《驥北の野》(平成29年7月17日撮影)
ではここからは賢治に関連する五つ目の不思議についてである。巷間、「羅須地人協会時代」の賢治は農民のため、特に貧しい農民たちのために献身しようと思って大正15年3月末に花巻農学校を辞して下根子桜に移り住み、農業指導(肥料設計や稲作指導)のために東奔西走したといわれているようだし、私もそのように認識していた。ところが、同時代の賢治を私なりにここ10年ほど調べてきて結果からは、確かに肥料設計については、農閑期のある時期農民たちのために賢治が奔走していたこともあったということの裏付けは出来たからからある程度は納得できたのだが、稲作指導、とりわけ農繁期におけるそれに関してはそうではなかった。なぜならば、「羅須地人協会時代」の農繁期において東奔西走するような献身を賢治が農民たちに対して為したということを裏付けるものがなかなか見つからなかったからだ。何故なのだろうか、不思議だ。
大正15年の場合
例えば、大正15年の場合、稗貫郡は旱による不作、とりわけ隣の紫波郡内の赤石村や不動村そして志和村等の稲作は大旱害による大凶作だったので、地元のみならず仙台や東京等からも陸続と救援の手が差し伸べられていたことが当時の新聞報道から分かるのだが、どういう訳か賢治がその対策や救援のために奔走したなどというような証言等は何一つ見つからない。
巷間伝わっている賢治像からすれば、この時の旱魃で苦しんでいる農民たちを救わんとして、賢治は徹宵、東奔西走していたであろう。そして、そのようなことを賢治が当時率先して行っていたとすれば、それは「賢治精神」を賢治自身が実践したわけだから羅須地人協会員や教え子等の周縁の人達はさぞかし賞賛し、そのような賢治の実践を証言したり、記述したりしてきたであろう。ところが私の管見ゆえか、そのような証言等を一切知らない。
それとも何かしらのことは為したのだが賢治自身はそのことを秘していたのだろうか。しかしそうであったとしたならばなお一層のこと、それはいわゆる賢治像としてまさしく相応しい態度だからそれを受けた人々やその周りの人達がそれを黙っているわけはなく、そのような態度を大いに賞嘆したであろうから、周りの誰かはその証言をしていたであろう。しかしながらそのような証言等は何故か残っていないし、それを直接窺わせるような賢治自身の詩篇等もない。
昭和2年の場合
それでは昭和2年の場合はどうだったのかというと、賢治と稲作に関しての論考等において多くの賢治研究家たちが次のようなことを述べているから、さぞかし賢治は農民たちのために東奔西走したであろうとかつての私は思い込んでいた。
(1) その上、これもまた賢治が全く予期しなかったその年(昭和2年:筆者註)の冷夏が、東北地方に大きな被害を与えた。
<『宮沢賢治 その独自性と時代性』(西田良子著、翰林書房)152p>
私たちにはすぐに、一九二七年の冷温多雨の夏…(筆者略)…で、陸稲や野菜類が殆ど全滅した夏の賢治の行動がうかんでくる。当時の彼は、決して「ナミダヲナガシ」ただけではなかった。「オロオロアルキ」ばかりしてはいない。
<同、173p>
(2) 昭和二年は、五月に旱魃や低温が続き、六月は日照不足や大雨に祟られ未曾有の大凶作となった。この悲惨を目の当たりにした賢治は、草花のことなど忘れたかのように水田の肥料設計を指導するため農村巡りを始める。
<『イーハトーヴの植物学』(伊藤光弥著、洋々社)79p>
(3) 一九二七(昭和二)年は、多雨冷温の天候不順の夏だった。
<『宮沢賢治 第6号』(洋々社、1986年)78p>
(4) 五月から肥料設計・稲作指導。夏は天候不順のため東奔西走する。
<『新編銀河鉄道の夜』(新潮文庫)所収の年譜より>
(5) (昭和二年は)田植えの頃から、天候不順の夏にかけて、稲作指導や肥料設計は多忙をきわめた。
<『新潮日本文学アルバム 宮沢賢治』(新潮社)77p>
(6) 一九二六年春、あれほど大きな意気込みで始めた農村改革運動だったが、その後彼に思いがけない障害が次々と彼を襲った。
中でも、一九二七・八年と続いた、天候不順による大きな稲の被害は、精神的にも経済的にも更にまた肉体的にも、彼を打ちのめした。
<『宮澤賢治論』(西田良子著、桜楓社)89p>
(7) 昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)317p>
つまり、「昭和二年は、多雨冷温の天候不順の夏だった」とか「未曾有の凶作だった」という断定にしばしば遭遇する。そして、その対応や対策のために賢治は徹宵東奔西走したというような論調の論考等を結構目にすることが出来る。<『宮沢賢治 その独自性と時代性』(西田良子著、翰林書房)152p>
私たちにはすぐに、一九二七年の冷温多雨の夏…(筆者略)…で、陸稲や野菜類が殆ど全滅した夏の賢治の行動がうかんでくる。当時の彼は、決して「ナミダヲナガシ」ただけではなかった。「オロオロアルキ」ばかりしてはいない。
<同、173p>
(2) 昭和二年は、五月に旱魃や低温が続き、六月は日照不足や大雨に祟られ未曾有の大凶作となった。この悲惨を目の当たりにした賢治は、草花のことなど忘れたかのように水田の肥料設計を指導するため農村巡りを始める。
<『イーハトーヴの植物学』(伊藤光弥著、洋々社)79p>
(3) 一九二七(昭和二)年は、多雨冷温の天候不順の夏だった。
<『宮沢賢治 第6号』(洋々社、1986年)78p>
(4) 五月から肥料設計・稲作指導。夏は天候不順のため東奔西走する。
<『新編銀河鉄道の夜』(新潮文庫)所収の年譜より>
(5) (昭和二年は)田植えの頃から、天候不順の夏にかけて、稲作指導や肥料設計は多忙をきわめた。
<『新潮日本文学アルバム 宮沢賢治』(新潮社)77p>
(6) 一九二六年春、あれほど大きな意気込みで始めた農村改革運動だったが、その後彼に思いがけない障害が次々と彼を襲った。
中でも、一九二七・八年と続いた、天候不順による大きな稲の被害は、精神的にも経済的にも更にまた肉体的にも、彼を打ちのめした。
<『宮澤賢治論』(西田良子著、桜楓社)89p>
(7) 昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)317p>
ところが、いわゆる『阿部晁の家政日誌』や福井規矩三が発行した『岩手県気象年報』(岩手県盛岡・宮古測候所)や「稻作期間豊凶氣溫」(盛岡測候所、昭和2年9月7日付『岩手日報』掲載)、そして、『岩手日報』の県米実収高の記事等によって、「昭和二年は、多雨冷温の天候不順の夏だった」とか「未曾有の凶作だった」という事実は全くなかったということを私は実証できた。つまるところ、(1)~(7)等から昭和2年の賢治は稲作指導のために東奔西走したに違いないと私は思い込んでいたのだが、これらはどうやらいずれも事実とは言えないようだ。何故このようなことが多くの賢治研究家等によって述べられているのだろうか、私はとても不思議でならない。
昭和3年の場合
では昭和3年の場合はどうかというと、この昭和3年6月7日~7月24日の約18日間ほど上京していて、巷間この上京の主たる「目的」は、伊藤七雄の大島農芸学校設立への助言あるいは伊藤ちゑとの見合いのための「大島行」といわれているようだが、もしそうであったとしたならば私にはある疑問が湧いてくる。
それはまず、この時期花巻では「猫の手も借りたい」といわれる田植え等の農繁期だから、農聖とも言われている賢治であるならばそのことが気掛かりなので「大島行」を終えたなら即帰花したと思いきや、「浮世絵鑑賞」そして何より連日のように観劇に出かけていたり、図書館通いをしたりしていたからである。ちなみに、賢治が後程澤里武治にあてた書簡(243)の中で「…六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず…」と書いているということだから、その様な観劇等をしたということをこれは裏付けている。しかも、帰花した後もしばらくぼんやりしていたと賢治は書簡に認めていたというからである。
そして次が、そもそもこの時期の賢治はかつてのような賢治ではなくなっていて、この上京は実は「逃避行」であったと主張する人もいるし、私もそれは充分にあり得ると考えているからである。
つまるところ、「羅須地人協会時代」の賢治が農繁期の稲作指導のために東奔西走したということの客観的な裏付け等が今のところ殆ど見つからない。何故なのだろうか、どうも不思議だ。
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