勅とかや下す帝のおはせかし さらば畏れて花や散らぬと
勅を出す帝はとうぜんいるわけであるが、「おはせかし」(いらっしゃればよいのに)と言うことであれと思いきや、そうすると花も散らないのではないかと続いて、ああ、となる。
小学生に読ませれば、天皇っていないの?とかいう発言が飛び出しそうで、案外これは不敬的なのかも知れない。だいたい、天皇が命令を出したところで、花が散らないなんてことはない。ふざけているのであろうか?
どうやら『古事談』には、供養を雨に邪魔されて雨を器に入れて獄舎に放り込んだ逸話があるようだ。
浪もなく風ををさめし白河の 君のをりもや花はちりけん
もしこれが二十世紀の戦時中に詠まれたならば、明らかに強烈なアイロニーであるのだが、西行の時代はわからない。――一応分からないことになっているが、果たしてどうか。もちろん、歌の主脳が花の方にあるのはそうだとしても。
上のものは要するに、私の「解釈」なのだが、解釈行為が反時代的な感性と同一物であり得ることは明らかであろう。
文字面の読み取りは出来るが解釈の次元がまったくできない人間が大人にも増えているが、これは哲学的にほっとくしかない、しかたないとか時勢がそうだとかですまされることとは思えない。解釈がないというのは、ユーモアやアイロニーを不能にし、批評や批判は解釈の次元のはなしだからそれを不能にし、そもそも、人間のコミュニケーションも不能にしているのである。
感情移入とかで勝手な論評はできるが、それは読み手(受け手)の勝手なあれというやつで、解釈より遙かに下位のものである。解釈を主観によって左右されるあいまいなものとして排しているからこういうことになったのだ。我々の業界のミスは大きいと言わざるを得ない。あいまいにみえる領域を考えることこそが学問や民主主義の基礎である。はっきりしたことだけをスピード感を持ってやりとりするのは機械だし、よくいって幼稚だ。
そういえば、大学の世界(いや、ネットか?)では、飜訳を業績に含めないとかの話題で持ちきりであったが、――思想や文学作品の飜訳というのは実際解釈行為に近く、そのまま機械的な言葉の変換が出来るみたいなのは完全な幻想である。そもそも言葉というのは情報に還元できないから機能しているのである。言葉はモノであり、オブジェクトではあるかもしれないが、情報そのものではない。