島周辺の一帯は、

那賀国造によって管理された土地だったと聞きます。

「ナカ」という言葉を耳にすると、

阿波国との関連が思い浮かびますが、

タケミナカタという神様の名称にも、

「ナカ」の文字が含まれており、

また、「タケミ」「カ」という音は、

「甕」とのつながりを連想させます。

 

もしかすると、タケミナカタという神にも、

「ミカ」とのつながりがあったのでしょうか……。

 

ちなみに、タケミナカタの本拠地でもある

諏訪地方には、道祖神信仰という

土着の風習が残っておりました。

道祖神と言うのはつまり「塞ノ神」であり、

「甕(みか)」にも通じる祭祀対象ですね。

タケミカヅチ、タケミナカタという

二神の名が持つ共通の響きの中には、

神々がたどった複雑な経緯が隠されているようです。