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新・ボヤッキーでトンズラーな日記

そこいら辺にいる普通のオッサンです。日々気にくわない事や腹が立ったことをつぶやいています。

田沼意次と安倍晋三

2007-10-04 00:36:59 | 政治経済
え~、始めに言っておきますが、今回はちょ~っと文章長いですのでお許しを(^^;)

さて、昨日の産経に載っていたのですが、例の集団自決削除に対する抗議集会の人数、警察発表によると、どうやら4万3千人程度だったようです。
「11万人」とは主催者側の発表で、マスコミも結局それを検証する事なくそのまま使っているのだとか。
(警察も主催者側の“報復”を恐れてちゃんと発表してないそうですが…沖縄ってどうなってるんでしょうね)

又、 アジアの真実さんはより具体的に、どれだけの人数が集まれるか?を検証されておられます。
その結果もやはり4~5万人がせいぜいだろう、と推測されておられます。
普通、こういった事こそマスコミがやるべき事のはずなのですが…。

しかしマスコミも、こんな姿勢でよくもまあ「自分達は権力を監視する勢力である」などとほざいてくれるものです。
自分達が一番“力ある者”“怖い相手”にすり寄ってますがな…。



と、上記の件へのツッコミはこれくらいにして、今回のタイトル見ていただくと判るとおり、昨日の問題の答えは「田沼意次」でした。
正確には「田沼親子と安倍晋三」と言う所ですが(^^)。


私ら位の歳だと、田沼意次と言えば「賄賂政治」としか習っていないはず
(今でもそうなのかな?)
実際、私も数年前まではその事に全く疑問を持ちませんでした。
しかし、みなもと太郎氏の「風雲児たち」を読んで、その評価は事実と全く違うと言う事を知りました

戦前までは、確かに田沼と言えば「賄賂で私腹を肥やして老中まで上り詰めた悪徳政治家」と言う評価だったのですが、戦後、彼に関する研究が進み、「『賄賂で私腹を肥やしていた』と言う評価はほぼ間違いである」と言うのが昨今の研究結果だそうです。

ではなぜ田沼=賄賂と言う図版が出来てしまったのか?と言うと、それは、彼を幕府の中心から追い出した勢力が意図的にそういった嘘を流して、彼の評判を貶めようとしていた為らしいです

実際、彼は出世をもくろんで賄賂を持ってきた佐野政言を門前払いし、それを逆恨みした佐野によって息子の田沼意知が江戸城内で襲われ、その時の傷が元で意知は亡くなってしまってます。
この事例だけで評価は出来ませんが、少なくとも私らが習ったような「賄賂好きの悪徳政治家」とは思えませんよね。

それでは、なぜ彼はそこまで憎まれていたのか?と言うと、田沼意次は色々な改革を進めようとしていた為、徳川幕府内の“保守派”から目の敵にされていたらしいんです

例えば、田沼親子は「経済を活発にする事が繁栄に繋がる」と考え、商人を手厚くもてなし、一部の豪商には名字帯刀まで許したりしてます。

しかし当時は士農工商と言われていたように、商人とは最も卑しい身分であり、そんなのと老中が“結託”して“仕事”をするなんて、いわゆる徳川家康が制定して以来の身分制度を遵守する保守派から見れば重大な掟破り。

更に、田沼親子は印旛沼・手賀沼干拓と蝦夷地開拓も計画していました。
しかも、これには士農工商にすら入れられていない・(えた・)を採用する事も計画されていました。

ここまで来ると身分制度も何もあったものではなく、そういった一連の行為は保守派から見れば「田沼は徳川幕府に対して謀反を起こしている」と考える輩が出てきてもおかしくありません。
事実、失脚後は謀反の容疑を掛けられていますから。

又、田沼親子はいずれ外国との積極的な貿易も視野にいれていた事が判っており、それも家康以来の鎖国政策を継承する連中から見れば「許し難き行為」と思えた事でしょう。


上記のような行動に加えて、田沼家が「元は自分達よりも格が低い成り上がり者」だった事も保守派には許せなかったのかもしれません。

田沼家は元は紀州藩の足軽の家系でしたが、徳川吉宗が八代将軍になる際意次の父意行が吉宗の小姓として抜擢され吉宗と共に江戸に出、その父についてきた意次も次期将軍となる家重に小姓として仕え、家重とその子家治に重用された為破格の出世をとげています。

その“成り上がりっぷり”が、昔からの“家柄”“格式”を重んじ、誇りに思っている彼らにとっては腹立たしい以外の何者でもなく、又、そんな成り上がりに自分達が頭を下げなければならない事への恨みは相当なものだったであろう事は何となく推測出来ます。

ほら、今でもそういった“古い家柄”を自慢するヤツって時々いるでしょ?
そもそも祖先がいない人間ってのは存在しないわけですが。
記録に残っているか、そうでないかの違いだけで。(^^)

そうして、そういった旧来のシステムから逸脱した(ように見える)革命”を行っている最中に、自分を重用してくれた十代将軍・家治が病にふけり、後に死去

しかし、その死は反田沼派によってしばらくの間隠匿され、その間に次々と「将軍の勅命」と称して不可思議な辞令が出される事になります。
そのウチの一つとして、田沼意次は“本人の希望”によって老中職を解雇され、今で言う平社員に格下げ
その一連の処分が済んだ後に、ようやく家治の死が“公表”されます。
(まあ、歴史を見るとよく使われる手ではありますが…)

それと同じくして「家治は田沼の差し入れた薬を飲んだ直後に亡くなった」と言う“噂”が城内に流れ始め、それにより田沼はますます味方を失ってしまい、遂には相良藩領地の殆どを幕府に没収され、自身は蟄居の身となって失望のまま死去。

風評って本当に怖いですなあ…昨今も「後ろから刺した人がいる」とか言う風評のおかげでエライ目にあった方がいらっしゃいますが


しかし、田沼意次のやってきた事を許せない松平定信を初めとする反田沼派は意次を失脚させただけでは飽きたらず、田沼家の“住居”であった相良城を完全に破壊、田沼氏が行ってきた改革も全て白紙に戻し、田沼時代に作られた埋め立て地すらも元に戻してしまったとか。

この辺も安倍元首相のやってきた事をトコトン非難し、元に戻そうとする連中と全く同じ行動ですね。

当然、印旛沼手賀沼干拓や蝦夷地開拓も中止。
特に蝦夷地に関しては、「なぜあんな自分達に関係ない、必要も無い所を開発しようとしたんだ。」と言う声があがっていたと言う話も。

民主党の小沢氏がテロ特措法に関して言った事と同じセリフを言ってますな(^^;)。

しかし、その後すぐにロシアの船が蝦夷に頻繁に出没するようになり、世界的にもかなりきな臭い状況となってきた為、結局“必要に迫られて”幕府も蝦夷地開発を余儀なくされてしまうわけです

もしこの時田沼意次の蝦夷地開発が進んでいたならば、日本は第二次世界大戦時のソ連の攻撃に対してもう少しちゃんと対応出来たのかもしれませんね・・・・・・歴史に「もし」はありませんが(--;)。




……なんか、ここまで書いてたら学生時代の卒業論文をまとめているような気分になってきました。
歴史経済が専門だったもので(^^;)
それに、殆ど田沼意次の半生紹介で終わってるし…。

ま、つまり改革を行おうとする者は何時の世でも迫害を受ける、って事が言いたかったわけでして。

しかし、その後田沼意次が行おうとした事は決して間違いでは無かったと言う事も近年の研究で判明しています。
もしその改革が進んでいれば日本はもっと早く開国しており、幕末のような混乱は無かったかもしれない、とも言われている位です。
さっきも言ったように歴史に「もし」はありませんけどね。

それにしても、江戸期から勢力争いの図式が全く変わっていないってのも、笑えるやら情けないやら。

但し、当時田沼意次を非難していた連中は「あくまで日本(徳川幕府)を守る為」に動いていた人達なのに対して、昨今の安倍元首相が行った“改革”を非難している連中は「日本を売り渡そうとしている」輩ですから、そこいら辺はか~な~り(と言うか全くの正反対と言っても良い位)違いますが。

・・・・・・・・・・・・・・安倍さんもいつか彼のやった事が“正しく評価される日”が来ると良いのになあ。

おっと!
安倍さんは田沼みたいにまだ完全に失脚してないんだから、このまま辛抱して力を蓄えていけば、もう一回チャンスが回ってくるかも?

それにはまず“同士”を見つける事から始めるべきでしょうな。
途中で日和ったりしない“真の同士”を…。
コメント
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