過日、東京に所用があったのでついでに足を延ばし、身延山久遠寺にあるという賢治の詩碑を見に行った。
《1 三門》(平成25年7月8日撮影)
を入って直ぐの右手に
《2 賢治の詩碑》(平成25年7月8日撮影)
はあった。
そこには
折角なので本殿まで行こうとしたのだが、
《3 菩提梯》(平成25年7月8日撮影)
という、急な
《4 石の階段》(平成25年7月8日撮影)
を登るのが大変だった。へとへとになりながら登り切れば、五重の塔や
《5 本殿》(平成25年7月8日撮影)
があった。
なお、身延山に立派な久遠寺ができたのは南部氏のお蔭らしい。
南部氏の祖光行の子の実長は波木井(山梨県身延町)南部氏の祖なのだそうだ。そして、佐渡に流されていた日蓮が鎌倉に戻った際に、日蓮はこの実長の求めに応じて波木井に移り、その後実長は身延山など約一千町歩を寄進、広大な久遠寺寺領が成立した、とタクシーの運転手から教わった。
したがって、ここ久遠寺は盛岡南部の家臣北家の城下町である花巻とその点でも浅からぬ縁があるようだ。
それから最後に一つ、どうやら賢治はここ久遠寺を訪れたことはなかったようである。
続きの
”保阪嘉内を訪ねて韮崎へ”へ移る。
前の
”下根子桜八景の朝(6/24)”に戻る。
”みちのくの山野草”のトップに戻る。
なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
「目次」
「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)」
「おわり」
クリックすれば見られます。
《1 三門》(平成25年7月8日撮影)
を入って直ぐの右手に
《2 賢治の詩碑》(平成25年7月8日撮影)
はあった。
そこには
塵点の
劫をし
過ぎて
いましこの
妙のみ法に
あひまつ
りしを
賢治
と刻されていた。劫をし
過ぎて
いましこの
妙のみ法に
あひまつ
りしを
賢治
折角なので本殿まで行こうとしたのだが、
《3 菩提梯》(平成25年7月8日撮影)
という、急な
《4 石の階段》(平成25年7月8日撮影)
を登るのが大変だった。へとへとになりながら登り切れば、五重の塔や
《5 本殿》(平成25年7月8日撮影)
があった。
なお、身延山に立派な久遠寺ができたのは南部氏のお蔭らしい。
南部氏の祖光行の子の実長は波木井(山梨県身延町)南部氏の祖なのだそうだ。そして、佐渡に流されていた日蓮が鎌倉に戻った際に、日蓮はこの実長の求めに応じて波木井に移り、その後実長は身延山など約一千町歩を寄進、広大な久遠寺寺領が成立した、とタクシーの運転手から教わった。
したがって、ここ久遠寺は盛岡南部の家臣北家の城下町である花巻とその点でも浅からぬ縁があるようだ。
それから最後に一つ、どうやら賢治はここ久遠寺を訪れたことはなかったようである。
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なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
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「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)」
「おわり」
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