たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

コウジンさん

2020-07-31 09:27:16 | 古代の出雲

<松江市上佐陀町>

 

「荒神」を祀ったご神木に巨大なワラヘビを巻き付け、

周囲を大量の御幣で覆う出雲地方の荒神祭は、

「荒神信仰」のメッカである中国地方の中でも、

出雲・伯耆国に集中して分布する特徴的なお祭りです。

ちなみに、出雲のお隣の伯耆国では、荒神祭を

「モウシアゲ」「タツマキサン」などの名称で呼び、

また境港市幸神町という地名に示されるように、

「コウジン」を「幸神」と記すケースも散見されます。

 

また、「幸神」という字面には、

いわゆる「塞ノ神(サエノカミ)」

の性質も付加されているようで、

出雲・伯耆を巡っている最中

「集落の境」と思われる場所に、

「サイノカミ」などと記された神社や祠が

置かれているのを良く見かけました。

 

出雲のある神社の宮司さんの話では、

いつの頃からか一部の場所で、

「荒」ではなく「幸」という吉字を

用いるようになったと聞きますが、

本来は「荒神」が正解とのこと。

つまり、「荒神」「幸神」「塞ノ神」は

すべて同様の性質を持った神であり、

「虫おくり」の「虫(蛇・龍)」

とも縁する「祟り神」だったのでしょう。


荒神信仰

2020-07-30 09:24:26 | 古代の出雲

<斐川町中州>

 

さてさて、昨日は「牛族」と「龍族」

についてご紹介しましたが、

このテーマに没頭すると

かなりの文字数を取られそうなので、

折々に触れるとして、出雲そして

ワラヘビとも深く縁する「荒神様」

へと話に移すことにしましょう。

 

出雲地方に限らず、日本の至るところで

祀られる「荒神様」は、比較的私たちの

身近にいる神様といっても差し支えない存在です。

ただし、「果たして荒神とは何ぞや」と考えると、

なかなか明確なイメージがわかないもので、

その最たる理由としてあげられるのは、

「荒神の定義が複雑」ということかもしれません。

 

台所の守り神とされる竈の神、

竈の神と仏教とが習合した三宝荒神、

家の周辺を守る屋敷神、

屋敷神から発展した同族神・村落神などの地荒神、

あるいは山の神や牛馬の守護神、

また祖霊神に至るまで、多彩な顔を持ちながらも、

その正体が何であるかはまったくの謎……。

 

唯一の共通点として語られるのは、

「祟りを成す」ということのみで、

その全容を解き明かすことは容易ではないのです。

そんな分厚いベールに包まれた

荒神信仰が盛んな地域のひとつが、

実は出雲地方のある島根県なのでした。


龍族と牛族

2020-07-29 09:21:04 | 古代の出雲

<国立民族学博物館>

 

インドでは蛇のことを「ナーガ」と呼んで丁重に扱い、

釈尊は「ナーガの末裔」とも言われているそうです。

「ナーガ」という響きからイメージするのは、

日本でいう「長物」という蛇類を指す言葉、

そして「ナガ」のつく古代人や地名かもしれません。

もしかすると、「ナガ」の響きを有する

「モノ」たちは、海人族(龍蛇族)との縁を

持つ人や名称であり、彼らが信仰していた対象が、

いわゆる「長物」だった可能性もありますね。

 

ちなみに、古代より「龍族(龍蛇族)」の人々は、

以前記事にした「殺牛祭祀」とも深く関わる

「牛族(牡牛族)」との争いを繰り返して

来たという話があり、世界各地の伝承の中には

「龍」と「牛」との対立を暗示させる逸話が

驚くほどに多いのだとか……。

 

一説に、「牛族」の圧力に屈した「龍族」が、

現在の中東あたりからインドや中国南部、

東南アジアなどを経由し、

日本で海人族となったなどの噂もありますが、

この説の中に幾ばくかの真実があるとすれば、

昨日ご紹介した「虫おくり」の所作なども、

「虫(龍)」と「家畜(牛)」

そして「大国主神」と「大歳神」

との間で起こった諸々の出来事に、

「龍族」と「牛族」を投影した

内容だといえるのでしょう。


虫と怨霊

2020-07-28 09:15:40 | 古代の出雲

<国立民族学博物館>

 

「虫おくり」と呼ばれる行事は、

通常稲を食い荒らす害虫の駆除を

目的として行われますが、

その背景には中世の御霊信仰 

の影響があると聞きます。

何でも虫害という凶事の大元には、

農作物を巡る不幸な死を迎えた怨霊の祟りがあり、

祟りを成す人間をかたどったワラ人形を、

海や村境の川に流したり焼き捨てたりすることで、

悪霊退散を祈願する意味合いがあるのだとか……。

 

地域によっては、「七夕行事」との

つながりも見られるそうですから、

「七夕」の概念を持ち込んだとされる「秦氏」の影が、

ここでもチラチラと見え隠れしてまいりますね。

 

ちなみに、「虫おくり」の「虫」という漢字は、

もともと「蛇」をかたどった象形文字で、

特にマムシに代表される「毒蛇」

を表す言葉だといいます。昔は蛇のことを

「ながむし」とも称したようですし、

ワラで造った「虫」という名の「人型」を、

「蛇」や「龍」と置き換えると、

またもや「民間祭祀」に隠された歴史の暗部が、

ぼんやりと透けて見えるのは気のせいでしょうか……。


虫おくり

2020-07-27 09:12:46 | 古代の出雲

<津軽平野>

 

東北地方の中でも「津軽」の一帯は、

龍蛇信仰の盛んな土地として知られており、

それらの筆頭とされるのが

「虫おくり」という民間祭礼です。

何でもこちらの地域の虫おくりは、

木彫りの龍の頭と稲わらとで

ご神体となる「虫」を造り、

お囃子とともに村中を練り歩きながら、

五穀豊穣と無病息災を祈願するお祭りだと聞きますが、

「虫」という名が前面に出ているにも関わらず、

その主役として登場するのは「龍」なのだとか……。

 

伝承によりますと、今から2,000年以上前、

田植えを手伝ってくれた人々にお礼をするため、

大国主命が家畜を殺すなどして

様々なごちそうをふるまったところ、

大歳神(おおとしのかみ)が

「大切な家畜をつぶして食うとは何事だ」と怒り、

一晩のうちにすべての田に虫を放ち

全滅させてしまったのだそうです。

驚いた大国主命がすぐに謝罪したため、

大歳神は大国主神を許した上で虫除けのお札を授け、

以降家畜を殺す風習がなくなったとのこと。

 

「大国主神」「大歳神」「動物供犠」……等々、

何やら意味深なキーワードが散見されるこの風習には、

「縄文人(海人族)」と「弥生人(渡来民)」

との因縁が横たわっているような

気がしてならないのですね。


蛇を崇める人々

2020-07-26 09:09:58 | 古代の出雲

<国立歴史民俗博物館>

 

古代、多くの宗教が「蛇(龍)」を

神聖な生き物とみなしていた一方で、

キリスト教文化圏における人々の間では

「蛇(龍)」を悪魔と位置づけ、

蛇や龍への信仰を持つ人々を

嫌悪していたという話を聞きます。

 

これらの理由のひとつとして、

「アダムとイブ」の逸話に登場する

「蛇」の存在があげられるかと思いますが、

実は、出雲神話の冒頭に登場する

「ヤマタノオロチ」の物語も、

「蛇(龍)」を退治して国土を

統治する話として捉えると、

古代の宗教間で起きたであろう血生臭い争いが、

よりリアリティーを持って

迫ってくるような気がするのです。

 

本来、「蛇(龍)」という生き物は、

出雲の地そして出雲族の中では、

神として崇敬される対象だったのでしょう。

そんな龍蛇の地に「渡来人としてのスサノオ」が現れ、

龍の化身であるヤマタノオロチを征伐したことは、

ある意味記紀が編纂された時代の政治背景、

および宗教観を投影しているのかもしれません。

 

つまり、それほど日本という国の中では

「蛇(龍)」を信仰する人々の力が、

無視できないほど強大な影響力を

持っていたとも考えられるのですね。


出雲系のしめ縄

2020-07-25 09:06:17 | 古代の出雲

<大神神社 おおみわじんじゃ>

 

「しめ縄」と聞いて多くの人が思い出すのが、

出雲大社で使用される大しめ縄かもしれません。

実は、「しめ縄」に注目をしながら

神社参拝をしておりますと、なぜか「伊勢系」

と呼ばれる神社にはしめ縄が見られず、

「出雲系」と呼ばれる神社にはしめ縄が

多様されていることに気づくもので、

前出した出雲大社の大しめ縄や、

先日から話題にしている出雲のワラヘビ文化など、

「出雲」の痕跡がある場所には

必ずと言っていいほど「しめ縄」

の影がついて回るのです。

 

ちなみに、神社の鳥居や社殿に設えられたしめ縄は、

神域に不浄なものが入り込まないよう、

「結界」の役目を果たすとされる呪術具ですが、

一説にその縄を撚った独特の形状が、

「蛇の交尾」を表した型であるとも、

「らせん状の遺伝子」を写し取った型

であるともいわれています。

 

果たして、「しめ縄」の風習を生み出した人々とは、

「8」への強いこだわりを持つ「海人族」なのか、

それとも「7」などの奇数を崇める「渡来民」なのか、

出雲大社の本殿天井にある「八雲の図」が、

実は「七つの雲」しか描かれていない

という事実を鑑みても、

「8」と「7」とが重なり合う出雲という地には、

どうも複雑な部族間の歴史が隠されているようなのです。


七五三縄の謎

2020-07-24 09:03:11 | 古代の出雲

<長浜神社 ながはまじんじゃ>

 

以前、縄文をテーマにした記事の中で、

「縄文人は3・5・7などの奇数を好む」

と書きましたが、それらを前提に考えるなら、

「3・5・7」などへのこだわりを持つ

縄文人というのは、渡来人の影響を

強く受けていた可能性が出てきますね。

ちなみに、「3・5・7」といった数を

土製品に多用していたのは、

主に信州近辺に住んでいた縄文人で、

逆に東北で出土した土製品には、

4分割など偶数を基準にした

デザインが多いと聞きます。

 

仮に、偶数へのこだわりが強い縄文人を「海人族」、

奇数へのこだわりが強い縄文人を「渡来系」

とするならば、多数の「蛇モチーフ」

の出土品が残る八ヶ岳周辺では、

「海人族(蛇)」と「渡来系(奇数)」の混交、

東北地方では「海人族(蛇)」と

「東北縄文人(偶数)」との混交が

進んでいたとも考えられるのでしょう。

 

神社でよく見かけるしめ縄にも

「七五三縄」という別表記がありますし、

さらにワラでできた房のようなものを、

3本、5本、7本ごとにまとめて、

本体のしめ縄に括りつける風習もあります。

恐らく、しめ縄という代物は、

「蛇」や「龍」とつながる祭祀具であり、

謎多き「縄文人のDNA」を解く

カギになるのかもしれません。


和合の数

2020-07-23 09:59:01 | 古代の出雲

<久良彌神社 くらみじんじゃ>

 

七夕の風習を伝えた部族としても知られる秦氏は、

出雲族が執り行う「荒神祭」において、

ワラヘビを巻く回数を「8」から「7」に

変えようとした形跡があるそうです。

しかし、最終的にはこの地域のしきたりを尊重し、

両者の間を取って「7.5回」

に落ち着いたのだとか……。

また、出雲以外の地域に伝わる伝承にも、

この「7.5回」トグロを巻く蛇の話が残っており、

いずれも渡来人(特に古代ユダヤ)との

強い関わりが指摘されていました。

 

一方、「8」という数字を調べてみますと、

厳島神社の造りが「8」や「108」

の数字で構成されているという話や、

志賀島の「歩射祭」における「8」

を基本とする神事の進め方、

あるいは出雲大社と同様に、

四拍手(八拍手の簡略)を基本とする

宇佐神宮の参拝法……など、

主に「海人族」と関わりの深い場所で、

「8」という文字を多用していることがわかります。

 

恐らく、「7回半」という中途半端な数は、

海人族(龍蛇族)と渡来民とが混血する

過程を示した「和合の数」なのかもしれません。


秦氏の聖数

2020-07-22 09:54:39 | 古代の出雲

<佐為神社 さいじんじゃ>

 

昨日、出雲族の人々にとっての聖数が「8」であり、

出雲地方の土着祭祀で使用する「ワラヘビ」も、

基本的には「八回」ご神木に巻き付ける

という話をご紹介しました。考えてみますと、

古代出雲の王である「大国主神」も

八千矛神という異称を持ちますし、

八上比売・八十神・180柱の子供……など、

やはり出雲には「8」という数字が付きまといます。

 

ちなみになぜここで、

「基本的」という注釈をつけたのかと申しますと、

もともと八回巻いていたとされる所作が、

後世になり「7.5回(七回半)」に

変更された場所が多いと聞いたからなのです。

 

実は、この「7.5回」という

中途半端な巻き方になるまでには、

何らかの意味深な経緯があったようで、

出雲族が「8」という数字を重要視していた一方で、

「7」という数字に強いこだわりを持っていた

部族が存在していた形跡が見られるのですね。

 

その部族こそが、古代ユダヤと縁ある人々、

特に4世紀ごろに渡来したとされる「秦氏」であり、

彼らが神を示す数として崇めていた数字こそ、

まさしく「7」という数字だったのでした。


出雲族の聖数

2020-07-21 09:50:18 | 古代の出雲

<東生馬町・生馬神社 いくまじんじゃ>

 

「ワラヘビ」を主役とする出雲地方の荒神祭には、

いくつかの決まりごとがあると聞きますが、

その中でも最も意味深に感じられたのが、

「ワラヘビをご神木に巻き付けるときの回数」でした。

実は、ワラヘビをご神木に巻き付ける際、

木の周囲に蛇の尻尾を8回巻くと、

「蛇(龍)」の力が最大限に発揮されるそうで、

日本ではなじみ深い「鉢(八)巻き」を

頭に巻くという習慣も、

この「蛇を八回巻く」所作に由来するといいます。

 

また、「八岐の大蛇」を始め、

スサノオが詠んだとされる「八雲立つ……」という和歌や、

出雲大社の本殿裏にある八雲山と呼ばれる禁足地、

出雲大社の御神体が鎮座する「八角形」の畳、

あるいは出雲大社の四拍手による拝礼

(八開手に通じる)など、「出雲」に接しておりますと、

頻繁に目にするのがこの「8」という数字なのですね。

 

「出雲」の人々にとって、

「8」とはどのような意味を持っていたのか、

「8回巻く」ことでいったい何が起こったのか、

非常に気になるところではあります。


遺伝子と神話

2020-07-20 09:28:41 | 古代の出雲

<出雲大社 いずもたいしゃ>

 

ここ数日、日本列島への「三段階渡来モデル」

と呼ばれる仮説を掘り下げているのは、

これまでイメージしてきた「渡来人」の流れが、

DNAから探る日本人の成り立ちと

驚くほど共鳴していたからでした。

特に、「弥生以前に来日していた渡来人」の様子が、

これらの研究の端々から伝わってくることを実感し、

改めて文章に書き起こしてみたくなった次第です。

 

「遺伝子」などを扱ったバリバリの理系書籍の中に、

「国津神」やら「天津神」といった文字が

登場するのを目にしますと、一見訝しく感じるものの、

DNAという最新科学を元に日本人のルーツを追う中で、

いつの間にか「遺伝子」と「神話」

とを重ね合わせてしまう流れは、

おこがましくもとても共感できるものでした。

 

ちなみにその書籍の一節に、

「出雲人とは国津神の子孫ではないか」

という記述があるのですが、これらの仮説を

「三段階渡来モデル」に照らし合わせれば、

古代の出雲人(いわゆる出雲族)とは

つまり「第二波の渡来人(縄文中期~後期)」

ということになるのでしょう。

というわけで、このあたりで再び

「出雲神話の時代」へとフォーカスを絞り、

引き続き出雲を巡る謎に迫ってみたいと思います。


国産の遺伝子

2020-07-19 09:26:19 | 古代の出雲

<妻木晩田遺跡>

 

「渡来系(弥生系)遺伝子」の代名詞

「O系統遺伝子」の中でも、

日本人の約3割が持つとされる

ハプロタイプ「O1b2a1」は、

近隣の満洲民族や朝鮮民族には

あまり見られない型であることから、

日本列島内で発生した独自の遺伝子型

ではないかとも言われております。

 

つまり、日本人男性の半数を占める

「O系統遺伝子」のうちの一定数が、

「国産遺伝子」の可能性もあるわけで、

一概に「渡来人=外国人」「弥生人=外国人」

と断定することは難しくなるのですね。

 

もしかすると、「O系統遺伝子」には

元から「突然変異を生む因子」が

含まれていたのかもしれませんし、

O系統渡来人と原住民とが混血した際に、

「何らかの突然変異」が起きた可能性もあります。

 

いずれにせよ、「国津神」と

「天津神」の関係というのは、

「縄文人」と「弥生人」と同様、

異なる遺伝子型を持つ外国人同士が、

明確な対立構図を取っていたわけではなく、

身体のどこかに「同じ遺伝子」を共有する

「日本列島人同士」の間で起こった

出来事だったような気がするのです。


天津神の定義

2020-07-18 09:22:01 | 古代の出雲

<内宮 ないくう>

 

昨日、日本神話等に登場する「国津神」を、

主に「第二波の渡来民(縄文中期~後期)」

ではないかと推測しました。引き続き本日は、

「天津神」について探ってみたいと思います。

 

《 天津神とは 》

1.「第二波の渡来民(縄文中期~後期)」と
「第三波の渡来民(縄文晩期~)」とが混血した人々の中でも、
より濃度の高い渡来系遺伝子を引き継ぐ人々のこと

2.「第三波の渡来民(縄文晩期~)」の中で、
より濃度の高い渡来系の遺伝子を引き継ぐ人々のこと

3.「第三波の渡来民(縄文晩期~)」の中で、
渡来系の遺伝子のみを引き継ぐ人々のこと

 

近年の考古学の新展開により、

「縄文人と弥生人は緩やかに融合した」

という説が主流になりつつありますが、

最新のDNA分析の結果を踏まえても、

純粋な意味での「渡来人」というのは、

ごく少数派であるという事実が

浮かび上がってまいります。

 

恐らく、渡来系と呼ばれる人々の中には、

「縄文系遺伝子」を一定程度保有する人々が、

想像以上にたくさん含まれていたのでしょう。

つまり、「国津神」と「天津神」の差というのは、

「縄文遺伝子」と「弥生遺伝子」の比率の差であり、

両者の混血に至るまでの入り組んだ経緯が、

記紀神話の難解さにつながったと考えられるのです。


優勢の遺伝子

2020-07-17 09:19:02 | 古代の出雲

<大斎原 おおゆのはら>

 

……前回より続く

というわけでして、昨日羅列したように

「国津神」の候補をあげるだけでも、

かなりの多様性を含むことが判明しました。

ゆえに、「国津神」がどのような人々であるかを

明確に示すことは難しいのですが、あくまでも

「日本神話に登場する国津神」と限定するなら、

主に「第二波の渡来民(縄文中期~後期)」

の可能性が高いのではないかと、

今の段階では考えております。

 

つまり、縄文中期~後期にかけて

日本列島に居住していた人々の中で、

「D系統Y染色体」の割合が多い一族を、

「国津神」という枠で括ったのでしょう。

仮にその一族が海の向こうから

やってきた「渡来民」であっても、

「縄文遺伝子」が優勢であるならば、

「国津神」と呼ばれたのかもしれません。

 

また、「天津神」という概念に関しては、

その後に訪れた「第三波の渡来民(縄文晩期~)」

のみを指したわけではなく、

本来は「国津神」の系統であるにも関わらず、

早い段階で「天津神」の家系に入ったり、

「天津神」の従者のような立場に収まった人々なども、

「天津神」として後世に伝えられたと考えられます。