みちのくの山野草

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賢治昭和2年の上京と三ヶ月間のチェロ猛勉強(前編)

2016-03-18 08:00:00 | 「羅須地人協会時代」の真実
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 では今回は、
    3) 賢治は昭和2年の11月頃から約三ヶ月間滞京、チョロの猛練習がたたって病気になった。
についてである。

あまりにも不明朗
 まずは、件の澤里武治の証言を時系列に従って一度確認してみると、
(1) 『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社、昭和23年)の場合
 確か昭和二年十一月の頃だつたと思ひます。当時先生は農学校の教職を退き、根子村に於て農民の指導は勿論の事、御自身としても凡ゆる学問の道に非常に精勵されて居られました。その十一月のびしよびしよみぞれの降る寒い日でした。
(2) 昭和31年2月22日付『岩手日報』連載「宮澤賢治物語(49)」の場合
 どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。その前年の十二月十二日のころには
 『上京、タイピスト学校において…(略)…言語問題につき語る』
と、ありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。その上京の目的は年譜に書いてある通りかもしれませんが、私と先生の交渉は主にセロのことについてです。…(略)…
 その十一月のびしょびしょ霙(みぞれ)の降る寒い日でした。
 『沢里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ』…(略)…
 そういうことにだけ幾日も費やされたということで、その猛練習のお話を聞いてゾッとするような思いをしたものです。先生は予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました。

    ★昭和32年2月15日:関登久也逝去

(3) 『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年8月20日発行)の場合
 どう考えても昭和二年十一月頃のような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には上京して花巻にはおりません。その前年の十二月十二日の頃には、
 「上京、タイピスト学校において…(略)…言語問題につき語る。」
と、ありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。…(略)…
(4) 『賢治聞書』(関登久也著、角川選書、昭和45年)の場合
○……昭和二年十一月ころだったと思います。当時先生は農学校の教職をしりぞき、根子村で農民の指導に全力を尽くし、ご自身としてもあらゆる学問の道に非常に精励されておられました。その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
「沢里君、セロを持って上京してくる、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そう言ってセロを持ち単身上京なさいました。そのとき花巻駅でお見送りしたのは私一人でした。
というようになっている。

 この推移から窺えることとしては次の3点、
① 初出の証言では、その訪問時期は「確か昭和二年十一月の頃だつたと思ひます」という表現になっていることから、この「確か」に注意すれば、
 賢治がチェロを持って上京するのを澤里武治独りが見送ったのはまず間違いなく「昭和二年十一月の頃だつた
と澤里は思っていたということが読み取れる。
② それから約8年過ぎた時点では、今度はその時期について澤里は「どう考えても昭和二年十一月頃のような気がします」と表現していることから、先の「確か」を受けての「どう考えても」に注意すれば、澤里は第三者からその時期がそうではないと否定されてはいるものの、
 賢治がチェロを持って上京するのを澤里武治独りが見送ったのどう考えてもく「昭和二年十一月の頃だつた
ということに相当の自信があったということが読み取れる。
③ しかも先に述べたように、関が亡くなった時をちょうど前後して、
 生前は「昭和二年には先生は上京しておりません」という表現が、歿後には180度意味が違う「昭和二年には上京して花巻にはおりません」という表現に改竄された。
がある。
 したがって、新校本年譜』は「大正15年12月2日」の典拠として、
 関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている。
というような、その変更の根拠も明示せずに、「…ものと見られる」とか「…のことと改めることになっている」とまるで思考停止したかの如き表現を用いて『賢治随聞』を挙げているということと先の〝③〟とを併せて考えてみると、かなりの不自然さと不明朗さをどうしても拭えない。普通は、このような場合にはまずは初出のものを重視すべきなのに上掲の(1)~(3)のいずれでもなく、一番最後に発行された『賢治随聞』を典拠として用いているからである。しかもこの『随聞』の発行は著者の関が亡くなったからのものである。あげく、森は同書の「あとがき」で、
 願わくは、多くの賢治研究家諸氏は、前二著によって引例することを避けて本書によっていただきたい。
と述べていて、この「二著」とは『正・續 宮澤賢治素描』のことなのだが、それを使わずに後々の昭和45年発行の自分達が「改稿」した方を引例してほしいと言っているのである。なんとも奇妙な光景である。実際、そのせいか否かはわからぬが、「旧校本年譜」も『新校本年譜』も森の言うとおりに『賢治随聞』の方を「大正15年12月2日」の典拠にしているという現実もある。しかも、このことに関する澤里武治の証言の初出については一言の言及もない。

 それにしても、少し丁寧に「賢治年譜」を概観すれば「現賢治年譜」は「三か月間問題」という難題を抱えていることに気付くはずなのだが、「賢治研究家」の誰一人としてそのことを少なくとも公的には論じていないということは極めておかしい。となれば、このことに関する澤里の証言に対して、何者かがそれを歓迎しておらず、それを恣意的に使おうとしたり、あげく改竄しようとしていたりというあまりにも不明朗な実態があったということはもはや否定できない。素人の私でさえも気付くこの不明朗さを、どうして賢治研究家の誰一人として問題視していないのだろうか。「賢治研究」における学問の厳しさと自由はあるのかだろうかと不安になってくる。
 とまれ、特に〝①→②〟の表現の変化からしても、
 澤里武治一人に見送られながら霙の降る日にチェロを持って賢治が上京したのは、大正15年12月2日であるとするよりは、昭和2年11月の頃であったとする方が遥かに蓋然性が高い。
ということがなおさらにわかるから、まずは、現通説の「(大正15年)一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る」はもはや成り立たなくなったということは明らか。なぜならば、「通説」とは言えどもそれはあくまでも一つの仮説に過ぎないし、どう当て嵌めようとしてもその出発日では「少し早めに帰郷したという三ヶ月間弱」の当て嵌めようがないから、このことが反例となるので、この「現通説」は棄却されなければならないからだ。そして当然、この矛盾は早急に解消されねばならぬ。

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 昭和二年は特別な時節 (辛 文則)
2016-03-18 18:18:06
  鈴木 守 様

  遂に、問題の水源に帰還しましたね。もしかして、この難有い問題の〈明らめ〉は、守先生にとっては「高瀬露問題への明らめ」よりも重要問題だったように観じられますが奈何でしょうかしらん。
  こう書いてしまったのでは、小生に貴重于な賢治関係情報を提供して戴いたあの方に酷かもしれませんが、件の行き違いに関してはしその権威主義的テンペラマンが駄々漏れになってシマッタと感性反省しているのでは、と。                            さもなければ、小生としても、「インテリジェンスとしてではなくインテレクチュアリティとしての知性」の働きに曇りが感じられる」といった〈クリティークとしての批判心〉を覚えざるをえませんから。因みに、「虎の威を借りたF・フォックス」については言詮不及でしょうが、多少ともダイアローグディを交わした方でもあるので、「賢治の道(ことば)にとって〈苹果というメタファー〉は如何なるか?」という公案を、…。できれば、「如何なるか〈木偶之坊なる山木なる白楊〉とは?」、などと訊ねてみたい気もしますが。兎も角も、不貪慾戒・不瞋恚戒・不愚癡戒より遙かに初歩なる不悪口(あっく)戒をも立て得ない性分の方と承知すれば。因みに、この二つの問いは、〈シニフィエりんご〉さんの御章師匠にはとくと伺ってみたい落処(かんどころ)です。         さて、賢治誕生百二十周年を迎えて、岩手日報は石川啄木と宮澤賢治をセットにした特集を組んでいますが、最新記事では「賢治が愛した女性」というテーマで、高瀬露の写真を大きく掲げていますね。上田哲氏の論考を取り上げ、〈高瀬露悪女論〉をやんわりと批判してはいるようですが、「賢治は慎ましく家庭的で夫に従順な良妻賢母型の女性を好んだ」という〈賢治の女性観〉説に追従していましたが、守先生は、この点に関してはどうお考えでしょうか。
  先生による、〈高瀬露聖女論〉では、高瀬露も伊藤チエも、「夫に従順で家庭を護るだけの婦人」とは異質な、むしろ、平塚らいてうた伊藤野枝などの〈青踏派・新しい女〉に親和感を懐いた女性に観じられるのですがいかがでしょう。
  そう考えると、左様な問題意識の鍵になる女性がいますよね。他ならない、「賢治のすぐ下の妹宮澤トシ」がまさにその〈フェミニン〉ですよね。で、小生の問題設定は、「賢治はフェミニストであったか、それともアンチフェミニストであったのか?」という問題設定なのです。もとより、このプロブレマティークは、「賢治はリベラルであったかアンチリベラルであったか?」という懐疑と不離不可分ですし、〈『不貪慾戒』『風景とオルゴール』『昴』『風の偏倚』〉に付された〈大正十二年九月十二日という日付のコトバ〉問題とも密接に関係し合い、石川啄木が糾弾した明治四十四年の〈幸徳秋水公的テロル〉問題とも連携して来ると、小生は考えているのです。もとより、斯様な問題意識は形而上ではない徹底した形而下的問題ですし、伝記的な問題ですよね。実際、〈戦争と平和〉問題ほどにリアルなフィジカル問題はないと考えます。                         で、「汝、国家の為という理由で敵対者への己による他殺行動を正当化できるか?」、と。固より、この問いは、検事や裁判官や弁護士などによる第三者的一般問題などではなく、「将に今、己を殺さんとする相手とどう対自し対峙するか?」という個人問題ですよね。                                  少なくとも、稲造や鑑三、漱石や啄木そして斉藤宗次郎は躊躇することなく「否!」と応える〈モナド的個人〉だtだったし、太田達人、藤根吉春、鈴木卓苗、原抱琴、橘川眞一郎、長岡擴、内田秋皎、春日重泰、平井直衛らもまたそのような〈人人〉であったと考えたい訳です。
    で、「そんな観点に立って、賢治テクストに対自すると如何?」、と。で、小生にとっての「宮澤賢治の昭和二年」問題は正に左様な問題設定と因縁付いてしまっているという次第です。                    で、そのプロブレマティークと直結している賢治テクストの代表が、「未完成の完成」形で遺されている『一九二七時点での盛岡中学校生徒諸君に寄せる』という訳です。それからそれへと九十年の有時経歴を経た今日、私たちは、「以下余白」と書かれた後に、如何なる〈詞の道〉を続けることができるのでしょうか、…。吾不識です。                            その他、思いつくままに、昭和二年の賢治道得を並べてみますと、『春の雲に関するあいまいなる議論』『サキノハカという黒い花といっしょに』『県技師による雲に対するステートメント』『何をやっても間に合わない』そして『藤根禁酒会へ贈る』。どのテクストにも、天候不順に対けてのではない、時流時勢に対けての切ないまでの〈青いイカリ〉が観じられて、……。        で、話は、「〈新しい女・フェミニズム〉問題と宮澤トシとの間の因縁関係性「」、ですが、守先生は如何お考えですか。先ずもって、「高瀬露と伊藤チエは如何?」という問いと、「賢治とトシとの間の関係性や如何?」という問いとを全くの別問題と作し得るのか、と。
たとえば、講談社新書になっている方の如き、「賢治とトシとの間を性愛問題に転化してオモシロガル」という三文週刊誌化には呆れ果てるだけなのですが。       で、この問題は、「兄賢治の上級校進学希望は封じた父政次郎や本家が、何故に、妹トシの日本女子大学校(専門学校)への進学は許したのか?」、という疑問と絡んできますし、何故に、頻繁に交わされたと目される〈賢治・トシ書簡〉が一通しか公表されていないか、という疑問などととも。実は、岩手日報に三回に亘ってゴシップ報道された「花巻高女でのトシと若い音楽教師岡本某との間の関係問題」の実相などとも。     
答えになりませんが… (辛文則様(鈴木))
2016-03-19 16:44:56
辛 文則 様
 今日は。お変わりございませんか。
 いつもありがとうございます。
 まず、
『遂に、問題の水源に帰還しましたね。もしかして、この難有い問題の〈明らめ〉は、守先生にとっては「高瀬露問題への明らめ」よりも重要問題だったように観じられますが奈何でしょうかしらん。』
についてですが、たしかに仰せのとおりで、昨今私は少し考えを変えました。それは一年前の石井洋二郎氏の式辞を知ってからです。 
 このことを知らなかった時点までは、私の検証結果はほぼ悉く「通説」を否定するものでしたから、露の件以外は、その結果に自己満足していればいいと思っていました。ただし、露の伝説だけは何ら客観的な根拠もなく捏造されたものであることのみならず、この伝説を安易に全国に流布させたのは某書房であり、その理不尽だけは許せないと思っていました。人間の尊厳に関わることだからです。そして、いわばこの冤罪を晴らすために幾ばくかの力になりたいというのが老い先短い私の〈明らめ〉でした。
 ところが、石井氏の式辞を知ってからは、そのようなことで自己満足してはいけないのだということを諭されて、今このシリーズを投稿しております。

 次に
『「賢治は慎ましく家庭的で夫に従順な良妻賢母型の女性を好んだ」という〈賢治の女性観〉説に追従していましたが、この点に関してはどうお考えでしょうか。』
についてですが、賢治が一番憧れていたのは「伊藤チエ」だったと今の私は思っております。当時東京で貧民街の子女のために献身していた聖女のようなチエ、しかもチエはモダーンでかなりの美人だったそうですから。そしてなにしろ東京好きの賢治ですから。

 それから、
『「〈新しい女・フェミニズム〉問題と宮澤トシとの間の因縁関係性、ですが、如何お考えですか。先ずもって、「高瀬露と伊藤チエは如何?」という問いと、「賢治とトシとの間の関係性や如何?」という問いとを全くの別問題と作し得るのか、と。』
についてですが、済みませんこのことに関しましては今まで考えたことがございませんでした。仰るとおり、『講談社新書になっている方の如き、…三文週刊誌化には呆れ果てるだけ』だったからです。

 最後に、今回のタイトルでもありますように「昭和二年は特別な時節」と私も認識してはいるのですが、「羅須地人協会時代」の中ではこの「昭和二年」が私には最も靄の中ですし、今後もその靄を払いのけるのは私には無理だということで、〈明らめ〉ております。

 以上、まともな答えになりませんでしたが、これでご勘弁お願いします。
 それでは、辛さんからのご教示今後も楽しみにしております。
                                        鈴木 守

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