地方で考える ●oyajiの侃々諤々

北信濃の豊かな自然と歴史に抱かれて過ごす日々・・・

ちょっと斜に構えてみれば
???と思うことも多いですね~

ということで、今だ  “保科正之”  は大河舞台には・・・・

2024-03-17 | Weblog

3月17日(日)               18/2℃

 

 

多賀城跡は二、三度訪れていますがこれは見てない 

残念!!

もう一度いってみたくなりました

 

《「東北の宝、日本の宝であります」日本三古碑の一つ「多賀城碑」が国宝指定へ 宮城で国宝は23年ぶり》   (3月15日TBC東北放送)

「・・・奈良時代に建てられたとされていて、当時、陸奥国を治めていた「多賀城」の跡地で、江戸時代の初め頃に見つかったといわれています。高さ1メートル96センチ、幅1メートル3センチで都など各地からの距離や多賀城が724年に創建されたことなどが記されています」

 

(もう、14年も前だ・・・・・・・・・)

 

 

 

 

 

 

 

そこから南に上って、時も9百年近く過ぎた会津・・・

☟ 会津藩は徳川への「」で戊辰戦争を戦いました

 

《会津はなぜ朝敵になったか 会津若松城と、徳川幕府の基礎を築いた保科正之の「会津藩家訓15か条」》   (3月16日YAHOOJAPANニュース/おとなの週末)

「・・・その第1条には「大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を持って自ら処るべからず。若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず面面決して従うべからず。」とあります」

 

 

 

 

 2代将軍・徳川秀忠の異母弟である正之は、故あって「保科」姓・・・

高遠藩の「保科氏」の出身ということになりましたが、その「保科氏」のルーツは長野市若穂保科の地です

 

 

そんなご縁で、この地は会津と共に「保科正之を大河ドラマに!」の運動を担ってきました

☟ この人も会津人・・・

jiiji は好きな政治家です

 

 

大河ドラマ化はなかなか難しそうです 

 

立派な人物で、功績も大きいことは誰しも認めるところですが、大河ドラマとしての “魅力” には欠けるという説も・・・

保科正之は戦がない、平和な時代の、いわば「文治派

戊辰戦争も後々の、9代容保の時代のことですし 

ということで、今だ  “保科正之”  は大河舞台には登場していません

 

(伊那市高遠の「保科氏」菩提寺、建福寺・・・)

(「保科氏」の墓で、左が正之の養父となる正光・・・)

 

 

 

 

 

話は、さらに京に近づきます

江戸から越前、敦賀まで新幹線がつながりました

ウキウキします

「上り」だけじゃなくて「下り」の効果もあってこその新幹線 

善光寺

軽井沢

オット

奥信濃もいいですぞ!

 

(御開帳で賑あう「一生に一度は参れ」の善光寺・・・)

(千曲川と「菜の花公園」の北信濃飯山・・・)

 

《北陸新幹線が延伸!長野駅でも鉄道ファンが見送り 福井から観光客も「お目当てはスキー、信州そば」》   (3月16日NBS長野放送)

「・・・東京行きの新幹線も次々に到着し、福井からの観光客もおり立ちました。 長野駅で下車した女性:「軽井沢に行きたいと思って。スキーをしてから帰ろうかな」 敦賀から長野駅で下車した男性:「あっという間に長野に着きました。信州そばを食べたい」」

 

 

北陸の皆さま

信濃にも来ておくんない 

大阪まではいつ?

乗り換えなしがありがたい歳になっています

 

コメント
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