みちのくの山野草

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賢治関連七不思議(おかしいと思わないのだろうか、#3)

2017-08-13 10:00:00 | 賢治に関する不思議
《驥北の野》(平成29年7月17日撮影)
 「下敷」となった『宮沢賢治と三人の女性』
 さて先に引用した、山下聖美氏や澤村修治氏の、
 感情をむき出しにし、おせっかいと言えるほど積極的に賢治を求めた高瀬露について、賢治研究者や伝記作者たちは手きびしい言及を多く残している。失恋後は賢治の悪口を言って回ったひどい女、ひとり相撲の恋愛を認識できなかったバカ女、感情をあらわにし過ぎた異常者、勘違いおせっかい女……。
とか、
 無邪気なまでに熱情が解放されていた。…(略)…一日に何度も来ることがあった。露の行動は今風にいえば、ややストーカー性を帯びてきたといってもよい。
という辛辣な断定は何を「因」にしているのだろうか。両氏はその典拠を明示していないから私は取り敢えず推測するしかないのだが、その「因」が何であるかのヒントを与えてくれるのが上田哲の論文「「宮沢賢治伝」の再検証㈡―〈悪女〉にされた高瀬露―」(『七尾論叢11号』所収)である。

 それは同論文において、上田は、
 露の〈悪女〉ぶりについては、戦前から多くの人々に興味的に受けとめられ確かな事実の如く流布し語り継がれてきた。…(筆者略)…この話はかなり歪められて伝わっており、不思議なことに、多くの人は、これらの話を何らの検証もせず、高瀬側の言い分は聞かず一方的な情報のみを受け容れ、いわば欠席裁判的に彼女を悪女と断罪しているのである。
             <『七尾論叢11号』89p>
とその経緯と実情を紹介し、
 高瀬露と賢治のかかわりについて再検証の拙論を書くに当たってまず森荘已池『宮沢賢治と三人の女性』(一九四九年(昭和24年)一月二五日 人文書房刊)を資料として使うことにする。…(筆者略)…境だけでなく一九四九年以降の高瀬露と賢治について述べた文篇はほとんどこの森の本を下敷にしており……
             <『七尾論叢11号』89p>
ということを教えてくれていたからだ。ただし、私はやはりそうかとは思ったものの、ここは自分の目で確認しておく必要がある。

 というわけでその「文篇」を渉猟してみたところ、「一方的な情報」とは上田の指摘通り確かに『宮沢賢治と三人の女性』であった。その後はこれを「下敷」として、儀府成一が『宮沢賢治その愛と性』(昭47)を著し、読むに堪えないような表現をも弄しながらその拡大再生産をしていたし、前に引用したようなかなり辛辣な表現を用いた著作が何度も再生産されていた(しかも、やはり誰一人として確と検証等をしたとは考えられぬものばかりがだ)。
 それは、前掲論文中で上田が、「実証的な賢治の伝記的研究として今日も高く評価されている境忠一の『評伝宮沢賢治』」と評するところの同書の中においてさえも否定できない。なぜなら、境は同書において、
 もっとも具体的な記述である森荘已池の『宮澤賢治と三人の女性』によると、大正十五年下根子に移住してから半年たった秋に、下根子へゆく田圃道で盛装した彼女に会っているし、その直後賢治がそれを認めているので、この直後であると思われる。森は賢治がそのひとに知りあったいきさつを次のように伝えている。この頃の記事ではもっともまとまっているので、引用したい。
 その協会員のひとりが花巻の西の方の村で小学校教員をしている女の人を連れてきて宮澤賢治に紹介した。
           <『評伝宮澤賢治』(境忠一著、桜楓社、昭和43年)317pより>
というように、『宮澤賢治と三人の女性』のことを「もっとも具体的な記述」とか「この頃の記事ではもっともまとまっている」と高く評価はしているものの、自身がいみじくも言うとおり、「…もっともまとまっている」から引用したのであり、境自身が検証したり裏付けを取ったりしたものではないということになるからだ。
 ちなみに、境の「大正十五年下根子に移住してから半年たった秋」という記述に関しては、森は『宮沢賢治と三人の女性』の中でそのような意味のことは決して述べていないし、森はあくまでも「一九二八年の秋の日」と述べているからである。(あげく、このどちらの「年」、すなわち大正15年にしても、1928年にしても「下根子へゆく田圃道で」森が高瀬露と会うことができたということは限りなくゼロに近いことは、やはり拙論「聖女の如き高瀬露」で実証した通りである)。

 とまれ、これで「因」(=「下敷」)は『宮沢賢治と三人の女性』であったと判断できたし、それは厳密には同書の中の一つの章
     昭和六年七月七日の日記
であることもわかった。

 もはやこうなったら乗りかかった船、私もこの〈悪女伝説〉を検証せねばならないだろう(先に述べたように、上田の同論文は未完だったからなおさらにだ)。ついては次に、上田が「下敷」と称しているところの森荘已池著『宮沢賢治と三人の女性』を精読してみた。すると、常識的に考えておかしいと感ずるところがいくつか見つかった。それは同時に、山下聖美氏や澤村修治氏はこの『宮沢賢治と三人の女性』をただ引用しているだけで、その裏付けも検証もしていなかった虞があるということを示唆しているということになる。言い換えれば、普通の人権意識があればこのような辛辣な断定は躊躇うものであり慎重を期すはずだが、私から言わせてもらえばそうしたとは見えない。それは何故なのだろうか私にはとても不思議だ。私のような門外漢でさえもこのように少し調べただけでかなりおかしいということが容易に判ることなのに、賢治研究家である彼らはなぜそのようなことに気付かないのだろうか(言い換えれば、裏付けを取ったり検証をしたりしせねばならぬことを手抜きしているように見えるのは何故だろうか)、私にはとても不思議だ。なぜならば、研究家という矜恃が、自分の責任で裏付けを取ったり検証したりした上で持論を展開させるものだと私は今までずっと思ってきたが故に。

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