みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

3409 保阪嘉内を訪ねて韮崎へ

2013-07-28 08:00:00 | 賢治関連
 身延山久遠寺に立ち寄った後は韮崎を訪ねた。保阪嘉内のことを少し知りたいと思ったからだ。
◇一日目
 まずは韮崎駅の直ぐ隣『韮崎市民交流センター ニコリ』を訪れ、ガイドブック『賢治・嘉内と韮崎地域の文学散歩』を入手。観光案内所の職員の方にお訊きして、『東京エレクトロン韮崎文化ホール』にあるという詩碑
《1 「花園農村の碑」》(平成25年7月8日撮影)

《2 〃 》(平成25年7月8日撮影)

《3 〃 》(平成25年7月8日撮影)

《4 〃 》(平成25年7月8日撮影)

を訪ねた。
《5 『東京エレクトロン韮崎文化ホール』》(平成25年7月8日撮影)

《6 八ヶ岳》(平成25年7月8日撮影)

 さてここ迄はタクシーで来たのだが、帰りはバスでと思ってバス停を探してみたものの見つからず、しょうがないので徒歩で山々を見ながら韮崎の駅まで戻った。
《7 鳳凰三山と甲斐駒ヶ岳》(平成25年7月8日撮影)

《8 茅ヶ岳》(平成25年7月8日撮影)

《9 富士山》(平成25年7月8日撮影)

 保阪嘉内は登山も好きだったようで、『心友 宮澤賢と保阪嘉内』によれば
 登山もまた、嘉内にとって大切な趣味であった。嘉内が初めて八ヶ岳に登ったのは明治四十四年、中学二年の夏であった。その後、嘉内は毎年のように八ヶ岳に登っているが、八ヶ岳だけでなく駒ヶ岳、茅ヶ岳、富士山など、生家から見える甲州の山々を踏破した。今も残る中学時代のスケッチ帳には、踏破した山々が描かれている。
            <『心友 宮澤賢と保阪嘉内』(大明敦編、山梨ふるさと文庫)29pより>
 そして、そのスケッチ帳には次のような
【ハーリー彗星之図】

             <『花園農村の理想をかかげて』(アザリア記念会)より>
も描かれている。私はこのスケッチを見て直ぐさま賢治の 「下書稿(六)に描かれた岩頸列のペン画」を連想した。
 それから、それは私が連想したわけではなくて前掲書にて述べられていることなのだが、
【風雷神祠】

 スケッチに描かれた風神の祠は、地元の人々から八ヶ岳に棲むと信じられてきた「風の三郎」と呼ばれる風の神を祀ったものであり、『風の又三郎』を連想させるものである。
             <共に『花園農村の理想をかかげて』(アザリア記念会)より>
という。
◇二日目
 さて、翌日は再び『韮崎市民交流センター ニコリ』を訪れた。同センターには、1階には『ふるさと偉人資料館』があり、2階に『韮崎市立図書館』があったからである。
 特に、前者の中には「保阪嘉内のコーナー」があり、資料やパネルの展示がある。なお、宮沢賢治から嘉内に宛てた書簡も展示してある。この資料館を訪れて思ったことは、
 保阪嘉内は「花園農村」と表現した模範農村の実現を目指したり、農村改善と青年教育の取り組みをしたりと、賢治が考えていたことと似たようなことを先行して実践していたようだ。
ということである。今後保阪嘉内のことをもっと知る必要があると覚らされた。 

 ところで、韮崎駅の近くに
《9 白い観音像》(平成25年7月9日撮影)

が見えたので、
《10 そばまで行こうと思って》(平成25年7月9日撮影)

多分「七里岩」と呼ばれる高台に登って行ったのだが、工事中のために
《11 背面》(平成25年7月9日撮影)

しか拝めなかった。
 なお、その高台からは
《12 富士山》(平成25年7月9日撮影)


《13 甲斐駒ヶ岳》(平成25年7月9日撮影)

が遠く望めた。

 最後になりましたが、『韮崎市民交流センター ニコリ』の観光案内の方、『ふるさと偉人資料館』の職員の方、『韮崎市立図書館』の司書の方皆さんとても親切で、わざわざ花巻から、まさしく〝行った甲斐〟がありました、とても感謝しております。

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 なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
   「目次
   「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)
   「おわり
クリックすれば見られます。


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