みちのくの山野草

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3119 賢治の昭和3年8月10日

2013-02-25 08:00:00 | 羅須地人協会の終焉
 一般には昭和3年8月10日病気のために実家に戻ったといわれている賢治だが、その際のことに関して菊池忠二氏は次のように述べている。
 私がもっとも伊藤さんに聞いてみたかったのは、ここでの農耕生活が病気のために挫折した時、宮澤賢治はどのようにして豊沢町の実家へ帰ったのか、という点だった。それを尋ねると、伊藤さんはふっと遠くを眺めるような目つきをしてから、次のように語ってくれたのである。
 「今でも覚えているのは、私が裏の畑でかせいでいた時、作業服を着た賢治さんが『体の具合が悪いのでちょっと家で休んできますから』と言って、そろそろと静かに歩いて行ったことであんす。」
 「いつもさっさと急ぐように歩くはずの賢治さんが、ゆっくり歩いて行ったので、その時のことは今でも妙に頭に残っているあんす。」
 「あの頃は私も年が若くて、どのくらい体が悪いんだか察しもつかないで、また良くなればもどってくるだろうぐらいに思って、そのまま別れてしまいあんしたが、それっきりあとは来ながんした。」
 伊藤さんの語ったこの事実が、宮澤賢治の羅須地人協会の終焉の姿であったのだ。おそらくそれは、昭和三年八月初旬の頃であったと思われる。
               <『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著)37pより>
 ここに出て来ている〝伊藤〟とは〝伊藤忠一〟のことであり、羅須地人協会の建物のすぐ西隣の家に住む、当時ならば18歳前後の青年である。
 ちなみに『今日の賢治先生』によれば
伊藤忠一 明四三~昭三九。稗貫郡根子村字桜出身。大一四年一年間花巻農学校に学ぶ。農業のかたわら土木関係や、冬は宮沢安太郎経営の十字屋で働く。自宅が羅須地人協会隣地で協会会員。…
              <『今日の賢治先生』(佐藤司著)563pより>
ということである。今まで私は知らなかったが、伊藤忠一はあの宮沢安太郎の店「十字屋」に勤めていたことがあったのだ。
 さて、伊藤忠一の証言によれば、
・少なくとも伊藤青年の目から見れば、その時の賢治の病状はそれほど極端に悪かったとは見えなかった。
また、
  ・それっきり賢治は下根子桜には戻らなかった。
ということが言えそうだ。
 とはいえ、伊藤青年はその時のことは「妙に頭に残っていあんす」とも言っているから、少なくともその折の賢治はいつもの賢治とは違っていたということは言えるだろう。はたして「そろそろと静かに歩いて行った」ことが病気のためだけだったのか、それとも後ろ髪を引かれながら下根子桜ねを離れなければならなかったからなのか、はたまたその両方だったのか…。

 先に述べたように「佐々木喜善あて書簡」からは8月8日時点での賢治がそれほど具合が悪かったようには思えないだけに、2日経って賢治は突如症状が悪化したのだろうか。 

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