鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.4月取材旅行「新田木崎~尾島~前小屋」 その10

2013-05-13 05:13:04 | Weblog
 やや縦長の社殿の前には2つの石灯籠が立っています。その前(南側)には石鳥居があり、それを潜るとその先には右手へ折れて上がっていく手すりつきの階段があって、それは「新上武大橋」へつつながっています。

 その「新上武大橋」の上(北詰)から下を眺めてみると、北東方向へ舗装道路が延びており、その手前右手にあるのが稲荷神社であって、そのやや縦長の社殿の屋根が見えています。

 「新上武大橋」の北詰は利根川の堤防を越える形になっていて、かなり遠くまで見渡すことができるのですが、その北東方向に延びる舗装道路は県道275号線(由良深谷線)であり、尾島へつながっています。

 この「新上武大橋」から利根川下流にある次の橋は「刀水橋」であり、それは太田市古戸町と熊谷市妻沼とを結んでおり、以前に熊谷から妻沼を経て太田・桐生に向かって歩いていった時に渡っています。

 「新上武大橋」から利根川上流にある次の橋が「上武大橋」であり、さらに上流にある橋が「坂東大橋」。

 「坂東大橋」は、伊勢崎市八斗島町(やったじままち)と本庄市山王堂(さんのうどう)を結んでいます。

 「上武大橋」は、伊勢崎市境平塚と深谷市中瀬とを結び、「新上武大橋」は、太田市二ツ小屋町と深谷市二ツ小屋を結んでいます。

 地図を見ると、「新上武大橋」下の利根川北側の河原は武蔵島町(上流)と二ツ小屋町(下流・ふたつごやちょう)となっており、また利根川の南側は高島(上流)と二ツ小屋(下流)となっています。

 太田市域には「二ツ小屋町」があり、深谷市域には「二ツ小屋」があることになります。

 そしてその下流には、太田市域に「前小屋町(まえごやちょう)」があり、深谷市域に「前小屋」がある。

 崋山は尾島を出立した後、利根川へと至り、そこから「前小屋の渡し」に乗り、翌日は高島を出立して、「二子屋」=「二ツ小屋」の渡しに乗って利根川を越えて帰路に就いています。

 ということは、この「新上武大橋」が架かっているところには「二ツ小屋の渡し」があり、その下流に「前小屋の渡し」があったことになります。

 したがって、利根川の川筋や堤防は幕末の頃とは大きく変わってはいるものの、稲荷神社はその「二ツ小屋の渡し」の手前(北側)に鎮座していたということになるでしょう。

 「新上武大橋」北詰から北東方向に延びる県道275号線は、尾島から「二ツ小屋の渡し」へと至る旧道であった可能性が高い。

 ということで、そこから階段を下ってふたたび稲荷神社の境内へと戻って、境内を歩いてみると、社殿の左側に小さめの祠があって、それには「大杉神社」という額が掛かっていました。

 「大杉神社」というのは、利根川筋の船乗りや船頭たちが信仰した神さま(水上交通の安全を祈る)であるから、ここに「大杉神社」があるということは、このあたりが「二ツ小屋の渡し」があったところであることを示すものといっていい。

 周辺は人家が密集していますが、かつては田んぼや畑が広がっていて、旧道はその中を尾島方面へと延びる一本道ではなかったか。

 ふたたび階段を上って、「新上武大橋」を大きく蛇行する利根川のゆったりとした流れを眺めながら歩き、埼玉県域に入ったのが11:16でした。

 「前小屋の渡し」は、かつての利根川の流れのここからもう少し下流にあったはずです。



 続く


○参考文献
・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)
・『渡辺崋山と弟子たち』(田原市博物館)
 


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