鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.4月取材旅行「新田木崎~尾島~前小屋」 その16

2013-05-21 05:08:11 | Weblog
『新田町史 第一巻通史編』新田町史刊行委員会(新田町)によれば、前小屋天神で開かれたような「書画会」は、天保年間を中心に上武地方においては活発に行われていたようです。天保10年(1839年)10月、日光例幣使街道木崎宿の旅籠屋川橋吉十宅では、金井烏洲(うじゅう)・金井研香・天田熊郊・定庵を看板にして書画会が開かれています。案内チラシが配布され、会衆名は200人に及んでいます。同じく日光例幣使街道の境町でも書画会が開かれています。『金井烏洲』しの木弘明(群馬県文化事業振興会)によれば、「書画会」は「文事を競う場」であり「親睦をはかる社交場」でもあり、「上武地方において盛んに行われ」ていたという。「看板」に江戸や地域の有名な画家や書家の名前を掲げ、案内のチラシを配布しました。同書によれば金井烏洲は江戸において、父万戸と親交のあった谷文晁の写山楼に出入りして画技を学んだというし、また月琴や横笛の名手でもあり、また漢詩をよむ人でもありました。烏洲はよほど月琴が得意であったようで、客があればその月琴を弾き、また近くに遊びに行ったり、また書画会などがあったりした時には、その月琴を携えて赴き、それを弾いたという。近隣の書画会の「看板」に名前を連ねることの多かった金井烏洲は、書画会に赴く時は必ず月琴を携行して、その書画会で弾くことを常としたようで、もしかしたら前小屋の青木長次郎宅や高島の伊丹新左衛門宅でもその月琴を弾き、崋山らはその烏洲の月琴を聴いている可能性もある。上武地方で盛んだったという「書画会」や俳諧の集まり(「風雅」の交流)についてはもっと詳しく知りたいと思っていますが、崋山は、その「書画会」(前小屋天神の「書画会」)に自ら参加し、その様子をいきいきと文章(日記)に残した人物として貴重です。 . . . 本文を読む