たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

縄文人の意思表示

2019-06-30 09:35:25 | 鉄の神々2

<国立歴史民俗博物館>

 

先日歴史番組を見ていた際、「縄文人は争いを嫌う」

「縄文人は武器を持たない」という話を聞いて、

ふいにスサノオがヤマタノオロチの尾から

取り出した神剣(草薙剣)を、自らの所有物とせず

天照太御神に献上した場面が思い浮かびました。

 

恐らく、渡来系の技術者により「タタラ製法」

が持ち込まれる以前の「イズモ」の人々は、

青銅器や鉄製品を「武器」に加工するという意識はなく、

青銅器は祭祀用、鉄製品は仕事用といった具合に、

あくまでも日用品の材料として扱っていたのでしょう。

 

ゆえに、播磨国で鉱物の加工を行っていた伊和氏や、

出雲国の鉱物資源を管理していた安倍氏などは、

金屋子神を始めとする渡来系のタタラ民に対し、

複雑な感情を抱いていたものと想像されます。

もしかすると、スサノオが天照太御神に神剣を譲渡した場面は、

「争いはしない」「武器は持たない」という

縄文人たちの意思表示だったのかもしれません。


砂鉄を巡る軋轢

2019-06-29 09:30:20 | 鉄の神々2

<千種町・たたらの里学習館>

 

古代、製鉄の工程は「男女の交合」にも例えられ、

炉から溶け出た鉄を「ユ」と呼び、

出産と同じような現象として捉えたと聞きます。

一説には、完成した鉄が良質なら「天津神の子」、

あまり出来がよくなければ「国津神の子」、

そして失敗して使い物にならなければ

「蛭子」と表現したという話もあり、

最新のタタラ技術により生み出された鉄が、

天津神(渡来系)のもの、そして不純物の多い

野タタラ製法で作られた鉄が、

国津神から生み出されたものであることは、

当時の人たちの共通認識だったのでしょう。

 

恐らく、伊和神社を祭祀していた伊和氏の手で、

青銅器の製造や野タタラ製鉄が行われていた時期、

金屋子神なる渡来のタタラ民たちが千種近辺に押し寄せ、

新たな製鉄技術と引き換えに、この地の砂鉄利権を

譲り受けた経緯があったのかもしれません。

だとすれば気になるのが、金屋子神と同様に

この地の「鉄資源」に目をつけていたと思われる、

アメノヒボコという新羅由来の神についてですが、

それに関してはまた後の機会に……。


異国の鉄神

2019-06-28 09:25:34 | 鉄の神々2

<千種町・たたらの里学習館>

 

金屋子神の発祥地とされる宍粟市千種町に、

金屋子神信仰の形跡がほぼ見られないのは、

恐らく金屋子神が「異国の神」だったからだと想像されます。

出雲の金屋子神社に関する記事でも書いたように、

金屋子神の周辺には「渡来系」、特に「75」

の数字を整数と崇める一族の影が付きまとうなど、

日本の風土とは異なる背景が濃厚に匂ってくるのです。

 

もしかすると、金屋子神という存在は、

大陸の習俗を持ち込んだ一族の神であり、

この千種町でタタラ製鉄を広めた後、

さらに良質の砂鉄を手に入れるために、

出雲国の金屋子神社周辺へと向かったのかもしれません。

 

ちなみに、千種町では弥生時代の土器片と共に、

「野タタラ遺跡」が見つかっているそうですが、

「野タタラ」の形跡があるということはつまり、

本格的なタタラ製鉄が伝わる以前から、

「スズ鉄」による製鉄作業が行われていたということです。

 

もしかするとこの地でも、

出雲のヤマタノオロチの物語のように、

古参の鉄部族と新鋭の鉄部族との間で、

鉄を巡る争いが繰り広げられていたのでしょうか……。


タタラ製鉄の祖

2019-06-27 09:21:34 | 鉄の神々2

<千種町・たたらの里学習館>

 

タタラ製鉄の祖として知られる金屋子神が、

最初に降臨したとされるのが、

兵庫県宍粟市の千種町です。

しかしながら、町内には金屋子神に

関する神社や遺跡はほぼ見当たらず、

存在するのは国道脇に置かれたごく近代製の石碑と、

付近の山中にある金屋子さんと呼ばれる祠のみ。

 

ゆえに、少しでも手掛かりが欲しいということで、

山間部にある「たたらの里学習館」

まで足を延ばしてみたものの、

想像以上に移動時間がかかってしまい、

駆け足で写真を撮る程度しかできませんでした。

 

これからはもうちょっと、スケジュールにゆとりを

持って旅をしないと……などの反省をしつつ、

近辺を行きつ戻りつしていた中で感じたのは、

この千種町では金屋子神の存在感が

あまりにも薄いということです。

 

奥出雲の周辺では、「タタラ製鉄の神」

として手厚く祀られている金屋子神が、

こと金屋子神の「発祥地」でもある千種町では、

どういうわけか際立った形跡が見られないのですね。


鉄の王国

2019-06-26 09:11:06 | 鉄の神々2

 

<千種町・たたらの里学習館>

 

宍粟市の中心部からおよそ一時間、

市内の最北に千種町という地区があります。

古くから鉄の産地として発展してきたこの町は、

千種鉄という上質な鉄が産出される土地柄で、

製鉄業が盛んだった時代は、

千種鋼といえば「刃物の代名詞」とされるほど、

全国にその名を轟かせる産鉄地だったそうです。

 

千種町の「種」、岩野辺の「岩」はともに

金属を示す漢字ですし、一説には、昭和天皇の

皇后の御懐刀も千種の鋼で作られたのだとか……。

いずれにせよ、この宍粟市千種町一帯が、

「鉄の王国」と呼ぶに相応しい場所であることは、

異論のないところでしょう。

 

そして、この千種町と深いつながりを持つのが、

出雲にタタラ技術を伝えたとされる「金屋子神」です。

奥出雲の金屋子神社の主祭神でもあるこの神は、

実は出雲の神ではなく、ここ千種町から

出雲へと飛来した「播磨の神」でした。

ただし、金屋子神に関わる様々な逸話を総合しますと、

どうも金屋子神は純粋に「播磨国由来の神」とは、

考えにくいところがあるのもまた事実なのですね。


鉄の激戦地

2019-06-25 09:04:54 | 鉄の神々2

<宍粟市千種町>

 

播磨国一の宮・伊和神社を出て次に向かったのは、

金屋子神とのゆかりが深い宍粟市の千種町です。

訪れたときは、ちょうど周囲の山々が一斉に色づき、

まさに「錦秋」という言葉がぴったりの時期。

朝から晴天に恵まれたこの日は、

前後左右どちらを向いても、

秋色に染まった山肌が迫る中、

さわやかな空気を全身で感じるドライブとなりました。

 

ガイドブックの表紙に選ばれるような、

「人工的」な古都の紅葉も素敵ですが、

地方の山々の自然のままの紅葉を目にしますと、

古代の人々も見ていたであろう景色を、

現代人である自分が同じ場所で眺めていることに、

不思議な感慨を覚えるものです。

 

と同時に、穏やかな景観にそぐわない歴史を重ね合わせ、

「本当にここが鉄の激戦地だったのか」と、

にわかには信じられないような思いにもとらわれます。

恐らく、地元の人たちですら気づかない

幾多の凄惨な痕跡が、日本の各所に

「地霊の記憶」として閉じ込められているのでしょう。

 

そんなことを思いながら、

千種町の中心部に向けて車を走らせていると、

道路わきの目立たない一角に、

「金屋子神降臨の地」と書かれた碑が

置かれているのを発見しました。


土地との深縁

2019-06-24 09:04:28 | 鉄の神々2

<伊和神社 いわじんじゃ>

 

長い時代に渡り、様々な神の干渉を

受けてきた伊和神社ですが、

境内は清々しい空気で満ちており、

杉木立の間に静かに鎮座する社殿の姿は、

古代のこの神社のあり様を感じさせる

威厳にあふれた佇まいでした。

 

木々の密集度が低いせいか、

際立って「深い森」という印象は受けないものの、

特出すべきは一本一本の木々の「高さ」でして、

神社の方によりますと

「知らない間にどんどん伸びてしまった」のだとか……。

今ではあまりにも高くなりすぎてしまったため、

枝の剪定ができるベテラン職人が見つからず、

森を管理するのも一苦労だという話を聞きました。

 

由緒によれば、伊和大神が一晩のうちに

作り上げたというこの見事な社叢。

「自分が小さい頃は、木々の間を

走り回って遊べるくらいだったのに、

いつの間にか幹も太くなってしまって……」

と苦笑いする神社の方は、

恐らくこの地との深縁を持つ人物なのでしょう。

 

神域という神の城を取り囲む城壁のように、

高々と天に向かって枝葉を伸ばす木立の壁を見上げながら、

古代の伊和神社の様相、そしてこの場所の祭祀を任された

「縁ある人々」に、しばしの間思いを馳せておりました。


鶴石の奇縁

2019-06-23 09:59:53 | 鉄の神々2

<伊和神社 いわじんじゃ>

 

伊和神社を散策している最中、

本殿背後の狭い空間に、

「鶴石」という名のご神体石が

安置されているのを見つけました。

何でもその昔、伊和の神から

「私を祀れ」という神託が下ったのち、

瞬く間に杉やヒノキが生い茂る広大な

社叢が生まれ、多くの鶴たちが乱舞する

中央にあったのがこの鶴石なのだとか……。

石の上には二羽の白鶴が北を向いて眠っていたことから、

伊和神社の本殿は珍しい北向きの造りになったといいます。

 

この説話からわかるのは、

伊和神社が本来は「磐座祭祀」の場であったこと、

そして「白い鳥」と関わる場所であるということです。

実は「鶴(特に白鶴)」は「鉄」とのつながりが強く、

「鉄」の痕跡が見られる場所には、

必ずといっていいほど「白鶴」や「白鳥」など

白い鳥の伝説が伝えられているのですね。

恐らく、この地に「伊和大神」「オオナムチ」

「アメノヒボコ」を始めとする様々な神々が干渉したのも、

「鉄」という魔の鉱物が引き寄せた奇縁だったのかもしれません。


四つの山

2019-06-22 09:55:57 | 鉄の神々2

<射楯兵主神社 いたてひょうずじんじゃ>

 

実は、姫路市の「射楯兵主神社」は、

古くは宍粟市の伊和神社の摂社でした。

何でも、射楯兵主神社の鎮座地は、

もともと飾磨郡伊和里と呼ばれており、

伊和神社を創建した伊和族の

拠点のひとつだったのだとか……。

 

また、射楯兵主神社で60年ごとに行われる「一ツ山大祭」、

20年ごとに行われる「三ツ山大祭」という、

山岳を模して造られた置山(飾り山)が登場するお祭りは、

ともに伊和神社とのつながりが深く、

一つ山とは伊和神社近くの宮山を、

三つ山とは同じく白倉山・花咲山・高畑山の

三つの山を指すと聞きます。

 

これら四つの山は伊和神社を囲むような位置にあり、

伊和神社の祭礼においては、

人工の置山ではなく山そのものを遥拝し、

山上の祠を新しくする神事が行われるのだそうです。

 

つまり、射楯兵主神社で行われるこれらのお祭りは、

「伊和神社(ご神体山)の神」に対するもので、

射楯兵主神社のご祭神である

射楯神・兵主神という謎の神々が、

伊和大神と強力に結びついていた証にもなるのでしょう。

 

もしかすると、「空殿」となっている

射楯兵主神社の中央の神の正体とは、

伊和大神のことだったのでしょうか……。


銅鐸祭祀氏族

2019-06-21 09:51:38 | 鉄の神々2

<伊和神社 いわじんじゃ>

 

「宍粟」という名称は、同市山崎町の中心部にある、

鹿沢(しかざわ)という地名を「ししさわ」

と読んだことに由来するそうです。

つまり、宍粟には「鹿」と「粟」の意味があり、

佐用都比売神社に伝わる

「鹿の腹を裂いて血を取り田に蒔くと、

(粟の)苗がよく育った」との伝承と

重なるような地名だということがわかりますね。

恐らくこの地でも、五穀豊穣を祈るために、

地霊の依り代である鹿の儀式、

そして地霊鎮めとしての銅鐸祭祀が

行われていたのかもしれません。

 

ちなみに、宍粟一帯は縄文時代の土器が出土する土地柄で、

伊和神社の真西にあたる地点の山腹からは、

「銅鐸」も発見されているのだとか……。

一説に、三輪氏は「銅鐸祭祀氏族」だという話がありますし、

また銅鐸の出土地は「スズ鉄」とも深く関わるとも聞きます。

もしかすると、三輪氏という一族は「オオナムチ」への奉斎、

および「銅鐸」の使用だけでなく、

「鉄の加工」という技術もこの地に持ち込んだのでしょうか……。


黒葛の勝負

2019-06-20 09:46:34 | 鉄の神々2

<伊和神社 いわじんじゃ>

 

昨日、播磨国一の宮・伊和神社のご祭神である伊和大神、

そして伊和大神と習合したと思われるオオナムチが、

どちらも播磨国由来の神ではなく、

「他所から来た国津神」であることを指摘しました。

さらにこの二神以外にも、宍粟市(および播磨国)周辺には

「アメノヒボコ」という超メジャー級の渡来神の足跡が残り、

アメノヒボコが登場する物語は、

『播磨国風土記』の代表的な逸話としても広く知られています。

 

そのひとつが、以前ご紹介した

「粒丘(いいぼのおか)」の話でして、

今回はその後の展開についてご紹介しましょう。

 

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伊和大神(アシハラシコヲ)が、

国占めをするために大急ぎで川を遡っていたその頃、

新羅から来たアメノヒボコも同じように川を遡り、

二神は宍粟市あたりでついに対面することになりました。

 

しかし、二神の争いはなかなか勝負がつかなかったため、

「高い山の上から三本ずつ黒葛(くろかずら)を投げて、

落ちた場所をそれぞれが治めることにしよう」

と取り決めをし、但馬国と播磨国の境にある

藤無山(ふじなしやま)という山に登ることにします。

 

そこでお互いに三本ずつ黒葛を取り、

それを足に乗せて飛ばすと、アメノヒボコの黒葛は、

三本とも出石(いずし)に落ち、伊和大神の黒葛は、

播磨国の宍禾郡に落ちたのです。

よって、アメノヒボコは但馬を、

伊和大神は播磨を治めることにして二人は別れました。

 

* 別の説では、本当は黒葛ではなく

「藤のつる」が欲しかったものの、

一本も見つからなかったので、

この山が藤無山と呼ばれるようになったという件もあり

~「ひょうご歴史ステーション」を参照~

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伊和大神とアメノヒボコが、

なぜ播磨国(および宍粟市)の領土争いをしたのか、

その理由がこの物語の中に暗示されていました。


複雑な攻防

2019-06-19 09:25:39 | 鉄の神々2

<伊和神社 いわじんじゃ>

 

一説に、オオナムチともアシハラシコヲ

とも称される「伊和大神(いわのおおかみ)」は、

もともと「三輪大神(みわのおおかみ)」

だったという話があります。

実は、宍禾郡には三輪氏の移住形跡があり、

垂仁天皇の時代にアメノヒボコが入国した際、

三輪氏の祖先・大伴主と倭氏の祖先・長尾市

という大和の有力者たちが、アメノヒボコを

出迎えるために宍禾郡に派遣されたのだそうです。

 

伊和村も古くは「神酒(みわ)村」

と記したという説もありますし、

伊和大神とオオナムチ(三輪大神)

とが同一視された背景には、

同じ「素麺の里」である三輪山から来た人々、

そして彼らが奉斎していた

オオナムチの影響が潜んでいるのでしょう。

 

また、佐用都比売神社の伝承にもあるように、

伊和大神が出雲出身であるという説を踏まえれば、

伊和神社で祭祀されていたのは、

出雲の伊和大神と三輪山のオオナムチという、

「二柱の外来の国津神」だったとも言い換えられます。

すでにご紹介した通り、宍粟市は

「金屋子神」と濃厚なつながりを持ち、

また「アメノヒボコ」の影もチラつく場所ですから、

多くの「国津神」と「渡来神」がこの地に関わり、

複雑な攻防が繰り広げられていたことは

間違いないのかもしれません。


伊和神社

2019-06-18 09:22:59 | 鉄の神々2

<伊和神社 いわじんじゃ>

 

伊和大神(いわのおおかみ)をお祀りしていたのは、

宍粟一帯を支配していた豪族である

伊和君(いわのきみ)という一族です。

もともと、姫路市付近を拠点としていた伊和一族は、

大和朝廷の勢力に押されるようにして揖保川を北上し、

宍粟市のあたりに住み着いたといわれています

(宍粟市から南下したという説もあり)。

 

『播磨国風土記』によりますと、

その昔、宍禾郡(現:宍粟市)には、

石棺制作の技術者集団が居住した、

「石作里(旧名:伊和里)」と呼ばれる地区があり、

伊和大神が播磨国での国造りを終えた後、

「オワ、我が美岐(棺)にまもらむ」と言い残し、

彼らが造った棺に収まったという話があるのだとか……。

 

以前のブログで、「陶棺」に関する記事を書きましたが、

播磨国はいうなれば「石棺王国」ですから、

この石作里が石棺制作の中心的役目を担い、

また伊和一族が「石」と「葬送儀礼」と

関わる人々であった可能性も高いのでしょう。

伊和一族が祭祀を行っていたとされる場所には現在、

伊和大神をご祭神とする、播磨国一の宮

「伊和神社(いわじんじゃ)」が鎮座していました。


伊和大神

2019-06-17 09:19:04 | 鉄の神々2

<伊和神社 いわじんじゃ>

 

佐用都比売神社への参拝を終え、

「鹿の伝承」から得た収穫を手土産に、

次なる目的地を目指してさらに東へと向かいました。

すでにこの辺りまで来ますと、初日に訪れた

たつの市までさほど遠くない距離ではありますが、

本日は宍粟市の中心部に入ったあたりで進路を北に変え、

一路「鉄の都」に向かって北上することとします。

 

「宍粟市」と聞きますとやはり思い浮かぶのが、

謎のタタラ神である「金屋子神」の伝承ですね。

ただし、古代この一帯は「伊和大神(いわのおおかみ)」

という鉄の神の拠点でもあり、『播磨国風土記』の中では、

オオナムチ、大国主神、アシハラシコヲなど、

いくつかの別称とともにこの神が登場し、

播磨国のあちこちで国占めを行った様子が描かれています。

 

それによりますと、伊和大神の「国占め」は、

佐用郡以外の場所ではほぼ負けなしだったそうですから、

伊和大神という神が、播磨に君臨する「鉄の大神」の名に

ふさわしい存在であることは異論ないところでしょう。


地霊の乗り物

2019-06-16 09:14:49 | 鉄の神々2

<佐用都比賣神社 さよつひめじんじゃ>

 

昨日、「日本ではごく近年まで羊がいなかった」

という記事を書きましたが、「羊」が日本の風土に

合わなかったということは、つまり「羊」には

日本の地霊が宿れなかったという意味であり、

「仔羊の血」の習俗とともに来日した人々が、

羊を神に捧げることをあきらめた理由も、

「地霊の乗り物」として羊が適さなかったからだと考えられます。

 

恐らく、日本の地霊にとって、

日本の風土に馴染まない羊より、

銅鐸の絵柄として好まれた「鹿」や「猪」などの動物や、

各々の土地で捕獲された他の生き物のほうが

相性がよかったのでしょう。

恐らく、供物として神に捧げられる動物たちは、

その土地で育ち、その土地のものを食していることが

必須条件だったのかもしれません。

 

国占めの際に賛用都比売命が、

役目を終えた鹿を近くの山に放ったのも、

農耕儀礼に用いる供犠の動物を

「自らの土地に」戻すためだったとも想像できます。

だとすれば、「動物の描かれた銅鐸を土に埋める」

という行為は、ある種の「地霊鎮め」であり、

犠牲となった鹿や猪を地霊に返す所作だったのでしょうか……。