★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

既知との遭遇

2019-12-23 23:46:35 | 文学


人はいでにけるなるべし、薄色の、うらいと濃くて、上は少しかへりたる、ならずは、濃き綾のつややかなるがいと萎えぬを、かしらこめに引着てぞねたる。香染の単衣、もしは、黄生絹の単衣、紅の袴の腰のいと長やかに、衣の下より引かれ着たるも、まだとけながらなめり。そばの方に、髪のうちたたなはりてゆるらかなる程、長さ推しはかられたるに

男が帰っていったあとなのであろう。清少納言が天才だと思うのは、こういう場面を朝の空気を含めて描出できるところで、さすがだ。濃い綾織のつややかなもので糊気が落ちていないのを頭に被って寝ている女。単衣を着ながらまだ締めていない腰紐を長くのばしている――この様子に描かれているのは、その実彼女の肉体であり、続いて髪がうねうねとその紐に重なってゆったりと伸びている。朝は別れの時間だが、それ以上に、けだるい肉体の時間である。

これに間髪入れずに続いているのが他の女と別れてきた男の登場シーンである。

またいづこよりにかあらむ、朝ぼらけにいみじう霧みちたるに、二藍の指貫に、あるかなきかの色したる香染の狩衣、白き生絹に紅のとほすにこそはあらめ、つややかなるが、霧にいたうしめりたるを脱ぎたれて、鬢の少しふくだみたれば、烏帽子の押し入れたる気色も、しどけなく見ゆ。

ここでも一応男の肉体が描かれてはいるのだが、髪の毛がぶくぶくになっているところに烏帽子を押し込んでいる様がしまりなく見えるというのだから、肉体はむしろ抑圧されている。男は、後朝の文をしたためようとぶつぶつ言っている。

この二人はこのあとちょっと会話などをしていたので、男の後朝の和歌は遅れてしまった。

出でぬる人も、いつのほどにかと見えて、萩の露ながらおし折りたるに付けてあれど、えさし出でず。香の紙のいみじうしめたる匂ひ、いとをかし。あまりはしたなきほどになれば、立ち出でて、わが起きつる所もかくやと思ひやらるるも、をかしかりぬべし。

女のもとから帰っていった男からの文も来ていたのだが、寄り道していった男のために、なかなか女のもとに届かない。香りがよい手紙である。男も、自分の女もこんな感じに男と会話している……であろうかと思いやっておかしがっているのであろう――。

だから何なのだと言われればそれまでであるが、通婚の世界は、こういう恋愛未満の接触の中から突然発火するものなのであろう。「源氏物語」の光源氏がすごいのは、とにかく連続発火がすごいということであろう。単にモテているのではない。

清少納言のこの美的構成的な接触のドラマを読んでいると、どうも歌物語というのは、歌に焦点が合っているために心理小説みたいになりすぎているところがあるような気がするのであった。近代文学が和歌の世界と一応別の世界を形成しようとしたのも、和歌の磁力が、我々の生活世界を心理的な世界によってぶっ飛ばしてしまうからなのであろう。いまだってそうである。小野十三郎の和歌論を再読してみることにしよう。