たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

闘争のリピート

2019-05-31 09:03:16 | 鉄の神々1

<津山市・吉井川>

 

和気氏が備前・美作一帯の「鉄」を掌握し、

朝廷に強い影響を及ぼす有力豪族となったのも、

吉井川という存在があってこその成果だったと聞きます。

津山市内を流れる吉井川周辺では、

古代「タタラ製鉄」が盛んに行われており、

またその支流にあたる鵜ノ羽川(うのはがわ)でも、

鉄滓など鉄穴流の跡が見つかっているのだとか……。

恐らくこの近辺で、砂鉄を巡る「鉄の民」同士の争いが発生し、

中山神社の遍歴に影響を与えたことは間違いないのでしょう。

 

ここで、中山神社のご祭神の流れを整理しますと、

1. もともと磐座祭祀の聖地だった吉備の中山に、

「人間の贄を要求する猿神」が入り込む

2. 当時の国の首長であった「オオナムチ

(および古参の渡来系部族・物部氏)」が猿神を打ち取る

3. 新参の渡来系部族である

「鹿の贄を要求する金山彦神」との争いに負け、

オオナムチが土地を手放す

4. 後年にやってきた「鏡作神」たちが、

金山彦神を追い出しこの地を支配する

……といったイメージになります。

 

「猿神」が何を意味するかによって、

多少順序は入れ替わるかもしれませんが、

恐らく猿神の伝説というのは、

「生け贄」を要求する部族と、

古来からの祭祀を守ろうとする部族との争いを

総括した話なのかもしれません。

ときに「播磨の犬」たちの力を借りながら、

ときに「鏡作部」たちの支援を得ながら、

時代を跨ぎつつ同じような闘争が

リピートされてきたのでしょう。


東から来た犬

2019-05-30 09:57:54 | 鉄の神々1

<和気神社 わけじんじゃ>

 

昨日、津山市・中山神社の末社

「猿神社」に伝わる「生け贄」の伝承から、

この地の鉄を巡る歴史について考えてみました。

そこで気になるのが、生け贄を要求する中山神に対し、

東方からやってきた猟師が放ったという

「たくさんの犬」という文言です。

 

恐らくこれまでの流れを考えれば、

この「犬」というのは単なる猟犬ではなく、

「タタラ族の配下にいた者」という意味なのでしょう。

もしかするとそれらの人々は、

東の播磨国にいた「別部の犬」ともつながる集団であり、

この地の鉄事情を詳しく知る

「山師」だったのかもしれません。

 

ちなみに、以前のブログで

「播磨国の鉄を管理していた別部の犬たちは、

出雲の砂鉄に目を付けた和気氏の配下となり、

(金屋子神とともに)奥出雲の里へと派遣された……」

と推測しましたが、仮に播磨から来たとされる金屋子神が、

「生け贄」の習俗を要するタタラ民だったとすれば、

中山神社の猿神を退治した「犬(生け贄部族の敵)」と、

出雲に派遣された「犬(生け贄部族の配下)」を、

「別部の犬」として一括することがためらわれます。

となると、東から来た「犬」たちとは、

いったいどんな出自の人々だったのでしょうか……。


鉄と生け贄

2019-05-29 09:53:35 | 鉄の神々1

<岩井戸神社 いわいどじんじゃ>

 

津山市・中山神社の末社「猿神社」のご祭神は猿田彦神です。

恐らくは「猿神」の「猿」という言葉から、後年になって

「猿田彦」の名前があてがわれたのだと思われますが、

猿田彦という神を能登の猿鬼の物語と同様、

「渡来系の部族」という観点で捉えてみると、

いくつかの興味深いイメージが沸き上がってまいります。

 

ひとつは、この神社に祀られている猿田彦神とは、

「猿田彦族にいたならず者」という意味であり、

オオナムチ(大国主神)に討ち取られて、

磐座に封印された可能性。

もうひとつは、「同族のならず者」

を打ち取った猿田彦族の長が、

のちに神となりこの神社に祀られた可能性です。

 

どちらかが正しいかはさておき、

言えるのは古くからこの地に

「生け贄」という習俗があり、

それを排除するために土地の首長らが

力を奮っていたということですね。

恐らく、「生け贄習俗と鉄」との間、

そして「生け贄部族と鉄の部族」との間には、

切っても切れない因縁が存在したのでしょう。


猿神の正体

2019-05-28 09:49:29 | 鉄の神々1

<中山神社 なかやまじんじゃ>

 

津山市・中山神社に関する文献には、

「猿神(猿神社)の磐座そのものが、もとの中山神社だ」

という記述があるのだそうです。

恐らくここ中山神社でも、赤磐市の石上布都魂神社と同様、

古代は猿神社の付近で磐座祭祀が行われていたのでしょう。

その磐座がなぜ「猿神」と呼ばれるようになったのか、

その謎を解くカギが『今昔物語』や

『宇治拾遺物語』の中に残されていました。

簡単に内容をご説明しますと、

 

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昔、美作国に中山神(一の宮・中山神社)と

高野神(二の宮・高野神社)がいました。

中山神は猿、高野神は蛇をご神体としていましたが、

中山の猿神は毎年娘を生け贄に差し出すよう

村人に要求していたそうです。困った村人たちは、

東方からやって来た「猟師」にたくさんの

「犬」をけしかけてくれるよう頼み、

この猿神を退治したと言われています。

* 殺されそうになった猿神が宮司に神がかり、

「今後、人間の生贄を止める」と誓い、それ以降は

「猪や鹿」を贄に用いるようになったという説もあり

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「生け贄を要求した猿神が退治される」というこの一節。

「どこかで聞いたような……」と記憶をたどって行くと、

猿田彦族のならず者が猿鬼となって村人を苦しめた

(と推測する)「能登の猿鬼」の話に行き着きました。


減らせる被害

2019-05-27 09:45:56 | 鉄の神々1

<三輪山>

 

パワースポットで感じるパワーとはつまり、

「日常生活との違和感」だと個人的には考えております。

例えるなら、神社や祭祀場などの聖地に漂う「古い時代の空気」を、

「ビリビリ」とか「ジリジリ」といった感覚で受け止めているだけで、

それらが一律に「人間に力を与える善なるもの」だとは限らないのですね。

 

もちろん、すべてのパワースポットがそうではないと思いますし、

個人的に神霊などを感じる能力もありませんが、

メディアや口コミ等で「パワーをもらえる」

などと喧伝する場所に出くわすたびに、

「恐らくここには人が……」と眉をひそめることもしばしば。

 

その地に縁ある人々が参拝するのはともかく、

パワスポという名の「因縁の土地」に遠方から出向くことは、

百害あって一利なしなのでしょう。神社巡りをしておりますと、

どうしてもこういった場所を避けることは難しいものです。

ただし、ちょっと労力を使って「調べる」時間を取ることで、

減らせる「被害」は案外多いのかもしれません。


中山の猿神

2019-05-26 09:42:12 | 鉄の神々1

<中山神社 なかやまじんじゃ>

 

『今昔物語』や『宇治拾遺物語』

の中に登場する「中山の猿神」は、

津山市・中山神社の境内奥にある「猿神社」のご祭神です。

聞くところによりますとこの猿神社は、

本殿裏手の5分ほど坂道を上った岩の上に鎮座し、

社の中には子宝や安産のご利益を求めて奉納された、

布製の赤猿のぬいぐるみがたくさん吊るされているのだとか……。

実際に確認したわけではないので断定はできませんが、

恐らく古くからの「民間信仰」の名残なのでしょう。

 

ちなみに、今回の計画を立てた当初、中山神社へ行くのなら

「猿神社は絶対に外せない」と参拝する気満々でいたものの、

いざ入り口へ向かって歩き出したとたん、

どうにもこうにも足が進まなくなり、

参道へと続く鳥居の前で引き返してきた経緯があります。

夕暮れ時という微妙なタイミングも重なったと思われますが、

薄暗い森の中へと消えて行く小道の奥から、

まるで人間の侵入を拒むかのように

押し寄せてきたザワザワとした感覚は、

「物の怪の気配」とでも表現すべき異様な空気感でした。


鹿の献上

2019-05-25 09:36:45 | 鉄の神々1

<たつの市龍野町>

 

「鹿」の献上という言葉を聞きますと、

思い浮かぶのが諏訪大社の特殊神事です。

「鹿」という動物が聖なる獣として扱われ、

古代祭祀と深く関わっていたことは、

これまでの記事内でも述べてきましたが、

美作国の中山神社周辺に、

「鹿の生け贄」の伝承が伝えられている事実は、

諏訪や出雲などと同様、この地にも「贄」の風習を持つ

渡来系部族が入り込んだ可能性を示すのでしょう。

 

恐らく、吉備一帯を古くから治めていた物部氏は、

これら渡来系タタラ民との争いに敗れる結果となり、

物部氏が奉斎していた中山神社の「オオナムチ(大国主神)」も、

渡来系タタラ民の守護神である「金山彦神(金屋子神)」

へと入れ替わったのかもしれません。

そしてこれらの一件が、美作国が吉備国から

独立するきっかけを作り、播磨国の渡来系タタラ民が、

出雲国へと勢力伸ばす足掛かりになったとも推測できます。

 

それにしても、「贄」の風習を持つ集団というのは、

いったい何の目的でどこから日本へとやって来たのでしょうか……。

周辺調査をしてみますと、この中山神社には

「贄」に関わるもうひとつの伝承が伝えられていたのでした。


鉄を巡る争い

2019-05-24 09:32:51 | 鉄の神々1

<中山神社 なかやまじんじゃ>

 

昨日ご紹介した、美作国一の宮・中山神社に伝わる話以外にも、

『中山神社縁由』の中には、「地主神であるオオナムチは、

中山神にこの地を譲り、境内の祝木(いぼき)神社、

あるいは国司(くにし)神社に退かれた」

という一節が記されています。

現在、中山神社に祀られるの神は「鏡作神」ですが、

もしかするとそれ以前は「金山彦神」、

さらに古くは「オオナムチ」が祀られていた

可能性もありそうですね。

オオナムチから土地を譲られた(奪った)金山彦神は、

出雲の金屋子神とも同一視される存在ですし、

もしかするとこの美作国でも「新旧のタタラ部族」

の争いが勃発していたのかもしれません。

 

また、日本書紀の中では、

「天岩戸隠れの際、石凝姥という鍛冶屋が、

香具山の金(かね)を採って日矛(ひほこ)を作り、

真名鹿(まなか)の皮を丸ごと剥いで、

天羽鞴(あめのはぶき)を作った」という記述があります。

「天羽鞴」は「鞴(ふいご)」と呼ばれる、

鉄を熱したり銅を熔かしたりする送風装置のことで、

炉に空気を送り込み炭を勢いよく燃やすために用いられました。

つまり、オオナムチと中山神(金山彦神)との国譲りにおいて、

中山神(の眷属神)が乙麿に命じたのは、

製鉄機械の材料となる「鹿」を献上することだったのでしょう。


中山の国譲り

2019-05-23 09:29:04 | 鉄の神々1

<中山神社 なかやまじんじゃ>

 

美作国一の宮・中山神社には、

いくつかの興味深い伝承が伝えられております。

まずは、『中山神社縁由』に書かれている

内容の一部をご紹介しましょう。

* 一部をわかりやすくアレンジしています

 

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1.昔、オオナムチを信仰していた、

物部肩野乙麿という人物がいました。

その男は三度の飯より賭博好きで、

またその腕にも自信を持っていたため、

たまたま道で出会った老人から、

土地を賭けた勝負を挑まれた際も、

勇んでその申し出を受け入れます。

しかし、その老人はあろうことか、

中山神(金山彦神)の化身だったのです。

勝負に負けた乙麿はその代償として、

オオナムチを祀っていた地を中山神に譲ることになりました。

 

2.物部肩野乙麿は、オオナムチが鎮座していた場所を

中山神に奪われたことに、次第に不満を募らせて行きます。

しかし中山神の眷属・狼神が、乙麿に取りついて祟ったため、

乙麿は「毎年二頭の鹿を供えるから許して欲しい」と懇願しました。

狼神は、二頭の鹿の贄と牛馬市を開くことを条件に

この申し出を許可し、乙麿は近隣の弓削郷という場所に退きます。

 

3.弓削郷に退いた物部肩野乙麿でしたが、

しばらく経つと鹿贄の祭りを怠るようになりました。

するとまた、狼神の祟りに悩まされるようになったため、

今度は狼神を弓削郷の志呂神社に勧請して祀り、

その後中山神社に鹿を供える風習は途絶えたそうです。

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この話にあるように、中山神が金山彦神であるとすれば、

この地でもオオナムチ(大国主神)から金山彦神への

国譲りが行われたと考えても不思議ではないのでしょう。


吉備の中山

2019-05-22 09:23:32 | 鉄の神々1

<中山神社 なかやまじんじゃ>

 

現在、津山市の中山神社の呼称は

「なかやま」が一般的ですが、

その昔は「ちうさん」「ちゅうぜん」

「ちゅうざん」などと呼ばれていました。

何でも、中国の鉄に関する古書、

中山経(チュウサンキョウ)の影響を受け、

チウサンと音読みされるようになったのだとか……。

また、ご祭神に関しても、「吉備津彦命」

「金山彦命」「オオナムチ」「猿神」、

さらには吉備津彦が退治した「温羅」ではないかなど、

多様な説が取り沙汰され憶測を呼んでいます。

 

いずれにせよ、それらの伝承を拾っただけでも、

この神社がいかに古くから「人間の干渉」

を受けてきた場所であるかがわかるでしょう。

つまり、それほどまでにこの地は権力者たちにとって、

「魅力的な土地」だったということなのですね。

 

ちなみに、中山神社がもともと鎮座していたのは、

「真金吹く吉備の中山帯にせる細谷川の音のさやけさ」という、

『古今集』の神遊び歌に登場する「吉備の中山」でして、

美作国が備前国から分立した際に現在地に移ったのだそうです。

吉備津彦神社や吉備津神社との関連も含め、

中山神社がこの地に勧請された裏には、

一筋縄では行かない複雑な経緯があったのかもしれません。


石凝姥神

2019-05-21 09:19:44 | 鉄の神々1

<中山神社 なかやまじんじゃ>

 

石上布都魂神社を後にし、次なる目的地である

美作国一の宮・中山神社へ到着したのは、

日没間近の夕暮れ時。その途中、道を間違える、

脱輪した車を避ける、渋滞に巻き込まれる……等々、

冷や冷やしながら町まで下りてきたのですが、

なんとか予定ギリギリのタイミングで

参拝することができました。

 

岡山県津山市の郊外に鎮座する中山神社は、

播磨・備前と並ぶ鉄王国、美作国の中心的神社で、

鏡作神(かがみつくりのかみ)を主祭神とし、

相殿に天糠戸神(あめのぬかどのかみ)、

石凝姥神(いしこりどめのかみ)

の二神をお祀りしています。

 

鏡作神という神は、読んで字のごとく「鏡」

つまり鉱物を司る神と言われており、由緒によりますと

「鏡作部の祖神・イシコリドメ神の御神業を称えた御名」

とのこと。これらの内容からも、この中山神社が

「鉄」と深い関わりを持ち、さらに何らかの形で

「鏡」と結びついていることがわかります。

 

ちなみに石凝姥神という神は、天孫降臨の際、

ニニギに随伴し地上に降り立った五伴緒の一柱であり、

岩戸に隠れた天照太御神を招き出すための鏡を作りました。

恐らくは、中臣氏の祖神・天児屋命や、

忌部氏の祖神・天太玉命らとともに来日した、

天孫族に縁ある有力部族でもあったのでしょう。


国魂ライン

2019-05-20 09:10:02 | 鉄の神々1

<倭大国魂神社 やまとおおくにたまじんじゃ>

 

石上布都魂神社から南に延びるレイラインの線上には、

興味深い聖地がいくつか存在します。

その中のひとつが、以前「剣山ツアー」で訪れた、

徳島県美馬市の倭大国魂神社(やまとおおくにたまじんじゃ)です。

この神社には倭大国魂神という名の奈良・大和神社ともつながる

「国魂神」が祀られており、倭大国魂神のご神体は、

八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)だといわれています。

 

当初この神は、豊鍬入姫命とともに神器の奉斎を託された、

崇神天皇の皇女・渟名城入姫命(ぬなきいりびめのみこと)

がお祀りしていましたが、倭大国魂神の霊威が

あまりにも強すぎたことから、

渟名城入姫命はやせ細って神事ができなくなり、

市磯長尾市(いちしのながおち)に引き継がれたのだとか……。

 

この伝承を元にするなら、備前国・石上布都魂神社と

阿波国・倭大国魂神社の間には、

スサノオの神剣と国魂神の勾玉という、

強力なエネルギーが流れていたことになりますね。

ちなみにこのラインの近辺に存在するのが、

非業の死を遂げた2名の天皇ゆかりの地です。

豊鍬入姫命が吉備という遠地に神器を持ち込んだ裏には、

前後の世を見据えた深い理由があったのかもしれません。


完全なる草薙剣

2019-05-19 09:59:15 | 鉄の神々1

<熱田神宮 あつたじんぐう>

 

崇神天皇の皇女である豊鍬入姫命が、

「八咫鏡」と「草薙剣」を携え

吉備の国へと向かったのは、

この地に「スサノオの神剣(布都御魂剣)」

が安置されていたことと、

無関係ではないような気がします。

石上布都魂神社の社伝によれば、

神剣が大和国へと移されたのは、

崇神天皇の時代(仁徳期という説もあり)

だったといいますから、豊鍬入姫命の

吉備滞在をきっかけに、神剣が吉備から

大和へと持ち込まれた可能性も大です。

 

考えてみますと、もともと草薙剣は、

ヤマタノオロチという異民族の所有物であり、

剣に宿す御魂は国津神でも天津神でもありません。

恐らく、世情不安や三種の神器の鳴動を抑えるためには、

八咫鏡を皇居(三輪山)から遠ざけることはもちろん、

草薙剣を「理想形」にする必要があったのだと思われます。

もしかすると豊鍬入姫命の役目のひとつが、

各国の神剣が宿す国魂を草薙剣に集約させ、

草薙剣の力を完璧なものにすることだったのでしょうか……。


国魂の移し替え

2019-05-18 09:50:40 | 鉄の神々1

<美作やまなみ街道>

 

倭姫命の巡幸に先立ち、天照太御神の御魂の安住先を探した、

豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)の滞在先のひとつが、

「吉備国・名方浜宮(なかたのはまみや)」と呼ばれる場所です。

名方浜宮の比定地としては、岡山県岡山市、広島県、

和歌山県などが有力候補に挙げられますが、

倉敷市、高梁市、総社市、そして赤磐市などにも、

それらの伝承を残す土地があるのだとか……。

明確な証拠はないものの、古代の海岸線や宮の比定地の数を

念頭に置けば、豊鍬入姫命が訪れたのは、

岡山(の内陸部)である可能性も否定できないのでしょう。

 

倭姫命しかり豊鍬入姫命しかり、

巡幸という言葉を聞きますとまず思い浮かぶのが、

天照太御神のシンボルである「八咫鏡」です。

ただし、天皇が2人の姫たちに託した神器の中には、

八咫鏡だけでなく「草薙の剣(のレプリカ?)」

も含まれていたと聞きます。恐らくそれら二つの神器は、

訪れた国々の「神剣」や「宝物」と同坐され、

姫たちの手により何らかの神事が執り行われたのでしょう。

もしかするとそれらの神事とは、各国の「大国主神」

が所持していた神剣に宿る「国魂」を、天叢雲剣

(のちの草薙剣)に差し替えることだったのかもしれません。


独創的な風土

2019-05-17 09:44:20 | 鉄の神々1

<国立歴史民俗博物館>

*画像は甕棺です*

 

古代の葬儀で用いられた棺桶にはいくつかの種類があり、

木で造られた木棺、石で造られた石棺、

甕を二つ合わせた甕棺などがそれらの代表例です。

そんな中、ここ石上布都魂神社が鎮座する岡山県は、

「陶棺」と呼ばれる焼き物の棺桶が多数発見された土地で、

全国的に見てもその出土数は突出しているのだとか……。

また、お隣の兵庫県は「石棺」の一大生産地であり、

特に播磨地方には、石棺の蓋や側板などに

「仏像」や「梵字」を刻んだ石棺仏(せきかんぶつ)」が、

広く分布することでも知られています。

 

つまり、岡山東部から兵庫西部にかけての一帯は、

ある意味「独創的」ともいえる、固有の葬送風土が

形成されていたと考えられるわけですね。

恐らくそれらの元にあるのが、

この地に住み着いた刀工(陶工)の技術と、

物部氏らが取り仕切る葬送の儀式だったのでしょう。

もしかすると、石上布都魂神社付近で彼らが行っていたのは、

棺桶や鉄製品などの製造とともに、

様々な思いを抱えながらこの世を去った

「死者」を鎮める神事だったのでしょうか……。