<洲本市・由良>
神武天皇が熊野から吉野へ巡幸した際、
井戸の中から体が光り尾のある人が出てきたため、
天皇が名をたずねると「国津神、名は井氷鹿」
と名乗ったと、記紀には記されています。
実は、修験者(山伏)と呼ばれる人たちは、
海人族出身の人が多かったという話があり、
腰に鹿の毛皮を巻いたり、鹿皮を背負ったり、
鹿角のついた杖を持ったりする出で立ちは、
海人の習俗が元にあるそうです。
吉野の国巣の祖である石押分之子と同様、
吉野首らの祖である井氷鹿という神様も、
海人族の一派だったのでしょうか……。
ちなみに日本書紀における、
神功皇后の新羅遠征の件では、
「磯鹿の海人名草」なる者が登場しますが、
一説に磯鹿の海人は、神武東征の物語の中で、
天香山の土を持ち帰った人物とも言われています。
恐らく、神武天皇の東征を支えていたのは、
海人族であり、すでに国津神と化していた
渡来人(忌部氏)だったのかもしれません。