★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

傳へ承るこそ心もことばも及ばれね

2019-09-14 18:40:56 | 文学


遠く異朝をとぶらえば、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱忌、唐の祿山、これらは皆舊主先皇の政にもしたがはず、樂しみをきはめ、諌めをも思ひ入れず、天下の亂れん事を悟らずして、民間の愁ふるところを知らざつしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり。近く本朝をうかがふに、承平の將門、天慶の純友、康和の義親、平治の信賴、これらはおごれる心もたけき事も、皆とりどりにこそありしかども、まぢかくは六波羅の入道、前太政大臣平朝臣清盛公と申しし人のありさま、傳へ承るこそ心もことばも及ばれね。

趙高、王莽、朱忌、祿山、――これが並ぶということは、朝敵だということであろう。こういう括りの方たちは、造反が評価される時代になると一気にヒーローになったりするのであるが、日本の例としてあげられている将門や純友たちもそうである。将門なんて大逆臣から革命家みたいな評価を行ったり来たりしている。だからこの物語の語り手が、朝敵をはじめから貶めるつもりであったかといえば、そうは言い切れない。「傳へ承るこそ心もことばも及ばれね」とか言うてるところが、「祇園精舎の鐘の声」といった空気のなかから何かを読み取ろうとする姿勢が感じられるからである。とはいえ、このあと、義仲なんかが王莽みたいな品性下品の例として上がってしまうところが、歴史好きの固い語り手の側面がでているのではなかろうか。

次の日の朝、和歌の浦の漁夫、磯邊に來て見れば、松の根元に腹掻切りて死せる一個の僧あり。流石汚すに忍びでや、墨染の衣は傍らの松枝に打ち懸けて、身に纏へるは練布の白衣、脚下に綿津見の淵を置きて、刀持つ手に毛程の筋の亂れも見せず、血汐の糊に塗れたる朱溝の鞘卷逆手に握りて、膝も頽さず端坐せる姿は、何れ名ある武士の果ならん。
 嗚呼是れ、戀に望みを失ひて、世を捨てし身の世に捨てられず、主家の運命を影に負うて二十六年を盛衰の波に漂はせし、齋藤瀧口時頼が、まこと浮世の最後なりけり。


――高山樗牛「瀧口入道」


滝口入道はもと武士で、清盛の全盛期、重盛の家来であった。余興で舞を踊った横笛さんに惚れてしまい、親父に結婚を反対されたので出家し、横笛の訪れも拒否し、高野聖にまでなってしまう。それでこの有様である。昔読んだときは、「なんてかわいそう」なんて思ったものである。しかし、いまは、この「平家物語」中の挿話(巻10)をスピーカーで大絶叫したような樗牛より、いまは「平家物語」の根幹をなす「大物」の物語の方が好きである。気をつけなくてはならない。日本浪曼派なんか、しみったれた滝口入道の方にシンパシーがあるくせに、英雄色を好むみたいなテイストを自分に取り込もうとして、自分の考えていることがわからなくなってしまったように思えるからである。

我々は再び、独歩の「窮死」みたいな世界に自らを導かねばならない、わたくしは思うのである。