山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。

イケメンマッチョが奥様の心を鷲掴みにする【ストリートピアノ】リスト-ラ・カンパネラ/Liszt-La Campanella(Publicpiano)

2019-09-30 21:04:30 | 音楽

イケメンマッチョが奥様の心を鷲掴みにする【ストリートピアノ】リスト-ラ・カンパネラ/Liszt-La Campanella(Publicpiano)

 夏に川崎で演奏したときの“ラ・カンパネラ”の動画が、今日アップされました。

この日は、英雄ポロネーズとラ・カンパネラを演奏したと聞いていたのだけど、英雄ポロネーズしかアップされてなかったので、どうしてかな?と思っていたら、アップしてくれて嬉しいです。

「奥様の心を鷲掴みにする」というタイトルはどうかと思うけど、確かにそうかもね。炎天下の中で、女の人がいっぱい聴いてますね。

ラ・カンパネラは、以前室内で演奏しているのをこのブログに共有させてもらったけど、ストリートピアノのこっちもまた共有させてもらいますよ。

ラ・チッタデッラだっけ?ここは素敵な場所なので。

それに、きちんと弾いているしね。

ストリートピアノのユーチューバーはたくさんいるけど、ただものすごい速さで即興演奏みたいなのを弾く人や、クラシックでない曲を弾く人も多く、クラシックをきちんと弾いている正統派みたいな人は、やはりフォルテ君じゃないかと思います。

だからやはり、この人の演奏が好きだし、人柄・性格が気持ち良いですね。

あとは、「木枯らし」が完成されたらいいなあ~

 

追記:それにしてもフォルテ君は音痴だな~ 声はきれいなんだけどね。

 

あっ、半年前のラ・カンパネラの練習し始めたときの動画がありました。

【フォルテ練習日記】ラカンパネラはじめましたvol.1/ La Campanella-Liszt

あっぱれ。 見事に弾けるようになりましたもんね。

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吹奏楽課題曲(1977年度)

2019-09-29 13:53:54 | 音楽

1977年度課題曲(D) 行進曲「若人の心」

合唱大会の課題曲の名前を思いだそうとしていたら「若人の心」という言葉が浮かんだ。

いやいや、それは合唱じゃないぞ、吹奏楽だぞと思った。

そうだ、高校の時、私は吹奏楽部でクラリネットを吹いていたんだけど、そのときのコンクールの課題曲がこれだったのだ。

今聴くと、なんかものすごく古臭い感じがするなあ~

この曲って、1960年代にも課題曲になってるんだものね。

今現在はどんな曲が課題曲かな?

高校の吹奏楽部は、私は途中入部だった。

ここで吹奏楽をやっておかないと、一生やる機会はないかもと思ったからだ。

中学で1つ、高校で1つしか部活は選べない。

中学は器械体操。高校は演劇。

演劇部で劇中のサックスの演奏を吹奏楽部の人に頼んだのがきっかけで、人員不足の吹奏楽部に入ることになったのだ。

いきなりクラリネットなんか吹けるもんじゃないから、ヘッタクソでこれもまた部員に迷惑なんだけど、数が多いほうがいいかな。

まあ、譜面は読めるからね。

そして、吹奏楽部では演劇部員協力で音楽劇もやったりした。

その当時は、姉が音楽教室の講師をしていてエレクトーンを買っていたので、自宅にあるエレクトーンの楽譜をもとに、劇中に挿入する短い曲の部分を私がアレンジしたりした。

エレクトーンの楽譜は木管楽器の音色やベース、リズムなど、パート別にあてはめられるように載っているから吹奏楽のアレンジに利用しやすいのだ。また、逆に吹奏楽をやることによって、実際の楽器と音色や雰囲気が結びついてわかるようになった。

そうそう、ピアノの次はエレクトーンの時代が始まったけど、これもまた人生の中では中途半端に終わったのだった。

エレクトーンは結婚してから、中古の楽器を買って習い始め、合奏や個人の演奏発表会も出たし、グレード試験も受けた。アレンジや即興演奏が大変だった。

エレクトーンは5級を取れないまま、6級でおわっちゃった。やっぱ何をやってもダメね。

・・・

あっこれこれ。

これも吹奏楽でやったやった。

1977年度課題曲(C) ディスコ・キッド

なつかしいなあ~~

あの頃は楽しかったなあ~~

 

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合唱の伴奏 大失敗経験

2019-09-29 12:22:14 | 音楽

一度だけ中学の合唱大会でピアノの伴奏をしたことがある。

だいたいクラスには、ピアノを習っていて上手な子が1人くらいは居るものだが、そのときは私以外に居なかったのだ。

習っているとはいえ、そんなに上手じゃない。

まず、何曲かのなかから、自由曲を選ぶのに、音楽の先生が楽譜を配って生徒の希望アンケートを取ったのだった。

私は譜面を見ればだいたいどんな曲かわかるので、これは絶対に嫌だと思っていた曲があったのだが、運悪く、クラスの多くの人がその歌を選んでしまった。

その歌を、ユーチューブで探そうとしたがみつからない。

赤いセロハン透かしてみたら~  ::不明::   まっかっかっ かっかっ

バスも電車も母さんも 燃えそうでもえそうで どきどきしちゃう

とかいう歌詞なのである。

なんか、バカみたいな歌詞でしょう。

この「まっかっか」のところが男女で二重唱になって「まっかっか」「まっかっか」とずれるので「まっかっかっかっか」と聞こえる。

伴奏も、流れるように弾く曲は弾きやすいのだけど、あんまりペダルも使わないで弾く感じで、どうにもサマにならない。

お手本的伴奏を指導してくれる人もいない。

その時、ピアノを習っていたら個人レッスンの先生に見てもらえばよかったのか?

その時点で習っていたのかいないのかも記憶にないけど、ピアノの先生に見てもらうということを思いつきもしない。

それで、私の伴奏はひどいものだった。

もともと力量がなくて、音楽の時間に先生から「あなたもちゃんと弾きなさい」なんて注意されてたけど、本当に間違えるのだ。

で、本番が最悪。

この歌を歌いだしたとたんに、その「まっかっかっかっか」のところで、全校生徒の爆笑にあってしまった。

それからはグチャグチャで、そのせいか、最後の伴奏のとどめの1音を間違えるという大失敗。

そこで、また全校生徒の大爆笑。 いくらなんでも最後の音を間違えたことは練習中にはなかったと思う。

本番の恐ろしさ。想定外の出来事に対する動揺の影響。

へんてこな歌。 伴奏はへたくそ。

結果は最下位。あったりまえだろ。

ああ、それが最初で最後の私の伴奏体験。

たぶん課題曲はちゃんと弾いてた。

ちゃんと伴奏できた曲はどんな曲だったか、全く記憶なし。

・・・ 希望のささやき だったかな?

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なんで私にピアノを習わせたのか

2019-09-29 11:47:07 | 日記2019

自分から、ピアノを習いたいと言ったことはない。

いつも親から、「ピアノ習う?」と聞かれて始めた。

今思えば、近所の友達の影響かもしれない。

親同士がどんな話をしてるのかも知らず、いつも近所の友人と一緒に通い始める。

小1の時。それから中1の頃かな?それは同じ友達と通い始め、同じ時間にレッスンを受けて一緒に帰ってきた。

そして、同じ時期にやめた。

何をきっかけにやめたのかも覚えていないし、どちらかがイヤになったからなのかも全くわからない。

小学校のときなんか、たぶん、そろばんを始めるからピアノをやめようくらいな理由だったかもしれない。

小学校の3年か4年の頃は、となりの家にピアノがあって、1歳年上の子がピアノを習い、先生が訪問してくるというので、便乗した。

その頃はまだ自宅はオルガンだった。

隣家だから友人と一緒に通った記憶はないけど、その時もいつもの近所の友人も一緒だったかもしれない。

そして、その頃、先にその友人がピアノを買うことにして、かなり良いアップライトのピアノを買ったので、我が家も影響されてピアノを買った。ピアノのカタログは今でも覚えている。

ピアノが来てからは、先生が自宅に訪問してきた。

その当時、結構練習した記憶はある。やはり本物のピアノが来たからやる気が出たのだろう。

でも、練習してなくて、レッスンを受けたくないので、先生が来ても居留守をしていたことがあった。

居間にいたら先生が玄関にきたので、身をひそめていたのだが、先生が中を覗いてきたので、居ることがバレてしまった。

今も昔も田舎は玄関にカギをかけない。

・・・

中学の時は、誰かがどこかで「音楽の先生がピアノ教室をやっている」という情報を聞きつけたんだと思う。

それで、また母が「ピアノを習うか」と言ってきた。

いつもの近所の友人と通った。一緒に習う場合は、2人が同時に進歩していかないといけないけど、どっちが優れているとも劣っているとも感じなかった。

最初は同じ曲をやっていたが、そのうち違う曲を宿題に出すようになった。

先生は、それぞれの個性を見ていたのだろうか?

どっちの曲がむずかしいとも優しいとも判断はできない。

このときも、なぜやめたのか理由の記憶はない。

・・・

中3か高校で、私は姉の先生から習い始める。この先生が一番本格的なちゃんとしたピアノの先生だった。

この先生につく時も親から「ピアノを習うか」と聞かれて習い始めることにした。

ここは、電車で通わなければならなかった。

幼なじみの友達は高校も違ったので、さすがにもう一緒ではない。

・・・

なぜ、またピアノを習うことになったのか?今になって思い当たることがある。

それは、中3のときに、将来なりたい職業の調査がクラスであり、私がそこに「ピアノ教師」と書いたからなのかもしれない。

実は、私はピアノ教師になんかはなりたくなかったのだが、他に書く言葉が見つからなかったのだ。

当時は、山口百恵等が活躍していた時期で、夢は「女優」とか「歌手」であったが、そんなことは書けるはずもない。

「小説家」も人には言えない。

本当になりたい現実的職業なんか何1つ思い浮かばいので、苦し紛れに「ピアノ教師」と書いてしまった。

そして、本人の知らないところで、担任と親の面談で「本人は“ピアノ教師”と書いておりました」などと担任が母に話し、母が「あら、妹のほうもそう思ってたのね」などと誤解してしまったのであろう。

そして、当時はOLになるよりもピアノを教えたほうが収入も全然違うなどと、親なども思っていたのだった。

だが、結局のところ、私にもそんな情熱はないわけだし、ピアノは高2の終わりくらいでやめたんだろう。

ピアノを習っていて楽しかったかな?

身近な人以外、なんらピアノを通しての交流は無かったと思う。

自分で弾いて自分で楽しむだけかな。

でも、今思いだせば、私はピアノ以外に、何か別の習い事をしたことがあるわけでもなく、やっぱりそれが主な趣味だったのだ。

 

 

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従妹と比較された記憶

2019-09-29 11:00:30 | 日記2019

ピアノにまつわる記憶は、楽しいことよりも、ちょっといやな事が多いかな?

私が高校のころの夏休みに、2歳年下の従妹家族がやってきた。

この家族は、ピアノをやっている姉を非常に高く評価しており、従妹は私には何の関心もなく、年上の私の姉にあこがれていた。

姉が子供好きだったのもあり、年下の従妹たちをかわいがったからでもある。

私は逆に子供嫌い(むしろ人間嫌い)だったので、慕われるわけもなかった。

そのころ、実家ではグランドピアノを買い、姉がピアノを教えていたものだから、ピアノを習っている従妹が弾いてみたいと言い、叔母もぜひ弾かせてもらいなさいよ等と言って、その時、姉がいなかったので、私がピアノのところに案内した。

そこで、その辺に出しっぱなしになっていた私の楽譜を従妹が見たわけだが、どれもレベルが低すぎて使えないというのだ。

こんなのは、ずっと前に終わっている。もっと上のは無いのか?と言うとともに、

こんなレベルの低いのをやってるの?と、口には出さずともその反応は見え見えだった。

完全に見下された。

私は、中学で中断し、別の先生に変わったばかりだったが、それまでの指導がなっていないから、初歩に戻ってやり直す必要があるとされ、昔、とっくに終わった教本をやり直していたのである。ソナチネアルバムとかツェルニーとかだったと思う。

だが、初歩に戻ってやり直しさせられているのだという説明もできないような社交性のない人間だった。

従妹は別の本棚から、もっと高度な姉の使った譜面等を出して演奏したんだったか、もうそのあとのことは何も記憶にない。

・・・

その1~2年後、その従妹がピアノの発表会に出るので、ぜひ見に来てくれと姉に連絡があったため、遠い場所に私もでかけた。従妹が高校生のころだろう。

従妹が弾いたのは、ベートーヴェンの月光の3楽章だった。

あきらかに、指が滑っている。鍵盤の上を上ずっている。基礎ができていない。

それは、私にも一目瞭然だ。

叔母は、「娘は音大に進んだ方がいいかしら?」と姉に聞いた。

姉は、「進まないほうが良い」と答えた。

・・・

もし、私が高校のときに、初歩に戻らずに、そのままレベルの高い曲に進んでいったら、きっとあんな弾き方になったんだと思う。

私はレベルは低いけど、あんなごまかしの弾き方はしない。

従妹がそこで、すごく素晴らしい演奏をしたら、敬服したんだろうけど、大したことなかったのは、私にとって幸いだったかもしれない。

だが、しかし、私はその後も月光の3楽章なんてとても弾けるレベルじゃない。

・・・

この都会育ちの従妹は、私より2学年年下だが、実際には1年とちょっとしか年齢差がないそうだ。

私の身体が小さかったので、ずっと従妹のほうが身体も大きかった。

プールでも競争をさせられ、あっちがクロールでこっちが平泳ぎだから負ける。

私は学校でクロールの指導を受けたことがない。平泳ぎも指導も受けたことはないが、海で自己流に泳ぐうちに泳げるようになった。

だから、とことん見下される。

従妹の眼中に私はなく、従妹は常に私の姉を慕っていたのだ。

だから、一緒に遊んだりもしない。

一番年齢の近い従妹だから、本当は仲よくなれてもよかったはずなのに、と思う。

・・・

大人になったらさらに何の交流もないが、学歴やら財産やら、社会的地位やら、面倒くさい比較材料が満載で、一生かかわりはなかろう。

 

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多子と少子

2019-09-29 08:51:57 | 日記2019

今、日本は、高齢者の割合が増えて介護の問題が大きくなってきている。

私も2人姉妹なので、2人で分担するか、どちらかが主になって親の介護をしないといけない状況になってきた。

そんな中でふと思うことは、実家の母自体、親の介護をしていないじゃないか、ということである。

母は8人兄弟姉妹である。長男が家を継いだから、実家の親は、母の兄とその妻が見てくれたわけだ。

母なんかは、自分の親の介護を、全部その人たちに丸投げだった。

また、父のほうも13人兄弟だかなので、やはり後継ぎの1人が親の老後をみたので、私の父母は何もしていない。

子供が多い時代の人はそんな感じだ。

(今と違って、家や財産の平等分与などはなく、後継ぎがすべてを継いだ。)

数人に1人が親の老後をみることになる。

しかし、これから一人っ子の多い時代になると、結婚相手も一人っ子だったら、両方の親をみることになるだろう。

そういう私も、夫の兄が若くして亡くなってしまったこともあり、母を同一世帯にしていたから、義親の老後を看た(←この字をつかうのか)ことになる。(義母は特別養護老人ホームでお世話になっていたが、もう亡くなってしまった。義父はずっと以前に他界。)

今後の少子化では、すべての人が親の老後を看ることになるのか?

子供のいない人もたくさんいるので、社会で老後を看ることになるのかな。

・・・

実家の母は自由に生きてきたよなと思うことはある。

うちは、本家じゃないが、海水浴などに親戚がたくさん押しかけて遊びにきて、対応に苦労したということはきくが、本家の嫁さんに比べたら楽だろう。

子供の世話などを親に頼ることなどはできず、誰にも頼らないで家庭を築いてきたことになるが、まあ、それは私も同じである。

実家の母は、私に父の墓参りに行かないのか?などと要求してくることがあるが、だいたい母自体、自分の親の墓参りにはほとんど行っていない。

母は昔から、自分の親の墓参りに行く習慣などはないし、今だに実家の墓がどこにあるのか道順がわからず、自分では行けないらしい。

要するに後継ぎに丸投げだから、長男家族が全部やってくれているし、母の実家の近所に住む他の兄弟姉妹もいることなので、母自身が何かをしなければならないという自覚は何もないのだと思う。

・・・

最近母は足の具合が悪いから、父のお墓のあるお寺に関係することは私がお金を届けたりするようになった。

同じお寺に夫の方の墓もあるので、一石二鳥だが、この場合、実家墓について、姉は私に丸投げしている。

実家に長男も婿養子もいない限り、結局は嫁いだ娘の誰かが後継ぎと同じことをする必要がある。

・・・

そして、たとえば、親の介護などをする場合に、本当に分担ということができるものなのか?というのが疑問になってきた。

できれば、平等に分担できれば、それぞれの負担も減ると思うが、やはり誰かが主にならないとできない性質のものではないか?

たとえば、子が交代で訪問するとすれば、親の様子をみて、一方は病院にかかった方が良いといい、一方はその必要はないと言ったりする。

誰かが主になって同居していないと、年寄りの日常の様子は把握できないので、結局中途半端になる。

分担するとそれぞれが「点」あるいは「断線」状態で親の状況を把握することになるわけで、誰か1人が責任を持って親を看れば継続した線で看ることができる。

しかし、それも大変だ。

2人子供がいたならば、それぞれに協力し合い、交互だったり、時には2人一緒とか、また時にはヘルパーさんなどの協力も得ながら、という方法がいいのかな。

高齢者本人が、できれば人を頼らず自立するっていう意識も必要だと思うけど、どうしたって無理をしてる、限界だということは現状あるはずだ。

・・・

うちの母は、気丈なほうだから何でも自分でやろうとするタイプである。

しかし、それにも限界がある。

母は、自分でも自分が年寄りの介護をしたことがないことを認めている。

だから、今の自分のような90歳近い老人を見たことがないんだそうだ。

もし見ていれば、立ち上がるのが大変だとか、杖がないと足がよろめくとか、そういう状態がわかっていたはずだけど、我が身で起こって初めて年寄りの身体とはこういうものなんだと知ったのだそうだ。

私も祖母の年老いた姿は見たことはなかったが、今の母を見ているので、年寄りはこうなんだと思うし、自分の将来の姿だなとも思う。

それも、そんなに遠くない姿だ。

・・・

何を書いてるのかわからなくなってきたけど・・・

子供がたくさんいれば、親の老後にかかわらない人が多いのは当たり前で、子供が1人なら、みんなが親の老後を目にする。

そして、子供の多少・有無にかかわらず、だれもが自分の老後に立ち向かわなくてはならない。

その時、親の老後を看たことのある人のほうが、自分の老後に備えることができるかもしれない。

 

 

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母の老後と自分の老後

2019-09-29 08:12:14 | 日記2019

実家の母はすでに、米寿を前にして、1人暮らしをしている。

ここまで健康に、誰の助けもなしに暮らしてきたのは、尊敬に値すると思っている。

しかし、今までになかったような体調のすぐれない日も発生しているようであり、いつまでも1人暮らしをさせておくのは不安である。

そこで、私が実家に戻って同居するということも考える。

・・・

私はもうすぐ定年になる。

いったんは定年になるものの、現代の社会情勢で65歳まで働くことが推奨されているから、会社も継続雇用はしてくれるものと思われる。

私はパートタイマーだから、退職金はない。

夫の年金はそんなに多くはないので、私のパート収入がなくなれば、今までのような生活はできない。

私の将来もらえる国民年金は、満額ではない。

なぜならば、サラリーマンの妻、第3号という年金制度ができる前の数年間が未払い期間となっているからだ。

私がもらえる国民年金は、65歳になってから、年額69万円である。

また、厚生年金は61歳から年額13万円の見込みである。

この年金をいくらかでも増やすためには、今後も会社で働いて厚生年金の期間を増やすことしかない。

・・・

しかし、ここで仕事をやめて故郷の実家に戻るとすると、将来もらえる年金が増えないばかりか、現状の生活費をどうするのかが問題にもなる。

故郷に帰って60歳すぎの人ができる仕事を探すことになるが、当然厚生年金なんかは無い仕事となるだろう。

できれば、今の仕事を続けていたほうが、現在の生活も、老後の生活も安定できる。

・・・

しかし、そのようなことを優先にしていると、年老いた母のことを放置してしまうことになってしまう。

・・・

何を優先に考えたらよいのだろうか?

・・・

 

 

 

 

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過去から現在まで

2019-09-29 07:26:05 | 日記2019

数日前から、私の子供のころからのピアノとのかかわりについて何個かブログを書いてきたのだが、それは今非公開にしようかと思っている。

というのは、自分のみならず、そこに必ず姉が登場し、姉についての内容がかなりの割合で混じってしまうからである。

いくら匿名とはいえ、姉のことを書くのはまずいかと思い、非公開にしたり戻したり迷っている。(削除はしない)

今、過去を振り返ってみて、初めて自分の実家家族がどのように歩んできた(移行してきた)のか、全体像が見え、さらに今後はどうなっていくのだろうかと考えてしまう。

私が家を出て、姉が家を出て、私も家に戻らず、父が亡くなり、その後、母がずっと1人暮らしをしてきて、今80代も後半に来ているのだ。

うちの実家の全盛期は、姉が自宅でピアノを教えていた数年間であり、その時期は、あっけなく終了したのだ。

それからは、たまに帰省する実家としての役割を担い、実家の母は未亡人という寂しさはあるものの、友人と旅行や趣味などもして、それなりに楽しみもある人生を送ってきた。

だがさすがに80代も後半になると、身体を思うように動かせなかったり、体調がすぐれなかったりする日も多くなってきている。

そこで、今後どうするのかというのが、今の問題である。

現在、私は月に1度は実家に帰っているが、姉は半年に1度がいいところだ。

姉は能天気で、自分自身も病院嫌いなので、母の通院などを深刻に考えない。

老化だからしかたないんじゃないの、と放置する気か。

だが、老人は、いつかは人の助けが必要になる。

それに、なるべくそうならないように、早め治療をするとか、生活習慣を改善するとかの必要性がある。

そのためには、子供である私たちの協力が必要だろう。

・・・・

・・・・

ここでも書きたいが、書けないことが山ほどあるのだ。

そして、それは結局、40年前から何も変わっていないことだと感じる。

どうせ書けないことなのだから、書くのはやめよう。

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旭日旗について

2019-09-28 18:05:59 | 日記2019

私の感覚では、旭日旗は「日本の軍国主義の象徴」である。

子供のころからそう感じて育ってきた。

加害者が日本で、被害者が中国・韓国というのとは別に、日本の軍隊が加害者で、日本国民(庶民)が軍国主義の被害者だったと思っている。

だから、オリンピックの会場に旭日旗を持ち込んでもらいたくはない。

なぜ普通の白地に赤い丸の日章旗ではいけないのかと思う。

わざわざ旭日旗を使う必要はなかろう。

旭日旗について調べてみると、実は、太平洋戦争なんかよりずっと以前の江戸時代に、船の旗として使われていたものだそうで、軍国主義になって作った旗ではないのだそうだ。

それを知ってからは、旭日旗についてのいやなイメージが少し和らいだが、やっぱりあれは軍国主義を連想させるものであって、日本人でさえそうなんだから、韓国や中国の人は嫌に違い無いと思う。

一方、パラリンピックのメダルのデザインについては、あれは旭日旗ではなく、あきらかに扇子であるので、関係ない。

また、朝日新聞社のマークが旭日旗に似てるとしても、朝日新聞は日本軍とは関係ないし、朝日という太陽がそういう形状のものなのだから、それはそれで、問題はないと思う。

とにかく、オリンピックの会場で日本を応援するのに旭日旗なんか振り回さないで、穏やかに白地の赤マルの「日の丸」国旗を使えばよいではないか。

わざわざ軍の旗なんか使うんじゃないよ!!!

最近、日本国民の感覚は変わってきている。それは、戦争を知らない人々が大部分を占めているからである。

だから、旭日旗に対する悪いイメージが、もともと無い人が多いのだろう。

それで、単にかっこいいデザインだと思うことができるのかもしれない。

普通の日の丸よりも強そうな感じがするのだろう。

私はもうすぐ60歳になるが、私の親世代は戦争を知っている世代である。

そして、親から戦争の悲惨さや不条理を聞かされて育ったから、それを連想させる軍旗である旭日旗なんか大嫌いである。

父の兄は、旭日旗のもとに南方に出征し、戦士して、骨壷の中の石ころになって戻ってきたそうだ。

いや、つまり戻ってこない。ボルネオあたりの土になってしまった。無駄死だ。

旭日旗は、日本人にもそういうことを連想させるものだ。

特攻隊や人間魚雷もそうである。

旭日旗を極端に嫌う韓国や中国の人が参加するオリンピックやスポーツの試合に、わざわざ持ち込むことはなかろう。

・・・

ああ、ただ日本は自由な国なので、旭日旗を禁止するということはできないと思う。

旭日旗を使いたい人の自由があるってことなんだろう。

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補欠的存在

2019-09-28 17:11:12 | 音楽

子供のころからのピアノのことを書いていたのに、次第に別の記憶がよみがえってきてしまった。

最近の私のブログを読めば、姉とピアノと私の関係性がわかると思うのだが、結局のところ、実家では姉に対してかなりの投資をしているのである。

そして、家を増築し、ピアノのレッスン室をつくり、ピアノを教えるための設備や体裁を整えたのであった。

姉は長女で、我が家は女2人の子供だったので、姉が婿養子をもらって実家に住むということを想定していた。

私は外に出ていけばよいだけの話だった。

だから、私は一日も早く家を出ていきたいと思って高校生活を送り、東京のアパートに下宿して、短大卒業後も東京で就職したのである。

だが、姉の結婚相手はなかなか決まらなかった。お見合いのようなことをしたが、実家の地元には姉の気に入るような男性はいなかったので、次第に年齢が上がっていった。

昔は女性はクリスマスケーキだったので、24歳を超え、25歳になるとかなりの年増になってしまった。

それ以前にも付き合っていた男性などがいたが、日本の遠いところだったので、父が反対しておじゃんになったこともある。

そうして、ついに婿をもらうという条件は取っ払うしかなくなり、姉は自分で相手を見つけて結婚するにいたったのだ。

その相手は、遠い所に住んでいたので、結局ピアノ教室を閉めて姉は引っ越していった。

転勤族だし、子育てもあってピアノの仕事はしばらくできない状況になった。

・・・

姉の結婚後、急に今度は私に戻ってくるようにと実家の父が働きかけてきた。

私は就職した年で、研修を終えてやっと仕事を覚えてきたようなタイミングだったので、ここで退職するなんて職場に対しても申し訳ないと思った。

その年は、ちょうど実家の自治体で市役所の採用試験があった。その前年は採用もなかったし、故郷で就職する気もなかったのだ。

父は、なんとしても私に市役所の採用試験を受けさせようとして、履歴書に下書きまでして送ってきた。

私の履歴を父親が下書きするなんて、本当に信じられない。

しかし、私は実家に帰る気はないのだ。

そうやって、実家は姉のいないレッスン室とグランドピアノだけが残っていて、帰省したときだけ弾くようなことがずっと続いていた。

・・・

このようなレッスン室は、ただ、だだっ広いので、普通に住むには不便な部屋である。

姉がそこでピアノを教えたのは5~6年のことだ。

たったそれだけのために、きっと莫大な出費をしたはずだ。

その後、私が短大に入るにもお金がかかるから大変だったとは思うが、姉を短大に行かせたのに、私を行かせないわけにはいかなかったと思う。

だが、受験料ももったいないし、できれば落ちてくれと親は願っているのだった。

だから、第一志望と滑りとめだけしか受けさせてくれなかったし、とにかく受験をさせてくれるかくれないかで毎日もめていたので、勉強どころではなかった。

親が子供の受験が落ちるように願っているって珍しいと思う。

それに、音楽のほうに進めば手に職が付けられるけど、国文科なんか何にもならないと言っていた。

・・・

親はとにかく長女に期待をかけていたのだと思う。

そして、確かに5~6年は、ピアノ教師になった娘と同居して幸せに暮らしていたのであろう。

私はその頃には東京の風呂のない4畳半のアパートで1人暮らしをしていたので、関係ないのだ。

・・・

だから、私はピアノ自体は好きだけど、過去の記憶がよみがえると。複雑な気分になることも確かである。

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絶対音感のない私

2019-09-28 12:23:46 | 音楽

姉には絶対音感があるが、私にはない。

相対音感はややある。メロディーを聴いて鍵盤で再現して弾くことはできるが、ドレミで歌えと言われると難しい場合もある。

コーリューブンゲンやコンコーネはやったことがある。

そういえば、イタリア歌曲なども歌わされた。

姉は音楽短大のピアノ専攻だが、バイオリンや声楽もやっていた。

教職もとっていて、中学の音楽教員試験に受かっている。

それで、妹の私をダシにして、歌ってみろだのなんだのとコキつかっていたのだ。

コンコーネは、姉が歌うときには、伴奏もやらされた。

なんでこんなこと色々思いだすかというと、すべてはユーチューブでフォルテ君の動画を見ているからだ。

そこでは、絶対音感の話や声楽の話等もでてくるのだ。

ピアニストでも絶対音感がない人もいる。

絶対音感のある人は、何の音でも音程がわかってしまう。

電話のベルとか、コップのふちを箸でたたいた音まで、音程で聴こえるそうだ。

姉は吹奏楽はいやだという。なんかドの音がハ長調のドではないらしい。

私は吹奏楽でクラリネットをやっていて、ドはB♭らしいけど、まるで違いはわからない。

姉はその上に、部活動の下手な吹奏楽演奏なんかは、音が狂っていて耐えられないのだそうである。

絶対音感も敏感すぎて、逆に不自由なものだなと思う。

それに、絶対音感のある人は、絶対音感のない人間には音楽の才能がないというような態度をとるのが鼻につく。

「え~~っ?この音が何の音なのかわからないの?ほんとに?信じられない。へえ~~~」

とか、驚くのはやめてもらいたい。

・・・

兄弟や姉妹で同じものを習うことについての問題が提起されている。

スポーツにしろ音楽にしろ、絶対に差があるからだ。

どちらかのほうが優れているに決まっているからだ。

私の同級生には、私と同じ年齢のお姉さんがいる人がいる。

両方とも同じ構成であり、姉たちはそれぞれにピアノをやっていて、りょうほうとも姉たちは音楽短大に進学した。

だが、妹はやっていない。私は中途半端にやっていたが、同級生のほうは弾いているのをみたこともない。

その人の姉は、私の姉よりもずっと熱心にピアノを習っていて、ピアノ科ももっと有名な短大に進学したのであるが、妹は英文科かなんかである。

やっぱり、妹は姉に圧倒されてしまうよね。

・・・・

今思いだしても、ピアノも楽譜もレコードも全部姉のものであるわけで、それをこっそり利用するって感じなんだ。

何をやっても年上の姉を超えるわけがないし、長女や長男はお手本がいないから自分で道を切り開くのも大変だろうけど、次女や次男、さらにはその下は、上のまねをするのか、独自の道を切り開くのか難しいところ。

服などもお下がりばかりで、そもそも姉に似合う服を買ってたわけなので、妹が着たら似合わないでしょう。

妹本人に似合う服や靴を買ったら、またイメージも違うものになるだろう。

今は、メルカリがあるので、姉妹で同じ服を着せることなく、どんどん売ったり買ったりするみたいだ。

実家にいるときは、ずっと姉と妹として比較されて育ってきた。

結婚してから、そういう比較がされなくなり、どれだけ生きやすくなったことか。

ずいぶんと、のびのびとした性格になったと思う。

それにしても、だからって一人っ子が良いわけではなくて、兄弟姉妹がいたことは良いことだったと思うよ。

音楽に対して姉と私の違いは、絶対音感とか技術の問題ではない。

私は、音楽を教える人になることは全く考えられないのだ。

人に物を教えるなんて嫌いだし、特に子供がきらいなので、音楽教室の先生とかありえないでしょう。

ピアニストになんかなるわけないんだし、そこそこの腕だったら、音楽教室やピアノ教室しか、音楽の道で食べる方法はないでしょう。

あとは、楽器店に勤めるくらいかな?

調律師ってのも考えたことはある。 調律師は絶対音感がなくてもできるそうだ。でも、そんなに楽しそうでもない。

要するに、私は音楽で食べていく気もないし、能力もないから、音大に進学する意味なんかなかった。

 

 

 

 

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LPのプリエコー

2019-09-28 11:59:20 | 音楽

前記事で書いたレコードをかけたときに、かすかに音がずれて流れるという現象についてだが、私は針が壊れたのだとつい先ほどまで思っていたのだった。

しかし、はてよ?と思った。

壊したつもりはないし、その後も姉が私に壊しただろうと怒ってきたこともなく、そのまま誰も何も言わないまま年月が過ぎているのだ。

そこで、今時は便利なもので、ネットで検索してみると・・・

あったあった。

LPレコードの「プリエコー」という現象だそうだ。

これは、アナログのLPレコードで起きることである。

http://www38.tok2.com/home/shigaarch/OldBBS/57preecho.htm

LPのかけ始めや曲間の本来無音の所に、直後に始まる本来の音がかすかに聴こえる現象をプリエコーという。普通は隣の溝の影響によると考えられているが、それ以前にマスターテープの段階で磁気転写として入っているんではないかというBMさんの投稿に始まる。私自身はすでにLPレコードは使っておらず、仮に原因がはっきりしたとしてもどうなるものでもないのでそれほど興味をそそる話題でないがずいぶん活発な議論が戦わされた。中には貴重な情報もあるので採録しておく。ただし、あまりに長いので本筋からはずれた議論は省略してある。

というように記載されている。

他にも色々とプリエコーについて記載されているサイトがあり、これがLPレコードでは、ありふれた現象であることを初めて知った。

ああ、私はてっきり針が壊れたのだと思っていたよ。

めでたしめでたし。

(それにしても、最近はユーチューブでピアノ曲を聴いているうちに、昔の記憶がわき出てきて困るくらいである。)

 

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ステレオに神経をすり減らす

2019-09-28 08:48:48 | 音楽

これは、また過去の記憶である。

我が家には、クラシック大全集というようなレコードがあり、ステレオもあった。

昔のビクターのステレオは、頭を斜めに傾けた陶器の白い犬の置物が付いたやつである。

木目で家具調となっている。回転板やアンプなどが一体になっている。録音はできない。ただレコードをかけて音が出るだけ。あとはラジオがついているくらい。

そんなものがあるが、このレコードを聴くのには、かなり神経を使った。

姉からステレオの使い方は教わったが、とにかく丁寧に扱えとのことである。

レコードを傷つけてはならないのは当たり前だが、埃なども慎重に除去しないといけない。

それには、専用のスプレーをかけて、専用の物でレコード表面をぬぐい、細心の注意を払いながら回転板の上に載せる。

それから、針もマニキュアみたいな形の液のついた刷毛で拭ってほこりなどを除去しなくてはならないのだ。

・・・

そうやって神経をすり減らしながらレコードを聴いていたわけだけれど、あるとき、本当の音のほかに、わずかな時間でずれて、同じ小さな音が出ていることに気付いた。

いったいどうしたことだろうか?

良く見ると、針の先がわずかに割れているようだった。

音は本当にかすかに聞こえるだけだし、私が壊したのではないと思うので、知らぬ顔をしていた。

・・・

そんなわけで、レコードというのは次々に聴いてみるなんてことができないくらい神経を使うデリケートなものだった。

ステレオとは別に、カセットテープに録音する金属製のデッキが用意されており、それとステレオをつないでテープに録音することはできたが、次々にカセットに録音しておくという時代でもなかった。

それで、東京で1人暮らしをするときに、数曲を選んでテープに録音して持ってきてのだと思う。

・・・

こんなことを書いていると、知らないで読んでいる人は、いつの時代の話かという疑問が出るはずだ。

私が高校を卒業したのは1970年代後半。はるか昔の話。

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さらにピアノに関する記憶

2019-09-28 08:06:43 | 音楽

私は小1頃、小4頃、中1頃、高1の頃にそれぞれ別の先生からピアノを習い、それらの間には空白がある。

最初の3人の先生はどれも学校の音楽の先生で、土曜の午後か日曜日にピアノを副業として教えてくれた。

いくらかの月謝を払って通っていた。

宿題を出され、弾けるようになると丸をもらって次に進むというやり方だった。

 

高校になって習い始めた先生は、ピアノの個人レッスンを専門にしている若い先生だった。

東京の音楽短大を出て、それから専攻科というのも出ているらしい。昔は女性は短大が多かった。

個人のリサイタルも地元で開いたことがあるが、本番に弱く、ミスが多かったという話を聞いたことがある。

私は行ったことがない。

先生は、レッスン専門の家を借りており、自宅からそこに通ってきていて、そこにはグランドピアノが置いてあった。

 

その先生は、過去の先生たちに比べるとかなり厳しかった。

ちゃんと練習をしていかないと、5分で帰らされてしまう。

ハノンで徹底的に指の動きの練習をさせられた。

そして、ブルグミュラーまで戻ってやり直しをさせられた。

思えば、小学生の時からずっとソナチネあたりにとどまっていたことになる。

そして、やっとソナチネが終わりソナタを弾き始めた程度でやめた。

湯山昭とか、あんまり好きではない曲もやらされた。

月謝はかなり高かった。

 

私は発表会には一度も出たことがない。

私はレッスンで先生から演奏を褒められたことはほとんどない。

特にモーツアルトの感性がないと言われた。姉にはあるのに何でないのかとあきれられた。

唯一、ハイドンは良いと言われた。

姉妹だって個性は違う。 そんなわけで、私はモーツアルトコンプレックスになった。

モーツアルト恐怖症だ。

自分が弾く場合、ハイドンとベートーベンのソナタだと安心する。

しかし、今、ユーチューブで聴くと、これらもとても難しい曲想だと思う。

 

昔はほとんど原曲(お手本となる演奏)を聴いたことがなかった。

今になって自分が昔弾いていた曲はこんな曲だったのか、ここはこのような感性で弾くところなのか、と初めて知ったりする。

それで、発表会の話だけど、中学までの先生は学校の教師だから発表会なんかやらないので、完成させた曲を人前で演奏して披露するということは一度もしたことがなかった。

そして、高校の時に習っていた先生は毎年発表会を開いていたので、それに出るかどうかと聴かれた。

私は、基礎から戻ってやり直しをしていたので、小学生と同じ程度のレベルの曲を弾いていたし、日ごろの先生からの低評価の言動でまるで自信がなかった。

年上なのに、低レベルの曲を弾く人などが発表会にはたまに出場するけど、そういう存在にはなりたくない。

小さい子からレベル順に並べられて、最後に一番上手な人が弾くのが発表会だが、私はどこに入れられるんだろうと思う。

だから、発表会には出ないと返事をした。

発表会に出ない人は、先生の教え方もそれなりのものになる。

・・・

ピアノの発表会について。

私の住んでいた街には発表会を開く先生は3人しかいなかった。

子供のころから、その中の先生のピアノの発表会を鑑賞しに行ったことがある。

女の子はみんなきれいなワンピースなどを着て、髪の毛もきれいに整えてステージに上がる。

ああいう人たちとは、自分は世界が違うと感じる。

・・・・

今思うと、一度はそんな体験もしてみたかったと思う。

老後にピアノを習う人もいて、発表会で演奏する人もいる。

しかし、やっぱり下手な姿をさらすのはいやだなと思う。

 

 

 

 

 

 

 

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ピアノにまつわる思い出

2019-09-27 23:26:42 | 音楽

このごろ、you tube でショパンのエチュード等を聴くことが多いからか、ピアノと共に生活していた昔の記憶が次々に蘇ってくる。

前記事に書いたように、私が高校1年のときに、我が家はグランドピアノを買った。

最初は小学校4年くらいの時にアップライトを初めて買い、その後、姉が音楽短大生のときに、免税でまたアップライトのピアノを買った。私が中学のころかな。このピアノは裏に丸で囲った「免」という文字のマークがついていた。

最初に買ったピアノより高さが高いものだろうけど、あんまり変わらないと思う。なんでアップライトを二度も買ったんだろうか?(このときに最初のアップライトは下取りしたのかな?大した年月経ってないから不思議だ)

後になって姉が言うには、あとで買った免税のピアノよりも、最初に買ったピアノのほうが品物として「当たり」だったそうだ。免税品が「外れ」ってことか。

学生で免税になるから安く買えるということで、少しでも良いピアノを買おうとして、買い直したのかもしれない。

そうして、私が高校1年のときに、姉が社会人となり、音楽教室の講師をしたり、自宅でピアノの個人レッスンを始めたのだった。

そのために、家を増築した。そしてグランドピアノを買った。

姉も結構な収入を得るようにはなったが、家の増築にもかなりの費用がかかったのだった。

今になって知ったが、家を新築したときのローンがまだ少し残っているのに、また増築し、その費用は当時新築の家を建てる金額の半分くらいかかったという。壁を外側に広げて家を広くするために、結局のところ、屋根を全部作りなおすことになる。

そして、ピアノのレッスン室を含む姉の部屋は16畳になった。2階の南東の一番良い場所である。

天井にはシャンデリアのような照明が付き、ピアノを照らすようなスポットライトもあり、壁にもしゃれた小さな照明が付いた。アルナロマンスという出窓も付いた。

カーテンなども新調し、とにかくその領域は気合いを入れた。

家の外観は、赤い屋根に白壁、白いベランダ。周囲には、それなりの植木も植えた。レッスン室専用の入り口も作った。

・・・

その一方で、私は県立高校に入学するが、制服は姉のお下がり。カバンもお下がり。腕時計もお下がり。

靴だけは新調したが、入学式当日の帰り際に、定期券の申し込み用紙をもらうために、靴箱のないところに靴を脱いで用紙を貰って戻ってくると靴がなかった。ほんの3分くらいの間。その日は上履きを履いて帰った。

そして、再び学生靴を買うこともできず、靴はとりあえず黒いもので姉の履きざらしのお下がり。その後もずっと980円くらいのへんてこな靴を買って高校生活を過ごす。

こんな変な新入生居ますか?今思えば、「超ビンボー人」に思われていたと思う。クラスにあまり友達がいなかった。

それに、父は体調を崩し、2週間くらい病院に入院。胃潰瘍だったかな?

きっと家を増築するのに、また借金を背負ってプレッシャーがかかったんだろう。

私の高校の入学式は、母が父の病院に行っていたので親は出席せず、姉が行った。

・・・・

今も思えば、あの頃は姉が脚光を浴び、プラスに発展する一方で、私は日陰の生活をしていた。

高校時代は、部活に明け暮れた。友達と時間を過ごし、家には遅く帰った。

・・・・

せっかくグランドピアノを買ったので、私も姉の恩師にピアノを習うことにした。

中学の時は、近所に住む学校の音楽の先生からピアノを習っていたが、今度は電車でピアノ専門の先生のレッスン室まで通った。

ここで、基礎からやりなおしにされ、ハノンなどもリズムを変えたり、調を変えたりして指の訓練をさせられた。

ピアノは姉のものなので、姉がいない時間(風呂に入っているときや、居間でテレビを見ているとき等)にピアノの練習をした。

私が譜面を読み間違えていると、「違ってる」と姉が階下から叫んできた。

・・・

私はセンスがないとか、才能がないと言われ続けたので、音楽に進むことはやめた。

でも、ピアノは習っていたが、音大に進まないなら月謝がもったいないからやめろと母がしきりに言うようになった。

社会人になったら返すからと言ってピアノを続けていたが、3年になるころにはやめたと思う。

・・・

さようならピアノ。

そうして、私は、国文科に進学したけど、4畳半のアパートで1人暮らしするときに、家からショパンのエチュードをカセットテープに録音して持ってきて、毎日ラジカセで聴いていた。

だから、ショパンのエチュードは良く知っているんだ。

革命・黒鍵・蝶々・木枯らし等。

実家にはたくさんのクラシックのレコードがあり、4個のスピーカーのビクターのステレオが姉のために購入されていた。

その中のレコードを録音したのだ。

最近知ったのだけど、そのレコード、クラシック大全集みたいな200枚くらいあるのかな?は姉が音大生だということを嗅ぎつけてやってきたセールスマンに乗せられて、購入することになったらしい。

結局、1度も聴かないまましまいこんであるものも多い。

今もまだ置きっぱなしになってる。木目調の昔のステレオは、サイドボードみたいに、ただの台になっている。

親は姉のためにどんだけお金を使ったんだろうか。

・・・・

今は、you tubeで聴けるから、本当に便利だな~。

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