山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。

電柱

2009-06-30 20:58:08 | 運転・車・道路の事
電柱なんか、なければいいな~と思いますよね。
全く、電柱ときたら、運転するときの邪魔ですよね。

このあいだのペーパードライバー教習のときにも、もう少しで電柱にこすっちゃうところでした。
狭い道路で、対向車とすれ違うために左に寄って進んでたんですが、対向車と自分の車の間隔だけに気を配ってました。
先生が「電柱危ないよ」というので、初めて左を見ると、もうあと20cmくらいでした。結局もうそのまま通過。
うひゃあですが、先生も意外に暢気ですね。ぎりぎりだけどぶつからないってわかってたからかな。
結局、同じ位置を走るしかなかったかもしれませんが、ぎりぎりなのを認識してるのとしてないのとじゃ大きな違いですよね。

そのあと、また、走っていって対向車と電柱との間をすりぬける時に、また同じようなことにならないかと、左の電柱に注目しつつ通過し、前を見ると、なんと前の車が障害物のために、停止しようとしていました。そこで、初めて気付き、あわててブレーキを踏みました。

先生は、止まったあとで「今のブレーキは遅かったね」といいました。
そうです、電柱をみていて前を見てなかったのですね。危ないな~私の運転。

でも、なんかベテランの先生ってこういう感じなんですよね。

電柱に気を取られていると危ないですよ!
いいですかっ!
もっと早くブレーキ踏まないとだめですよぉっ!!!
などとガミガミいわないんだけど、
ああ、気をつけなくちゃなあと身にしみるんですよね。

それにしても日本の道路は、電柱がなければどんなに走りやすいことでしょう。
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距離と時間と速度の関係

2009-06-30 20:24:05 | 運転・車・道路の事
ああ、なんか小学校のときの算数の時間以来のような気がします。
あんまり好きじゃなかったけど、まあ、なんとか問題は解いていたように思います。
それを今さら、また思い出す必要があったりするんだな、運転ってのは。

進路変更をするときは、3秒前に方向指示を出すっていうわけですけど、幹線道路を走ってて、交差点を右左折するときはいつウィンカーを出しますか?といわれ、30メートル前と答えると、「違うよ」と教官に言われるのですよね。
しかし、学科の試験では、右左折はそれをしようとする30メートル手前というのが正解になっています。
ただ、多くの場合、その前に左に寄ったり右によったり進路変更をしなくちゃならないから、それの3秒前ってことになるというわけかな・・・。

それで、3秒っていうと、だいたいどのくらい進むかと計算すると、時速60キロでは、60分間に60キロだから1分で1キロ、30秒で500メートル、3秒で50メートル進んじゃうわけですね。時速40キロだと33メートルの計算になります。
だから、先の交差点で右左折しようと考えて、方向指示だして安全確認して進路変更してそれから曲がるとなると、交差点の30メートル前じゃ遅すぎるってわけですね。

倍ぐらい見といたほうがいいとのことでした。
30メートルって簡単に言いますが、30メートルなんか計ったこともないから、私はどのくらいか、あんまりよくわからなかったわけで、適当にやってました。
そうしたら、電柱と電柱の間隔がだいたい30メートルだそうです。
へえ~~~。

まあ、電柱見ながら運転するわけじゃないですが、参考にはなりますね。

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深視力

2009-06-29 23:07:00 | 運転・車・道路の事
このあいだ、運転免許学科試験場に行ったときのことです。
まず、視力の適性検査を受けたわけですが、普通免許の場合は色の判別と普通の視力の検査をするわけですね。
しかし、その検査場の入り口に、適性検査の受け方、という説明書きがあって、ふと見て見ると、「3本の棒があり、そのうちの真ん中の1本が動くので、その1本が両側の棒の間に来て3本が直線に並んだ瞬間に、ボタンを押してください」などということが書いてありました。
あれえ、こんなわけのわからない検査もするのか、と驚き、列に並びながら一生懸命読んでいたのですが、周りの人たちはそれには見向きもしないので、不思議だなと思っていました。
それに、1人1人がそんなに長い時間はかからず、あっという間に進んで行くので、みんな手際よく受けているのかなと思いました。
さて、自分の番が回ってくると、ただ普通の視力と、信号の赤青黄の色を言えばいいだけで、やはりあっという間に終わりました。

あとでわかったことですが、この棒が通過する瞬間を把握するという視力検査は、深視力検査といって、2種免許・大型免許・牽引車免許の場合に必要なものということでした。
この検査は、三桿(サンカン)法といい、奥行の知覚を検査するもので、遠近感や立体感を適切に認識することができるかどうかを調べるものだそうですね。
3回くりかえして、平均誤差が2cm以下であることが必要なのだそうです。
この深視力というものは、人間が育つうち、6歳くらいまでに完成するそうで、大人になってからできない人が練習してできるようになるものではないとのことです。だから、これが苦手だと、大型や二種免許などは取れないことになってしまいますね。

遠近感や立体感がわかるかどうかっていうのは、今まであんまり考えたこともなかったのですが、運転を始めてから、難しいなと思うようになりました。
やはり、遠くから近づいてくる車のスピードを把握するのが難しいです。
交差点で右折する場合など、前方から車が来るのを見て、どのくらいで交差点までやってくるんだろうというのがよくわかりません。だから、安全を期して、対向車がかなり遠くにいる場合か、まるでいないときか、あきらかに止まりそうになっているときに限って右折を始めるようにしていました。
そして、運転での注意事項として、「二輪は車体が小さいので、遠くにいるように見えるが、実は近くまで来ている。また、スピードも遅いと思いがちだが、4輪と同じ速度で走っているので、充分気をつけること。」というのも頭にありました。
だから、二輪が近づいている場合は、さらに気をつけていたのです。

そんなある日、やはり右折待ちしていたところ、車が途切れたあとに2輪が直進してきました。これは要注意だと思って、辛抱強く待っていると、2輪がかなり近づいてきたところで、信号が黄色に変わりました。しかし、黄色では止まらずに進んでくるかもしれないと思い、右直事故でも起こしたら大変だと思って、さらに止まっていたところ、教官から早く曲がれと号令がかかりました。
曲がったあと、教官が、なぜいつまでも曲がらないのかと聞くので、「バイクが来ていたので」と答えると、「だってバイクは速度を落としていたじゃないか」とのことです。
へえ、そうなのか、速度を落としていたのか、と思いました。
そのへんが、なんかあんまりわからないんですよね。

たとえば、対向車が右折を譲ってくれている場合は、速度を落としながらライトを点滅させるということですが、逆に、右折するなよと威嚇する場合もライトを点滅させるそうです。この場合は減速はしていなので、結局のところ、相手が速度を遅くしているかしていないかで判断するしかないのですが、どうもそのあたりが初心者には見定めにくいなあと思います。

そういえば、以前野球場でホームランが客席に飛んできたりしたとき、今にも自分にぶつかってくるんじゃないかと逃げようとしたことがありますが、ボールはかなり遠くに落ちて、自分にぶつかるはずもないようなものでした。それも、遠近感がないからそんな錯覚がおきるのかなと思います。
そうなると、バドミントンなんかでも空振りが多いとか、球技が苦手っていうのも、自分には遠近感がないからじゃないかななどと思うのでした。

私は、深視力がそなわっているのだろうか?
深視力検査ってのを一度やってみたいものです。


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贅沢な趣味?

2009-06-29 20:58:43 | 運転・車・道路の事
東京で暮らす分には、今のところ車は全く必要ありません。
にもかかわらず、車の免許を取り、腕が落ちないように維持するためには、あるいは、初心者の域を出るまで経験を積むためには、用もないのに車に乗らなくちゃなりません。
身近に運転免許を持っている人がいないし、どうせ車もないので、自動車学校の先生に乗ってもらってペーパドライバー教習を受けるのが一番安心で手っ取り早いです。
たとえば、レンタカーを借りた場合、数時間借りるのと1日借りるのでは、ほとんど値段は同じくらいです。しかし、一日中借りたとして、どこか遠いところに行くわけでもない場合、まず、駐車するところがありません。そうしたら、いったいどうしたらいいのか、コインパーキングなんかに置いたら10分で100円とか取られるらしいです。

それで、そのうち行き先を決めてレンタカーを借りてドライブに行こうとは思っているのですが、しばらくはペーパードライバー講習を週に1度か2週に1度受けたいと思っているのです。

ところで、そのお値段ですが、だいたい1時間6000円が相場です。
これは、高いなあ~。毎週乗ると月に2万4千円ですからね、かなり贅沢な無駄遣いという感じがしますね。だから、せいぜい2週に1回くらいかな。
でも、考えてみると、たとえば中国語の1対2か3のレッスンで週1回、50分×2コマで1ヶ月2万近くしました。また、子どもエレクトーンの個人レッスンでも、週1回30分で月1万円くらいはしました。
ですから、先生を1時間独占し、車にガソリンまで含めて、1時間6000円というのは、そんなに驚くほどの金額ではありません。音楽のコンサートやミュージカルなんかを考えても、ただ会場に座って見せてもらうだけで1万円もしたりするわけです。
なんでも高いんだよな~。

それで、この1時間の教習料金というのは、ほぼ私の一日の日当に相当します。
うん、私は、1時間の教習を受けるために、一日働きます。
いや、たった一日働けば、1時間運転を教わることができるのです。

しかし、そうそう教習ばかり受けてるわけにもいかないので、都内であと1~2回、田舎で1~2回というところでしょうね。
でも、そのほかにも、いろいろ計画していることがあります。
そのネタはまだ、明かせませんが、実行したら書きますね。

教習が趣味っていうのも変な人ですよね。
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今日の出来事

2009-06-28 22:35:43 | 運転・車・道路の事
今日は、電車で自動車学校に向ったのですが、どこかで人身事故があって電車が止まってしまいました。
しかたなく、別の電車で途中まで行きましたが、自動車学校はさらに遠いので、そこからタクシーに乗ろうかと考えました。電車がしばらく動かなかったら、タクシーで行かない限り自動車学校の予約時間に間に合いません。また、ちょうど「あの日にドライブ」を読んだ後で、タクシーについて関心があるし、今日行く自動車学校の近くの道路を走るプロの運転が見られるので、一石二鳥かとも思ったのです。

この本を読んでからというもの、物事をタクシーの運転手の立場から考えるようになりました。
たとえば、我が家では、タクシーを利用する場合は、だいたい家族で遠くに出かけて電車で戻ってきたときで、荷物が多くバス停から歩くのはいやだし、バスで4人乗ったらタクシーよりも値段が高いということで、駅から自宅までタクシーを利用するのがほとんどでした。
つまり、タクシー代が家族4人分のバス代より安い距離というわけですから、タクシーではワンメーターなわけです。タクシーの運転手さんにしてみると残念な客ですね。
タクシーの運転手さんは、タクシー乗り場に並んでいる人たちを見て、あの家族連れはたぶん近距離だから当たりたくないなあと思っていたに違いありませんね。長時間並んでやっとお客が乗ると思ったら5~6分で着いちゃう距離だったなんて本当に申し訳ないですね。

この本を読んでいて、私はタクシーを喜ばせたいとともに、自分も運転観察のために、「運転手さんどこでもいいから5000円分くらい走り回ってください」なんていう注文をしてみたらどうかな、などと空想したこともありました。結局、そんなことはしませんでしたけどね。お金があったら、長距離乗って運転手さんを喜ばせてあげたいくらいですよ。
ステキなドライバーさんだったら、ドライブに連れてってもらってもいいかな、なんてまた妄想を浮かべます。

さて、それで、今日なんですが、電車のない区間はいったいどのくらいの距離になるのか、タクシーの運転手さんが喜ぶ距離かがっかりする距離かはあんまりよくわかりませんでした。でもたぶん、高くても1000円台くらいだから、喜ぶほどじゃないでしょうが、お客がいないよりはいいでしょう。
そのころ、ちょうど雨が降ってきたところだったので、電車が止まらなくても駅からのお客さんは、いつもより増えているだろうと思われました。
しかし、運転手さんにとって、電車が止まったということは、幸運なのではないでしょうか。長距離客が増えるんじゃないでしょうか。
こういう情報があったら、駅に向かって移動するタクシーの運転手さんは多いかもしれませんね。

それで、タクシー乗り場混んでるかな、と思いながら、これも奇遇だなと思って電車を降りました。
すると、降りたとたんに、目的地に行く路線の運転再開の放送が入り、まもなく電車が入ってくるとのことでした。
というわけで、タクシーは中止にして、結局電車に乗って目的地まで行きました。
やっぱり、電車のほうが安くて速いです。

タクシーの運転手さんにとっては、もう少し電車が止まっていてくれたらよかったんでしょうね。でも、人身事故なんて、いやですね。

梅雨時はタクシーは繁盛する季節かな。






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ペーパードライバー教習

2009-06-28 18:37:19 | 運転・車・道路の事
この世に、こんな便利なものが存在していたのは、本当にラッキーでした。
東京の場合、普段車が必要ないので、パーパードライバーは結構いるのかもしれません。
そんな人にとって、ペーパードライバー教習は救いの神様のようなものですね。
私も免許取り立てで、一度も自分で運転したことがないので、ペーパードライバーといえるのかな。それで、今まで通っていた自動車学校とは別の自動車学校のペーパードライバーコースを受けてきました。今までの教習コース以外の道を本当に走れるのかどうかを知りたかったのです。

自動車学校の車では、仮免練習中の札がついてると思ったら、それはなく、初心者マークを前と後に貼ってくれました。

やってみて、道路を走るのはまあ問題ないようでしたが、交差点がちょっとあぶなっかしかったです。
というのも、私が今までよく走っていた道路は、だいたい3車線で、信号のある交差点では、左折・直進・右折という走行の分かれ方をしていました。厳密にいうと、第一車線は左折と直進だったようです。しかし、第一車線は駐車車両が多いし、バス停もあるため、走行しにくいので、普通は第2車線を走り、左折するときだけ第1に移るというのが定番でした。だから、左端は左折だという感覚がありました。
ところが、今日走った道路では、もともとばかに広い1車線であって、交差点になると車線が分かれ、左折と直進が一緒で、第2が右折となっていました。
それで、先生が直進と言っているにもかかわらず、右折レーンに入りそうになり慌てたことが2回くらいありました。たしかに考えてみると、左折と直進は対向車に関係なく進めるのですから一緒になっていて、右折だけが別になっているのはあたりまえですね。
そんなことにも今まで気がつかなかったんですね。

また、センターラインのない道路というのも私にとってはめずらしいものでした。センターラインがない場合は、道路の左端ではなく中央を走り、右折するときは左に寄る、という今日の先生の教えは、今までの私の常識とは逆のようです。私は左端を走行して右折するときは中央に寄ると思っていたのでした。
しかし、対向車はめったに来ないので左によって走るよりも中央を走ったほうが歩行者や横道から出てくる自転車などをよけるのに安全なのだそうです。対向車が来たら左によればいいそうです。そして、右折するときには、対向車が入ってくるための場所をあけなければならないので、左に寄る必要があるという説明でした。
なるほど、たしかにそうですね。そして、対向車とすれ違うのにもぎりぎりの道路幅だったので、なかなか大変でした。
今まで練習していたコースでは、それと同じくらいの広さでセンターラインのない道路といえば、一方通行道路が多かったです。その場合、右折するときは右端に寄るように気をつけなければなりませんでした。
しかし、あとで考えてみると、双方向のセンターラインのない道路も走るには走ったことがありました。でも、あまり意識化されていなかったのです。
地域によって道路の特徴も違うなあと思ったしだいです。応用をきかせないとダメですね。

さらに、今までなかった道路としては、信号のある大きなT字交差点でした。そこを左折するつもりで進んでいったら、直前で急に黄色になったので、そのまま進もうとしたところ止まれと言われ、停止線を越えてやっととめました。直進の場合は進んでしまっていいけれど、左折はダメとのことです。曲がる場合は徐行しなければいけないので、黄色になってから交差点に入るのは危険だそうです。
そのほかにも、普通の交差点を左折するときに、急に信号が黄色になるという場面に出くわしました。どうやら、今まで体験していた信号と色の変わるタイミングが違う(時間が短い)のでしょう。自分ではまだ変わらないと思っているような時に変わるのです。
これに対しては、あらかじめ歩行者の信号に目を向けて、点滅しはじめたら車の信号も黄色になると予測し、速度を落とすと良いと教えてもらいました。
いろいろ貴重なアドバイスをいただきました。

できれば、あと2時間くらいまとめて路上教習を受け、そのほかに車庫入れなどをやりたいところです。それと高速道路の教習もできるそうです。

あっ、そういえば、車のしくみもずいぶん違っていました。ギアの形状が違いチェンジレバーボタンがありません。チェンジレバーボタンがあるのは古い車のようです。座席位置調節のレバーの位置も違いました。ブレーキのあそびが、以前の自動車学校の車よりも少し大きかったようで、深く踏まないと止まらないという感じがしました。雨のせいかな?今日は土砂降りでした。人がいるときは水を飛ばさないようにゆっくり走るようにと言われました。これも初めての経験です。雨の場合、サイドミラーに映るものが見えにくいのですね。
ハンドル操作の感覚はだいたい同じでした。車体感覚もだいたい同じようなもんでした。

別の教習所に行ってみて、いい経験になったなと思います。







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現実を生きるために

2009-06-28 11:03:14 | 運転・車・道路の事
「あの日にドライブ」を読み終えた。
最後は爽快だった。
最初のうちは、元銀行員の主人公がタクシードライバーに転職し、仕事もうまくいかず、過去を振り返ったり、妄想を繰り返したりするばかりだったが、タクシードライバーとしてのノウハウを身につけ、次第に良い営業成績を上げられるようになってきた。
同時に、タクシードライバーの同僚には、元優秀な競輪選手や大きな会社を経営していた人もいて、多くの人が様々な事情をかかえて生きているのであって、みんな試行錯誤を重ねて人生を歩んでいることがわかってきた。
主人公伸郎は、一時は昔の恋人を思い出してあこがれ、その自宅付近にタクシーを停め、ストーカーまがいの観察までして、自分が彼女と結婚していたらと妄想を繰り返すが、結局は身近な家族がかけがえのないものであるということを悟る。
そして、最後に、自分が銀行を辞める原因となった上司を偶然タクシーの客として乗せたことから、この酔っ払客をぎゃふんと言わせる仕返しをしてやって、物語は爽快に終わるのだ。

最初のうちは、営業成績も上がらず格好の悪かった伸郎だが、しだいに優秀なタクシードライバーに成長していくところが心地よい。たとえば、入社前研修に遅刻しそうになってあわてている学生の乗客を乗せたとき、伸郎が余裕で接し、時刻に間に合わせて到着させるところなど、元会社員だった人生経験+タクシードライバーとしての力量を兼ね備え、器の大きさを感じるのだった。
感動したところは、過去への回顧のために、昔住んでいたアパートを借りようと思って用意したお金を、子どもたちのために使うことに変更した場面だった。
それは、ほんとうに対した決断ではないのだが、そこであきらかに、伸郎の求めるものが、妄想から現実へと変わったことを示している。
妄想が現実に変わることができたきっかけは、元恋人の恵美が甥の耳を引っ張るような女だった現実を見たことだったか。
そうなると、前向きな方向に転換するためには、それまでの現実逃避とも言える妄想や回顧も必要だったことなのかもしれない。
人間は行き詰ったときは、昔を懐かしんだり、現実とはかけ離れた妄想などをしなければやっていけないときもある。そうやって時には妄想して現実から逃れることも生きていくうえに必要であって、一方で妄想しながらも、一方で現実に立ち向かっていく。妄想が現実に立ち返るヒントや力になることもある。

吉田伸子という書評家があとがきで書いているが、「本書は人生の路半ば、うろうろと迷子になっているような大人たちへ、荻原さんが伸ばした手、なのである。」とあり、まさしくそのとおりであると思う。私も今現在迷子になっているところで、この小説は心に響いた。
作者荻原氏は、1956年生まれで、私よりも4歳上だが、ほぼ同世代であるといえる。
この人の他の作品も読んでみたくなった。
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本の売り方

2009-06-28 08:46:32 | 日記
今朝、テレビでやってたんだけど、書店に行って本を買う人が減っているらしい。
そこで、喫茶店でコーヒーとセットにしたり、洋服屋さんで洋服売り場にその洋服と関連した本を置いたり、旅行関係のところに観光物産とともにその土地に由来した小説などを置いたりすることを始め、それが効果を発揮しているという。

確かに、喫茶店やレストランなどで時間をつぶす時に本があるといいなと思う。一人で入ったときなどは、料理が出てくるまでの間読み物があるといいし、食後のコーヒーを飲みながらでも、ただ飲むだけよりは、本を読みながらゆったりと飲みたいときがある。

病院の待合室、美容院なども、時間つぶしのための雑誌は置いてあるものの、通り一遍の個性のないものばかりで、個人個人が読みたいものではない。
出先で、読み物がほしいなと思って買う場合、駅のキオスクやコンビニで買うこともあるが、スペースの関係上か、種類も偏っていてあまりいいものがない。

缶ジュースやお菓子の自動販売機のようになっていても面白いかもしれないあな。
番号を押すと希望の文庫本が降りてくるというのもいいかな。

思えば、料理の雑誌は本屋で買うよりも、スーパーの食品売り場のレジの近くに置いてあるのを買う場合が多いと思う。

いろいろな場所でそれぞれに様々な本を売るようになれば、買うほうも便利だなと思う。
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祭のあと

2009-06-28 01:06:51 | 運転・車・道路の事
約3ヶ月の教習生活が終り、久々の暇な週末を迎えています。
読みかけの「あの日にドライブ」を読んだり、宅建の勉強をしようとしたりしていますが、宅建のほうはぜんぜん進みません。なんか集中できないなあ。

「あの日にドライブ」も、心理状況が自分や夫に似ていて、人生が華々しく順調に進んでるわけではない心境に同調してしまいます。
主人公が、タクシーの仕事で新しい境地を開いたりする部分は、現実の生活の中にも前進の余地があるわけで、それはそれで面白いのですが、でも、根本的解決にはならないような・・・。

過去を懐かしく思っても、あのときああすればよかったと空想しても、もうどうにもならないから、これからのことを考えなくちゃだめだろうな。

私の場合、教習生活は楽しかったとか、30年くらい前、昔の恋人とドライブ行ったとか、そんなことも思いだすけど、それはもう関係ないんだ。

でも、この主人公みたいに、意味もなく懐かしい場所に行ってしまったりしたい心境である。私は元からそういう習性をもっている。

以前私も、昔住んでいたアパートに行ってみたことがある。もう取り壊されて新しい建物が建っていた。やっぱりそこは過去の場所だったな。今でもときどき夢にでてきたりする。

なんで、私はいまこういう生活をしているのかと考えることもある。もし他の人と結婚していたら、一戸建ての家を買っていたかもしれないし、マンションに住んでいたかもしれない。車も所有していたかもしれない。野心のなさ過ぎる夫にもがっかりだけど、自分自身にもがっかりだ。夫はもう人生をあきらめ老境に入ってしまったようだけど、私には、あと10年くらい、何かできるかな。

とりあえず、この主人公みたいに、なんとなく心の向く方角に足を伸ばしてみようか。

実は、教習コースの途中に、大きな神社があった。道路沿いにも大きな鳥居が立っている。
その鳥居のそばの交差点を右折するのに面食らったことがあった。
それで、私は教習でそのあたりを幾度も通るうちに、この神社で交通安全のお守りを買いたいと思うようになった。
また、検定や試験の前には、この神社に合格を祈願に行きたいと思ったのだった。でも、お参りにいくよりも、検定コースの下見を優先にした。
神に頼るよりも自分の力を頼りにしたというわけだ。
でも、道路から見えない神社に向かって祈ったといえば祈ったのかもしれなかった。
だから、合格したお礼参りに行ってもいいし、やっぱり交通安全のお守りを買うとしたら絶対にこの神社だと思っているのだ。
それで、近いうちにこの神社にぜひとも行ってみようと思っているのである。

でも、なんだか、また懐かしさに浸るばかりのような気もする。
教習コースを自転車で走り、神社に行ったら何かいいことがあるのか?
いや、きっと何も起こらないでしょう。

ただ、家の中にじっとしているのが、あまりにもつまらないのです。


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光化学スモッグ注意報

2009-06-27 16:01:37 | 運転・車・道路の事
私が住んでいるところでは、夏になると、光化学スモッグ注意報がよく発令されるようになります。
今日は、今年になって初めてのような気がしますが、光化学スモッグの放送がありました。
でも、幸い、注意報が発令されても、一度も頭痛などがしたことはありません。
同じ地域であっても、幹線道路の近くでなければ関係ないのかなとも思います。

「光化学スモッグ」とは何でしょうか?
エコ検定を受けたのに、すっかり忘れてしまいましたので、復習してみます。

「工場や自動車から排出される窒素酸化物などの汚染物質が、太陽光を受けて光化学反応を起こし、そのとき生成されるオゾンやパーオキシアセチルナイトレートなどを主体とする酸化性物質の総称を「光化学オキシダント」と言い、これが光化学スモッグとなる。」

光化学スモッグが発生しやすい天候は、晴れやうすぐもりで、気温が高く、風が弱い日のようです。確かに今日はうす曇りでかなり暑い日ですね。
症状としては、目の痛みやチカチカ、ノドの痛みや渇き、頭痛、だるさ。
このような症状が出たときは、室内に入り、目を洗ったりうがいをしたりし、それでもよくならず、呼吸困難などが起こったときは、医師に診てもらう必要があるそうです。

「自動車の排気ガスには、窒素酸化物や硫黄酸化物などが含まれ、光化学スモッグの原因となっています。
輸送部門における二酸化炭素の排気量のトップは、自家用車です。だから、車で移動するときには、環境影響を十分に意識し、具体的な行動によって、排気ガスの削減をすることが大切です。より燃費のよい車を利用すること、アイドリングストップなどエコドライブを心がけること、公共機関を利用すること、相乗りをすること、自転車にのること、歩くことなどを心がけることが勧められています。」

アイドリングストップのすすめというのは、よく見かけますね。
教習中に車を運転していて、自分がエンジンをかけっぱなしにしているという感覚は実はありませんでした。たとえば、一時的に停車させて教官の説明を聞いたりしているときも、エンジンを止めてはいないので、車はずっとエンジンがかかったままになっているということのようです。
ということは、この間にも、窒素酸化物や硫黄酸化物を放出していたということですね。ガソリンを燃やしていたんですね。

こういうことを考えると、今時、車の免許を取って必要もないのに車を運転するというのは、なんだか悪いことをして入るような気さえしてきます。
今までは、光化学スモッグは自分には関係のない人たちがやっていることだと思っていたのですが、自分もその原因のひとりになるわけですね。

どうやって罪滅ぼしをしたらいいかな。
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ブログのこだわり

2009-06-27 10:55:43 | トラックバック練習・ご意見板
書きたい時に、書きたいことを、書きたいだけ書く。

ただそれだけ。
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マイケルジャクソンの死

2009-06-27 10:47:25 | 日記
マイケルジャクソンが急に亡くなったそうです。50歳と聞いて、あれっ、私より年上だったんだと驚きました。もっとずっと若い人だと思っていました。

50歳といえば、同じ年ともいえます。同級生と同じ年齢です。
私は、今かろうじて40代なのですが、誕生日の早い同級生は50歳になっています。
マイケルジャクソンは1958年生まれです。私は1960年生まれです。
そうするとマイケルジャクソンは私より2歳年上ということになりますが、現時点では1歳しか違いません。

マイケルジャクソンのスリラーのビデオが出たときは、うちでちょうどビデオデッキを買ったばかりのときで、MTVで放送されたのをビデオに録画し、毎日のように見ていました。あのころは格好よかったですね。あの浅黒く、活動的な姿が一番よかったのに、どうしてあんな白いお面のような顔にしてしまったんだろう・・・。

当時青年だったんだから、今考えてみれば、中高年になっているのは当たり前ですが、あの不自然な整形の顔のせいか、年齢感覚がありませんでした。
あのころ新婚だった我が家も、子どもが生まれて成長し、いまや孫がいてもおかしくはない年齢になっているのだから、マイケルが50歳になるのは当然ですよね。でも、あの姿からは「おじさん」という感覚がどうしてももてませんね。

考えてみたら、歌手というのは、若い時に売れても中年になってまで活躍し続ける人というのは少ないです。マイケルジャクソンも名前ばかりで実は音楽活動で活躍し続けていたとはいえないのではないでしょうか。すごい才能に恵まれた人だと思うのに残念です。私としては、彼の人生にはスリラーの延長線を期待していたのに、なんか変な方向に進んでいったとしか思えません。

たとえば、おじさんの歌手では、日本では「郷ひろみ」なんか頑張っていると思いますよ。
もともと歌がうまかったわけでもないただのアイドルだったのに、歌の勉強したり、ダンスも習ったりして、50代になっても体力づくりして、歌の道を進んでいる郷ひろみに私は感心しています。
人間はそうやって年を重ねていくべきじゃないかな。

でも、マイケルジャクソンにはマイケルジャクソンの求めたものがあったと思うので、彼の心や人生を知ることができたら、どうして彼がそういう生き方をしたのか、知りたいと思います。

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緊張する相手

2009-06-27 09:56:38 | 運転・車・道路の事
私にとって緊張する相手というのは、自動車学校の教官では、自分よりちょっと年下の世代の人たちです。
40代前半から半ばくらいでしょうか。このあたりは、中堅ですね。
そして、学科の授業をたくさん持っていたり、検定の試験官をしたりする先生は、教官としても優秀な人じゃないかと思いますが、この先生たちは、まず何よりも「いいかげんなことを許さない」というオーラを常に発しているので、私はとても緊張します。
学科の授業はわかりやすく、その厳しいオーラを発する先生の1人は、結構おもしろいことも言うんですよね。普通だったらそこで笑いがでるはずなんだけど、なぜか笑い声は出ないんですね。やっぱり厳しさのオーラを発しているからなんでしょう。
学科を受けたときに、こういう先生はあまりにもきちんとしていて、不正や甘えやいい加減さを見逃さない人だと直感するので、このような先生に1対1で技能を教わるのは緊張するだろうな、と思いました。
こういう先生は、けっして意地悪ではなく、誰に対しても公正であり、高い基準を求める人だということはわかっています。それで、そういう先生に教わるのは自分のためになることだと思いつつも、なんとなく当たらないでほしいと願ったりするのでした。
私にとってはやっぱり自分より年上の人が気が楽です。年齢ではお兄さんと妹という関係であり、じいちゃんとおばさんというところですが、「おばさんはしょうがないなあ」みたいな感じであきれつつも親切に教えてくれたりするわけです。
それが、ちょっと年下になると、そういう甘えは通用しません。
また、逆に20代の若い教官などは、「僕の母と同じくらいです」などという感覚で、結構好意的に教えてくれたりします。30代のくらいでは、最低限の無難な教え方をする人が多いです。

検定の日に、運転のことでちょっとわからないことがあったので、ロビーで誰か教官がいないかなと思っていました。できれば、私があこがれている熟年教官か、以前なんでも質問してくださいねと言ってくれた教官に聞きたいと思っていたのですが、あいにく姿がありませんでした。
そうしたら、そこにたまたま通りかかった教官がいました。その先生は学科を一番たくさん教わった先生で、厳しさのオーラを発している40代半ばくらいの教官でした。
意を決して、その先生を呼び止め、質問してみることにしました。
そうしたら、とても親切に教えてくれました。
たしかに、親切に教えてくれることはわかっていたのです。聞いてみてよかったです。

時には、自分にとって気楽な相手ばかりではなく、苦手な相手にも飛び込んでいってみるのもいいことかもしれません。
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正か負のオーラ

2009-06-27 01:17:49 | 日記

これも、人の話の受け売りなんですが、
人間というのは、どこにいても、必ずプラスかマイナスのオーラを周囲に発しているのだそうです。どっちでもないということはないそうです。
自分はただそこにいるだけだから、周りには何の影響も及ぼさないと思っている人は大間違いだそうです。
たとえば、つまらなそうにしていれば、マイナスのオーラを、楽しそうにしていればプラスのオーラを放ち、それが周りの人の心理に影響を与えているとのことです。無表情にしているとすれば、それはプラスマイナスゼロというよりも、マイナスのオーラを発しているといえるでしょう。

だから、仕事中も、電車に乗るときも、街中を歩くときも、まあまあ自分が元気なときは、大いにプラスのオーラを発揮しようではありませんか。
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年代によって重要なこと

2009-06-27 01:05:41 | 日記
人の話の受け売りですが、なるほどと思ったことを書きます。

人間は年代によって、重要なことが違うそうです。

20代に必要なことは、活力・元気・活気
30代に必要なことは、専門性
40代に必要なことは、創造性、独創性
50代に必要なことは、人格、人柄

20代は、とにかく元気でやる気があることが重要でしょうね。元気や活気があれば、物事を吸収するのも速いし、行動的であることは、人の役にもたちますね。
30代になると、今まで積み上げてきた専門性がさらに深まってくるころでしょう。
ここで努力してきた人は、専門性において、人を引き離すこともできます。
40代は一番むずかしいかなと思います。大体真面目にやっていれば、専門性も身についているのはあたりまえですが、仕事がマンネリ化しがちです。同じことを日々繰りかえしていたのでは進歩がありません。ここで、人とは違う創造性や独創性が発揮できることが、重要なのではないでしょうか。ここで能力を発揮できるかどうかが、分かれ道かもしれません。
50代になると、もう管理職の年代です。専門性や独創性もあるのがあたりまえのようになっています。そこでめだってくるのは、人格や人柄です。どんなに専門性が優れているからといって、自己中心的であったり、他人のことを考えられない人間ではどうしようもありません。対人関係において人を尊重したり理解したり励ましたり、時には忠告などもしながら、いい人間関係を築いていける人が重要ですね。50代くらいになると、厳しさを持った人でも角が取れてきて、器の大きさを感じさせられたりしますね。

自分のことを考えると、まず30代の専門性の部分から欠落していますし、そういうわけで、その上に創造性や独創性をもつことも当然無理な状況です。
そして、もうそろそろそれに加えて人格や人柄で勝負しなきゃならないですが、いつまでも子供じみたわがままなどを言いがちです。
人と人をつなぐクッションのような役割をするのはオバサンの役目かと思いますが、人柄が良いだけではやっぱりダメなんだと思います。

結局、何もしないまま、もう40代の終わりにきちゃってるので、どうしたもんかなあと、思います。
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