★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

國防文学論のあれ

2015-06-17 01:45:20 | 文学


戸川貞雄と言えば、もはや「日本文学報国会」のボス格とか、にもかかわらず戦後どっかの市長までやらかした文士というより、「小説吉田学校」の著者の父親といった方がいいだろうが、大正中期頃デビューしてきた、割といろいろな意味でお堅い作家だったのだ。とはいえ、昔、彼の大正末期の?「犬」という短編を読んで、「思わせぶるんじゃねえよこの野郎」と思ったのを覚えている。筋は忘れた。あと確か昭和19年出版の「武蔵坊弁慶」も読んだ気がするが、最後の立ち往生が描写がダサいと思った。こんな弁慶は、焼夷弾と原爆で吹き飛ぶ。

勉強の都合で、上の『国防文学論』などのぞいてみた。中盤のまとめられている作家論などを読むと、まああまりに内容はないにせよ、島木健作などを褒めていて、左翼になってれば、偶然、叙情的な農民文学などを書いたかもしれないと思わせる。

しかし、肝心の「国防文学論」とか「評論」とか「随筆」の部分が、あまりにあれであった。(無理にやっているのかなあ……)報国会のトップがこれではあれだっただろうなあと思うが、逆に有能でなくてよかったかもしれない。一ついえることは、国防文学というのが、過去の文学の否定が第一の目標であるようであり、「明日の世界の創造への寄与貢献」(←デター)が謳われているということであり――まあ、はっきり言えば、戸川の既得権益的「純文学」や時局便乗的商業作家へのルサンチマンだけが重要だったのではないかということである。そういえば、戸川といえば、芥川賞直木賞を既得権益的な何かとして攻撃し報国会小説賞だかを提唱したことがあったはずだ。(最近も似たようなこと言っていた大衆小説家がいたなあ――)たとえば、映画「オリンピア」を褒めた「ナチス文化礼賛」でも、「ハイル、ヒットラー!」とかほんとに言っちゃってるというあれなところは、さほど問題じゃない。「自由主義文化」主義者たちの「犬の遠吠え」はこの映画でやられたとか、古い奴らは「顔を洗って出直せ」とかいう台詞を言うことそのものが狙いなのだ。「宣伝に就いて」でも、中国人は「狼が来た」という噂を出しているうちに食い殺されるが、日本人は狼が来たら黙って撃ち殺すだろう、などと言っている。ここにあるのは、愛国でもなんでもなく、単なる怨恨である。

「隣組礼賛」では、台風で床下浸水に見舞われたときの、近所のおじさんたちの活躍を隣組のありがたさとして書いているが、一番力がこもっているのは、末尾の「日常生活から浮足立った運動は、かやうな場合クソにもならぬ」と言っている箇所である。床下浸水によって彼の鼻を撃ったであろうクソの香りを無視して、「日常生活から浮足立った」連中をクソ呼ばわりするとは、よほどあれなのであろう。

まあ、あれである。防衛いや防災対策ばかり毎日毎日クソみたいな報道を続けながら、インテリいじめに汲々としている我が国は、もはや戸川貞雄モードのあれであるといえよう。