《1↑ 「下書稿(六)に描かれた岩頸列のペン画」(抜粋)》
<『校本 宮澤賢治全集 第五巻』(筑摩書房)より>
前回も述べたように、この上図ペン画は〔月の鉛の雲さびに〕の下書稿に描かれたものだから、賢治が晩年豊沢町の実家で病に伏していた頃に描いたスケッチであろう。
一方、「岩頸列」は「文語詩稿一百篇」の中の詩の一つである。もちろん「文語詩稿一百篇」の方も賢治の晩年に詠まれ、推敲されたものだ。そして、この詩の場合はちゃんと題がついていてズバリ「岩頸列」だ。その上この詩の出だしは
西は箱ヶと毒ヶ森、 椀コ、南昌、東根の、
古き岩頸の一列に、 氷霧あえかのまひるかな。
で始まる。
となればく、この詩とこのペン画は共に同時期に書かれたと考えてよかろう。この詩を詠もうとした際、あるいは推敲する際に参考にしたり、確認したりしようとして描いたのがこのペン画ということが十分に考えられる。
では次は、このペン画に岩頸の山々を当て嵌めてみよう。
まず、いちばん目立つのが中央の半球状の山である。まさしくその形は「椀コ」状である。お椀を伏せたような形をしている。そこでこの山を仮に「椀コ」としてみよう。
次に、これらの山並に『西は箱ヶと毒ヶ森、椀コ、南昌、東根』を当て嵌めてみよう。
例えば
《1案》
《2案》
のようになり、大体は当て嵌めることが可能である。
というわけで、とりあえず
「椀コ」という山は実在していて、しかも独立の山である可能性が極めて大である。
と言うことが出来て、「椀コ」は南昌山の愛称ではないと言えるのではなかろうか。
さて、このペン画はどのような方向からスケッチしたのであろうか。東根山の形状及び岩頸列の並びなどから推理すると、北のある地点に立ちそこから南方向に見える岩頸列を眺めたものとなろう。とすればその北のある地点の候補としてあげられるのが、小岩井や七ツ森などであろうか。
たとえば、小岩井や七ツ森から眺めるとそれぞれ次のように見える。
《4 参考:小岩井から眺めた山並》(平成20年5月16日撮影)》
《5 参考:七ツ森(生森)からの箱ケ森、南昌山、毒ヶ森》(平成20年8月5日撮影)
そこでこの二葉の写真で見比べてみれば、ペン画により近いのはもちろん《4》である。ただし《4》の写真には南昌山(あるいは判別しにくい)や東根山は見えていない。そしてこの写真は篠木坂峠を下って小岩井農場に向かう途中の水田地帯で撮ったものである。
したがってこの二葉の写真を基にして思考実験をすれば、《4》の写真を撮った場所より西方向に進み、小高い山から眺めればよりこのペン画に近いものとなる。あるいは、その地点にそのような山がなければ、その場所から「鳥」となって舞い上がればまさしくこのペン画の通りになるはずである。
というわけで、ペン画の岩頸列と実際の山並とはそれほどかけ離れているわけではないと私は感ずる。
別な言い方をすれば、このペン画を描こうとしていたときの病臥中の賢治は、このような「鳥」となって小岩井の空に舞い上がって岩頸列を心象スケッチしたと妄想したくなる。
とまれ、
「椀コ」という山は実在していて独立の山である
と言い切っても良さそうだという確信がさらに強まってきた。
また、このペン画に当て嵌めてみるとそれほどの問題点はなさそうだから「椀コ」がどの山であるかの特定が出来そうだ。それを次回は試みたい。
続きの
”「椀コ」はやはり「赤林山」でなかろうか”へ移る。
前の
”賢治の画いた岩頸列のペン画”に戻る。
”みちのくの山野草”のトップに戻る。
<『校本 宮澤賢治全集 第五巻』(筑摩書房)より>
前回も述べたように、この上図ペン画は〔月の鉛の雲さびに〕の下書稿に描かれたものだから、賢治が晩年豊沢町の実家で病に伏していた頃に描いたスケッチであろう。
一方、「岩頸列」は「文語詩稿一百篇」の中の詩の一つである。もちろん「文語詩稿一百篇」の方も賢治の晩年に詠まれ、推敲されたものだ。そして、この詩の場合はちゃんと題がついていてズバリ「岩頸列」だ。その上この詩の出だしは
西は箱ヶと毒ヶ森、 椀コ、南昌、東根の、
古き岩頸の一列に、 氷霧あえかのまひるかな。
で始まる。
となればく、この詩とこのペン画は共に同時期に書かれたと考えてよかろう。この詩を詠もうとした際、あるいは推敲する際に参考にしたり、確認したりしようとして描いたのがこのペン画ということが十分に考えられる。
では次は、このペン画に岩頸の山々を当て嵌めてみよう。
まず、いちばん目立つのが中央の半球状の山である。まさしくその形は「椀コ」状である。お椀を伏せたような形をしている。そこでこの山を仮に「椀コ」としてみよう。
次に、これらの山並に『西は箱ヶと毒ヶ森、椀コ、南昌、東根』を当て嵌めてみよう。
例えば
《1案》
《2案》
のようになり、大体は当て嵌めることが可能である。
というわけで、とりあえず
「椀コ」という山は実在していて、しかも独立の山である可能性が極めて大である。
と言うことが出来て、「椀コ」は南昌山の愛称ではないと言えるのではなかろうか。
さて、このペン画はどのような方向からスケッチしたのであろうか。東根山の形状及び岩頸列の並びなどから推理すると、北のある地点に立ちそこから南方向に見える岩頸列を眺めたものとなろう。とすればその北のある地点の候補としてあげられるのが、小岩井や七ツ森などであろうか。
たとえば、小岩井や七ツ森から眺めるとそれぞれ次のように見える。
《4 参考:小岩井から眺めた山並》(平成20年5月16日撮影)》
《5 参考:七ツ森(生森)からの箱ケ森、南昌山、毒ヶ森》(平成20年8月5日撮影)
そこでこの二葉の写真で見比べてみれば、ペン画により近いのはもちろん《4》である。ただし《4》の写真には南昌山(あるいは判別しにくい)や東根山は見えていない。そしてこの写真は篠木坂峠を下って小岩井農場に向かう途中の水田地帯で撮ったものである。
したがってこの二葉の写真を基にして思考実験をすれば、《4》の写真を撮った場所より西方向に進み、小高い山から眺めればよりこのペン画に近いものとなる。あるいは、その地点にそのような山がなければ、その場所から「鳥」となって舞い上がればまさしくこのペン画の通りになるはずである。
というわけで、ペン画の岩頸列と実際の山並とはそれほどかけ離れているわけではないと私は感ずる。
別な言い方をすれば、このペン画を描こうとしていたときの病臥中の賢治は、このような「鳥」となって小岩井の空に舞い上がって岩頸列を心象スケッチしたと妄想したくなる。
とまれ、
「椀コ」という山は実在していて独立の山である
と言い切っても良さそうだという確信がさらに強まってきた。
また、このペン画に当て嵌めてみるとそれほどの問題点はなさそうだから「椀コ」がどの山であるかの特定が出来そうだ。それを次回は試みたい。
続きの
”「椀コ」はやはり「赤林山」でなかろうか”へ移る。
前の
”賢治の画いた岩頸列のペン画”に戻る。
”みちのくの山野草”のトップに戻る。