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3418 保阪嘉内略年譜

2013-08-01 09:00:00 | 賢治関連
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
 過日韮崎を訪れた際に、『韮崎市民交流センター ニコリ』の『ふるさと偉人資料館』を訪ねた。そこには保阪嘉内に関する資料・パネル展示があった。中でも『花園農村の理想をかかげて』(アザリア記念会)という記念誌も置いてあり、入手したい旨職員の方にお願いしたところ、「保阪嘉内・宮沢賢治 アザリア記念会」を紹介していただき、この度送っていただけた。その表紙がこのブログの先頭の写真である。
 同誌には巻末に保阪嘉内の年譜があるので、そこから主なものを拾ってその略年譜を以下に作ってみた。
               《保阪嘉内略年譜》
明治29年10月18日 山梨県北巨摩郡駒井村に地主の長男として生まれる。
明治36年4月    藤井尋常小学校入学。
明治40年4月    高等科1年生。
明治43年4月    県立甲府中学校入学。
大正2年       作品「昨日他7篇」「鈴の音」など。
大正3年       同人誌「颪」「巡礼」発行。作品「煙他14篇」など。
大正3年9月      「農業と人と」を演説。   
大正4年3月     甲府中学卒業。
大正4年5月     東北大学札幌農学科大学を受験(不合格)。
大正5年4月     盛岡高等農林学校農学科第二部入学。自啓寮で賢治の同室となる。
大正5年5月     戯曲「人間のもだえ」を執筆。「短歌日記」に作品多数。
大正6年1月     「ふるふ台地と山々と雪」「旅と歌」「我は独り」などの歌多数。
大正6年7月14~15日 賢治と二人で岩手山に登る。
大正6年10月    弁論大会で「農村教育者ととしての伯トルストイ」を述べる。
大正7年3月     盛岡高等農林学校除名放校処分。
大正7年4月     上京。明治大学に籍を置き、受験勉強。
大正7年6月     母逝去。
大正7年11月    ふる里に戻り、農業従事のための準備に入る。
大正8年2月     「農人」としての活動開始。
大正8年8~9月   帝国農会の青年指導者講習に参加。
大正8年12月    応召(一年志願兵)
大正9年3月     軍隊批判をして古年兵のリンチを受ける。
大正9年11月    軍曹となり、満期除隊。
大正10年2月25日  山梨県教育会書記になる。
大正10年7月18日  宮沢賢治と再会。
大正10年9月30日  召集解除。
大正11年3月    桂川電気興業会書記となり、地質調査を行う。
大正11年7~8月   甲種勤務演習応召。
大正12年3月    少尉に任官。
大正12年7月末まで 兵営生活
大正12年9月    徒歩で関東大震災の救援に行く。
大正13年6月    山梨日日新聞社に入社。
大正14年3月22日  佐藤さかゑと結婚。
大正14年5月    山梨日日新聞社を退社。その後昭和6年まで営農。
大正15年7月    青年訓練所開所。
昭和2年1月     在郷軍人会分会長となる。
昭和2年2月     青年訓練所主任となる。
昭和3年2月     「我が友農村芸術家Mについて」講義。
昭和3年8月     甲種勤務演習の応召。
昭和4年7月     駒井村村会議員となる。農事組合長ほか各種の役職を引き受ける。
昭和4年8月     乙種勤務演習に応召。
昭和5年3月     中尉に任官。
昭和5年8月     青年指導者講習会参加。農業伝習所構想に憑かれる。
昭和6年10月    田地を整理して離村し、久留米町に移り、日本青年協会武蔵道場主任となる。
昭和7年3月     豊島区東長崎に転居。
昭和8年4月     日本青年会主事補となる。
昭和9年2月     豊島区雑司ヶ谷に転居。
昭和9年4月     日本青年協会退職。アミノ酸醤油、砂鉄精錬など農村副業の研究を行う。
            富国生命の外交員となる。
昭和10年2月    胃の不調を感じる。
昭和10年4月    小石川区都市緑化計画臨時職員雇員となる。
昭和11年2月    胃疾患が悪化。
昭和11年11月    療養のため帰郷し、病臥。
昭和12年2月8日(41歳) 逝去。
       
 私は、保阪嘉内がまさか41歳の若さで亡くなっていたとは思ってもいなかった。もっともっと長生きしていたとばかり思っていたからだ。
 なお、「ふるさと偉人資料館」で頂いた『心友 宮澤賢と保阪嘉内』の中にあった、
 昭和12年1月 病床を見舞った知友に「思えば俺の一生は、農学を学ばんとして成らず、農村伝習所を興さんとして成らず、農村工場を建てんとして成らず、失敗の連続であった。若し此の病を克服出来れば再度上京して研究を完成し、農村復興の資金を作る。その時にはお互い頑張ろうではないか」と、花園農村の夢を語る。
           <『心友 宮澤賢と保阪嘉内』(大明敦編、山梨ふるさと文庫)263pより>
という記載が興味深い。そしてその関連で、上掲略年譜で〝ライム色〟で表示したような保阪嘉内の帰農、再度の営農もまた興味深いところである。 

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 なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
   「目次
   「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)
   「おわり
クリックすれば見られます。

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