★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

この世界の片隅に「世界」が

2017-03-05 23:00:39 | 映画


のん(能年玲奈)が声をあてている「この世界の片隅に」であるが、非常に興味深い作品であった。私は原作も読んでおったのであるが、原作はよくできた戦時下の民衆ルポという感じであった。しかし、映画は、たぶん声優の特異さが十分に発揮された結果、ほとんど病者の光学とでもいうべき作品になっている。この主人公は、絵を描くときだけ「世界」の認識を得るような人物であり、それ以外はぼーっとしている。お見合いですらないお見合い結婚にも本当に現実感がないので葛藤もない。現実から遊離しているこういうタイプは一種の病人である。能年玲奈というのは、そんな状態を声の感じで出せてしまう凄い才能があると思う(「あまちゃん」の時もそうだった……)。普通は、こういう場合、現実ではまわりも病人をあつかう感じで凄いストレスフルになるのであろうが、映画を見ているこちらは既に主人公の眼で世界を見てしまっているので、案外その世界は面白い感じになる。(昔のアニメーションは、絵がへたくそであることで、そんな感じがしたものだ)

しかし、主人公がいるのは戦時下であって、病者における遊離感に、普通の人における戦争への感覚が似てくるのだ。戦時下での「日常生活」は戦闘の現実とはつねに遊離せざるを得ない(すなわち「逃避」であるしかない)。そして、それが遂に一致してしまう時には、腕がもげたり義理の姉の子が死んだり、原爆に家族が巻き込まれたりするのである。

たぶん、主人公は戦争によって、治癒され、自分を見出すことになったのである。

わたくしは、しかし――、このような治療がいいとは思わないのである。治療されたからといって、見出された「この世界」はものすごくひどいものだからである。誰だったか、この映画に欠けているものは、隣組などにあった人間関係のねちっこさだと言っていた人がいたが、これからそのねちっこさが主人公の目の前に現れる。それは、主観でも客観的でもない、単なる「恐怖」である。

先に述べたような、戦時下の日本人は、多かれ少なかれ主人公のような病者に接近していて、そこからの解放が、戦後の解放でもあった。ここに一種のねじれがあり、相変わらず世界はひどいのに、戦時下よりはまし、という感覚が、新たな遊離感を生じさせる。この夢から覚めることはより難しい。しかも、どのように覚めたらいいか分からないのである。

我々の世界の混乱の起源に迫った、良い作品であった……