現在の高校の古文の教科書によく掲載される作品について教科書的読み方への疑問と掲載作品の偏り等を指摘した本。
国語で1つの読み方だけを「正解」とすることへの疑問は、私自身も子どもの頃から感じてきました。また教科書の掲載作品が平安時代と鎌倉時代に偏っていて現在の日本語とのつながりが感じにくく、古文が第2(第3)外国語としか感じられないことも事実です。
そういう意味で著者の指摘はその通りと思うのですが、第1部で示される教科書によく掲載される5作品についての「教室では教えない別の角度からの読解」(6頁)は、専門家にとっては大きな違いなのでしょうけど、素人目にはそれほどの違いを感じられませんでした。例えば稚児の空寝で、稚児が幼子でなく僧坊で男色の対象ともされたとみられるというのも、学校の授業ではそうは言わないでしょうけど、今時お稚児さんと言えばそういうニュアンスを含むことは一種常識でしょうし、著者の解釈でもこの話での稚児と僧の間には現実の男色の関係はなかっただろうと読んでいるのですから、それほど決定的な違いに思えません。読み方にもっと幅がある、教科書の読み方が決定的ではないという範囲ではよくわかるのですが。
第2部で「教科書には絶対収録されないと思われる古典文学」(7頁)を明治から遡って掲載しているのも、おもしろい試みとは思いますが、でもこれを見て古文もおもしろそうだ、原典に当たって読み直してみようかと思うかというと、ちょっとそこまでは・・・明治から遡ってもやっぱり平安時代のは読んでも原文では意味が取れませんでした。
田中貴子 朝日選書 2007年3月25日発行
国語で1つの読み方だけを「正解」とすることへの疑問は、私自身も子どもの頃から感じてきました。また教科書の掲載作品が平安時代と鎌倉時代に偏っていて現在の日本語とのつながりが感じにくく、古文が第2(第3)外国語としか感じられないことも事実です。
そういう意味で著者の指摘はその通りと思うのですが、第1部で示される教科書によく掲載される5作品についての「教室では教えない別の角度からの読解」(6頁)は、専門家にとっては大きな違いなのでしょうけど、素人目にはそれほどの違いを感じられませんでした。例えば稚児の空寝で、稚児が幼子でなく僧坊で男色の対象ともされたとみられるというのも、学校の授業ではそうは言わないでしょうけど、今時お稚児さんと言えばそういうニュアンスを含むことは一種常識でしょうし、著者の解釈でもこの話での稚児と僧の間には現実の男色の関係はなかっただろうと読んでいるのですから、それほど決定的な違いに思えません。読み方にもっと幅がある、教科書の読み方が決定的ではないという範囲ではよくわかるのですが。
第2部で「教科書には絶対収録されないと思われる古典文学」(7頁)を明治から遡って掲載しているのも、おもしろい試みとは思いますが、でもこれを見て古文もおもしろそうだ、原典に当たって読み直してみようかと思うかというと、ちょっとそこまでは・・・明治から遡ってもやっぱり平安時代のは読んでも原文では意味が取れませんでした。
田中貴子 朝日選書 2007年3月25日発行