たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

海人と修験

2018-08-27 09:10:59 | 阿波・忌部氏2

<洲本市・由良>

 

神武天皇が熊野から吉野へ巡幸した際、

井戸の中から体が光り尾のある人が出てきたため、

天皇が名をたずねると「国津神、名は井氷鹿」

と名乗ったと、記紀には記されています。

実は、修験者(山伏)と呼ばれる人たちは、

海人族出身の人が多かったという話があり、

腰に鹿の毛皮を巻いたり、鹿皮を背負ったり、

鹿角のついた杖を持ったりする出で立ちは、

海人の習俗が元にあるそうです。

 

吉野の国巣の祖である石押分之子と同様、

吉野首らの祖である井氷鹿という神様も、

海人族の一派だったのでしょうか……。

ちなみに日本書紀における、

神功皇后の新羅遠征の件では、

「磯鹿の海人名草」なる者が登場しますが、

一説に磯鹿の海人は、神武東征の物語の中で、

天香山の土を持ち帰った人物とも言われています。

恐らく、神武天皇の東征を支えていたのは、

海人族であり、すでに国津神と化していた

渡来人(忌部氏)だったのかもしれません。


麁妙と鹿皮

2018-08-26 09:03:26 | 阿波・忌部氏2

<山崎・忌部神社 やまさきいんべじんじゃ>

 

祖谷地方に伝わるわらべ歌の中に、

祖谷の空から降ってきた御龍車から、

「諸国の宝」が降ろされたという歌詞が出てきます。

これまでの妄想を元に考えれば、これらの宝は、

淡路島を目指してやってきた各地の部族が、

天皇への恭順を示すために忌部氏に託した、

先祖代々伝わる神宝だったのかもしれません。

恐らく、各部族のトーテム動物に関わる何かを、

天皇の祭祀族である阿波の忌部氏に手渡すことは、

自らの神を差し出すことと同等だったのでしょう。

 

特に、日本の先住民の血を濃く引き継ぎ、

渡来系部族以上の祭祀力を有していた

海人族(鹿の皮を身にまとった人々)を

天皇一行の味方につけることは、

避けて通れない関門だったのだと思われます。

優れた霊力を宿す海人族の鹿皮を身に着け、

海人族の神と一体になってはじめて、

「真の天皇」が誕生したというわけですね。

そののち、鹿皮は「麻」の反物に変わったものの、

「麁妙」という名称だけは、

今に引き継がれのたかもしれません。


帰順の道

2018-08-25 09:00:37 | 阿波・忌部氏2

<美馬市・木屋平>

 

阿波忌部氏の末裔・三木家に伝わる

「麁妙」という天皇への調進の品は、

「麻」で織られた反物ですが、

当初は「鹿の皮」だったのではないか、

考えるのは極端な発想でしょうか……。

淡路島に集った様々な氏族、

つまり「天皇」に恭順した人々の宝が、

島を経由して阿波へ持ち込まれたと想像すると、

その中には、海人族の象徴でもある

「鹿の皮」なども含まれていたはずです。

 

古代より、鹿皮には霊力があるとされ、

鹿の狩猟が許されたのは、

天皇など権力者のみだったと聞きますし、

「鹿の皮」を身にまとうことは、

相手への服従を意味していたのだとか。

恐らく、阿波忌部氏が任されていたのは、

各地の部族の神々(神宝)を預かり、

「国津神」を取りまとめる任務だったと思われます。

言うなれば、「淡路(阿波への路)」という名称は、

天孫族への帰順の道だったのかもしれません。


集結の地

2018-08-24 09:56:26 | 阿波・忌部氏2

<南あわじ市>

 

「淡路島は日本の縮図」など申しますが、

古代淡路について妄想しておりますと、

阿波国の忌部氏のように、

突出したひとつの集団が、

この島を治めていたわけではなく、

たくさんの氏族が寄り集まって、

ひとつの国を造っていたのではないか、

というイメージが湧き上がってきます。

 

北は播磨、中央は紀伊・難波、

そして南は阿波と言った具合に、

各々の地域が近隣国と

綿密なつながりを持ちながら、

大和朝廷との緩衝材のような役目を

果たしていたのでしょう。

淡路島の古墳の形状や年代から見ても、

この地を支配していた有力な豪族は、

ほぼ存在しなかったとも言われております。

 

恐らく、淡路島という場所は、

天孫族が日本を治める過程の中で、

天皇に恭順した各地の部族や、

部族の代表らが集結した地であり、

それらの中には、多くの渡来系の

人々も混じっていたはずです。

そして、彼らが最終的に向かった国こそが、

お隣の「阿波」だったのでしょうか……。


石組みの遺跡

2018-08-23 09:52:13 | 阿波・忌部氏2

<洲本市・小路谷>

 

淡路島とユダヤとの関連を決定づけたのが、

洲本市の海岸で発掘された石組みの遺跡です。

その形状は、阿波の各所で見かけた

石造りの祭壇によく似ているものの、

どこか近寄りがたい空気を

纏っているようにも感じられます。

現在、それらの遺跡は

埋め戻されているとのことですが、

同じ場所に置かれていた

レプリカを見た際に漂ってきたのは、

祭壇というより「墓所」の空気感でした。

 

ちなみに、先日記事内でご紹介した、

「鹿」の紋章が刻まれた指輪は、

この遺跡から発掘されたものです。

ただし、写真で見る限りそれほど

古さを感じる造形ではないため、

信憑性に関しては何とも言えず……。

この物証だけを手掛かりに、

ナフタリ族が淡路島に上陸したと

断定するのは難しいのでしょう。

 

ちなみに、淡路島の名刹・千光寺には、

「猟師に射られた猪は海を渡って、

淡路島の山奥へ逃げ込み千手観音となった」

という由緒が伝わっているそうですが、

ナフタリ族という部族の象徴は、

鹿ではなく猪だったという説も存在します。

鳥、鹿、牛など多くの「鳥獣(部族)」

が棲むと言われた淡路島には、

もしかすると「猪」が暗示する人々も、

やって来ていたのかもしれません。


淡路の地名

2018-08-22 09:48:05 | 阿波・忌部氏2

<洲本市・小路谷>

 

油谷(ユダニ)古茂江(コモエ)小路谷(オロダニ)

由良(ユラ)諭鶴羽(ユズルハ)……等々、

淡路島にはヘブライ語を想起する地名が散見されます。

ユダニやユラは「ユダヤ」との類似性を伺わせますし、

由良湊神社に伝わる「ねり子祭り」では、

数え年三歳を迎えた子ども(ねり子)の額や頬に、

ユダヤの風習を思わせる赤い十字を描くのだそうです。

 

またその昔、淡路島が大干ばつに見舞われ、

島内にある溜め池が干上がった際には、

水面下から六芒星の形をした石組みが

現れたという話もあるのだとか。

仮に、剣山や瀬戸内地方を中心に、

多数存在するこれらのため池が、

古代イスラエル部族の遺産だとすれば、

ため池という人工池の成り立ちと、

ユダヤ人との関連も気になるところです。


原点の島

2018-08-21 09:43:04 | 阿波・忌部氏2

<由良湊神社 ゆらみなとじんじゃ>

 

古事記の中にも登場する、

非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)は、

橘(みかん)の原種であるとされ、

天日槍の孫・田道間守(たじまもり)が、

新羅国から持ち帰った食べ物です。

洲本市の南にある由良一帯には、

この非時香菓が多く自生しており、

渡来人(主に新羅系)とこの地とが、

古くからつながっていることを示す、

根拠のひとつともなっています。

 

淡路島を巡っている最中、

心身にまとわりついていた

緊張感がふいに和らいだのが、

由良の町を訪れたときでした。

由良の氏神でもある由良湊神社は、

小さな漁村にふさわしい素朴な神社で、

古い時代から地元の人々に

愛されてきた様子が伝わってきます。

 

恐らく、淡路島という「原点の島」には、

多数のユダヤ部族が接触したのでしょう。

忌部氏の時代から秦氏の時代、

そして神功皇后の時代にかけて、

多くの部族の末裔が淡路島を訪れ、

各地の渡来人と接触を持ったはずです。

阿波国を忌部氏の拠点とするなら、

淡路島は渡来人全体の拠点だったのかもしれません。


淡路の鳥獣

2018-08-20 09:38:02 | 阿波・忌部氏2

<南あわじ市>

 

淡路島の最高峰である諭鶴羽山の山頂には、

諭鶴羽権現という神仏が祀られており、

一説には「熊野権現の奥の院」と

呼ばれていると聞きます。 山頂からは、

国生みの島である沼島はもちろん、

四国や和歌山、大阪などを一望できるそうですし、

諭鶴羽山に登れば、当時の日本の「大都市」や、

海の向こうからやってくる渡来人の動きなどが、

手に取るようにわかったのでしょう。

 

もしかすると、諭鶴羽山の山頂付近には、

阿波忌部氏が剣山で行っていたように、

鶴の羽つまり「鳥」を崇める部族が、

拠点を構えていたのかもしれません。

そして、海や山麓に散らばる「鹿」の部族や、

のちにやってきた「牛」の部族などを、

高い場所から管理していたのでしょうか……。

 

ちなみにその昔、淡路島には、

大和朝廷の狩猟地である

「淡路宮」が置かれたという話です。

何でもその理由は、この地にたくさんの

「鳥獣」が棲んでいたからなのだとか。

「国土統一の証」ともされる天皇の遊猟が、

本当に鳥や獣を狩る目的だけだったのか、

今となっては真相はわかりませんが、

恐らくこの淡路の地でも、

部族同士の争いや天孫族への国譲りが、

行われていたことは確かなのだと思われます。


諭鶴羽

2018-08-19 09:34:47 | 阿波・忌部氏2

<南あわじ市>

 

かの有名なスケート選手とのつながりで、

一躍有名になった「ゆずるは」と名のつく神社が、

この淡路島にも鎮座していました。

島内最高峰の諭鶴羽山(ゆずるはさん)は、

標高がおよそ600mほど。

ユズリハが多く生育していたという説や、

イザナギ・イザナミが鶴の羽に乗って、

カヤの木に舞い降りたという説など、

名前の由来に関しては様々な説がありますが、

個人的にはやはり、弓に張る麻糸を示す、

「ゆみづる」が頭に思い浮かびます。

 

ちなみにその昔、弓の弦を張るための

動物の骨を使った道具が存在したそうです。

近隣に見られる「鹿」と名のつく地名や、

南淡地方と阿波忌部氏との深い関連を考えると、

諭鶴羽山が南淡の忌部氏たちにとっての「剣山」

の役目を果たしていた可能性もあるのでしょう。

今回は時間の関係で参拝できませんでしたが、

諭鶴羽神社へと続く道は、剣山と同様に、

細く狭い急峻な参道だと聞きました。


新羅系部族

2018-08-18 09:24:10 | 阿波・忌部氏2

<洲本市・由良>

 

洲本市由良の生石神社(おいしじんじゃ)には、

新羅の王子・天日槍(あめのひぼこ)

の神宝が祀られている、という伝承が伝わるなど、

「新羅系部族」が接触を持った形跡が残されています。

天日槍は息長帯比売命(神功皇后)

の祖と言われていますから、

神功皇后の子どもである応神天皇が、

淡路島で遊猟をした経緯にも、

この地の新羅系の人々が深く関与していたのでしょう。

 

また当時、播磨に住んでいた天日槍系の人々の多くが、

伊佐勢理彦と若建彦の大軍に攻められて、

淡路島に逃げ込んできたという伝承があることや、

淡路島北部の貴船神社遺跡から、

新羅陶器が出土していることなども合わせて考えると、

扶余・高句麗系部族のシンボルでもある

「鹿」の形跡が残る南淡地方とは別に、

主に淡路島の中央部から北部にかけての一帯には、

新羅系の渡来人が集まっていた可能性もありそうです。


海を渡る鹿

2018-08-17 09:48:02 | 阿波・忌部氏2

<南あわじ市>

 

淡路島での遊猟の最中、応神天皇が見た「海を渡る鹿」は、

諸県君牛(もろのあがたのきみうし)という日向の豪族でした。

諸県君牛は、娘である髪長媛(かみながひめ)を

天皇に差し出し、一族の帰順の意思を示すため、

鹿の皮をかぶって応神天皇のもとへ参上します。

実は、天皇が「縁の土地で遊猟をする」という行為は、

国土を平定した証とも言われており、

猟の対象として選ばれた動物のほとんどが「鹿」でした。

 

諸県君「牛」が鹿の皮をかぶるという奇妙な光景には、

何らかの裏事情があった気配も漂わせますが、

古代の大陸には「牛」をトーテムとする部族も存在し、

日本に渡来していた可能性が囁かれています。

三韓とも呼ばれる古代朝鮮半島の三国

「百済」「新羅」「高句麗」うち、

主に新羅を中心に殺牛祭祀という儀礼が伝えられ、

新羅の民・ワイ族の影響を受けた秦氏などが、

日本に「牛祭祀」を持ち込んだ痕跡があるそうです。


鹿を扱う人々

2018-08-16 09:45:13 | 阿波・忌部氏2

<洲本市・由良>

 

日本書紀の「応神紀」の中には、

「応神天皇が淡路島で遊猟をしている最中、

数十頭の鹿が海を泳いでいるのを見て怪しみ、

使者を派遣して調べさせところ、

角をつけ鹿の皮を被った人間だった」

という逸話が載っています。

また、歴代の天皇が淡路島で狩りをした際、

「ここには鹿が多い」などと言った伝承が

あることから考えても、古くから淡路島には、

「鹿」を扱う人々が住んでいたことは確かでしょう。

 

ちなみに、縄文時代の遺跡に描かれているのは、

「猪」の絵がほとんどで、銅鐸の図柄などに

鹿の絵が登場するのは、弥生時代に入ってからだそうです。

一方、鳥に関する信仰は、すでに弥生時代には伝来しており、

鳥葬など鳥に基づく喪葬儀礼が広く行われていたと聞きます。

もちろん、これだけでは正確な判断はできませんが、

日本に「鹿」の部族が渡来してきたときにはすでに、

「鳥」の部族が先住していた可能性もあるのかもしれません。


鹿と海人族

2018-08-15 09:41:58 | 阿波・忌部氏2

<春日大社 かすがたいしゃ>

 

忌部氏の祖神である天太玉命には、

いくつかの「鹿」に関わる伝承が残っていました。

例えば、記紀の岩戸隠れの件で、

天太玉命が天児屋命と共に行った

太占(ふとまに)という儀式は、

鹿の肩甲骨を焼いて吉凶を占ったため、

別名「鹿卜(かぼく)」とも呼ばれています。

 

また、藤原氏のシンボルでもある鹿は、

もともと春日氏(和邇氏)に由来する動物で、

藤原氏は春日氏の配下に属する氏族だった

という話もあるのだとか。

和邇氏など海人族系の氏族は、

鹿が海や川を泳いで渡る習性を利用し、

鹿の追い込み猟を行っていたそうです。

 

つまり、「鹿」という動物は、狩猟民族だけでなく

海人族とのつながりも深かったわけですね。

春日氏の領地であった春日大社の土地や、

物部氏の領地であった鹿島神宮の土地を手に入れ、

自らの氏神とした藤原氏という一族は、

各地の海人族を支配下に組み入れた証として、

「鹿」を自らのトーテムとして掲げたのでしょうか……。


淡路の忌部氏

2018-08-14 09:39:03 | 阿波・忌部氏2

<南あわじ市>

 

南あわじ市に、賀集(かしゅう)という地区があります。

その昔賀集は、「かしお」と呼ばれおり、

「鹿集」あるいは「鹿塩」の文字が当てられていたのだとか。

鹿子西谷、鹿子奥、鹿子北谷など、

賀集地区には「鹿」という字名の地が多く存在し、

さらには「印部」という小字も見られるそうです。

淡路島に関わる史書の中に、「忌部は八幡村の旧名なるべし」

という記述があることからも、賀集八幡という集落の近隣が、

忌部(印部)村と呼ばれていたことは間違いないのでしょう。

 

また以前、賀集地区では「淡路焼き」

という焼き物が造られていたと聞きます。

忌部氏は備前焼で有名な備前国にも進出し、

「伊部」という地名を残していますし、

古代・中世にかけて淡路国の中心地だった

南あわじ市・三條のあたりは、

淡路人形浄瑠璃の発祥地であると同時に、

多くの楽人(雅楽演奏家)を抱えた土地でした。

「焼き物」「雅楽」はともに、

阿波忌部氏が残した功績だと考えると、

この一帯こそが淡路の忌部氏の

拠点だった可能性が見えてきますね。


牛の供犠

2018-08-13 09:29:06 | 阿波・忌部氏2

<石上神宮 いそのかみじんぐう>

 

ひと口に古代イスラエル氏族と言いましても、

「生贄の習俗を持つ部族」と「生贄を禁じる部族」

とに分かれていると聞いたことがあります。

ただし、生贄祭祀(牛の供犠)の形跡が見られるのは、

朝鮮半島南部の新羅が中心だと言われており、

大陸ルートを通り日本にやってきた渡来人の多くが、

朝鮮半島北部の扶余族や狛族だったと仮定すると、

基本的に渡来人のほとんどが、

それらの習俗とは無縁だったはずです。

 

確かにユダヤ民族には生贄に関する記述もありますが、

長い旅の道中、他の狩猟民族などとの関りを持つ中で、

独自の祭祀として進化した部分もあったのでしょう。

主に、古い時代に来日した人たちや、

南の黒潮ルートを選んだ人たちは、

長期間、経由地には留まらずに、

日本に向かった可能性が高いゆえ、

大陸の文化には染まりにくかったと思われます。

 

ちなみに、桓武天皇の時代に、

「牛を殺して漢神をまつるを禁ずる」

というお触れが出されたそうです。

もしかすると、物部のいざなぎ祭文の中の、

天中姫宮といざなぎ大神のやりとりのように、

イスラエルの異なる部族、あるいは同じ部族間でも、

「王道」と「外法」とを巡り、

様々な駆け引きがあったのかもしれません。