たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

名草戸畔再来

2020-10-31 10:26:07 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.62 *****

以前のブログでも取り上げた

「名草戸畔」というテーマ。

その後、事あるごとに思い出してはいたものの、

しばらくの間「一時棚上げ」となっておりました。

しかしながら、今回中央構造線上の

一の宮を追う過程で、ふいに目にとまった

「名草戸畔」のワードがきっかけとなり、

5年ほど前の土砂降りの雨の中、

和歌山市・海南市一帯を巡った

記憶が蘇ってきたため、数年ぶりに

「名草戸畔 古代紀国の女王伝説~なかひらまい著」

を読み直してみました。

 

その結果、当時は凡庸としていた

「名草戸畔の周辺」のイメージが

ありありと脳裏に浮かび、

「なるほどそういうことだったのか」

と独り合点した次第。後年に訪れた

阿波国・出雲国とのつながりが明確になるなど、

今さらながら「本」の持つ

不思議な磁力を感じているところです。

恐らく「優れた書籍」「力のある書籍」ほど、

手に取るたびに新たな示唆を

与えるような仕掛けが施されているのでしょう。


特殊な磁気

2020-10-30 10:22:37 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.61 *****

もともと日前宮の土地に建てられていた

伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ)は、

ヤマト王権の介入により

別の場所へと移動させられました。

しかしながら、改めて鎮座し直した場所も、

なぜか中央構造線のライン上……。

同じく、紀伊国一の宮である

丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)

の鎮座地も、中央構造線上と言っても

差し支えありませんから、

現在紀伊国一の宮の三社はすべて、

中央構造線と絡む場所に

建てられていることになります。

 

阿波国と同じくここ紀伊国でも、

中央構造線上に一の宮群が

ひしめいている様子を見ますと、

徳島から和歌山にかけての地域は、

中央構造線の中でも「特殊な磁気」

が存在する一帯だったのかもしれません。

だとすれば、その「磁気」とはいったい

何なのか…。そんなことを考えながら、

本棚をつらつらと眺めていたとき、

ふいに目に飛び込んできたのが、

数年前にブログでも取り上げた

「名草戸畔」というキーワードでした。


日前宮を巡る謎

2020-10-29 10:18:44 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.60 *****

「日前神宮・國懸神宮」と

一くくりにされがちな日前宮ですが、

実は両者の性質には少々違いがあり、

祭神やご神体も異なっているそうです。

日像鏡(ひがたのかがみ)を御神体として、

日前大神(ひのくまのおおかみ)

をお祀りする日前神宮が、

紀氏(紀伊国造)寄りの社である一方で、

日矛鏡(ひぼこのかがみ)を御神体として、

國懸大神(くにかかすのおおかみ)

をお祀りする國懸神宮は、

どちらかと言えばヤマト王権側の社

だったのだそう……(あくまでも古代の話)。

 

また、国造家である紀氏に関しても、

国造家としてヤマト王権に帰順した一族と、

国造家にならなかった一族とに

分かれていたと聞きますから、

伊太祁曽神社との国譲りの一件も含めて、

この地で起こった複雑な歴史の

流れに思いを馳せてしまいます。

恐らく、阿波国「名方」の一の宮だけでなく、

これら日前宮の土地も同様に、

中央政権が管理下に置きたかった

特別な理由があるかもしれません。


魅惑の聖地

2020-10-28 10:15:46 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.59 *****

和歌山市秋月にある日前宮(にちぜんぐう)は、

日前神宮(ひのくまじんぐう)

國懸神宮(くにかかすじんぐう)

という二つの社の総称で、

丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)、

伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ)とともに、

紀伊国一の宮に比定される場所です。

 

聞くところによりますと、

創建はなんと神武天皇2年(約2600年前)。

現在、この神社の宮司を務める紀氏は、

阿蘇神社などと同様に地方の国造家の流れを汲み、

日本で最も古い家系のひとつと言われております。

 

もしかすると、中央構造線上にある一の宮には、

各々の地域で一番力を持つ氏族が、

祭祀を担い続けなければいけない

「掟」でもあったのでしょうか……。

 

ちなみに、日前宮が現在地に

遷座したのは垂仁天皇16年でして、

それまでは同じ一の宮である

伊太祁曽神社の所有地でした。

何でも、紀伊国における国譲りの結果、

日前神・国懸神がこの土地を

手に入れたそうですから、

秋月という場所がどうしても欲しい

魅惑の聖地であったことがわかります。


名方の秘密

2020-10-27 10:08:32 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.58 *****

阿波国一の宮として広く認知される

「大麻比古神社」は、神武天皇の時代に、

天太玉命の孫・天富命(あめのとみのみこと)が、

阿波忌部氏の祖を率いて阿波国に移り住み、

この地を開拓したことが創建の発端だと聞きます。

阿蘇神社と同じようにここでも、

「神武天皇」の名前が見え隠れすることから、

神武時代に「中央構造線」への監視が

強まった可能性も高いのでしょう。

 

忌部氏という名門祭祀氏族を配置し、

「名方郡」を管理下に置いたことは、

神武天皇がいかにこの地、そして中央構造線を

意識していたのかの証にもなりそうですね。

ちなみに、大麻比古神社の「麻の葉文様」の神紋は、

宮司家である永井氏の家紋でもあります。

確証はありませんが、「ナガイ」という名字に

「ナカ」の音が秘められていることを踏まえれば、

「名方」の秘密を知る一族でもあったのかもしれません。

 

いずれにせよ、大麻比古神社を始めとする

「名方の一の宮郡」と中央構造線との関わりは、

決して無視できないものなのでしょう。


封じ込めの呪術

2020-10-26 10:49:58 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.57 *****

「四国に鉄の橋が渡されて本土とつながるとき……」

とは、四国と本州とを結ぶ3つの本州四国連絡橋が

完成した「今」だと考えれば、

本土から戻ってくる「黄金の狐」が、

いったい何を示しているのかが気になるところです。

とは言え、その疑問を追求し始めると、

話がかなり逸れて行きそうなので、

ここではひとまず保留することにして、

四国北部を貫く中央構造線を俯瞰している最中、

まるで大断層をなぞるかのごとく、

国道や高速道路が伸びる様子が見えてまいりました。

 

まあ、山岳地帯の多い四国のことですから、

道路に適した平地が中央構造線の走る

吉野川沿いにしかなかったとも考えられますが、

空海が仕掛けた四国八十八カ所という

「結界」しかり、断層の割れ目に施した

「アスファルトのコーティング」しかり、

どうもこの土地には「封じ込めたいモノ」

の存在がチラついて仕方ないのですね。

 

ちなみに、中央構造線の真上に位置し、

「阿波國名方郡天石門別八倉比賣神社」

の論社である八倉比売神社の裏手の山には、

五芒星を象った磐座が残されております。

もしかするとこの遺跡は、

中央構造線とも深く関わる

「マジカルな呪術」だったのでしょうか……。


朝廷の監視下

2020-10-25 10:46:09 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.56 *****

先日の記事の中で、中央構造線を示す地図の中に、

「名方」という見慣れない地名が

載っていたという話題を取り上げました。

以前も書いたように、名方郡は阿波国を

管理していた阿波忌部氏の本拠地のひとつでして、

名方の「ナカ」とは、ナガスネヒコなど

土着の存在を暗示させる「音」でもあります。

また、海を隔てたところにある

岡山の名方浜宮(なかたのはまのみや)と

和歌山の奈久佐浜宮(なぐさのはまのみや)には、

皇女である豊鋤入姫命が巡幸された痕跡

(元伊勢)が残るなど、どうも朝廷側は「名方」を

強く意識していた形跡が伺えるのですね。

 

岡山(和歌山という説もあり)の

元伊勢の「名方」という名称はもちろん、

和歌山の元伊勢である奈久佐浜宮

(名草浜宮とも表記する)に関しても、

その名前の中に「名」という漢字や、

「ナガ」「ナグ」といった音が

含まれていることを踏まえると、

恐らくこれらの地域には

「抑え込まなければならない何か」

があったとも考えられます。

そして、それら「名方」の監視を

任されていた人物とは、古くは忌部氏であり、

その後の空海だったのかもしれません。


国の一大事

2020-10-24 10:42:58 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.55 *****

古代、阿波国と呼ばれた徳島県には、

一の宮を呼ばれる神社が複数存在しております。

まずは、中世以降に一の宮とされた「大麻比古神社」。

そして、「阿波國名方郡天石門別八倉比賣神社」

の論社であり、「名方郡」に属する

八倉比売神社、一宮神社、上一宮大粟神社の三社です。

 

このうち、上一宮大粟神社(および一宮神社)

に祀られるのが、日本神話にも登場する

オオゲツヒメという女神でして、

以前の記事でも何度か取り上げましたので、

覚えていらっしゃる方もいるかもしれませんが、

実はオオゲツヒメとは「キツネ」

を表す神名と言われております。

 

何でも、上一宮大粟神社の口伝には、

「オオゲツヒメは国の危急の時に、

黄金の狐を呼び危機を救う」

という内容が残されており、

空海が四国からキツネを追い払ったのは、

キツネの悪行を封じるためではなく、

「危機に備えてあえて本土に逃がした」

という見方もできるのだとか……。

 

もしかするとその「国の一大事」とは、

「中央構造線の動き」のことだったのでしょうか……。


名方

2020-10-23 09:40:24 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.54 *****

中央構造線を示す地図を検索している最中、

「名方(なかた)」という地名が

記されている画像を発見しました。

阿蘇・伊勢・諏訪・鹿島など地名と共に、

なぜ「名方」という少々聞きなれない

地名がピックアップされているのかと、

訝しく思いながら調べを進めて行きますと、

なかなかにマニア心を刺激する

示唆を受け取った次第です。

 

ちなみに、「名方」といいますのは、

阿波国(徳島県)の国府が置かれていた場所で、

現在の徳島市の大部分が「名方」に属し、

今も名東郡・名西郡などにその名残が見られます。

一説に、タケミナカタの「ナカタ」とは、

阿波の名方郡に由来する名称とも言われており、

長野の諏訪大社は建御名方命を祀る阿波の

「多祁御奈刀弥神社(たけみなとじんじゃ)」

から移遷されたという説もあるのだとか……。

 

真偽のほどはともかくとして、

四国(主に徳島)の中央構造線上には、

この多祁御奈刀弥神社を始め、

「一の宮」を主張する複数の神社が

鎮座しているという事実に、

ガゼン興味が湧いてまいりました。


狸と狐

2020-10-22 09:36:34 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.53 *****

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昔々、四国の一帯には、タヌキとキツネがたくさん
住んでいました。タヌキとキツネは仲が悪く、
いつもケンカやもめ事が絶えません。
特に、ずる賢かったキツネは、
タヌキを追い回すだけでなく、
里人や往来の旅人に悪さをするなどして、
大変迷惑をかけていたのです。

思い余った里の人たちは、弘法大師に相談しました。
お大師さんは、四国中のタヌキとキツネを集めて、
「キツネは本州に、タヌキは四国に住み分け、
瀬戸内海に鉄の橋ができるまで、
決して四国に帰って来てはなりません」
とキツネを四国から追い出しました。

その後、四国ではタヌキが幅を利かせるようになり、
タヌキの話が各所に残るようになったといいます。

~四国アラカルト①を参考

==========================

 

四国と中央構造線との関連を想像するたびに、

なぜか思い浮かぶのがこの空海の伝説です。

「四国に鉄の橋が渡されて本土とつながるとき、

追い出されたキツネが戻って来るだろう」

という謎の文言を残した空海は、

四国に八十八カ所の札所を設けただけでなく、

長い時間をかけて中央構造線上を

くまなく歩きまわったとも言われております。


最大の使命

2020-10-21 09:26:54 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.52 *****

一説に、神武東征のきっかけとなったのは、

約2千年ほど前?に起きた

阿蘇山の大噴火だったそうです。

そのときの噴火により、

溶岩流が数キロメートルに渡り

流れ出したと言いますから、

神武天皇が暮らしていた南九州の被害も

少なくなかったのでしょう。

 

ちなみに、神武天皇が亡くなったとされる日は

「神武天皇76年3月11日」です。

「神武天皇76年の3月」と言えば、

神武天皇の孫である健磐龍命が

阿蘇に現れた時期とも重なりますね。

 

まあ、それらの日付にどれくらい

信憑性があるのかはわかりませんが、

2千年前の噴火以降、阿蘇山に目立った

噴火活動が見られないことなどを踏まえれば、

「神武東征」により災厄が抑えられた

可能性も否定できないのだと……。

 

もしかすると神武天皇は、

自らの死後の阿蘇山を鎮める役目として、

健磐龍命を阿蘇に送り出したのでしょうか……。

恐らく、神武天皇が健磐龍命に課した

最大の使命とは、阿蘇一帯に「卯」の呪術

を施すことだったのかもしれません。


秘められた意図

2020-10-20 09:24:07 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.51 *****

古式ゆかしい祭礼が伝わることでも

有名な熊本の阿蘇神社には、

3月初めの卯の日から次の卯の日

までの13日間にわたって執り行われる、

「卯の祭」という祭事があります。

何でも、阿蘇を開拓した健磐龍命

(たけいわたつのみこと)が、

この地に住まわれた3月の卯の日を記念し、

開拓の恩に感謝する農耕祭事祭とのことで、

阿蘇の風物詩であり火の国熊本を

代表する阿蘇神社の火振り神事も、

実は「卯の祭」の行事のひとつなのだとか……。

 

「卯の祭」と聞けばやはり思い出すのが、

三輪山(大神神社)の儀式ですね。

古くは「卯の日神事」とも呼ばれた

大神神社の「大神祭」は4月の卯の日、

阿蘇神社の「卯の祭」は3月の卯の日

と一ヶ月の違いはあるものの、

春先の「卯」の日を中心に行われるお祭りには、

どことなく呪術的な意味合いを感じるもの。

もしかすると、阿蘇神社の「卯の祭」

も単なる農耕儀礼などではなく、

三輪山の儀式にも通じる秘められた

意図が隠されているのかもしれません。


阿蘇氏

2020-10-19 09:21:00 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.50 *****

熊本県の阿蘇神社は、全国に約450社を

数える「阿蘇神社」の総本社であり、

創建は紀元前にまで遡ると言われております。

古代の有力氏族である阿蘇氏の一族が、

今なお宮司として神社を守り続ける古社で、

このように千年以上もの長きに渡り

祭祀を継続してる家系は、

天皇家や出雲国造家など

数えるほどしかないとのこと。

 

早々に他の家系に取って代わられる

神社が多いにも関わらず、

ここ阿蘇神社は現在92代目?となる

阿蘇氏が宮司を務めているそうですから、

歴史の古さと稀有な家柄が伝わってまいりますね。

ちなみに、阿蘇神社の主祭神は、

神武天皇の孫とも言われる健磐龍命

(たけいわたつのみこと)と、

その后神である阿蘇都比咩命

(あそつひめのみこと)です。

 

宮司家の先祖にもあたる健磐龍命に関しては、

当時カルデラ湖だったこの地の

外輪山を蹴破って水を流したり、

水をせき止めていた大鯰を退治したり……

などの伝承も残っており、近隣にある

「国造神社」には、そのとき出現した

ナマズが祀られるお宮が存在しました。


阿蘇と地震

2020-10-18 09:19:11 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.49 *****

2016年4月、熊本地方を襲った

震度7の大きな揺れは、

中央構造線と関わる二つの断層が

ズレ動いたために発生した地震です。

場所が場所であるだけに、

中央構造線を通じて起きる

連続反応が懸念されたものの、

今のところ熊本地震の規模を

超える地震は発生しておりません。

 

一説に、「阿蘇山」がエネルギーを

吸収する役目を担ったことから、

地震の連鎖反が抑えられたという話もあり、

その影響もあるのか阿蘇山の火山活動は、

それ以降活発化の兆しを見せております。

そのときの地震により、

阿蘇神社の楼門と拝殿が倒壊したことは、

ニュース等でも大きく取り上げられましたので、

ご存知の方も多いことでしょう。

 

幸い本殿は無事であったため、

神社マニアの間では「阿蘇は守られた」

「いや阿蘇の封印は解かれた」

と様々な議論が巻き起こりましたが、

いずれにせよ、名前からして「災害」を

連想せずにはいられない阿蘇神社という場所は、

明らかに「噴火」や「地震」を意識して

建てられた神社であることは確かなのです。


アソの語源

2020-10-17 09:14:25 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.48 *****

阿蘇神社の「アソ」という言葉の

語源については諸説あり、

アイヌ語起源の「火を吐く山」という意味、

南方起源の「煙」「燃える」という意味、

あるいは湿地帯や水の浅いところ

という意味……などがあげられます。

 

群馬と長野の県境にある

「浅間山」の「アサマ」、

また富士山の古称とも言われる

「アサマ山」という名称も、

もともとは「アソ+ヤマ」が転訛したもので、

古代人は「火を噴く山々」の

すべてを「アソ」と呼んだのだとか……。

つまり、阿蘇山および阿蘇神社の

「アソ」という呼び名は、数千年?

数万年?前から人々の間で発せられてきた、

火山を示す「古い音」でもあったわけですね。

 

一般的には、浅間山より富士山のほうが

メジャーであり、阿蘇山よりも

富士山の噴火に意識が向きがちですが、

ひとたび阿蘇山が最大レベルの噴火を起こせば、

九州全体はもちろん山口県の

一部にまで火砕流が及ぶのだそう。

阿蘇山の周囲には噴火や

地震を誘発する複数のカルデラが存在し、

縄文時代の大噴火により

南九州縄文人が絶滅したとも言われております。