★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

光る知的暴圧

2011-09-03 04:55:14 | 漫画など


『がきデカ』以前型山上たつひこ氏のポリティカルフィクション。ある疫病が原因とされる「奇形児」たちが隔離された島があったが、それは米軍の科学兵器開発によるものだった。それを隠蔽し、果ては日本の兵器全てをコントロールするコンピュータを日本の地下で完成させた米軍。戦後30年経って日本は国防省をもつ文民統制がきかないレベルの国となっていたが、安保改定による米軍撤退は、アメリカが日本を防共の軍隊として完成させることを意味していた。そのころ東京で死者20万を超える大地震があり、治安維持を目的にさらなる軍国化が進んでいく……(ある老人がかたるところによれば地震すらも日本人のいままでの何かのつけらしい)。つまり国内で反軍国主義だ反共だと騒いでいたら、実はアメリカの掌で踊っていたでござる、というのがこの物語のポリティカルフィクションとしての筋である。しかしマンガの中心は、ある軍人の家に生まれた次男坊がそのなかで右往左往する姿である。おわりまで読んでみると分かるが、主人公が政治的に為したことは何もない。両親や兄や友人達は、いろいろな意味で政治的に重要人物となり殺されてしまう。しかし主人公は、その彼らを結局見守るほかない人物である。その彼が地震か何か(原因は分からない)で、恋人を殺され、彼女の頭蓋骨を抱いて自らを失った姿で地に沈み込んでいくところで物語は終わる。

いろんなことを考えさせる作品である。最近は、安保のごたごたを国内の右左の伝統的な病癖として語り、だから右左を超えた姿勢でのぞまにゃなどとしたり顔で言う連中が学者にさえいる。安保闘争は文字通り国際問題を扱っていたのであり、もっと言えば日本が米国の完全な属国であることに対する問題を扱っていた(一応)。左にすら評判の悪い「軍国主義」というレッテルが生じた意味もその文脈で理解する必要が一応ある。戦前の日本が国家社会主義や金融資本主義や全体主義に近かったとしても軍国主義ではなかったという議論があるが、「軍国主義」ということで何を意味しようとしていたかは別問題である。要するに、この作品で描かれているような、軍人や官憲の暴力の横行やメンタリティは、上の「~主義」といった体制の問題とはさしあたり別に論じられるべきであろう。最近、梅崎春生の軍隊ものを読み返していて、やはり同じ感想を持った。この作品にえがかれているような、敢えて言えば、ナショナリズムの本義をわきまえない──異物や外敵は殺してかまわない式の軍人達の生き残り(すなわち、彼らはその時点では普通の市民であるが)が平気で存在していて、大して戦時中ともかわらないことを言っている状況がおそらく存在していたのである。相手が暴力的なので、それに対抗するためにも暴力的になるしかないのではないか、という発想のなかでしか「軍国主義」や「暴力革命」といったレッテルは有意味ではないが、――それがリアリティを持った現実があった、あるいはそのリアリティを観念として生じさせる何かがあったと推測すべきではなかろうか。戦後は左翼的なものが優勢で、それを乗り越えていったのが80年代以降である――はずはない。むしろ、ずっと生き残っているのがおなじような暴力的市民であって、ずっと事態は変わっていないというべきかも知れないのだ。勝手に転向して成長した気になるエリート達が「認識の空気」を変えてしまうだけなのかもしれず、――いや、本当はアメリカが変えているだけかもしれない。

以前、ある同世代の業績豊富な(笑)学者と話していたら、現場の教員の新人教育力が落ちているのでそれを大学がそれを担う必要がでてきたとか言っているので、はいはいまあそうかもね、と相づちを打っていたら、現場の教員が何も考えずとも上手くいっていたのが戦後であってこれからは違うなどと言い出した。冗談ではない。あまりにも歴史を知らなさすぎる発言である。研究者の業界には、この程度の連中がおそろしくたくさんいるのではなかろうか。文学をやっていれば、万葉集は現代文学に較べてレベルが低いなどと言う発言はよほどの馬鹿でない限りなされない。万葉集は我々と別次元の教養によって成り立っているし、それ以前の木簡類でさえ我々より遙かに高度な中国語漢文の教養に支えられているかも知れないことは、我々がそれをしっかり認識できなくても自明の可能性だからである。これと同じことが、いわゆる「戦後」に対しても言えるし、過去の教育についても、自分の過去についてもいえる。

なぜ、かように過去や他人を簡単に片づけるようになってしまったのか(ちなみに、「光る風」でテーマになっているのはそこであり、それがファシズムの本体なのである)、いろいろ理由があるであろう。研究者の業界でいうと、学部・大学院を通じて論文を生産し就職することを目的としてしか勉強させられていないのが大きい。もともと専門性の閉鎖性があるのではなくて、閉鎖的に勉強しないと論文をコンスタントに生産できなくなるから閉鎖的になるのである。前にも書いたかも知れないが、論文を書いている途中で、ヘーゲルやらマックス・ウェーバーや漱石をよんだら書けなくなってしまうことがあり得る。そうでは困るのではじめから関係なさそうなものは読まないのである。それで、フッサールを知らない現象学者や、ルーマンやギデンズは読んだことあるがウェーバーを読んだことないかもしれないとか、宮台真司やアンダーソンをかろうじて読んだことあるがルーマンはよく知らんとかという自称社会学者が出てきたり、スガ秀実は読んだが、江藤淳はいまいちよんでないとか(←あ、これ大学時代のわしや)、鴎外を読まずに村上春樹を論じる国文学者がでてきたりするのだ。文系の学者なのにドストエフスキーを読んだことないとか威張っている人をこの前目撃した。まあいいけどさ、威張るなよ。教養がありゃいいってもんじゃないという人は学者にも多いし、確かにそういう側面もある。ある部分の無知が意外に研究を進めることがあるからだ。が、最近は単に教養がないことと常識を疑っていると称していることが重なっている人物が増えてきているように思われる。つまり、そういうことだ。転形期には動物的なものがその原動力になり、硬化した知的制度を粉砕する、そういう側面がある。しかしそれはそういう側面があるというだけの話だ。あるいは、確かに教養体系が変わったのだということも言えるのだが、半分嘘だろそれは。わしゃ騙されへんで。単に曽呂利新左衛門や猿飛佐助がトトロやガンダムになっただけの話でしょうが。かくいう私も学位取得後、読んだことのないものが多くてつくづく自分に絶望している。

「原子力村」とかなんとか村の閉鎖性は、内実は二の次の論文生産体制を破壊しなければ絶対にどうにかなるもんじゃない。一生懸命研究をしてくださいという叱咤、あるいは自分は一生懸命研究だけはしているという自負が、負の方向に働くことがあるわけだ。自戒を込めてそう思う。