★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

偽装されたモノの世界

2020-06-06 23:42:14 | 文学


山籠りの後は、あまがへるといふ名を付けられたりければ、かくものしけり、「こなたざまならでは、方も」などけしくて、
  大葉子の神の助やなかりけむちぎりしことをおもひかへるは
とやうにて、例の日過ぎてつごもりになりにたり。


尼になりそこなった人を雨蛙と言ってしまうセンスがいやなものだ。雨蛙そのものに対する愛がない。これは勢い、自分の社会に対する愛が欠如していることを意味するのではないかと思うのだ。「ごんぎつね」から読み取るべきなのは、我々の村的社会に対する絶望である。きつねは兵十と似ているわけで、彼らを同時に許してしまいもする読者というのは、もはや、人間にも動物にも倫理的に向き合おうとする気力がない。で、「S=カルマ氏の犯罪」ではないが、捨てられたモノの逆襲などが、「付喪神」よろしくはじまったりもするわけであるが、だいたいそれらは自虐的というか、ユーモラスなものとしてあらわれている。わたくしは専門上、花●×輝の「室町小説集」などから付喪神のことを知ったが、――むろん、そんなものに注目するのは花×なりの絶望があると理解しなければならない。大葉子を被せると蛙が生き返ったりする訳はない、蜻蛉さんだってそれは本当はよく知っているはずだ。ただ、絶望の中でそんな世界をいじくって見せているのであった。

どうもこういう意識の中の病が昂じると、ついには「言霊」とか言い出す人間がでてくるのではないかとわたくしは想像する。

尾形弘紀氏も今回の『現代思想』の論文で、「アニミズムの偽装」について語っていたが、わたくしも、芸術に於いてはそういう偽装があり得ると思うのである。やはり尾形氏も花×を引いていた。

むろん、わたくしは、直感的にではあるが、偽装ではない事態を考えないと理解できないものも世の中多いとは思っている。

動物の生態を研究してゐる学者は案外簡単な説明を下すかも知れない。赤蛙の現実の生活的必要といふことから卑近な説明をするかも知れない。その説明は種明しに類するものかも知れない。そして力に余る困難に挑むことそれ自体が赤蛙の目的意志ででもあるかに考へてゐるやうな、私の迂愚を嗤ふであらう。私はしかし必ずさうだといふのではない。動物学者の説明の通りであつてもいい。だが蛙の如き小動物からさへああいふ深い感じを受けたといふその事、あの深い感じそのものは、学者のどのやうな説明を以てしてもおそらく尽すことは出来ぬのである。

――島木健作「赤蛙」


もしかしたら、本格的なアニミズムへの根拠を我々は科学というものが存在しているという確かさによって逆に与えられているのかもしれない。今回のコロナ騒ぎも、科学的な事象のくせに目に見えず、――ということは本当はあるかどうか我々が確認出来ないことを示しているはずが、その逆に、確かなことが存在し我々がそれへの対処を確かなものとして信仰を生成したがる事態を表面化させているが、これがコロナではなく、鬼とか何かであってもそれに対する信仰は不可避なのかも知れない。島木健作のこの遺作は感動的な感じがするが、彼の頭にあるのは、官憲その他によってぼろ雑巾のようにされた彼の人生という、動かし難くモノのようなファクトであって、感情は死んでいる。わたくしは、彼が若い頃書いたもののほうが感情そのものがあったような気がするのである。