みちのくの山野草

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3118 賢治直前までは元気?

2013-02-24 08:00:00 | 羅須地人協会の終焉
 さて、通説としては賢治は昭和3年8月10日から「丁度四十日の間熱と汗に苦しみました」ということで、この日から賢治は豊沢町の実家に戻って病臥したということのようだが、少なくともその前々日の8月8日にはまだその病気の予兆はなかったようだ。
 なんとなれば、「賢治年譜」に
  ・八月一一日(土) 「佐々木喜善日記」に賢治からの来信の記事がある。
とあるが、この手紙を賢治は下根子桜から出しているということだし、文面からはその兆しが感じ取れないからである。ちなみにその喜善宛書簡は次のようになっているという。
  昭和3年
 242 八月八日 佐々木喜善あて 封書

 《表》上閉伊郡土淵村 佐々木喜善様 侍史
 《裏》昭和三年八月八日 稗貫郡下根子 宮沢賢治
お手紙辱けなく拝誦いたしました。旧稿ご入用の趣まことに光栄の至りです。あれでよろしければどうぞどうなりとお使ひください。前々森佐一氏等からご高名は伺って居りますのでこの機会を以てはじめて透明な尊敬を送りあげます。
   昭和三年八月八日
                               宮沢賢治
  佐々木喜善様
              <『校本宮澤賢治全集第十三巻(上)』(筑摩書房)より>
 したがって、賢治は8月8日頃まではまだあまり症状は現れてはおらず、案外直前までは元気だったのかもしれない。

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