幕末に、ツーリズムの波が来ていた

2021-08-16 00:00:44 | 歴史
『ニッポンをみた!?幕末・明治の外国人』という冊子(というには大きいが)を読んでいると、幕末から明治に日本で活躍していた写真家や挿絵画家や新聞記者について興味深いことが書かれていた。また、英国他の公使が日本国内を頻繁に旅行したり、退任後に日本についての文化論を書いたりしたことも、ある程度理解できてきた。



ペリーだって誤解だらけの日本論を書き残している。ペリーは、「日本人が子沢山なのは、パジャマの前がすぐにはだけるようになっているからだ」と自論を書いている。それが真実なら、人口減少問題の決め手は「パジャマ禁止法」ということになる。

話を戻して、当時の日本ブームだが、背景には欧米で始まっていた「ツーリズムブーム」があったそうだ。

もともと英国では、貴族階級では「グランド・ツアー」という観光旅行の一形態があった。そもそも欧州の貴族にとって重要なのはギリシア・ローマの歴史や文化ということで、旅行に行って過去の文物を知ることが教養と考えられていた。百聞は一見に如かず、ということ。

1841年には近代ツーリズムの祖といわれるトーマス・クックが団体旅行を企画した。同年には駅と一体化したホテルが誕生。鉄道網が整備され、米国では大陸横断鉄道が完成。そしてクックは1872年には、日本を含む世界一周団体旅行を催行した。同年には、ジュール・ベルヌの「八十日間世界一周」という観光キャンペーン小説も出版されている。

もちろん明治5年の日本は、あっという間に攘夷論者は(表向きは)一掃され、安全都市宣言をしていた。「お・も・て・な・し」。同年には日光金谷ホテルが開業。ご一行様は、できたての東京~横浜の鉄道を使い、瀬戸内海の船旅を堪能している。


なお、日本で幕末から明治初期に繰り返されたコレラの流行だが、通説では1858年に長崎に上陸した米艦ミシシッピー号の乗組員が持ち込んだと言われる。

メダル交換の周辺

2021-08-15 00:00:24 | スポーツ
東京オリンピックは障害物競走のように様々なレベルの低次元の問題をまき散らしながら、その都度、妨害物を除去しながら開会にこぎつけ、多くの感動シーンが色あせないようにという配慮の元に印象の薄い冴えない閉会式を終えることになった。

閉会式(開会式もだが)が惨めだという声は多いが、考えてみれば、日本の台風シーズンの最中に(実際、二つの台風の隙間に閉会式だった)、大金を投入する気にはならないだろう。雨を防ぐはずだった国立競技場の屋根は、ごたごた劇の第一幕で除去されていた。

そして、ごたごた劇のアンコールのように幕が下りてからの寸劇があった。名古屋市長によるソフトボール女子選手の金メダル噛みつき及びセクハラ発言。

当初、組織委員会はメダル交換の事案ではないとしていたが、選手所属チームで五輪スポンサーでもある自動車会社や文部科学大臣の怒りもあり、予備のメダルと交換されることになった。

この件については、「交換するほどでもないのではないか」とか「本人が我慢するというのだから交換しなくてもいいのではないか」とか「みんなで一緒に受け取ったメダルの方が嬉しいのではないか」という意見もあった。名古屋市長も、お前が言うかと思うが「噛んでも傷はついていないはず」と開き直り的であった。


個人的に思うと、それでも本人が交換するということになったのは、メダルに傷がついたのではないだろうか。何年もの努力の末に手にいれた金メダルである。業者主催のゴルフコンペのトロフィーじゃないわけだ。

ということで、金メダルの金について調べてみた。無論、金メダルは銀メダルに金メッキをほどこしたものということは周知なので、金の厚さを計算してみる。

まず、東京五輪の金メダルと銀メダルだが、どちらも直径が約85ミリ。厚さは7.7ミリから12.1ミリである。この4.4ミリの幅だが、台の上にギリシア神話の女神、「ニケ(NIKE)」の彫像が施されていて、その厚さである。余談だが「ニケ」で有名なのが、ルーブルにあるサモトラケのニケ。ヘレニズム期を代表する大理石の彫刻であり、ナイキ社の社名の元である。あのレ点のようなブランドマークはニケの翼のカーブに由来している。

重量は銀メダルが550g、金メダルが556g。これは、金メダルには6gの金を使うという規則があるからだ。つまり銀メダルを作ってからメッキをかけているのだろう。ということでニケの彫像部分の厚みは無視して、直径85ミリ、厚さ7.7ミリのメダルの表面積に対して6gの金は厚さが何ミリになるかということになる。

まず、表面積。表の部分は円の面積だから42.5ミリ×42.5ミリ×3.14‥=5672平方ミリとなる。
裏の面積も同じ。さらに横腹の面積だが円周×厚さとなる。85ミリ×3.14‥×7.7ミリ=2055平方ミリとなる。表、裏、横の合計は、5672×2+2055=13339平方ミリとなる。

次に6gの金の体積は金の密度(19.32g/立方センチ)から、6÷19.32=311立方ミリとなる。

したがって金メッキの厚さは311÷13339=0.023ミリとなる。コピー用紙0.07ミリの1/3である。

キズが付いたのは間違いないだろう。水でゆすいで、消毒用にアルコールで表面を拭いて、殺菌のために紫外線を10分間浴びせても、キズは残る。よく見れば、小さな傷があり、選手は言うに言われず、嫌な気持ちが続いていたのだろう。

結果として、メダルは元に戻っても、想い出はなくなってしまった、ということだろうか。

ただ、ポジティブに考えるならば、この追加交換メダルは、本来なら男子マラソンの勝者が手に入れたはずだった記念すべき「東京オリンピックの最後の金メダル」になったことは間違いないだろう。

「めまい」と「目が回る」の違い

2021-08-14 00:00:51 | しょうぎ
プールに併設のカルチャーセンターで「禁断のジュニア将棋大会」を開いた。この時期「禁断感」があったのだが、プールの方は大掛かりな中学校の大会で混みあっていた。どこにも「禁断感」はないといっていい。

実力別に二つのクラスの大会を連続で行ったため、てんてこまい。目が回るほど忙しい、という状態。これが1日目で、来週2日目がある。2クラスの間で消毒作業も行うので、準備時間と片づけで5時間の間、椅子に座る時間もなかった。

先月に熱中症もどきで「めまい」で二日間歩けなかったので、運動を避けていたのだが、今回は、「めまい」ではなく「目が回るほど忙しい」ということで、似ている表現でも全く違うわけだ。疲れ果ててぐったり寝込むということだけは同じだ。来週は表彰式も行わないといけない。


7月31日出題作の解答。







今週の問題。



てんてこまいなので、かなりの旧作で未掲載作を掘り返してみた。

わかったと思われた方はコメント欄に最終手と総手数とご意見をいただければ、正誤判定します。

追想(1956年 映画)

2021-08-13 00:00:52 | 映画・演劇・Video
原題は「Anastasia」。革命により殺害されたとされるロシア帝国のアナスタシア皇女が生存しているという伝説がもとになっている。

ニコライ二世をはじめとして皇帝一家全員(皇帝夫妻、5人のこども、使用人数名)が殺害されたとされるが、当時17歳のアナスタシア皇女については詳しい状況がわからず生存の可能性があるとされていた。

実際に、本映画のモデルとなったアンナ・アンダーソンという女性は長い間、自分がアナスタシアであると主張を続けていた。

映画では、その自称アナスタシアをイングリッド・バーグマンが演じる。彼女を利用して遺産相続の一部にありつきたいグループのリーダーをユル・ブリンナーが演じ、生存していたアナスタシアの祖母をヘレン・ヘイズが演じる。実際のバーグマンとヘイズの年齢差は19歳しかないのに孫と祖母を演じたわけだ(孫役の方が10年以上前に亡くなっている)。

映画では、記憶喪失のバーグマンにアナスタシア皇女についての知識を詰め込み、替え玉に仕立てようとするのだが、そのうち観客は、この女性が偽者なのか本者なのかわからなくなっていく。そして祖母でなければ知らないはずの少女時代からの咳が決め手となり、実際に本当の孫であることが証明される。

バーグマンは女優の中の女優というべき完璧な演技を見せる。2度目のアカデミー主演女優賞には意味があって、この5年ほど前に不倫報道で最初の夫と離婚し、米国から逃げるように欧州で活動するようなっていて、本作はハリウッド復帰作だった。そのうち不倫や離婚を繰り返すことになり、生涯で3回離婚することになる。完璧すぎる女優だから、うまくいかなかったのだろう。完璧すぎる男優というのはあまりいない。

岡山県謎解き散歩(柴田一著)下

2021-08-12 00:00:21 | 歴史
5. 八百屋お七の振袖が誕生寺に
一つ書き残したので、追加だが、八百屋お七の振袖が久米南町の誕生寺に保存されているという件。

お七と振袖といえば江戸の火事で、明暦の大火は別名は振袖火事ともいう。若くして亡くなった女性の振袖が人手を回るつど、若い女性が死んでいくというウイルス的凶事が続き、それに気付いた寺の僧侶が、「焼いてしまおう」と境内で燃やしているときにつむじ風が燃える振袖を天高く巻き上げ、それがもとで10万人が死んだともいわれる。燃えた振袖がどうして実在するのかと悩んだ。

よく考えると、お七の方は放火なので振袖とは関係ない。歌舞伎では奉行所の取り調べの時に本当の年齢を言ったために、未成年者とみなされず、江戸の定法で火炙りとなった。まったく私の勘違いだ。

そのお七の振袖が300年以上、岡山県の誕生寺に保存されている。

ところが、この振袖、千切れたり傷んでいるそうだ。明治時代に大阪の博覧会に出展したところ、美貌や火災防止のお守りになると、デマがあって、人々が着物を破って一部を持ち帰ったからだそうだ。まったく野蛮な国民だ。いや、府民だ。



お七が火あぶりになったのは、鈴ヶ森刑場。東海道の江戸の入口だ。以前、取材に行ったことがある。処刑台跡は磔台と火炙台が並んでいて、礎石に開いた穴は磔用が四角で、火焙用は丸穴だ。角材か丸太かの違いだろう。ちなみにお七が焙られたのは1683年。隣の台で丸橋忠弥が突き刺されたのは1651年。

1から5までの例を紹介したが、ようするに事件が岡山県内で片付くものではない。他県との関連の案件である。地元では県外のことに興味を持つ人はきわめてきわめて少ないから岡山にいたときには聞いたことはなかった。

岡山県謎解き散歩(柴田一著)中

2021-08-11 00:00:59 | 歴史
3. 幕末に岡山藩がペリーと戦っていた?
通常の日本史では、1853年にペリーが4隻で来寇し、琉球政府を恫喝し、さらに日本国にも開国を迫るものの、とりあえず親書を渡し、来年また来るからイエスかノーか考えておくことといって、立ち去り、将軍が病没したというニュースを聞くや否や、半年後に7隻で押しかけて、横浜の海岸で、日米和親条約を締結した、ということになっている。

ところが、幕末維新の研究家の方(石田孝喜氏)1979年に京都の古書店で発掘した古文書によると、当時千葉の海岸で海上警備していた岡山藩に対して、突如、米艦隊から砲撃があったそうで、その砲撃は海岸すれすれで陸地に到達しなかったということ。そして岡山藩と米軍が戦闘に入り、米軍の中で3隻いた帆船については、捕獲したものの岡山藩には300人もの死傷者があったということが記録されているそうだ。幕府への報告文書ではないかということらしい。

実際には、それらの船は後に東京湾に入り、幕府の歓迎行事などが行われているのだが、古文書が正しいとすれば、なんという欺瞞なのだろうということだ。戦って船や捕虜を手に入れたものの、沈めたり殺したりすれば、その後、大戦争になりメキシコのようにぼこぼこにされると思って、他国に仲介でも頼んだのだろうか。

文書の鑑定によれば、偽造ではないとされているが、歴史の中で宙に浮く重要文書だろう。真珠湾の無通告攻撃の前に、逆無通告攻撃があったことになる。

4. 幕末の幕閣、板倉勝静の奇妙な人生
徳川時代には岡山はメインが岡山藩(池田家)だが、倉敷から米子に抜ける途中に小藩である備中松山藩がある。当時の天守閣が現代に残っているのは12なのだが、その一つで、かなり山の奥で行くのが大変だ。タクシーになり、最寄駅から往復で大一枚近く必要だ。本件に関係ないが、浅野内匠頭も城代を務めたことがある。天守閣内には城を包囲された時に、腹を切る部屋まであるが、彼は別の場所で腹を切ってしまう。

そんな小藩だが幕府の最後の老中首座を輩出していた。板倉勝静。名前は板倉だが徳川吉宗を直系とする名門である。幕府を切り盛りしていたが、最後の将軍は無根性の慶喜。板倉や勝海舟の意見も聞かず、大政奉還してしまい、一杯食わされた格好になり、朝敵となる。備中松山城は城主が江戸にいるものの、戦う戦力もないわけで、すぐに恭順。そして薩長軍が大行進して江戸は明け渡される。板倉は行くところもなく宇都宮城で謹慎中に、たまたま新選組の北進のルート上にいたため、呉越同舟で北へ北へということになり、函館五稜郭まで行ってしまう。

本書では函館で亡くなったようなイメージで書かれているが、このままでは備中松山城がお取りつぶしになると藩の家老たちが、城主拉致計画を立てて、外国船に家臣何人かが乗り込み、函館に潜入して、板倉を無理やり江戸に連れ戻す。明治になり小職を得ている。

岡山県謎解き散歩(柴田一著)上

2021-08-10 00:00:12 | 歴史
何年か前、岡山県で少し働いていた期間があり、その後も時時行っていたのだが、そろそろいかなくなりそうなので、最後かもしれない機会に謎を残しておきたくないという横柄な気持ちで、「各県謎解き散歩シリーズ」の一冊を開いたのだが、まったく謎だらけだ。岡山にいたころに散策するべきだった。



どちらかというと、歴史上の謎が多く、解決されていないことが多い。一回(1000字程度)で書ききれないような気がする。

1. きび団子
きび団子といえば桃太郎だが、桃太郎伝説に登場するのは「黍団子」。きびという穀物の粉を団子にしたもので、日本菓子歴史の最初の1ページに登場するような(本当だよ)和菓子だ。桃太郎と言えば、岡山県といわれ、大和朝廷と出雲勢力が死闘を行ったときに大和朝廷側の将軍だったと言われる(あくまで岡山県人の主張)。さらに岡山は古来から「吉備の国」と言われていた。「黍」なのか「吉備」なのか。

定説では古来ではなく、1856年に廣栄堂の先祖が考案したそうだ。ブームが起きたのは日清日露戦争で出兵していた兵士が帰ってくるのが隣の広島にある宇品港だったそうだ。そこに社長が乗りこんで、日本各地へ帰る兵士に「鬼退治団子」として売りさばいたことによるそうだ。つまり「黍」をかたった「吉備団子」ということだそうだ。

2. 岡山城と後楽園の奇妙な関係
岡山城は、秀吉の全国制覇が終わった後、宇喜多家を城主として築城されている。奇妙なことに川を西の防御線として東側には防御能力なく西側に半円形の敷地に天守閣や執務や居住のための建物がある。秀吉は宇喜多家を西の毛利からの攻撃耐えられるように設計する一方で、宇喜多家が寝返れば、一気に攻めつぶせるようにしていたと思われる。

一方、後楽園は日本三名園と言われる。江戸時代のほとんどの時期は池田家が治めていて、池田氏によって整備された。美しく、大きいのだが、なんとなく平らな感じがある。岡山城の欠落している東側の半円を埋めているようにも思われる。現地の解説では、幕府のお庭番(スパイ)が後楽園に来ることを警戒していたのは、殿が庭いじりの趣味で遊んでいると思われないため、となっているが、全く理由が違うという説があるようだ。つまり、徳川と戦う時には、たちまちのうちに東側も城塞として使えるようにということだ。ヘリ空母と言いながら、いざとなれば戦闘機が離発着できるような形にしているようなものだ。戦時中もそういう商船もあった。

オリンピック終わる

2021-08-09 00:00:05 | 市民A
オリンピックの終りはパラリンピックの始めとも言えるので、バブル方式は続くということだが、とりあえずの感想。

まず、無観客のこと。
 特に大きな違和感はなかったが、席があれば観客になることができるし、それはスポーツと人間という関係を人々が考えるときにずっと先に影響があるのかもしれない。個人個人の記憶の中のレガシーということ。
 プラスの面と言えば、最初から「五輪は無観客」(あるいは少観客)ということにすれば、五輪を開くのにむやみに大きな競技場を新設しなくてもいいということになり、候補都市の負担減、つまり途上国、あるいは衰退国にも可能性があるわけだ。東京にしても、国立競技場は老朽化していてしかたなかったとしても、体操競技場とかプールとか新設(体操競技場は五輪後取り壊すらしいが)しなくても、少し小さめの既存施設はあったはずだ。

公式映画
 河瀨直美監督で撮影が続いている公式映画だが五輪開会前のCNNのインタビューによると、五輪に登場する人々のバックボーンを撮りこもうと考えていたらしく、既に300時間分を撮影し、開会後100時間位撮ってから編集に入るようだ。中止になったらどうするつもりだったのだろう。
 開会後は、特段の大事件も起きず(逃走した選手と亡命した選手と追放された選手はいたが)、やや刺激が少ないような気がする。国立建設費、エンブレム疑惑に始まり次々と各種の障害物が登場し、コロナ、不適切人物といったカオスは映画の中に入るのか、切り捨ててしまうか。監督の腕の見せ所。来年のカンヌ映画祭を目標とするらしい(五輪出場選手の目標みたいな感じがするが)。



レガシー(ささやかな)
近くのスポーツ店に出没した、サーファー五十嵐カノア選手。メダルを忘れているような気がする。よく見ると、足首を人工芝の中に埋められていて、逃げ出すことができない。便乗商法というのは、第三者的に観察すると、結構面白い。

「川柳」で見る江戸風景

2021-08-08 00:00:34 | 書評
2週間ほど前、2日ほど寝込んでしまったのだが、回復中に読んだ小冊子『川柳と浮世絵で楽しむ江戸散歩』が良かった。「たばこと塩の博物館」から出されていて、2007年の江戸講座で使われたようだ。



全187句のうち、以下の3句が現在の東京につながるので紹介してみたい。

辻番でこっそり鴨の葵坂
 現在の道路だと六本木通りと外堀通りの交差する場所が「溜池交差点」であり、そこには大きな溜池があった。溜池と江戸城外堀とは葵坂でつながっていて、そこには幕府の番所があった。古事だが1651年に起きた慶安の役で由井正雪の手下として参加した丸橋忠弥が、江戸城襲撃計画のため江戸城の堀に石を投げて水深を測量したといわれる。外堀警備は本来重要な役目だった。
 ところが100年下った頃は、太平の世の中。番所の役人は、ご禁制の鴨猟をこっそり行って、番所で鴨鍋にして食しているという句である。事実はいかに、ということ。鴨鍋仲間に幕閣を引きこんでいたのかもしれない。

橋杭で国と国とを縫い合わせ
 これも解説がないと意味がわからない。場所は両国。JRの両国駅の北側には国技館がある。この駅と国技館の西側はすぐ隅田川だがJRの南側にかかる橋が『両国橋』、東側にいくと、荒川があり、さらに東に行くと江戸川があり、その先は千葉県だ。隅田川、荒川間が江東区で荒川、江戸川間が江戸川区だ。

 ところが、江戸時代が始まった頃は、隅田川の東側はすべて千葉県(下総国)だった。(今でも千葉県っぽいところもあるが)

ことがあったのは明暦の大火。「振袖火事」とも言われるが、真相は不明のままだ。人口百万都市で十万人が亡くなったともいわれる。原因の一つに、隅田川に橋が不足していたことがいわれる。五街道の千住大橋だけが隅田川の橋で、江戸防衛のため他に橋がなかった。ということで橋を架けるとともに江東地区の開発が行われた。

ということで、橋杭は両国橋のことを指し、武蔵と下総の国境に橋があったという句なのだが、順序で言うと、橋ができたのが先で、江戸が広がったのが後で、その間は30年ほど。川柳ブームは、もっと後なので、過去の話がネタになっている。裏を読めば、川向うの人たちを差別する句なのかもしれない。

新宿のこどもは早く背が伸び
 新宿は甲州街道の最初の宿場で、都心から近すぎるが、その次は高井戸なので、そこが長すぎる。新たに宿場が作られた。交通の要所で馬が行きかう物流の町だったようだ。馬が行きかうと発生するのが「馬糞」。馬は草食動物だから犬猫とはことなってバサバサしていて、踏んだからといって大惨事にはならない。

江戸時代には、「馬糞を踏むと背が伸びる」と言われていたそうで、これも新宿住民を笑い者にしようという句だ。

文部科学大臣杯のこと

2021-08-07 00:00:30 | しょうぎ
少し前に到着していた将棋連盟の「支部ニュース82号」。その中に4ページをつかって『文部大臣杯』のことが書かれていた。将棋界の甲子園ともいえるが対象は小学校と中学校。




現在、中学の将棋部にも関係していて、話を担当の先生からも聞いたが、昨年度も今年度も全国大会中止。さらに県大会も中止。部員は大会に備えて練習してきたのに。わずか3年の中学生活のうち2年がコロナ禍の中に(来年だってわからない)いたことになる。その前は1年生でレギュラー選手じゃなかったし・・。ということで、生徒の思い出作りをどうやってつくろうか苦吟中ということ。

県全体の会がだめなら市内だけでと予定していたがこれもできず、周囲の学校との対抗戦だけ、ということで士気が上がらないそうだ。公立学校らしく、事前に予定していた大会が中止になって代替大会となると予算の振替が難しいということもあるようだ。将棋部に限らず、どの部活にも共通の悩みなのだろうか「。

支部ニュースの記事では、女流棋士の山根ことみ二段と礒谷真帆初段の本大会の活躍のことが書かれていて、小中学校の頃から大会で活躍していたそうだ。記事を読むと、山根さんは正統振飛車で、礒谷さんは左美濃+中飛車というマニアック戦法を得意としていたそうだ。


さて、7月17日出題作の解答。







銀のサーフィン。


今週の問題。





わかったと思われた方は、コメント欄に最終手と総手数とご意見をいただければ、正誤判定します。

頭位性めまい症から脱出

2021-08-06 00:00:33 | 市民A
2週間ほど前に、日中に屋外をしばらく歩くことになり、夜間、ベッドの中で急に「めまい」が起きる。

「めまい」というと、最も危ないのが脳内になんらかの問題が起こることだが、しばらくめまいの質を確認していると、寝返り等で頭の位置を変えると激しくめまいが起きる。頭を動かさないと「めまい」が起きないということに気が付く。おそらく耳か三半規管かの異常だろうということで、そのまま眠るが、翌朝になっても治っていない。体温も低いし(35度未満)、血圧も脈拍も低い。

ほぼ、動けないので、医者に行くわけにもいかず、苦しい一日が終わると、五輪連休が始まり、やっと土曜に耳鼻科に行くが、実はほとんどめまいは治っていたのだが、「最初の発症時の5%ぐらい症状が残っている」と舌が滑ったところ、「熱中症寸前で『頭位性めまい症』という病名」をつけていただく。1週間分3種類の薬の処方箋を渡される。

さらに、めまい改善運動を教わる。「腹筋運動のように仰向けから起き上がる体操」「イスラム教の礼拝のように座った位置から前方に土下座のように頭を下げる運動」「床に寝転んで左右にゴロゴロを繰り返す運動」を5本セットで行い、それを1時間ごとに行うというもの。

運動が終わると、かえってめまいが起きるので、いつの間に回数が減り、いつしか終わっていた。そもそも目まいは治っているので。

体操を図解したペーパーを再読すると、「めまいが改善しても予防のために1日、2~3回。特に就寝前、起床時には必ず行ってください」と書かれていた。やれやれ。

味は絶品だが、重要な点で減点あり

2021-08-05 00:00:00 | あじ
日光の食の名物は「湯葉(ゆば)」である。豆腐の親戚で豆乳から作る。同じく湯葉で有名なのが京都だが、食感が異なる。原料の豆乳の目が細かいのが京都で荒いのが日光。ご皇族一同様の好みか家康様を始めとする徳川家ご一同様の好みの違いだろうか。

なにしろ日光鬼怒川方面にきても外食街の定休日が重なり、コンビニとか道の駅の蕎麦屋とかで、地元の味を堪能することができなかった。最後のチャレンジが、帰りの東武鉄道(特急)の中で口にする駅弁。

実は、日光・鬼怒川に入るときの駅弁は東京一のダンジョン駅北千住駅の東武売店で購入したのだが、日光感はなかった。鶏飯とか東京の味だったのかもしれない。



ということで、東武日光駅で探すと、もはや売り切れ寸前で選択の余地がない!と言っていい状況。幕の内か『ゆばちらし寿司』か。

そして、この『ゆばちらし寿司』が、この10年の間の最高点の味だった(10年以上前の記憶は脳内時効)。実際、あまり寿司らしくはない。ゆばの味付けが口に合うわけだ。ちらし寿司だったら飯は白いがそうではないわけだ。どの段階で味をつけているのかよくわからないが、冒頭に書いたように、少ししっかりとした湯葉と弁当らしくやや硬い飯が調和している。



もう一度、日光に行きたくなるような味といっていい。

ただ、重要な問題があるわけだ。この問題は最初に行程プランを作った時にうっすら危険に気付いていたのだが、東武鉄道のHP上の時刻表では、特急車内で弁当や飲み物が買えることになっていた。北千住での乗換えが複雑そうなので、乗換え30分前に着いていたのだが、構内をウロウロと迷い、最後にやっと10分余ったので、念のためホーム上の売店で駅弁(鶏飯)を買ったのだが、特急に乗ると、しばらく走ってから「もうしわけありませんが、本日は車内販売はありません」という放送が流れた。

帰りの上り特急内でも「もうしわけ・・・」ということだった。駅で一言放送すればいいだけなのに・・

ついに国民を脅迫か?

2021-08-04 00:00:04 | 市民A
重症あるいは重症寸前の中等症以外は自宅療養!と驚きの方針が打ち出された。

言い換えれば『感染したら、死ぬで』と言っているわけだ。言うことを聞かない国民が多いから『脅迫』方針に変わったわけだ。

国民皆保険であっても、病院に行けないわけだ。こうなると、内閣中枢人物でも、簡単には入院できない。交通事故とか偽装工作してから入院するのかもしれない。

しかし、ある意味、どうしようもなくなって、いずれにしても病院があふれることが不可避なので、一応、先手を打ったフリなのだろうか。言っておかないと「未必の故意」のようになるからだろう。


そもそもホテル療養がうまくいかなかった理由をつぶしもせず、いまだに空きベッドの活用もしないで、いきなり自宅療養って、1年以上前から進展なく、・・・

入院余地のある県でも平等の観点で入院させないのだろうか?

禁酒令が長くは続かないことはわかっていたはずで、それで時間を稼いで医療体制組み直しをすればいいのに、見逃しの三振。

自宅でも酸素吸入可能といっているが、ボンベがあっても酸素はどうするのって・・

やはり、五輪を遂行するために感染防止に注力していただけで、五輪を中止していたら、もっとずっと前にギブアップしたのだろうと思える。

最近、中学校関係者から聞いたのだが、夏休み突入寸前に、大量の「学割申請」が集まって、書類を片づけるのが大変だったそうだ。多くは日本国内東西、南北移動。中学生の祖父母の年というのは70代後半だろうか。「わしら二へん打っとるし、けえってきておくれ。来年はもうおめえらに会えんかもしれんからのう」ということだろうか。

*学割は片道100Km以上のJRの乗車券が2割引になる制度で、生徒が学校に申請することになっている。

神様になりたかった将軍

2021-08-03 00:00:01 | たび
歴史上の人物で、没後、神格化され神社の祭神となった例はいくつかある。例えば古くは平将門。新しい方は日露戦争の時の海軍・陸軍の大将とか。ただ、生前に「我が亡くなった後に神様にしてほしい」と言った例は少ないだろう。神様になるにはまず100年生きた上、神様の世界で『彼を神様として数千年の命を授けたまえ』と許可を出さなければならない。そもそも死んだら神様にはなれない(以上は、「しゃばけシリーズ」からの知識だが)。

ところが、その禁断の神様自己主張をしたのが、徳川家康。日光の山中に日光東照宮を建てるように遺言した。建築費は「天下普請」で各藩からの徴収による。特に伊達藩を絞り上げていた。



有名過ぎる場所なので、解説は手短になるが、まず「三猿」。東照宮入口の馬屋の飾りの彫刻だ。「見ざる、言わざる、聞かざる」ばかりが有名だが、この馬屋の二方向の屋根下に8枚の彫刻パネルがはめ込まれている。左から右に向かって猿の一生を表現しているそうだ。



「三猿」はこどもの頃の様態だが家康自身を指しているような気がする。今川家への人質時代のことだ。ゴーギャンにも女性の一生を一枚に収めた名画がある。



そして、大鳥居。葵の御紋入りの鳥居だ。



そして陽明門。まったくよくできている。これを作ったから幕府が金欠になった、と書きたいが各藩から絞り上げたに違いない。



さらに眠り猫。猫を飼った人ならわかるだろうが、このポーズの猫は眠っていない。寝たふりをしている。



もう一つ、鳴き竜といわれる竜の天井画は撮影禁止。



そして、本来の目的である墓所。墓地の下には埋蔵金があるのではないだろうかと、ふと思ってしまう。いまだ見つからぬ徳川埋蔵金は、どこにあるのか。

日光の市街地で昼食を取ろうとしたら、多くの店舗は休業。コロナではなく一斉休業日のようだ。二日前は鬼怒川温泉で一斉休業だった。しかも梅雨の最終日で大雨が続いた冴えない旅だったが、この後、デルタ株が日本全土を支配することになる。

華厳の滝再訪

2021-08-02 00:00:07 | たび
日光に行ったのは2回目。最初は修学旅行だから数十年前というか半世紀ほど前か。かすかな記憶の中では、華厳の滝はチョロチョロと水が流れるだけで、それよりも、いろは坂でバス酔いに苦しんだことの方が鮮明に覚えている。東照宮のことは記憶にない。

鬼怒川温泉に行ったのも今度が二回目だが、前回は温泉旅館で大宴会して、翌日、近くのゴルフ場で大コンペという、昭和風企画だった(平成だったが)。

横浜から日光は遠いので東武鉄道と系列バス会社の4日間クーポン券を使った。いろは坂は上りと下りと一方通行になったので危険度は下がったが、ガードレールはところどころ車が突っ込んで凹んだ跡がたくさんある。ぶつけた瞬間の、運転者と同乗者の恐怖はいかばかりだろう。



そして、梅雨の最終局面で折からの雨模様の中、華厳の滝は大水量であった。近くには人工的な放水路もあって、滝と同様、水流があふれていた。




滝も、観光地ならこうでなければならないだろう。

昨年、那智の滝に行ったので、日本三大滝のうち二つはクリアしたが、実は三つめは定まってない。三番目を名乗る滝は全国に多数あって画像をみると素晴らしいものが多いが、山奥の秘境のようなところには実際には行きにくいので、そうなると茨城県の『袋田の滝』が可能範囲のような気がする。