《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
それでは今回は、賢治が農繁期の稲作指導のために奔走したということと関連しそうな記述を『宮澤賢治素描』(関登久也著、協栄出版)から探してみたい。《『宮澤賢治素描』(昭和18年)》
・「稲作指導」には、
賢治氏は稲作の指導といふよりはもつと根本的な土壌の改良、肥料の設計、労働の能率等について、農村自体の向上のために非常な努力を払はれました。斎藤弥惣さんの家にも年々二度位づゝわざわざ出かけて行き、その直接の指導にあたりました。
鍋倉は町から近道を行けば約一里半ですが、賢治氏は志戸平温泉へ行く方の道、つまり縣道を真直ぐに行つて、途中上根子や二ツ堰のの人たちを訪問し、その足で鍋倉へ行きました。鍋倉を終ると、湯口村の隣の湯本村へ行つて、小瀬川などを訪問して帰るのであります。…(投稿者略)…
賢治はそれから斎藤さんと畠へ出て行きそのへんの土を手にとりながら、土壌改良法に就いて、斎藤さんに解り易い言葉を以て丁寧に説明します。
とあったから、その内容は場所や人物名等が具体的だからその信憑性は低くはなかろうから、賢治は農民に対しての指導のためにたしかに奔走していたであろうことを示唆していそうだ。さりながら、ここで斎藤が述べている賢治の指導は稲作というよりは畠の土壌改良のことだから、「羅須地人協会時代」の賢治が農繁期の稲作指導のために東奔西走していたということまでの裏付けにはなりそうにない。鍋倉は町から近道を行けば約一里半ですが、賢治氏は志戸平温泉へ行く方の道、つまり縣道を真直ぐに行つて、途中上根子や二ツ堰のの人たちを訪問し、その足で鍋倉へ行きました。鍋倉を終ると、湯口村の隣の湯本村へ行つて、小瀬川などを訪問して帰るのであります。…(投稿者略)…
賢治はそれから斎藤さんと畠へ出て行きそのへんの土を手にとりながら、土壌改良法に就いて、斎藤さんに解り易い言葉を以て丁寧に説明します。
・「昭和二年頃の宮澤賢治」には、
当時の賢治氏は肥料設計所の相談所を開設したり、農村のために晝夜の別なく奔走していた頃です。
とあるから、この「農村のために晝夜の別なく奔走していた」はまさに探していたところのものと思いたいが、残念ながらそのまま額面通り受け取るわけにはいかない。それは、例えば、当時盛岡測候所長であった福井規矩三が「測候所と宮澤君」の中で、
昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)317p>というようなことを昭和二年の場合について述べていることを始めとして、その他にも同年に関して、
私たちにはすぐに、一九二七年の冷温多雨の夏と一九二八年の四〇日の旱魃で、陸稲や野菜類が殆ど全滅した夏の賢治の行動がうかんでくる。当時の彼は、決して「ナミダヲナガシ」ただけではなかった。「オロオロアルキ」ばかりしてはいない。
<『宮沢賢治 その独自性と同時代性』(翰林書房)173p> 昭和二年は、五月に旱魃や低温が続き、六月は日照不足や大雨に祟られ未曾有の大凶作となった。この悲惨を目の当たりにした賢治は、草花のことなど忘れたかのように水田の肥料設計を指導するため農村巡りを始める。
<『イーハトーヴの植物学』(洋々社)79p > 一九二七(昭和二)年は、多雨冷温の天候不順の夏だった。
<『宮沢賢治 第6号』(洋々社、1986年)78p > 五月から肥料設計・稲作指導。夏は天候不順のため東奔西走する。
<『新編銀河鉄道の夜』(新潮文庫)の年譜より> 田植えの頃から、天候不順の夏にかけて、稲作指導や肥料設計は多忙をきわめた。
<『新潮日本文学アルバム 宮沢賢治』(新潮社)77pより>というような記述、つまり、「一九二七年の冷温多雨の夏であった」とか「昭和二年は…六月は日照不足や大雨に祟られ未曾有の大凶作となった」などという断定表現にしばしば出会うのだが、これらが事実であったとはほぼ言えないものであるということは、先に実証したところであるからである。
そして、その他に同書にあった関連の記述については、せいぜい
・「芸術学校」の
羅須地人協会といふのは、農村の青年、或ひは篤農家たちを指導督励して農村の進歩改良を計りたいために創立されたものです。然し一方賢治氏は芸術学校をもつくりたい念頭を多分に持つてをりました。
だけであった。したがって、「羅須地人協会時代」全般に亘って農民たちに対して賢治が農繁期の稲作指導のために奔走したということの確たる裏付けは同書からは、見つからなかった。続きへ。
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《鈴木 守著作案内》
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☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』 ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』 ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』
◇ 拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、各書の中身そのままで掲載をしています。
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