みちのくの山野草

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3120 宮澤清六の記憶

2013-02-26 08:00:00 | 羅須地人協会の終焉
 菊池忠二氏はこの日のことを後日宮澤清六自身に直接訊いたという。
 この件については、宮澤清六さんから確かめておく必要を感じていた。何故なら昭和七年六月二十二日付の中館武左衛門にあてた賢治の手紙下書きの一節に、「小生儀前年御目にかゝりし夏、気管支炎より肺肋膜炎を患ひ花巻の実家に運ばれ、九死に一生を得て……」と書かれているからである。
 この手紙下書きによれば、「花巻の実家に運ばれ」とあり、宮澤家の方から桜の羅須地人協会へ出向いて、病中の賢治を生家へ連れ戻したように受け取られる。そこで一九九三年四月中旬、私は花巻へ所用があって行った時に宮澤清六さんを訪れ、いろいろな話の合間にこのことを尋ねてみた。
 初めは「どうだったか忘れてしまったなあ」と語っていた清六さんが、だんだんに「特にこちらから迎えに行ったという記憶はないですねえ」ということだった。そして「これは大事なことですね」と二回ほどつぶやかれたのであった。その口調から私は、伊藤忠一の語った事実が本当であったことを、あらためて確認することができたのである。
              <『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著)45p~より>
 ということは、伊藤忠一は
 「…また良くなればもどってくるだろうぐらいに思って、そのまま別れてしまいあんしたが、それっきりあとは来ながんした」
と証言している訳だから、もし昭和3年8月10日以降に再び賢治が桜に戻っていなければ、賢治が
  『体の具合が悪いのでちょっと家で休んできますから
と伊藤忠一に言って、そろそろと静かに歩いて行った日は昭和3年8月10日となる。
 問題は、賢治は果たしてその後桜に戻ってこなかったのかである。このことはいまは判断はせずに、後程の課題としたい。

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