たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

悠紀と主基

2020-11-30 10:43:40 | 大嘗祭

 

***** 大嘗祭 No.38 *****

大嘗祭の舞台となる「大嘗宮」では、

「悠紀殿(ゆきでん)」と

「主基殿(すきでん)」という

2つの建物を中心として儀式が執り行われます。

今回の令和の大嘗祭においても、

当日の夕刻から翌日の明け方にかけ、

天皇陛下はこの2つの社の中で、

様々な供物を神前に供え、

御告文(おつげぶみ)を読み上げた後、

新穀を口にされる所作を繰り返されました。

 

ちなみに、「悠紀」と「主基」

という名称の語源については、

悠紀は「忌み清まる聖域」、

主基は「それ(悠紀)に次ぐ」

という意味……など様々な説がありますが、

その中に悠紀は「斎酒」であり

「神聖な酒」を指す、

そして主基は「斎酒を捧げる国」

を表すという説が存在するのだとか……。

以前お話ししたように、

大嘗祭で使用される「黒酒(くろき)」

「白酒(しろき)」というお酒は、

「三輪山」とも深く縁する供物です。

新穀を嘗める大嘗祭というお祭りが、

実は「斎酒」を献上する儀式であるなら、

何とも意味深な歴史の裏側が見えてまいりますね。


日本古来の祭儀

2020-11-29 10:38:48 | 大嘗祭

 

***** 大嘗祭 No.37 *****

大嘗祭が催行された持統天皇の時代、

即位に関する儀式の順番は、

「大嘗祭」⇒「即位式」という

流れが基本だったそうです。

しかしながら、推古天皇の頃には、

中国王制の影響を受けて

「正月即位」という形式が出現し、

以降「即位式」⇒「大嘗祭」

の順序が定番化したのだとか……。

つまり、本来は「大嘗祭」こそが、

何よりも優先されるべき「即位儀礼」であり、

日本古来の祭儀だったと考えられるわけですね。

 

恐らく、多くの人々の「天皇の即位」

のイメージと言えば、高御座(たかみくら)

と呼ばれる煌びやかな台座の上で、

新たに天皇となった人物が厳かに

即位を宣言する姿かと思います。

ただし、これらの様式は「大陸風」

の文化を取り入れたものゆえ、

太古以来の日本の伝統とは

趣を異にする部分があるとのこと。

そこで、大嘗祭の原型を知る意味でも、

諸祭典の中から気になる内容を

いくつか拾い上げて行くことにしましょう。


密かな大儀

2020-11-28 10:34:21 | 大嘗祭

 

***** 大嘗祭 No.36 *****

「大嘗祭の発端」とも言われる

持統天皇の即位儀式と時を合わせるようにして、

第一回目の伊勢の遷宮が行われました。

まず、即位した690年の秋に内宮の遷宮、

翌年の11月に大嘗祭、さらにその翌年の

6月に外宮の遷宮……と言った具合に、

即位関連儀式と遷宮とを繰り返しながら、

天皇としての立ち位置を固めて

行った様子が伺えるのです。

 

真弓常忠氏の本によれば、大嘗祭と遷宮とは

「表裏一体の相対応する大儀」であり、

もともと遷宮は天皇の御代替わりに際して行われる

「大神嘗祭」だったと推測されるのだとか……。

つまり、持統天皇は自らの霊威だけでなく、

皇祖である天照太御神の神威も同時に更新することで、

儀式を完ぺきなものにしようと考えていたのでしょう。

 

ちなみに、2019年11月に行われた

「令和の大嘗祭」の後、

天皇皇后両陛下は伊勢神宮にて、

神々に一連の即位式等を終えたことを報告する、

「親謁(しんえつ)の儀」に挑れました。

恐らく、これらの行事はただの「儀礼」ではなく、

大嘗祭と同時に行わなければならない

「密かな大儀」だったのかもしれません。


新嘗祭

2020-11-27 10:30:56 | 大嘗祭

 

***** 大嘗祭 No.35 *****

毎年11月、各地の神社で行われる「新嘗祭」は、

一般的に作物の実りを神に感謝する

「収穫儀礼」だと言われております。

しかしながら本来、新嘗祭というのは、

「大嘗聞こしめす」お祭りであり、

天皇が皇祖より「新おもの」をいただく儀式なのだとか……。

つまり、天照太御神の霊威が宿った新穀を食し、

神と一体になることが真の目的でして、

新嘗祭を起源とする「大嘗祭」しかり、

神に供えられた収穫物を天皇が食すために、

長い期間をかけて粛々と準備が整えられるわけですね。

 

何でも、神の前に神膳(食べ物)を運ぶ際に、

行列を先導する役目の人は、「警蹕(けいひつ)」

と呼ばれる言葉を発しながら恭しく進んでいくそうで、

これは神膳そのものを「神」と扱っている証拠だと聞きます。

ニニギの命が天照太御神から託された「稲穂」は、

まさしく天照太御神の生命力を蓄えた作物であり、

その生命力を最大限にまで高められるよう、

「冬至」「卯の日」「真夜中」などの日時を選ぶなどして、

大嘗祭を最高の舞台に仕上げて行ったのでしょう。

 

【このシリーズの参考書籍】

大嘗祭 ~真弓常忠

大嘗祭の本義 ~折口信夫

古代なにわの輝き ~産経新聞大阪本社


次の動き

2020-11-26 10:58:25 | 神社と災害

 

というわけで「中央構造線の謎を解く?」

をテーマに、西日本各地を巡ってまいりました。

そんな折、昨日の記事内で突如、「三輪山」

という意外なキーワードが出現しましたので、

ここでひとまず話題を変えて、

中途半端のまま保留していた「大嘗祭」関連の

ネタに再チャレンジしてみたいと思います。

 

ちょうど「大嘗祭」から一年が経ち、

今年の「新嘗祭」が終了した時期でもあると同時に、

11月8日に執り行われた「立皇嗣の礼」により、

にわかに「皇室の動き」が活発化しているところです。

以前書き溜めておいた記事も掲載するため、

文章の流れがわかりにくい部分もあるかと思いますが

(まあいつものことですが……)、

「令和3年を占う」という意味でも、

興味深い示唆が得られるものと期待しております。

お時間がある方は、「大嘗祭」関連の記事などを

合わせてお読みいただけると、幾分参考になるのでは

ないかと思いますので、ご興味があればぜひ……。


名草戸畔と三輪山

2020-11-25 10:55:28 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.87 *****

ここまで書いてきてふと思い至ったのは、

中国南部を発端とする

「インド・チャイニーズ系(龍蛇系)」の海人族は、

南方由来の「インドネシア系(スンダランド系)」

の海人族を、取りまとめる立場だった

のではないかということでした。

 

まあ、当時の海人族の系譜を

明確に記すことは困難ゆえ、

あくまでもひとつの可能性ではありますが、

仮に豊後水道のあたりで漁労生活をしてた

「名草の人々の祖先(スンダランド系)」が、

のちの豊後大神氏にもつながる

「名草戸畔の祖先(龍蛇系)」をリーダーとして、

古くから龍蛇族が開拓してきた

「水銀の道(中央構造線)」を

紀伊半島へと向かったと想像すると、

名草戸畔と「丹生都姫命」との深縁も

さもありなんと感じるのです。

 

さらに、名草戸畔が豊後大神氏と同族だとすれば、

名草戸畔と三輪山との関連も浮かび上がるわけで、

名草戸畔が決死の覚悟で神武一行の

「三輪山入り」を阻止した理由に関しても、

ぼんやりと輪郭を表してくるのでした。


ミツウロコ

2020-11-24 10:52:33 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.86 *****

名草戸畔の頭を埋めたとされる

「宇賀部神社」の宮司家であり、

名草戸畔の子孫との伝承が残る

「小野田家」の家紋は「丸に三つ鱗

(ミツウロコ)」だと聞きます。

三角形を組み合わせたこの図柄は、

北条氏の家紋としても知られており、

海洋民族の証でもあるのだとか……。

三つ鱗を構成する三角形は

「蛇のウロコ」を表していると言いますから、

小野田家および名草戸畔は、

海人族の中でも「龍蛇信仰」との関わりが

深い一族だったという見方もできますね。

 

ちなみにこの三つ鱗紋ですが、

大神神社の神紋である「三本杉」

を原型としているそうで、

大神氏関連の代表的な家紋が

この「三本杉(三つ鱗)」とのこと。

祖母山大明神と呼ばれる大蛇を祖先に持ち、

宇佐八幡宮の大宮司だった豊後大神氏の家紋が、

「丸に三つ鱗」であることを踏まえれば、

「宮崎から大分のリアス式海岸に住み、

半農半漁の暮らしをしていた」という

小野田寛郎氏の証言の裏付けともなるのでしょう。

【参考サイト】

古代史俯瞰 by tokyoblog


異なる目的

2020-11-23 10:47:29 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.85 *****

あくまでも現時点での勝手な推論ですが、

同じ海人族でも「大陸由来(呉越系)の龍蛇族」と

「南方由来(スンダランド系)の漁労民族」とでは、

日本に渡来してきた理由が異なるのでは

ないかという気がいたしております。

恐らく、スンダランド系の海人族は、

生活拠点の地形や漁労環境の変化など、

物理的な要因が大きかったのでしょう。

一方、長江周辺からやってきた龍蛇族のほうは、

ある明確な目的を持って来日した

イメージが個人的には湧いてくるのです。

 

その目的とは、すばり「水銀朱」でして、

徐福が「不老不死の薬」を探しに

日本へとやってきたように、

日本の豊富な鉱山資源を求めて、

中央構造線を西から東へと進んで行く

「龍蛇族」の様子が思い浮かぶのでした。

とすれば、先日ご紹介した丹生都姫命の一族は、

九州から瀬戸内海沿岸を経て紀伊半島に

上陸した「製鉄系民族」だったのかもしれません。

そして、丹生都姫命と同族とされる名草戸畔も、

海を生活の場とする漁労民の長というより、

大陸由来のシャープな知性を有した

技術集団のリーダーであり、

ある意味「土蜘蛛」だったとの想像もできます。


封印の型

2020-11-22 10:44:21 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.84 *****

昨日、名草戸畔が「土蜘蛛」の一派

であるという説をご紹介しましたが、

「土蜘蛛」の本拠地としても知られる、

奈良県の葛城一言主神社には、

土蜘蛛塚という小さな塚があります。

何でもこの塚は、神武天皇が

土蜘蛛を捕え殺害したのち、

彼らの怨念が復活しないように

頭、胴、足と別々に埋めた跡なのだそう。

つまり、一言主神社の土蜘蛛と名草戸畔は、

同じような葬られ方をしていたわけで、

ある意味「土蜘蛛」に対する封印の型として、

このような処置を施した可能性も

否めないわけですね。

 

これまで、名草戸畔の遺体を

3つに分けて埋めた理由として、

主に南方由来の「ハイヌヴァレ型」

の伝承と結び付けて考察してまいりました。

ただし、葛城山の土蜘蛛に「ハイヌヴァレ型」

の伝承は残っていないことなどを考えると、

単に名草の人々が「五穀豊穣」を願うためだけに、

名草戸畔の遺体をバラバラにした

とは考えにくくなるもの。

もしかすると、名草戸畔という存在は、

南方由来の海人族の首長ではなく、

別の目的のために名草に移住した

「土蜘蛛」だったのでしょうか……。


イメージの転換

2020-11-21 10:41:25 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.83 *****

神武一行との争いにより

名草戸畔が戦死したとされるのが、

「クモ池」と呼ばれる場所でした。

ここは名草一族の本拠地でもあり、

名草戸畔はその池の名前から

「土蜘蛛」の首長だったという説もあります。

土蜘蛛と言いますと、山中深くの横穴式住居

で暮らす鉱山労働者のイメージが強く、

海辺を拠点とした名草戸畔とは

かけ離れた存在のように感じられますが、

「戸畔=先住土着の女酋長」という見方をすれば、

ある意味彼ら(彼女ら)も

土蜘蛛だったと言えるのかもしれません。

 

ちなみに土蜘蛛という名称は、

大和朝廷側が名付けた「蔑みの意味」

を含む名称でして、神武東征の件においても、

天皇側に反発した八十梟帥や兄磯城、

あるいは天皇側に恭順した井氷鹿や石押分之子

などのいわば「土蜘蛛」と呼ばれる土着民が、

物語の準主役的なポジションを担っております。

仮に、名草戸畔が「土蜘蛛」の一派だったと

想像するなら、名草戸畔の中からますます

「南方の香り」が薄まって行くような気がするのでした。


二つの系統

2020-11-20 10:38:28 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.82 *****

一説に、海人族のルーツは

「インド・チャイニーズ系」と

「インドネシア系」の二系統に、

大きく分けられるという話があります。

 

「インド・チャイニーズ系」は、

中国南部のビン越地方の漂海民に端を発し、

東シナ海を北上、山東半島、遼東半島、

朝鮮半島西海岸を経由して、

玄界灘に達したと推定される

安曇系およびその傍系の住吉系漁労民。

一方「インドネシア系」は、

フィリピン付近海域から黒潮の流れに沿って、

台湾、沖縄、奄美諸島を経由した

隼人系(宗像系)海人族とのことで、

両者は複雑に混交しながら東日本の沿岸や

内陸部へと侵入して行ったのだそう。

 

この話を元に海人族を分類するなら、

「インド・チャイニーズ系」は主に航海に長じた龍蛇系、

「インドネシア系」は主に漁労を得意とする

スンダランド系となるのかもしれません。

 

ちなみに、名草戸畔の本拠地周辺には、

「出雲系」の人々の居住地があったと言いますから、

本来は「インドネシア系海人族」だった名草戸畔が、

丹生都姫命一族や出雲一族と姻戚関係を結ぶうちに、

「インド・チャイニーズ系」寄りの家系に

変貌した可能性もあるのでしょう。


丹生都姫命

2020-11-19 10:32:03 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.81 *****

名草戸畔と「山の民」の関係がどうしても気になり、

あれこれと探ってみたところ、

丹生都姫命というキーワードにぶつかりました。

先日の記事内でも、「丹生都比売神社の

祖先神(神社を創建した人たちの祖先)は

名草彦・名草姫だった」と記したように、

もともと深いつながりを持つ両者ですが、

実は名草戸畔は「丹生都姫命の子孫」、

あるいは名草姫(名草戸畔?)の婿は

「丹生都姫命の御子・名草比古」

だったとも考えられるのだとか……。

 

まあ、ネタの信憑性や時系列の前後はともかく、

これらの説が唱えられるということは、

少なくとも「鉱山の神」である

丹生都姫命と名草戸畔が、同じ役目を

共有する人物だったようにも感じられます。

 

ちなみに、丹生都姫命の出自はと言いますと、

江南の呉王国の王女(大日女姫と稚日女姫)

の妹として生を受けたものの、

戦乱により国を追われたため、

新天地を求めて南九州に上陸し、

その後中央構造線に沿って

和歌山にたどりついたとのこと。

それらの話を踏まえれば、名草戸畔も

スンダランド由来の海人族ではなく、

「龍蛇信仰」とともに来日した

呉越系渡来人の可能性もありそうですね。

【参考サイト】

神奈備


スンダランド

2020-11-18 10:29:20 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.80 *****

中央構造線をテーマにした

記事を書いているつもりが、

またまた名草戸畔の深みに

はまっている今日この頃ですが、

今しばらく古代の名草近辺の「妄想」

にお付き合いいただければ幸いです。

 

一説に、名草の人々のルーツは、

「スンダランド由来の九州縄文人ではないか」

という話があります。何でも、スンダランド

(現在のフィリピン・インドネシア・マレー半島)

のあたりから黒潮に乗って来日した人々が、

鬼界カルデラの大噴火の影響で九州に住めなくなり、

海を渡って和歌山に移住してきたとのこと。

これらの話は、『名草戸畔 古代紀国の女王伝説』

内の「小野田氏の証言」とも一致するため、

個人的にも可能性大の説として支持しておりました。

 

ただ、先日も書いたように、名草戸畔周辺に漂う、

濃厚な「山の匂い」がどうしても記憶に残っているため、

「名草戸畔=海人族」という結論をひとまず保留して、

他の可能性も探ってみたところ、

たどり着いたのが名草戸畔と丹生都姫命

(丹生都比売命)との深いつながりだったのです。


混在する民族

2020-11-17 10:26:02 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.79 *****

『播磨国風土記』揖保郡大田里条には、

「呉の勝(くれのすぐり)が韓国より

紀伊国名草郡大田村に落ち着き、

次に摂津国三島賀美郡大田村に足を留め、

さらに播磨国揖保郡大田に移動した」

という記述があるそうです。

何でも、彼らの痕跡は「大田」という

地名として残り、金属加工の技術に

優れていた「漢人」などの渡来人集団と、

行動をともにしていた節が見られるのだとか……。

 

「勝(すぐり)」とは、古代朝鮮語で

「村長(むらおさ)」を意味する「村主」と記され、

主に百済系渡来人に与えられた

姓(かばね)だと言いますから、

大陸からやってきた産鉄族の首長

(とその一族)だったとも考えられますね。

 

名草も三島も「ミミ」と縁が深い土地ですので、

もしかすると彼らも「耳族」との

混交を重ねて行ったのかもしれません。

となると、当時の名草周辺には

「名草戸畔」を筆頭とする名草族、

「紀豊耳」を系譜に配する紀氏、

「呉の勝」が率いる渡来系の産鉄族が、

混在しながら居住していたと想像されますが、

果たして三者の間にはどのような

関係性が築かれていたのでしょうか……。

【参考サイト】

戸原のトップページ


海人系の産鉄族

2020-11-16 10:22:35 | 神社と災害

 

***** 神社と災害 No.78 *****

以前のブログ内で、

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日本列島への「三段階渡来モデル」において、

約4,400年前~約3,000年前に日本へと渡来した

「第二波の渡来民」とは、海人族と言うよりも、

海人族によって導かれてきた大陸人、

および大陸のどこかで海人族と混血した

大陸人だったのかもしれません。

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と記しました。

 

また、昨日の記事では、「耳族とは第一段階の

終盤あたりに、朝鮮半島を通る西寄りルートを使って

日本へと渡来した、呉越の人々(龍蛇族など)

だったのではないか」と推測しましたが、

個人的には、第一段階の終盤から

第二段階にかけて渡来した「海人族」の中でも、

特に金属加工や鍛冶技術に長けた人たちを、

「ミミ」と呼んでいたのではないかと想像しております。

 

恐らく、「ミミ」の名を冠する人たちというのは、

海人族の縁者かつ海人族によって導かれてきた

大陸の「高度な専門技術者」、

あるいは鉱脈を探すために渡来し、

海の生業を捨てて陸に上がった

「海人系の産鉄族」だったのかもしれません。