たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

光る銅鐸

2020-08-31 09:57:09 | 古代の出雲

<国立歴史民俗博物館>

 

私たちが通常目にする「銅鐸」は、

酸化のため緑青色をしているものがほとんどです。

ただし、本来銅鐸というのは、

黄金色や白銀色の光沢を纏った

ピカピカの金属製品でして、

実際に「当時」の銅鐸を目の当たりにすると、

その眩いばかりの輝きに圧倒されるかもしれません。

 

もし仮に、古代イスラエルの人々が、

キラキラと輝く「青銅の蛇」を帆先に掲げ、

海を渡って日本にやって来たと想像するなら、

出雲国の神有祭やホーランエンヤ、

あるいは能登国の龍燈伝説や

キリコ祭りなどに登場する、

「蛇」や「龍」を模した灯りや装飾は、

海の彼方から近づいてくる渡来人を

イメージしているようにも感じられますね。

 

ちなみに、先日の記事の中で、

長江周辺から海を渡って来日した「龍蛇族」が、

出雲一帯に「蛇」の信仰を広めたのではないか

と推測しましたが、もしかすると

彼らが先導していた人々こそが、

古代イスラエル氏族であり

モーゼ一行だった可能性もありそうです。


金色の宝珠

2020-08-30 09:53:54 | 古代の出雲

<ホーランエンヤ伝承館>

 

『旧約聖書』に記された、

「青銅の蛇」のモチーフを見て思い浮んだのは、

先日記事にした松江市の

「ホーランエンヤ」という祭事のことでした。

ホーランエンヤで使用される船には、

「金色の宝珠」付きのポールが掲げられており、

一説には「神武東征」を表すシンボル

ではないかという話があるのです。

もし、これが事実だとするなら、

金色の宝珠は「金鶏」を模した装飾で、

トビやタカなどの猛禽類を

表した可能性が高いのでしょう。

 

しかしながら、あの先の尖った

宝珠独特のフォルムを眺めておりますと、

鳥よりも「トグロを巻いた蛇」と

表現したほうがしっくりくるのも事実でして、

個人的には「金色の火の玉」とも称される、

神有祭のご神体・セグロウミヘビを

重ね合わせてしまいます。

恐らく、古代の出雲人の目には、

「青銅の蛇」を掲げて海を渡る

古代イスラエルの人々が、

夜の海を自在に泳ぎ回る、

金色のセグロウミヘビのように

見えたのかもしれません。


銅鐸文化の終焉

2020-08-29 09:48:05 | 古代の出雲

<国立歴史民俗博物館>

 

大部分の銅鐸が「横倒し」のまま見つかる中、

時折「木っ端みじん」になった状態で、

出土する銅鐸があるそうです。

神の依り代でもある祭器(しかもかなりの強度)を、

わざわざ粉々にして埋めた理由はいざ知らず、

このような傾向が強いのは、

主に弥生時代終盤なのだとか……。

つまり、銅鐸という青銅器が消滅する直前、

何らかの理由により銅鐸が破壊され、

地中に埋められた経緯が読み取れるのですね。

 

ちなみに、銅鐸製造地のひとつである

三河遠江あたりの遺跡には、

銅鐸文化が終焉を迎える頃、

不自然なほど多くの銅鐸が造られていた

形跡が見られるといいます。

仮に、そのときすでに人々の間で、

銅鐸が「偶像対象」に変わっていたとするならば、

ヒゼキヤ王により壊された「青銅の蛇」と同様、

銅鐸も粉々に砕かれてしまったのでしょうか……。

 

もしかすると、「偶像」を神として崇める

「人間の懲りない性(さが)」が、

縄文時代の「土偶の終焉」をなぞるように、

ひとつの時代を終わらせる

きっかけを作ったのかもしれません。


打ち砕かれた蛇

2020-08-28 09:43:09 | 古代の出雲

<劔神社 つるぎじんじゃ>

 

==========================

「青銅の蛇」は、イスラエルの民にとって
極めて重要なものとして保管され、
民はその前で香を焚き(崇拝し)続けた。
南ユダ国の王となったヒゼキヤは、
その様子を見て不満を募らせ、
聖なる高台を取り除き、石柱を打ち壊し、
アシェラの像を切り倒したあげく、
モーゼの造った青銅の蛇をも打ち砕いた。

~『列王記』第二 18章4

==========================

 

本来「青銅の蛇」は、イスラエルの民の

「信仰心の現れ」として、

神から授けられたモチーフだったにも関わらず、

いつの間にかそれ自体が「祈りの対象」となり、

神が固く禁じた「偶像崇拝」

を再燃させる結果になった、

と『旧約聖書』は示します。

 

そのため、神の言葉に従順だったヒゼキヤ王は、

「青銅の蛇」を破壊し、神殿を清めて

過越の祭りを復活させたのだとか……。

つまり、「青銅の蛇」は一部の「土偶」と同じように、

「偶像」として人々から拝まれる対象となり、

その風潮を危惧したユダヤの王の手で、

「蛇」は粉々に打ち砕かれてしまった

様子が伺えるのですね。


銅鐸とヘビ

2020-08-27 09:36:02 | 古代の出雲

<一人女神社  ひとひめじんじゃ/ひとりめじんじゃ>

 

出雲一帯に伝わる「ワラヘビ祭礼」が、

古代イスラエルの「青銅のヘビ」

の影響を受けたものであるとすれば、

本来「ワラヘビ」というご神体は、

「青銅製」だったとも考えられるのでしょう。

出雲に残る「蛇信仰」の痕跡や、

大量に出土した「青銅器」の起源も、

「青銅のヘビ」を考慮することにより、

新たな示唆が得られるのかもしれません。

 

考えてみますと、銅鐸の形状とは、

蛇がトグロを巻いた

「円錐状(音を出す舌は蛇の舌、

鰭のギザギザ文様は蛇のウロコ)」とも言えますし、

ご神木に巻き付けられたワラヘビは、

「竿に括られた蛇」を彷彿させる姿です。

 

ワラヘビの材料となる「稲わら」が、

いつ頃から祭祀に使用されるように

なったのかはわかりませんが、

弥生時代の終焉に時を合わせるかのように、

「銅鐸」つまり「金属製のヘビ」が地中に埋められ、

その後まったく素材の異なる「ワラヘビ」として、

地上に復活することになった背景には、

稲作文化の広まりも関係していたのかもしれません。


蛇のモチーフ

2020-08-26 09:30:23 | 古代の出雲

<伝説の森公園 モーゼパーク>

 

昨日、モーゼとともにエジプトを

出発した古代イスラエルの民が、

「蛇」を信仰するきっかけとなった

エピソードをご紹介しました。

それらの内容から推測できるのは、

最初に作られた「蛇」は「青銅製」であり、

旗竿の先に括りつけられ、人々が下から

仰ぎ見るような形で崇拝されたということです。

 

もし仮に、モーゼ一行がこれらの信仰を携え、

日本にやってきたと想像するなら、

信州を中心に製造された

「蛇モチーフ」を用いた土製品、

あるいは出雲一帯に残る「ワラヘビ祭礼」

などにも影響を与えた可能性がありますね。

 

また、岩手や青森から出土した

縄文後期の土器の中には、

「蛇の骨」が入っていたものが

数例あるそうですから、

この時代には「蛇」が祭祀の重要アイテムとして、

東北各地にも普及していたのでしょう。

 

いずれにせよ、約4,000年前~3,500年前の縄文後期ごろ、

「蛇」と共に日本を目指してきた人々がいたこと、

そして彼らがこの時代の祭祀の核となる

「龍蛇信仰」を広めたことは間違いないようです。


青銅の蛇

2020-08-25 09:26:51 | 古代の出雲

<伝説の森公園 モーゼパーク>

==========================

モーゼに導かれエジプトを発った
イスラエルの民たちが、
葦の海の途中までやってきたとき、
旅の苦しみに耐えかねた人々が、
神とモーゼに向かって不満をぶちまけた。
それを聞いた神は、民に向かって
炎のヘビ(毒蛇)を送り込んだため、
蛇にかまれた多くの人々が亡くなった。

民たちはモーゼの前で許しを願うと、
神はモーゼを通じて
「火のヘビを造り、それを竿の上に掛けよ。
ヘビにかまれた者が、それを仰ぎ見るならば
死なずにすむであろう」と告げ、
モーゼがその言葉通りに、
青銅でヘビを造って旗竿の先に掲げると、
イスラエルの民は生き延びることができた。

『民数記』21章4~9

==========================

 

銅鐸と蛇との関わりについて考えているとき、

ふと頭に浮かんだのが『旧約聖書』

に登場する上記の物語でした。

「青銅の蛇(ネフシュタン)」と呼ばれる

これらのモチーフは、出エジプトの頃、

神の仕置きに対する救済策として、

ユダヤの民に与えられたものですが、

これらのエピソードから、

モーゼが存在していたとされる、

約4,000年前~3,500年前ごろには、

すでに「蛇」がユダヤ人の信仰対象

として崇められていたことがわかります。


謎の古代生物

2020-08-24 09:21:00 | 古代の出雲

<洲本市由良>

 

昨日ご紹介した、ワラヘビ行事を執り行う安住寺は、

「南あわじ市倭文安住寺」という地区にあるそうです。

「倭文」という地名を見て真っ先に思い出したのは、

阿波忌部ともつながる「倭文氏」と、

出雲のお隣・伯耆国の「倭文神社」でした。

 

また、「松帆銅鐸」が発見された場所が、

安住寺のごく近隣の瀬戸内海に

面した場所であることを踏まえれば、

当時、倭文地区に居住していた人々(忌部氏?)が、

何らかの形で銅鐸の製造や移動に関わり、

さらには出雲一帯とも強い結びつきを

持っていたイメージが浮かび上がりますね。

 

ちなみに、ざっと調べた限りではありますが、

淡路島内でワラヘビを用いるお祭りは数か所のみで、

他にも特出すべき「龍蛇信仰」

の形跡が見られないことから、

淡路のワラヘビ行事はこの地独自のものではなく、

出雲の人々によってもたらされたか、

あるいは「龍蛇族」が淡路島を経由する際、

「ワラヘビ」の文化を残したかのどちらかなのでしょう。

 

いずれにせよ、蛇という生き物は、

銅鐸や忌部氏そして麻などとも絡む、

「謎の古代生物」であることは確かなようです。


淡路のワラヘビ

2020-08-23 09:17:12 | 古代の出雲

<洲本市由良>

 

出雲の荒神谷遺跡、および加茂岩倉遺跡で

発掘された青銅器には、西日本一帯で

製造された銅鐸や銅矛が含まれていたそうです。

もし仮に、九州や近畿など近隣諸国から、

これらの青銅器が出雲に持ち込まれたとすれば、

その経緯とはどのようなものだったのでしょうか……。

 

ちなみに、以前の記事内で

「淡路島は渡来系部族の中継地」と書きましたが、

同じ鋳型の銅鐸が発見された「淡路」と「出雲」とが、

何らかの形でつながっていたとするなら、

恐らくそれらを主導していたのは

「渡来系」と呼ばれる人たちだったのかもしれません。

 

そこで、改めて淡路島について調べてみたところ、

実は南あわじ市の安住寺というお寺でも、

「蛇供養」と呼ばれるワラ製のヘビを

使ったお祭りが行われると聞きました。

 

何でも、稲ワラで作った長さ約12m、

胴回り約30cmの大蛇が、町内を練り歩きながら

人や車に巻き付くというこの行事は、

最後に主役であるワラヘビを

県道脇のムクノキに巻き付けて奉納するという、

出雲のワラヘビ祭礼を思わせるお祭りだったのです。


金属音の効果

2020-08-22 09:14:05 | 古代の出雲

<荒神谷博物館>

 

2015年に南あわじ市で見つかった、

「松帆銅鐸(まつほどうたく)」

と呼ばれる7つの銅鐸のうちの数点は、

荒神谷および加茂岩倉で出土した銅鐸と

同じ鋳型で造られた兄弟銅鐸であると聞きます。

松帆銅鐸が発見された際、銅鐸本体だけでなく、

「舌(ぜつ)」と呼ばれる青銅器を鳴らす棒や、

銅鐸を吊り下げるための紐なども同時に見つかり、

また「舌」の側面と銅鐸の内側は、

摩擦ですり減っていたことから、

銅鐸の主たる用途は「音を鳴らすこと」

だったのではないかという説が一般的です。

 

ちなみに以前、銅鐸のレプリカを

叩いたことがあるのですが、

音が鳴った瞬間「強制的に」意識を

切り替えられるような感覚に陥り、

非常に戸惑った経験がございます。

あたかも脳に突き刺さるような鋭い響きと、

めまいを誘発するかのような長い残響音が、

音に敏感なタイプの人間としては心身に堪えました。

恐らく、これらの特徴的な金属音を利用して、

神とのコンタクトを取ったり、

人々の意識をコントロールしたりすることが、

当時のシャーマンの大事な役目だったのでしょう。


青銅器の集結

2020-08-21 09:10:52 | 古代の出雲

<荒神谷博物館>

 

荒神谷遺跡から見つかった青銅器は、

弥生中期末から後期初頭(紀元1世紀)にかけて、

この地に埋められたと推定され、

出土した6個のうち5個は

畿内製であることが判明しています。

 

また、同時に発掘された銅矛16本は北部九州製、

358本の銅剣に関しては、

ほぼ出雲国で製造されたもので、

銅鐸と銅矛が同時に見つかるという現象はもちろん、

一か所の遺跡から三種類の青銅器が発掘されたのも、

ここ荒神谷遺跡だけなのだとか……。

 

さらには、荒神谷遺跡発見の12年後、

近隣の加茂岩倉遺跡から39個の銅鐸が見つかり、

古代のこの一帯を「大きな勢力」が

治めていた可能性が高まったのだそうです。

 

ちなみに、加茂岩倉遺跡で見つかった

39個の銅鐸に関しても、

出雲製とみられる3個を除き、

ほとんどが弥生中期に近畿地方で

造られたものであることから、

当時の出雲国が近隣国と頻繁に

交流していたことは間違いないのでしょう。

 

そうなりますと、これほどまでに多くの青銅器が、

西日本の各地からこの地に集まった理由とは、

いったい何だったのかが気になりますね。


銅鐸と塞ノ神

2020-08-20 09:07:34 | 古代の出雲

<荒神谷遺跡>

 

一説に銅鐸とは、集落の境目に埋納することで、

「サイノカミ」的な役目を果たして

いたのではないかという話があります。

その主な理由としては、

銅鐸が主に集落外(山の斜面やその麓)

で見つかるケースが多いことや、

銅鐸出土地が等間隔に並ぶ地域

(鳥取や兵庫の一部)が存在すること

……などがあげられるそうですが、

もしそれが事実だとすれば、

三宝荒神の神庭だった「荒神谷」で、

大量の銅鐸が見つかった理由にも

思い当たる節が出てきますね。

 

ちなみに、荒神谷遺跡の一帯に、

約5,000年前(縄文海進が起きた頃)

の出雲の地形図を重ね合わせますと、

大量の青銅器が埋められた場所や

三宝荒神の鎮座地は、

当時の海岸線(もしくは湿地帯の端)

のギリギリのところでした。

つまり、荒神谷遺跡のある場所は、

縄文時代より「海と陸との境」に位置する、

「特殊なポイント」だったことが見て取れるのです。

 

「サイノカミ」の祠や石はもちろん、

古くは「甕(みか・かめ)」などの製品が、

村や国の境界に置かれたり埋められたりしました。

もしかすると青銅器、

特に甕と同じく空洞のある銅鐸は、

ある種の「サイノカミ」と同等の

働きを持つ埋納品だったのかもしれません。


土偶の代替品

2020-08-19 09:01:07 | 古代の出雲

<国立歴史民俗博物館> 

 

 昨日、「銅鐸は簡易的な方法で埋納される」

という話を取り上げましたが、

実は銅鐸が発見される際、

通常の横たわった状態以外にも、

逆さまに埋められたり、

破壊されて埋められたり……といった具合に、

様々なバリエーションが見られるそうです

(ただし数は少なめ)。

 

これらを元に推測するなら、

やはり銅鐸は土偶と同様、

「時と場合に応じて用途を変えながら」

使用された可能性も出てきますね。

 

もしかすると、爆発的な人口増加を起こした

弥生時代の西日本で、渡来人の技術と知識を元に、

「土偶の代替品」として製造されたのが、

銅鐸だったのでしょうか……。

 

もしそうだとすれば、銅鐸の出土数が少ない

関東近辺から北日本にかけての人々は、

縄文人が土偶を手放したときのように、

銅鐸を「偶像」とみなして避けようと

していたのかもしれません。

 

いずれにせよ、縄文時代の終わりに

突如として製造が止まった土偶も、

弥生時代の終わりに突如として

地中に埋められた銅鐸も、

「祭祀のあり方」への強い抵抗感により、

その姿を消したとは考えられないでしょうか……。


銅鐸の埋納

2020-08-18 09:42:29 | 古代の出雲

<荒神谷遺跡>

 

弥生時代に製造された、釣り鐘型の青銅器である

銅鐸(どうたく)は、当初は持ち運びが

できるほどのサイズだったそうですが、

時代を経るにつれ次第に巨大化し、

描かれる絵画や装飾なども

派手になって行ったと聞きます。

そして、弥生時代が終わり古墳時代に入ると、

まるでその痕跡を地上から消し去るかのように、

すべての銅鐸が地中に埋められてしまったのだとか……。

 

ちなみに、銅鐸が見つかるのは、

集落から離れた山の斜面のような所が多く、

祭祀のための特別な処置を施した様子も見られず、

「とりあえず土をかけて埋めた」

ような状態で出土するケースがほとんどだそうです。

これらの話を聞いて思い出したのは「土偶」でした。

 

同じ「祭祀の道具」であっても、明らかに

「何らかの意図を持って」埋められた土偶とは違い、

銅鐸におけるこれらの「埋納法」は

どことなくおざなりのようにも感じられます。

もし仮に、銅鐸の埋め方が想像以上に

「簡易的」だったとするならば、その背後には

どのような理由が隠されていたのでしょうか……。


出雲と諏訪

2020-08-17 09:39:18 | 古代の出雲

<佐支多神社 さきたじんじゃ>

 

以前の記事内で、「荒神谷遺跡の周囲には、

タケミナカタを祀る神社が集中する」

という話をご紹介しましたが、

その後も折を見て調べてみたものの、

タケミナカタを祭祀した理由などはわからず……。

ただし、「タケミナカタ」という存在が、

『日本書紀』だけでなく、『出雲国風土記』など

出雲国に関わる神話からも消されてしまった、

という事実を踏まえると、「出雲」と「諏訪」

の間で史実に残らない、「何らかの出来事」

が発生していた可能性もあるのでしょう。

 

ちなみに、タケミナカタの本拠地である

「諏訪」の一帯では、出雲を象徴する祭祀具

として知られる「銅鐸」がほぼ出土せず、

代わりに銅鐸に良く似た「鉄鐸(さなぎ)」

と呼ばれる道具が見つかるそうです。

もし仮に、タケミナカタが出雲の出だと仮定すれば、

諏訪地方で「銅鐸」が多数出土していても

不思議ではないはずですが、どういうわけか

諏訪には「銅鐸文化」が広がらなかったのでした。