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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

赫奕たる光景は、流るゝ星に異ならず

2019-10-20 23:23:18 | 文学


虚空に升ると見えし、珠数は忽地弗と断離れて、その一百は連ねしまゝに、地上へ戛と落とゞまり、空に遺れる八の珠は、粲然として光明をはなち、飛遶り入紊れて、赫奕たる光景は、流るゝ星に異ならず。

犬の子を宿しているのではないかという疑惑を晴らすために伏姫はいきなり自分のお腹を帝王切開。出てきたのは犬どころではなくもっとものすごいものであって、サンゼンだかカクヤクだかしらないが、とにかく数珠と合体して星になったのである。「つかもうぜっ、ドラゴンボールっ」とかいうアニメの方がよほど非現実感がない。鳥山明は、決してブルマのお腹からドラゴンボールが飛び出すなどというグロテスクな場面は描いていない。お子様向けのマンガなので、悟空やフリーザがどんなに恐ろしい虐殺をやらかしても非常に清潔なのだ。この高度なテクニックがそれ以来の戦闘ゲームなどに影響を与えているのであろう。

主従は今さらに、姫の自殺を禁めあへず、われにもあらで蒼天を、うち仰ぎつゝ目も黒白に、あれよあれよ、と見る程に、颯と音し來る山おろしの風のまにまに八の霊光は、八方に散失て、跡は東の山の端に、夕月のみぞさし昇る。

主従たちが目を白黒とさせている光、山からの風音とともに八つのひかりが山の方に散ってゆき、月のみの静閑に落ち着く描写はいかにも美的に造られているが、おまけに、馬琴はこのあと、これは「八犬士の起こりだよ」と解説しているのだからすごい。彼にとっては説明と美的な描写はほとんど同じ位相にあるのだ。この前、マンガの『攻殻機動隊2』を眺め直したが、これもそうであった。

「歡しやわが腹に、物がましきはなかりけり。神の結びし腹帶も、疑ひも稍觧たれは、心にかゝる雲もなし。浮世の月を見殘して、いそぐは西の天にこそ。導き給へ弥陀仏」

「物がましき」ものはなかったかもしれませんが、今、ものすごい物が飛んでいきましたけど……。自分も西の天に急ぐらしいので、まあどうでもいいんでしょうが……。『GODZILLA 怪獣惑星』というのを観ましたが、サンゼンとかカクヤクみたいな映像に加えて、妙に難しい用語が飛び交っているある種のSFでしたが、案外ゴジラそのものが動きが悪く描き込みもしていないのが印象的であった。『シン・ゴジラ』もそうであった。アメリカのゴジラはその点、動く。我が国のゴジラは、それを動物にしてしまう(つまり人間に近づける)勇気がちょっとないのである。たぶん人間を人間(動物)みたいなものとして描くと、『エヴァンゲリオン』みたいになってしまい、その後の展開が難しく結論がでなくなってしまうからである。我々はまだ「カミサマみたいなことってあるよね、しょうがないことってあるよね」と言い続けていたいのだ。まさに「赫奕たる光景は、流るゝ星に異ならず」だけをみていたいのだ。庵野監督は、人間を人間たらしめるための試みをまだやめていないとおもうが、『シン・ゴジラ』では、ゴジラという意味の物体を扱いかねており、結局、苦し紛れに「君たちも好きしろ」と説教する親みたいな意味にゴジラを変換しただけであった。すなわち、この映画は、『エヴァンゲリオン』と同じく、親から自立するきっかけを示したところで終了している。

しかし、人生、それからの方が長いのではないのか?

そうでもないのだ、現代においては、親はなかなか「ゴジラ」のような存在感をなくすことはない。

その点、八犬士は実際はただの人間(犬野郎)であるので、見込みがあるのであった。ごちゃごちゃと言うてきたが、これは宮台真司が「ウヨ豚」とか言っている真意を謙抑的に説明にしているに過ぎない。


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